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稟議書をお持ちください

閻婆惜でございます。

水滸伝では、私はあまり評判のよい女ではございません。

悪女、などと呼ばれることもございます。

ですが、先に申し上げておきます。

確認をお願いしただけで悪女扱いされるのでしたら、 梁山泊の皆様は、少々お仕事の進め方を見直された方がよろしいかと存じます。

本日は、まだ梁山泊へ参る前のお話でございます。

剣も馬も出てまいりません。

出てくるのは、稟議書と会議室と、 責任の所在がふわっとした殿方です。

それでは始めましょう。

まずは、常務の判子を止めるところから。

彼女は、会議室の端で資料を閉じた。

その音は大きくなかった。

けれど、室内にいた全員の背筋が、ほんの少しだけ伸びた。

「こちらの稟議書では、誰も責任を取れません」

長いテーブルの奥で、常務が笑った。

笑った、というより、笑って誤魔化そうとした。

五十代半ば。

仕立ての良いスーツ。

少し高い腕時計。

社内では、人当たりの良さで知られている役員だった。

ただし、人当たりの良さと、書類の正しさは別である。

「いや、そこはさ。先方とはもう話がついているんだよ」

「話がついている、という記録がありません」

「口頭でね」

「口頭の合意は、合意ではなく記憶です」

会議室の空気が、すん、と冷えた。

営業部長が咳払いをした。

法務の担当者は目を伏せた。

若手社員は、手元のボールペンを持ったまま固まっていた。

誰も助けに入らない。

入れない。

なぜなら、彼女の言っていることが正しいからだった。

常務は、まだ笑顔を保っている。

「でもねえ、こういう案件はスピードが大事なんだよ」

「はい」

彼女は頷いた。

「ですので、昨日の午前中までに契約書の修正案を出すよう、先週金曜日の時点でお願いしております」

常務の笑顔が、少しだけ削れた。

「それは、まあ、担当がね」

「担当者様は、月曜日に確認待ちで止まっているとご報告くださいました。火曜日には部長承認が必要とお伝えしました。水曜日には、本日十時の役員会で承認を取るため、九時半までに修正版が必要と再度お伝えしました」

彼女は手元のファイルを開いた。

「メールも残っております」

営業部長が、静かに天井を見た。

常務は、今度は営業部長を見た。

営業部長は天井を見たままだった。

照明器具に突然、人生の答えが書かれていたのかもしれない。

「いや、でもね」

常務が身を乗り出す。

「先方の社長とは古い付き合いでね。私が頭を下げれば、向こうも分かってくれる」

「常務」

「うん?」

「常務が頭を下げることと、当社が三千万円の損失を被ることに、法的な因果関係はありません」

若手社員が、鼻から変な音を出した。

彼女は見なかった。

見たら負けである。

仕事中に人を笑わせるつもりはない。

笑わせるつもりはないのに、たまに勝手に笑われる。

それは彼女の責任ではない。

「三千万って、そんな大げさな」

「最低額です」

「最低?」

「納品遅延時の損害賠償条項が片務的です。支払条件も曖昧です。検収基準もありません。先方担当者の決裁権限も確認できておりません。さらに、反社チェックの結果が添付されておりません」

彼女は一つずつ指で押さえた。

「こちらに判を押すということは、目隠しをして高速道路を横断するようなものです」

常務は苦笑した。

「言い方がきついなあ」

「では、言い換えます」

彼女は、ほんの少しだけ考えた。

「雨の日に、革靴で、マンホールの上を全力疾走するようなものです」

「悪化してないか?」

「実感しやすくしました」

会議室の端で、誰かが肩を震わせた。

大企業の本社ビル。

二十七階。

ガラス張りの会議室。

都心の景色は、朝から涼しい顔をしている。

その中で、彼女はいつものように、男たちの曖昧な勇気を止めていた。

秘書室所属。

役員秘書。

社内では、そういう肩書きになっている。

ただ、実際にやっている仕事は、もっと雑多だった。

役員の予定調整。

会食の手配。

出張精算の確認。

会議資料の差し戻し。

稟議書の不備確認。

法務への橋渡し。

総務への連絡。

部署間の火種を、燃え上がる前に消す作業。

そして、役員がその場の気分で押そうとする判子を、寸前で止める作業。

秘書、という言葉には、もう少し華やかな響きがある。

彼女も、入社したばかりの頃はそう思っていた。

実際は違った。

秘書とは、偉い人の予定を整える仕事ではない。

偉い人が思いつきで穴に落ちる前に、穴の存在を知らせる仕事である。

たまに、穴を知らせても落ちる人がいる。

その場合は、落ちた後の会議室を押さえる仕事が増える。

「とにかく、今日中に進めないと困るんだよ」

常務が言った。

彼女は頷いた。

「承知しております。ですので、進めるための条件を申し上げます」

「条件?」

「一点目。契約書の損害賠償条項を相互条項に修正すること。二点目。検収基準を別紙で明記すること。三点目。先方担当者の決裁権限を確認すること。四点目。反社チェックの完了を添付すること。五点目。納期変更時の協議条項を追加すること」

「多いな」

「穴の数です」

常務は黙った。

彼女は、淡々と続けた。

「本日十五時までに修正版をいただければ、十六時に法務確認、十七時半に再承認の枠を押さえます。先方への返答は十八時半。送付文面はこちらで作成します」

営業部長が、ぱっと顔を上げた。

「枠、押さえてあるんですか」

「押さえてあります」

「法務も?」

「押さえてあります」

「役員再承認も?」

「押さえてあります」

営業部長は、心の底から感動した顔をした。

「神……」

「神ではありません。共有カレンダーを見てください」

若手社員が、また鼻から音を出した。

常務は、ようやく観念したように椅子の背にもたれた。

「分かった。君の言う通りにしよう」

彼女は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「ただね」

常務は、少しだけ苦笑した。

「君は本当に、細かいね」

その言葉に、営業部長も若手社員も、同時に顔を伏せた。

彼女は怒らなかった。

微笑みもしなかった。

ただ、資料をそろえながら言った。

「細かいのではありません。落ちた後で拾うのが、面倒なだけです」

会議は、それで終わった。

会議室を出ると、廊下の空気が少し軽くなった。

若手社員が、資料を抱えて彼女の後ろをついてくる。

入社二年目。

まだスーツに着られている。

表情だけは、犬のように正直だった。

「あの、すごかったです」

「何がですか」

「常務を、あそこまで……その……」

「やり込めてはいません」

「はい」

「止めただけです」

「はい」

若手社員は、素直に頷いた。

素直すぎて、少し心配になる。

「でも、あれって秘書の仕事なんですか?」

彼女は歩きながら答えた。

「会社が困らないようにするのは、だいたい誰かの仕事です」

「だいたい」

「はい。そして、誰の仕事でもないものは、だいたい秘書室に来ます」

「怖いですね」

「慣れます」

慣れたくないです、と若手社員の顔に書いてあった。

彼女はエレベーターホールで足を止めた。

「十五時までに修正版が来なければ、営業部長に確認してください。営業部長が捕まらなければ、部長の秘書に連絡を。秘書も捕まらなければ、私にください」

「分かりました」

「それから、先方へのメールに『取り急ぎ』は使わないでください」

「えっ」

「急いでいるのはこちらの都合です。先方に失礼です」

「はい」

「あと、ご確認のほど、よろしくお願いいたしますだけで終わらせないでください。いつまでに、何を、誰が確認するのかを書いてください」

「はい」

「件名に案件名と日付を入れてください」

「はい」

「添付ファイル名に最終は使わないでください」

「はい」

「最終の次に本当の最終が来ます」

「はい……」

若手社員の返事が、だんだん小さくなった。

彼女は少しだけ目を細めた。

「怖がらせるつもりはありません」

「いえ、怖いです」

「正直ですね」

「すみません」

「謝る必要はありません。怖いと思えるうちは、まだ大丈夫です」

若手社員は、首を傾げた。

意味が分からない、という顔だった。

彼女も、説明する気はなかった。

怖い。

面倒だ。

確認しなければ。

止めなければ。

そう思っているうちは、人はまだ立ち止まれる。

本当に危ない人間は、何も怖がらない。

根拠のない笑顔で、何とかなると言う。

そして、何とかするのは別の誰かだ。

エレベーターが来た。

若手社員を先に乗せ、彼女も続く。

扉が閉まる直前、向こうの会議室から常務の声が聞こえた。

「いやあ、彼女がいると助かるよなあ」

彼女は、少しだけ視線を落とした。

助かる。

便利。

頼れる。

しっかりしている。

君なら大丈夫。

君に任せれば安心。

それらは、褒め言葉の形をした荷物だった。

彼女は、一流大学を出ていた。

新卒で今の会社に入り、失敗も、徹夜も、泣きそうになった夜も、それなりに経験した。

顔立ちが整っていることも、自覚はしている。

社内でも、社外でも、何度かそう言われたことはある。

仕事ぶりも悪くない。

年収も、同年代の女性の中ではかなり良い方だろう。

住んでいる部屋も悪くない。

服も靴も、自分で選べる。

休日に少し高いランチを食べても、生活が揺らぐことはない。

条件だけ並べれば、たぶん勝ち組だった。

ただ、恋人はいない。

夫もいない。 結婚の予定もない。

ついでに言えば、そういう経験もない。

この年齢で、と思われるかもしれない。

自分でも、たまに思う。

でも、どうしようもなかった。

仕事で男の曖昧さを見すぎた。

責任を取らない優しさを見すぎた。

いざという時に逃げる笑顔を見すぎた。

それに、恋愛というものは、契約書よりずっと厄介そうだった。

条件が明記されない。

責任者が不明。

納期も不明。

相手都合の仕様変更が多い。

解約条項もない。

そんな案件を、どうして人は嬉しそうに始められるのか。

彼女には、まだ少し分からなかった。

エレベーターが秘書室のある階で止まる。

扉が開くと同時に、スマートフォンが震えた。

社内チャット。

総務からだった。

午後の役員会に使う予定の大会議室で、プロジェクターが映らないらしい。

次に、法務からメール。

先ほどの案件について、やはり条項に問題あり。

さらに、別の役員秘書から着信。

専務が急に昼食会を入れたいと言い出したという。

彼女は、一秒だけ目を閉じた。

一秒だけである。

二秒閉じると、負けた気がする。

「お疲れ様です」

秘書室に戻ると、隣席の先輩が顔を上げた。

「常務案件、どうなった?」

「止めました」

「さすが」

「止めただけです」

「その止めるのが難しいんだって」

先輩は笑った。

「で、お昼どうする? 下のカフェ、新メニュー出てたよ。ローストビーフ丼」

彼女は手元の通知を見た。

プロジェクター不調。

契約書修正。

昼食会手配。

役員会資料差し替え。

十五時までに稟議修正。

静かな殺意にも似た業務量だった。

「昼は、席で食べます」

「また?」

「はい」

「美人で高学歴で仕事できて、昼はコンビニおにぎり。人生、何が正解か分かんないね」

「正解が分かるなら、先に稟議に書いてほしいです」

先輩が吹き出した。

彼女はバッグから小さなポーチを出し、引き出しに入れていた常備薬と一緒に、コンビニで買った梅のおにぎりを机に置いた。

昼食というより、燃料補給だった。

パソコンの画面を点ける。

未読メールは、朝より増えている。

当然である。

メールは読まない間に繁殖する。

彼女は、おにぎりの包装を少しだけ開けた。

一口食べる前に、内線が鳴った。

三回鳴る前に取る。

「秘書室です」

相手は社長室だった。

社長が、午後の役員会で急に新規案件を話したいと言っているらしい。

資料はない。

口頭で説明する。

まずは走り出したい。

細かいことは後で詰めればいい。

彼女は、おにぎりを置いた。

そして、静かに言った。

「では、まず案件概要を文書でください」

電話口の向こうで、少し沈黙があった。

「社長が直接話すので、資料は後でよいと」

「後ではなく、先にください」

「でも、社長案件なので」

「社長案件だからです」

彼女は、画面の端に新しいメモを開いた。

「目的、予算、責任者、想定取引先、開始時期、撤退条件。最低限、その六点をください」

「撤退条件もですか?」

「走り出すなら、止まり方も必要です」

また沈黙。

遠くで、誰かが困ったように笑う気配がした。

彼女は、その笑いに付き合わなかった。

付き合えば、仕事が増える。

付き合わなくても、仕事は増える。

ならば、せめて正しい方で増えた方がいい。

「十五分後に、社長室へ伺います」

電話を切る。

隣席の先輩が、気の毒そうに彼女を見た。

「食べられないね、それ」

彼女は、梅のおにぎりを見た。

少しだけ迷い、一口で半分ほど食べた。

「食べます」

「強い」

「空腹では、社長を止められません」

先輩は、笑いながら手を振った。

彼女は立ち上がり、資料用のタブレットを手に取った。

ヒールの音が、秘書室の床に小さく響く。

戦場ではない。

剣もない。

馬もいない。

矢も飛んでこない。

けれど、今日も誰かが、根拠のない勇気で前に出ようとしている。

彼女は、その前に立つ。

止めるためではない。

進めるために、止める。

会議室へ向かう廊下の先で、社長室の扉が見えた。

彼女は歩きながら、タブレットに新しい項目を打ち込む。

案件名に目的に予算。

責任者に承認経路に撤退条件。

最後に、備考欄へ一文だけ入れた。

稟議書未提出。

それから彼女は、社長室の扉をノックした。

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の確認事項は、以下の通りでございます。

口頭の合意は、合意ではなく記憶です。

偉い方の案件ほど、先に書面が必要です。

走り出すなら、止まり方も決めておきましょう。

なお、空腹のまま社長を止めるのは危険です。

皆様も、稟議書と昼食はお早めにご用意くださいませ。

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