お気持ちは、条件ではございません
閻婆惜でございます。
本日は、晁蓋様からのご返答について確認いたします。
迎える。
守る。
食うものもある。
心配は無用。
ありがたいお言葉でございます。
ですが、温かい言葉と、実際の条件は別でございます。
住まいはどこか。
誰が守るのか。
金は誰のものか。
戻る道はあるのか。
お気持ちは、条件ではございません。
返事は、すぐには来なかった。
一日目、何もなし。
二日目、張文遠様も来ない。
役所からの使いも来ない。
晁蓋様の使者も来ない。
静かだった……
静かすぎた。
私は机の上に置いた紙を見た。
お誘いは、受ける前に条件を見る。
友情でも、行き先不明では困る。
我ながら、ひどいことを書いている気もする。
晁蓋様は、宋江様を案じているだけなのだろう。
宋江様が危ういなら迎える。
友として、助ける。
それだけなら、美談である。
だが、私から見ると違う。
宋江様が動けば、私も巻き込まれる。
役所も注目する。
張文遠様も疑う。
晁蓋様側も見る。
そして、誰も悪意がないまま、話だけが大きくなる。
そういうものが一番困る。
「婆惜」
宋江様が、また紙を見ていた。
「はい」
「まだ返事は来ぬな」
「来ませんね」
「晁蓋殿も、考えておるのだろう」
「そうだと思います」
「そなたの出した条件が多かったからな」
「必要なものだけです」
宋江様は少しだけ目を細めた。
「住まい、食事、金、警護、役目、責任者、戻る道」
「はい」
「多い」
「少ないくらいです」
「少ないのか」
「本来は、もっとあります」
宋江様は黙った。
この沈黙は、驚いている沈黙だった。
最近は、かなり分かる。
「宋江様」
「うむ」
「返事を待っている顔です」
宋江様は、すぐこちらを見た。
「また顔か」
「ここ二日、ずっと同じ顔です」
「そんなにか」
「はい」
「どのような顔だ」
「戸口の音に反応する犬のような顔です」
宋江様は、完全に言葉を失った。
言いすぎたかもしれない。
だが、事実である。
外で足音がするたびに、宋江様は顔を上げる。
誰かが咳をしても顔を上げる。
風で戸が鳴っても顔を上げる。
それだけ晁蓋殿を案じているのだろう。
それは分かる。
分かるが、分かりやすすぎる。
「その顔は、外では控えてください」
「犬のような顔をか」
「はい」
「婆惜」
「はい」
「そこは否定してほしかった」
「嘘はよくありません」
宋江様は、深く息を吐いた。
ちょうどその時だった。
外で、足音が止まった。
宋江様が顔を上げる。
私は見た。
「今の顔です」
「分かっておる」
宋江様は慌てて表情を戻した。
少し遅い。
戸の向こうから声がした。
「宋押司」
前と同じ若い男の声だった。
私は紙を裏返し、見られてもよい紙を上に置いた。
宋江様も、今度は勝手に戸を開けなかった。
よろしい。
学習している。
「どなたですか」
私が先に声をかけると、戸の向こうの男が少し戸惑った。
「晁保正より、返答を預かってまいりました」
来た。
二日置いて来た。
早すぎはしない。
だが、十分に早い。
晁蓋様側も、本気なのだろう。
宋江様が私を見る。
私は頷いた。
「宋江様ご在宅です。お入りください」
戸が開いた。
前と同じ若い男だった。
顔に疲れがある。
二日で戻ったなら、それなりに急いだのだろう。
男は宋江様に礼をし、それから私にも頭を下げた。
前回より、少し丁寧だった。
「晁保正より、お返事でございます」
男は文を差し出した。
宋江様が手を伸ばしかけた。
私は見た。
宋江様は止まった。
「婆惜」
「はい」
「見せる」
「よろしいです」
男が少し不思議そうにこちらを見た。
見てもよい。
見られることにも慣れなければならない。
宋江様は文を受け取り、先に私へ見せた。
よろしい。
非常によろしい。
私は文を開いた。
宋押司へ。
心配は無用。
来られるなら、奥方ともども迎える。
住まいは用意する。
食うものもある。
道中も、我らが守る。
金のことも案ずるな。
戻ることなど考えず、身を寄せられよ。
私は、しばらく黙った。
宋江様も黙った。
使いの男は、少しだけ誇らしそうだった。
たぶん、良い返事を持ってきたと思っている。
実際、悪い返事ではない。
むしろ、温かい。
宋江様だけでなく、私も迎えるとある。
食事も住まいも用意するという。
守るとも書いてある。
金のことも案じるな、と……
かなり親切である。
だが――
「婆惜」
宋江様が、小さく言った。
「どうだ」
私は文を畳んだ。
「お気持ちは、よく分かりました」
使いの男が、少し安心した顔をした。
宋江様も、ほんの少し表情を緩めかけた。
私は続けた。
「ですが、これは条件ではありません」
空気が止まった。
宋江様が目を瞬かせる。
使いの男も固まる。
「条件では、ない?」
男が言った。
「はい」
私は机の上の紙を引き寄せた。
「これは、お気持ちです」
「お気持ち」
「はい。ありがたいお気持ちです。ですが、条件とは別です」
宋江様が、困ったように文を見た。
「住まいは用意するとある」
「どこに、ですか」
「それは」
「誰の管理下ですか。宋江様と私は同じ場所に住むのですか。別ですか。鍵は誰が持ちますか。周囲にどなたがいますか」
宋江様は黙った。
使いの男も黙った。
私は続けた。
「食うものもある、とあります」
「はい」
男が少しだけ答えた。
「具体的には、誰が用意しますか。日々の配分は。病人が出た場合は。女の身で食事を受け取る時の手順は」
「そこまでは……」
「道中も守る、とあります」
私は文を指で押さえた。
「どなたが、どこからどこまで守りますか。人数は。夜はどこで休みますか。追手が来た場合、宋江様を優先するのか、私も同じく守るのか」
男の顔から、少しずつ自信が消えていった。
可哀想だとは思う。
だが、ここで曖昧にしたら、あとで私が可哀想なことになる。
「金のことも案ずるな、とあります」
私は文を見た。
「どの金ですか。生活費ですか。移動費ですか。役所を離れた後の支度金ですか。借りになるのですか。返す必要はありますか。誰の金ですか」
宋江様が、額を押さえた。
「婆惜」
「はい」
「そこまで聞くのか」
「聞きます」
「晁蓋殿は、心配するなと言ってくれておるのだ」
「心配するな、と言われて心配が消えるなら、世の中はもっと楽です」
宋江様は黙った。
使いの男は完全に困っている。
私は少しだけ声を和らげた。
「晁蓋様を疑っているのではありません」
男が私を見る。
「ですが、本気で迎えるなら、本気で決めなければならないことがございます」
宋江様も、ゆっくり顔を上げた。
「本気であることと、準備が整っていることは別です」
その場が静かになった。
外の風の音だけが聞こえる。
使いの男は、しばらく文を見ていた。
「晁保正は、宋押司を大事に思っておられます」
「存じております」
「奥方のことも、粗略にはせぬと」
「ありがたく存じます」
私は頭を下げた。
「ですが、粗略にしないというお気持ちと、私の立場が決まっていることは別です」
男は言葉に詰まった。
宋江様が、静かに言った。
「婆惜の言うことにも、一理ある」
一理。
まだ一理である。
だが、最初はそれでいい。
最近、宋江様の一理は少しずつ大きくなっている。
私は筆を取った。
晁蓋様ご返答確認。
一、迎える意志あり。
二、奥方も迎える意志あり。
三、住まいの詳細不明。
四、食事の手順不明。
五、警護責任者不明。
六、金の性質不明。
七、戻る道は考えない方針。
私は七で筆を止めた。
戻ることなど考えず、身を寄せられよ。
この一文は、かなり重い。
宋江様も、そこを見ていた。
「婆惜」
「はい」
「戻る道を考えぬのは、覚悟ではないのか」
「そうかもしれません」
「ならば」
「ですが、覚悟と退路の有無は別です」
宋江様は黙った。
私は文に視線を落とした。
「戻らない覚悟をすることと、戻れない状態にされることは違います」
使いの男の目が、少しだけ変わった。
私は続けた。
「宋江様が自分の意思で戻らないと決めるなら、それは宋江様の選択です。ですが、最初から戻る道を閉じた形で身を移すのは危険です」
「晁保正は、閉じるつもりでは」
「ないでしょう」
私はすぐに言った。
「ないと思います。ですが、文面はそう読めます」
男は口を閉じた。
宋江様も、文を見ている。
よい。
文を美談としてではなく、条件として見始めている。
「文は、気持ちより残ります」
私は言った。
「お気持ちは温かくても、残る文が強すぎれば、後で人を縛ります」
宋江様が、私を見た。
前に、記録は味方にも敵にもなると書いた。
それと同じである。
善意で書かれた文も、後で別の意味を持つ。
「では、どう返す」
宋江様が聞いた。
私は少し考えた。
ここで断れば、晁蓋様の手を払うことになる。
そのつもりはない。
ここで受ければ、条件未確認のまま梁山泊へ近づく。
それも避けたい。
ならば、返す言葉は一つである。
「お心遣いに感謝する。ただし、今すぐ身を移すことはできない。今後、必要が生じた場合に備え、受け入れの形を改めて確認したい」
宋江様は、私の言葉をゆっくり聞いていた。
「それは、断っておるのか」
「保留です」
「保留」
「はい。今すぐ行かない。ですが、手は払わない」
宋江様は黙った。
この沈黙は、考えている沈黙だった。
「晁蓋殿は、怒るだろうか」
「怒るかもしれません」
使いの男が、少しだけ顔を上げた。
私は続けた。
「ですが、怒る前に条件を書いていただきたいです」
宋江様が、少しだけ笑いかけた。
私は見た。
「今は外です」
「……分かっておる」
宋江様は何とか止めた。
ぎりぎりである。
使いの男は、もはや何を見せられているのか分からない顔をしていた。
申し訳ない。
こちらも分からない時がある。
「では、そのようにお伝えしてよろしいでしょうか」
男が尋ねた。
私は宋江様を見る。
ここは宋江様が答えるところだ。
宋江様は、一度だけ息を吸った。
よろしい。
顔に出る前に、息を吸った。
「晁蓋殿には、心より感謝していると伝えてくれ」
男が頷く。
「だが、今はまだ動けぬ。こちらにも守らねばならぬものがある。厚意を無にするつもりはない。改めて、しかるべき時に返す」
私は、宋江様を見た。
悪くない。
かなり悪くない。
余計な美談もない。
義侠心も顔には少し出たが、口は耐えた。
合格である。
男は深く頭を下げた。
「承知いたしました。必ずお伝えいたします」
「それから」
私は言った。
男の肩が少し跳ねた。
可哀想に。
だが、もう一つある。
「次回以降、文をお持ちになる場合は、差出人と用件を先に名乗ってください。戸口に置く、名乗らず渡す、金品を添える。この三つはお控えください」
男は、真面目な顔で頷いた。
「承知いたしました」
よろしい。
晁蓋様側も少しずつ学習していただきたい。
男が去った後、家の中はまた静かになった。
だが、最初の静けさとは少し違った。
宋江様は、文を見ていた。
嬉しそうでもある。
寂しそうでもある。
困ってもいる。
顔が忙しい。
「婆惜」
「はい」
「晁蓋殿は、本当にわしを迎えるつもりなのだな」
「はい」
「それは、ありがたいな」
「はい」
「ありがたいが、危ないのだな」
「はい」
宋江様は深く息を吐いた。
「世の中は難しい」
「この家は特に難しいです」
「それは否定できぬ」
宋江様は、家の中なので少し笑った。
私は止めなかった。
そして、確認事項に最後の一文を書いた。
お気持ちは、条件ではない。
少し考えて、横に添える。
温かい返事ほど、細部を確認する。
宋江様がそれを見た。
「婆惜」
「はい」
「また晁蓋殿が困るぞ」
「困ってから整えていただければ大丈夫です」
「そなたは強いな」
「強くなければ死にそうですので」
宋江様は、何も言わなかった。
その沈黙は、今日の中で一番静かだった。
悪女になる暇がない。
今度は、善意の返事を条件とお気持ちに分けることになった。
水滸伝の世界では、温かい言葉ほど、そのまま受け取ると足元が見えなくなる。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
温かい返事ほど、細部を確認する。
心配無用、だけで安心しない。
戻る道を閉じる文には注意する。
ありがたい話ほど、即答しない。
以上でございます。
晁蓋様のお心遣いは、本当にありがたいものでした。
ですが、文は気持ちより長く残ります。
なお、お気持ちは条件ではございません。




