ただの妻では、ございません
閻婆惜でございます。
本日は、部屋の扱いについて確認いたします。
同じ部屋でも、宋江様の部屋に私がいるのか、夫婦の部屋として扱うのかでは意味が違います。
出入り。
見張り。
声をかける手順。
誰が責任を持つのか。
そうしたものを決めておかなければ、ただの妻として落ち着くこともできません。
なお、相談役になるつもりはございません。
寝所は、ひとまず決まった。
山寨の奥まった一室。
宋江様と同室。
ただし、人の出入りは制限する。
何かあれば外へ声が届くが、勝手に踏み込まれない位置。
私は、それを聞いて少しだけ息を吐いた。
よろしい。
夫婦としての形は保てる。
少なくとも、客人なのか捕虜なのか分からないまま、別々に置かれるよりはましである。
ただし、同室と決まれば、それはそれで確認することが増える。
宋江様の部屋に、私が置かれるのか。
それとも、夫婦の部屋として扱われるのか。
この違いは大きい。
前者なら、私は宋江様の付属物になる。
後者なら、部屋に入る者は私にも配慮しなければならない。
たとえば、水を運ぶ時。
食事を運ぶ時。
火を替える時。
用件を伝える時。
宋江様を呼びに来る時。
誰でも勝手に入れる部屋では困る。
まして、ここは梁山泊である。
好漢の山寨である。
つまり、基本的に男が多い。
その時点で、確認事項は増える。
私は卓の上に置かれた水差しを見た。
水は新しい。
布団もある。
灯りもある。
簡単な着替えも用意されている。
ありがたい。
かなりありがたい。
だが、ありがたいことと、安全であることは別である。
「婆惜」
宋江様が、部屋の入口近くで立ち止まっていた。
「はい」
「座らぬのか」
「座る前に確認しています」
「何を」
「この部屋が、宋江様の部屋なのか、夫婦の部屋なのかを」
宋江様は黙った。
最近、この方は黙るまでが早い。
よい傾向である。
ただし、理解して黙っているのか、諦めて黙っているのかは、まだ確認が必要だ。
「違うのか」
「違います」
「同じ部屋ではないか」
「違います」
私は卓に指を置いた。
「宋江様の部屋に私がいるだけなら、用件のある方は宋江様を訪ねて勝手に入ろうとします」
「うむ」
「夫婦の部屋として扱われるなら、私がいる可能性を前提に、声をかけてから入る必要があります」
宋江様は、少し考えた顔をした。
「なるほど」
よろしい。
今回は早い。
「それから、夜間の見張りの位置も確認が必要です」
「見張り」
「はい。近すぎると困ります。遠すぎても困ります」
「また距離か」
「距離は大事です」
「それは、張文遠の時も聞いた」
「よく覚えておいでです」
宋江様は少しだけ嬉しそうになりかけた。
私は見た。
「今の顔は、山寨内でも少し控えてください」
「まだ駄目か」
「受け入れ条件が整うまでは不可です」
宋江様は肩を落とした。
その時、外から声がした。
「奥方」
呉用様の声だった。
早い――
本当に早い。
この人は、後回しにしない。
それだけで危険である。
「どなたとご一緒でしょうか」
私が聞くと、戸の向こうで一瞬、間があった。
「晁蓋殿と、宋江殿でございます」
「宋江様はこちらにいらっしゃいます」
「ああ、失礼。では、晁蓋殿と私です」
よろしい。
訂正が早い。
「どうぞ」
戸が開いた。
晁蓋様と呉用様が入ってくる。
宋江様は、部屋の中で少し端へ寄った。
人数は二人。
宋江様を含めれば三人。
この部屋で話すには、ぎりぎり許容範囲である。
私は軽く頭を下げた。
「御用件を伺います」
晁蓋様が、少し苦笑した。
「休めと言いに来たのだがな」
「ありがとうございます。では、休む前に部屋の扱いを確認させてください」
「やはりそうなるか」
「はい」
呉用様は、私と部屋を見比べた。
「部屋に不備がございましたか」
「不備というより、定義の確認です」
「定義」
「はい。この部屋は宋江様の部屋でしょうか。それとも、宋江様と私の夫婦の部屋でしょうか」
呉用様の目が少し細くなった。
晁蓋様は、すぐには答えなかった。
「同じではないのか」
やはり来た。
私は静かに首を横に振った。
「同じではございません」
宋江様が、小さく息を吐いた。
たぶん、同じ問答が来ると分かっていたのだろう。
学習している。
私は説明した。
「宋江様の部屋なら、宋江様に用のある方が出入りします。ですが、夫婦の部屋なら、私がいることを前提に、声をかけ、許可を得てから入る必要があります」
呉用様が頷いた。
「なるほど」
理解が早い。
危険である。
「また、世話役や見張りも、その前提で決めていただきたいのです」
「奥方の言われる通りです」
呉用様は、あっさり言った。
晁蓋様が呉用殿を見る。
「そうなのか」
「そうです。曖昧にすれば、後で山寨内の者が迷います。迷えば、噂になります」
「噂か」
「はい。宋江殿の奥方をどう扱えばよいか分からぬままにすると、必ず余計な話が出ます」
晁蓋様は腕を組んだ。
「面倒だな」
「面倒なところから、炎上します」
私が言うと、晁蓋様は黙った。
呉用様が、わずかに笑う。
「晁蓋殿、奥方の言うことは、もっともです」
「呉用、お前までそう言うのか」
「はい」
呉用様は、私を見た。
「この部屋は、宋江殿と奥方の部屋として扱いましょう。出入りは必ず声をかける。用件のない者は近づけない。水、食事、灯り、着替えの世話は、こちらで担当者を決めます」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「ただし、女性の世話役がいない場合、男性のみで入室しないようお願いいたします」
晁蓋様が眉を寄せた。
「そこまでか」
「そこからです」
呉用様が答えた。
私ではなく、呉用様が言った。
晁蓋様が驚いた顔をする。
宋江様も少し驚いている。
私も、少しだけ驚いた。
呉用様は落ち着いていた。
「女であるからこそ、見える火種がございます。ここを軽く見れば、せっかく連れ去られた形まで整えた意味が薄れます」
「連れ去られた形を整えた……」
晁蓋様は額に手を当てた。
「いまだに、その言い方には慣れぬ」
「私も慣れたくはありません」
私は答えた。
「ですが、使った以上、最後まで形を崩さない方がよろしいかと存じます」
呉用様が、深く頷いた。
「晁蓋殿」
「なんだ」
「奥方を、ただ宋江殿の妻として奥へ置くだけでは惜しいかと」
空気が少し変わった。
私は呉用様を見た。
嫌な言葉である。
非常に嫌な言葉である。
仕事が増える気がした。
晁蓋様も、呉用殿を見た。
「どういう意味だ」
「奥方は、外からどう見えるかを見ておられます。誰が疑われるか。誰が責任を負うか。どの言葉が残るか。どの形なら、後で説明できるか」
呉用様は、落ち着いた声で続ける。
「縄の一件だけではございません。到着してすぐ、立場、責任者、寝所、食事、入浴、接触制限まで確認された。これは、ただ用心深いだけではございませぬ」
「では、何だ」
晁蓋様が、呉用様に確認する。
呉用様は、少しだけ間を置いた。
「山寨に必要な目でございます」
私は黙った。
嬉しくない。
まったく嬉しくない。
だが、その評価が無意味ではないことも分かる。
梁山泊は男が多い。
勢いで動く。
義で決める。
情で迎える。
それは強さでもある。
だが、私はその隙間を見る。
誰が困るか。
誰が言い訳できなくなるか。
誰が噂されるか。
誰が責任を持つのか。
見えてしまう。
見えてしまう以上、黙ると自分が困る。
「呉用様」
「はい」
「私は軍議に加わりたいわけではありません」
「存じております」
「相談役なども望んでおりません」
「でしょうな」
即答された。
嫌である。
読まれている。
呉用様は、少しだけ笑った。
「ですが、奥方は確認せずにはおれぬ方でしょう」
「生き残るためです」
「それで十分です」
十分ではない。
私にとっては、まったく十分ではない。
晁蓋様が、宋江様を見た。
「宋江、奥方はいつもこうなのか」
宋江様は少し考えた。
「病み上がりから、だいたいこうだ」
「病み上がりとは何なのだ」
「わしにも、最近よく分からなくなってきた」
そこは分かっていてほしかった。
私は軽く咳払いをした。
「話を戻してもよろしいでしょうか」
三人がこちらを見た。
「私は、ただの妻として扱われるために手順を整えたいだけです」
呉用様が即答した。
「ただの妻は、手順を整えてから同室を認めさせませぬ」
またである。
この人は、本当に危険である。
晁蓋様が少しだけ笑いかけた。
宋江様も口元を押さえかけた。
私は見た。
「まだ可とは申し上げておりません」
二人は止まった。
呉用様だけが、静かに口元を引いた。
「では奥方、条件を決めましょう」
「条件」
「はい。奥方に相談する場合の条件です」
やはり仕事が増える。
私は少しだけ目を閉じた。
断るべきか。
受けるべきか。
ただの妻として奥に置かれれば、守られるかもしれない。
だが、何も決められず、誰かの判断で動かされる危険がある。
相談できる相手として見られれば、仕事は増える。
だが、確認する権限も得られる。
嫌だ。
とても嫌だ。
だが、今の状況では、後者の方がましである。
「分かりました。条件を申し上げます」
晁蓋様が、少し疲れた顔をした。
「また条件か」
「はい」
宋江様は、もう驚かなかった。
慣れてきている。
よいのか悪いのかは分からない。
「まず、私の発言を宋江様の意思として扱わないでください」
呉用様の目が光った。
「なぜです」
「私が何か言うたびに、宋江様が言わせていると思われると困ります」
「奥方御自身の意見として扱う」
「はい。ただし、責任を押しつけられるのも困ります」
「難しいですな」
「難しいから先に言っています」
呉用様は頷く。
「次に、私に相談する場合は、誰の責任で聞くのかを明確にしてください。晁蓋殿なのか、呉用殿なのか、宋江様なのか」
晁蓋様が頭をかいた。
「そこまで決めるのか」
「決めます。後で、誰が言った、誰が聞いた、誰が許した、となるのが一番困ります」
呉用様は静かに頷いた。
「よろしい。相談する際は、こちらの責任者を明示しましょう」
「ありがとうございます」
私は少しだけ頭を下げた。
「それから、山寨内の女性に関わること、宋江様の身柄、私の立場、宋家への影響、外への説明。このあたりに限ってください」
「軍議は?」
呉用様が聞いた。
「加わりません」
「必要があれば?」
「必要かどうかは、先に用件を確認します」
呉用様は、少し楽しそうな顔をした。
「徹底しておられる」
「曖昧にすると、仕事が増えます」
「すでに増えておりますな」
「増やされたのです」
宋江様が、ふっと息を吐いた。
「婆惜」
「はい」
「そなたは、休む前に仕事を増やしておらぬか」
「増やされたのです」
「そうか」
「はい」
「すまぬ」
「謝罪は受け取ります」
「続きは」
「今は保留します」
宋江様は少しだけ驚いた顔をした。
私も少し驚いた。
たぶん、疲れている。
体が限界に近い。
呉用様は、その様子を見逃さなかった。
「晁蓋殿。今日はここまでにしましょう。奥方には休んでいただくべきです」
「うむ」
晁蓋様は頷いた。
「奥方よ。山寨の中で、そなたを粗略に扱うことはせぬ。責任は、まずわしが持つ」
「まず?」
私は小さな声で言った。
晁蓋様が止まった。
「まず、では足りぬか」
「実務は呉用様が担当されるのではありませんか」
晁蓋様は呉用様を見る。
呉用様は、少しだけ笑った。
「では、こうしましょう。山寨としての責任は晁蓋殿。日々の手順は私。宋江殿に関わることは、宋江殿にも確認する」
「よろしいです」
私は頷いた。
かなりよろしい。
晁蓋様が、半ば呆れたように言う。
「本当に、その場で形が整っていくな」
「整えないと、後が困ります」
「そうか」
「はい」
呉用様は、何かを考える顔をしていた。
危険である。
非常に危険である。
この人は、今、私をどう使うか考えている。
私は、それを止められない。
止めるより、条件をつける方がましだ。
呉用様は静かに言った。
「奥方。今後、必要があれば、ご意見を伺います」
「必要がある場合に限ってください」
「承知いたしました」
「また、口頭だけでは困ります。重要事項は紙に残してください」
呉用様が、少し楽しそうな顔をした。
「紙は危険ではございませぬか」
「危険です。だから残し方を決めます」
呉用様は、とうとう声を出さずに笑った。
「承知いたしました。奥方用に紙と筆も用意しましょう」
私は黙る。
紙と筆。
ありがたい。
非常にありがたい。
だが、仕事道具を渡されるということでもある。
嫌な予感が、また増えた。
宋江様が小さく言った。
「婆惜、今、嫌そうな顔をした」
「宋江様」
「はい」
「よく分かってこられましたね」
「嬉しくない」
「私もです」
晁蓋様が笑った。
今度は山寨の中なので、少し可である。
呉用様も静かに笑った。
私は見た。
この二人は危険である。
笑っている時ほど、何かが決まる。
その後、晁蓋様と呉用様は部屋を出て行く。
私は寝台に腰を下ろした。
宋江様は、少し離れたところに立っている。
同じ部屋。
夫婦の部屋。
ただし、まだ落ち着かない。
私も落ち着かない。
宋江様も落ち着かない。
それでいい。
落ち着きすぎる方が危ない。
「婆惜」
「はい」
「同室で、よかったのか」
「はい」
「そうか」
「別室にされるよりは、立場がはっきりします」
宋江様は、少しだけ黙った。
「夫婦として、か」
「はい」
その言葉は、思ったより重かった。
宋江様は、それ以上言わなかった。
私も言わなかった。
体が重い。
頭も熱い。
だが、眠る前に確認だけはしておきたかった。
梁山泊内暫定確認。
一、山寨としての責任者は晁蓋様。
二、日々の手順は呉用様。
三、宋江様関連は宋江様にも確認。
四、この部屋は夫婦の部屋として扱う。
五、私の発言は宋江様の意思とは別。
六、相談は必要時のみ。
七、重要事項は紙に残す。
八、紙と筆が支給される予定。
私は八を見て、少しだけ目を閉じた。
支給される予定。
つまり、正式に働かされる可能性がある。
相談役。
確認役。
あるいは、面倒な女。
呼び方は何でもいい。
だが、権限が少しでもあるなら、生き残る道は増える。
私は寝台に横になった。
外では、男たちの声が遠く聞こえる。
梁山泊の夜は、思ったより騒がしい。
けれど、部屋の中は少しだけ静かだった。
宋江様は、灯りのそばに座っている。
何かを考えている顔だった。
顔が静かだ。
珍しい。
私は目を閉じながら思った。
呉用様は、私をただの妻ではないと見た。
晁蓋様も、それを受け入れた。
宋江様は、もう止めない。
これは良いことなのかもしれない。
でも、たぶん悪いことでもある。
悪女になる暇がない。
梁山泊に着いた途端、ただの妻でいるための手順が増えた。
そして呉用様は、親切にも紙と筆を用意してくださるらしい。
ありがたい。
非常にありがたい。
問題は、その紙で最初に書くことが、呉用様への確認事項になるかもしれないことだった。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
同室と同居は、扱いを分ける。
夫婦の部屋には、勝手に入らない。
相談するなら、責任者を明らかにする。
重要な話は、紙に残す。
以上でございます。
梁山泊の皆様には、丁重に扱っていただけそうです。
ですが、丁重に扱われるほど、仕事が増える気配がございます。
なお、紙と筆の支給は、ありがたくも危険でございます。




