逃げてきたことにしても、疑いは残ります
閻婆惜でございます。
本日は、逃げてきたことにした場合の説明について確認いたします。
宋江様は、梁山泊へ自ら身を寄せたわけではございません。
連れ去られた後、隙を見て逃げてきた。
そう説明するのが、今は一番通りやすい形でございます。
ですが、通りやすいことと、信じていただけることは別でございます。
疑う方は、説明を聞いても疑います。
なお、顔と立ち方は、説明より先に疑われます。
四方へ使者を出してから、食事が運ばれてきた。
温かい湯気が立っている。
器も整っている。
花栄様の屋敷の者は、動きに無駄がなかった。
だが、食事の味はよく分からなかった。
宋江様も、あまり箸が進んでいない。
花栄様は戻って来ていたが、表情は静かだった。
使者は出た。
宋大公様と宋清様へ。
花栄様の御家族へ。
梁山泊へ。
清風山へ。
やれることは、ひとまず打った。
だから安心できる――
とは、ならない。
手を打った時ほど、相手も動く。
それを忘れると、手配はただの紙になる。
外で足音がした。
花栄様が顔を上げる。
屋敷の者が低い声で何か告げた。
花栄様の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「劉高殿が、参られたようです」
来た――
早い。
だが、早すぎるほどではない。
こちらが宋江様を迎えたと聞けば、確認には来る。
むしろ、来ない方が不自然である。
宋江様が椅子から立ちかけた。
私は見た。
「宋江様」
「まだ何も言っておらぬ」
「立ち方が、説明しに行く立ち方です」
宋江様は止まった。
花栄様が、ほんの少し驚いた顔をした。
すぐ戻したが、遅い。
この方も顔に出る。
「花栄様」
「はい」
「花栄様も、前に出すぎないでください」
「私もですか」
「はい」
「承知しました」
返事は早い。
だが、目が納得していない。
無理もない。
自分の屋敷に、劉高様が来る。
そこに宋江様がいる。
花栄様が前に出たくなるのは当然である。
だからこそ、止める。
劉高様は、ほどなく部屋の前まで来た。
声は穏やかだった。
「花栄殿。急な訪問、失礼する」
穏やかすぎる。
こういう声は、たいてい確認ではなく詰問を包んでいる。
花栄様が応じた。
「劉高殿。どうぞ」
戸が開く。
劉高様は、細い目で部屋の中を見た。
花栄様と宋江様と私。
食事の器と置かれた紙。
かなり見ている。
この方は、王英様とは違う危険である。
目が不快ではない。
だが、記録する目をしている。
「宋江殿」
劉高様は、軽く礼をした。
「お噂は、かねがね」
「宋江だ」
宋江様は、短く返した。
よろしい。
今のところ余計な情は出ていない。
劉高様の視線が、私へ移る。
「奥方もご一緒とは」
「閻婆惜でございます」
私は頭を下げた。
「花栄様の御厚意により、少し休ませていただいております」
「御厚意、ですか」
劉高様は、その言葉をゆっくり繰り返した。
嫌な言い方である。
だが、今は反応しない。
「宋江殿は、梁山泊の者に連れ去られたと聞いております」
「はい」
私は先に答えた。
宋江様がこちらを見た。
花栄様も見た。
だが、ここは私が答える。
「では、なぜここにおられるのでしょう」
劉高様の声は、まだ穏やかだった。
「連れ去られた方が、妻を伴い、友の屋敷へお越しになる。ずいぶん自由な御身分に見えます」
やはり、そこを突く。
正しい――
外から見れば怪しい。
非常に怪しい。
私は息を整えた。
「お疑いはもっともでございます」
宋江様が動きかけた。
私は見た。
止まった。
よろしい。
「宋江様は、梁山泊へ自ら身を寄せたわけではございません」
「ほう」
「連れ去られた後、隙を見て逃げてまいりました」
劉高様の目が、少し細くなった。
「逃げて来られた」
「はい」
「奥方も?」
「はい」
「梁山泊から、夫婦そろって」
「はい」
劉高様は、少しだけ笑った。
笑っているが、信じてはいない。
「ずいぶん都合のよい逃げ道ですな」
「都合が良かったからこそ、ここまで辿り着けました」
花栄様が、わずかにこちらを見た。
宋江様も見た。
今は見なくていい。
顔に出る。
劉高様は、私から視線を外さない。
「では、なぜ清風寨へ?」
「宋江様が信頼できる方として、花栄様を頼られたためでございます」
「花栄殿を」
「はい」
「花栄殿は、宋江殿と親しい」
「存じております」
「ならば、逃げて来た者を匿った、とも言えますな」
花栄様の顔が動いた。
私は先に言った。
「匿ったのではなく、一時保護でございます」
「同じでは?」
「違います」
宋江様が、ほんの少しだけ息を吐いた。
このやり取りに覚えがあるのだろう。
逃亡と退避の時もそうだった。
私は続けた。
「宋江様は罪人ではございません。身の振り方を定めるため、信頼できる方へ相談に来られました。花栄様は、その間の身の安全を確保してくださっているだけでございます」
「身の振り方」
「はい」
「梁山泊へ戻るかどうか、ということですか」
危ない――
宋江様が答える前に、私は言った。
「今後どのように身を処すか、ということです」
「ずいぶん曖昧ですな」
「曖昧な段階だからこそ、相談が必要でございます」
劉高様は黙った。
納得していない。
だが、すぐに斬れるほどの言葉も渡していない。
花栄様が口を開きかける。
私は見た。
花栄様は、口を閉じた。
よろしい。
かなりよろしい。
劉高様は、その様子も見ていた。
「奥方は、よくお答えになる」
「妻でございますので」
「宋江殿ではなく?」
「宋江様は、お疲れでございます」
宋江様が少しだけ顔を伏せた。
たぶん、笑いかけたのではない。
だが、今はどちらでも困る。
「それに、私も共に連れ去られた身です。説明する立場にはございます」
劉高様は、そこで初めて少し表情を変えた。
「共に連れ去られた」
「はい」
「そして、共に逃げて来た」
「はい」
「それを信じよと?」
「信じていただけるなら助かります」
「信じられぬ場合は?」
「花栄様の屋敷へ押し入る理由には、まだ足りないかと存じます」
部屋の空気が止まった。
言いすぎたかもしれない。
だが、ここは釘を刺す必要があった。
劉高様は目を細めた。
「奥方は、ずいぶんはっきり仰る」
「遠回しにすると、後で揉めます」
「今も十分、揉めているように思えますが」
「まだ確認でございます」
「なるほど。まだ確認ですか」
劉高様はゆっくり立ち上がった。
「花栄殿」
「はい」
「宋江殿を迎えたこと、よく分かりました」
花栄様は静かに返す。
「宋江殿は私の友です」
「友、ですか」
劉高様は短く笑った。
「友という言葉は、時に便利ですな」
宋江様の顔が動いた。
私は見た。
「宋江様」
「……分かっておる」
本当に止まった。
よろしい。
劉高様は、私たちを一度ずつ見た。
「今日は確認だけにしておきましょう」
今日は――
その言葉が残った。
劉高様は部屋を出て行った。
足音が遠ざかる。
屋敷の者が見送る声がする。
完全に消えるまで、誰も喋らなかった。
やがて、宋江様が息を吐いた。
「……何とか済んだか」
「済んでおりません」
私が答えると、宋江様の顔が止まった。
花栄様もこちらを見る。
「今ので、済んでおらぬのか」
「はい」
「劉高殿は帰ったぞ」
「納得して帰ったわけではありません」
私は卓の上の紙を引き寄せた。
「攻める理由を持ち帰りました」
花栄様の表情が変わった。
「攻める、と?」
「はい。早ければ、今夜です」
宋江様が立ち上がった。
「そこまでか」
「そこまでです」
私は、さきほどの会話を思い出す。
拉致されたはずの宋江様。
妻を連れて逃げて来たという説明。
花栄様の私邸で保護されている状況。
花栄様と宋江様の近さ。
私が前に出て答えたこと。
どれも説明にはなる。
同時に、疑いにもなる。
「逃げてきたことにしても、疑う人は疑います」
花栄様が低い声で言った。
「ならば、奥方が四方へ使者を出したのは」
「このためです」
私は頷いた。
「劉高様が動いてからでは、家族も使者も止められます。今なら、少しでも先に走れます」
宋江様は黙った。
花栄様は、深く息を吐いた。
「私の家族は、間に合うでしょうか」
「間に合わせるために、先に出しました」
「宋江殿の御家族も」
「はい」
「梁山泊も、清風山も」
「はい」
花栄様は、しばらく黙っていた。
「奥方」
「はい」
「あなたは、劉高殿が来る前から、こうなると見ていたのですね」
「こうなる可能性を見ていました」
「同じでは?」
「違います」
宋江様が小さく言った。
「また違うのか」
「違います」
私は紙に新しく書いた。
劉高様接触確認。
一、宋江様は罪人ではない。
二、梁山泊へ身を寄せたとは言わない。
三、連れ去られた後、逃げてきた形にする。
四、花栄様は逃げてきた友を一時保護した立場。
五、梁山泊への使者は伏せる。
六、清風山への使者も伏せる。
七、宋江様は晁蓋殿との友情を語らない。
八、花栄様は庇いすぎない。
九、劉高様は納得しない前提で見る。
十、攻めてくる前に時間を稼ぐ。
十一、顔は二名分管理する。
宋江様が十一を見た。
「二名分とは」
「宋江様と花栄様です」
花栄様が、少しだけ目を伏せた。
「私もですか」
「はい」
「……承知しました」
本当に承知した声だった。
外が少し騒がしくなった。
まだ遠い。
だが、屋敷の者の動きが変わっている。
人は、危険が近づく前に、音で知らせることがある。
花栄様が立ち上がった。
「備えます」
「お願いします」
宋江様も立った。
私は紙を畳んだ。
まだ何も終わっていない。
むしろ、ここからである。
劉高様は、確認に来たのではない。
攻める前に、こちらの形を見に来た。
そして、形は見られた。
だが、こちらも何もしていなかったわけではない。
水は、もう四方へ走らせてある。
悪女になる暇がない。
逃げてきたことにしても、疑う人は疑う。
劉高様は、納得して帰ったのではない。
攻める理由を整えて帰っただけだった。
だが、火がつく前に、水はもう走っている。
あとは、それが間に合うかどうかだった。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
通りやすい説明と、信じられる説明は別である。
拉致された後は、逃げてきた形にする。
劉高様は、納得したのではなく材料を持ち帰った。
顔は二名分管理する。
以上でございます。
劉高様は、確認だけと言ってお帰りになりました。
ですが、確認だけで終わる方ではございません。
なお、火がつく前に水は四方へ走らせております。




