八、つめたい根
「す、スオノ……!」
メノウの宮を出ると、ホロンがスオノを呼ばった。
「め、め、メノウは、て、て、て、て……」
ホロンが懸命に言おうとする言葉を、スオノは待つ。
「て、と、と、テソン皇子のことを……」
やっと出てきた名前に、スオノは辺りを憚って、小声でいらえた。
「……ここではあれだから、青垣へ行きましょう」
スオノが提案すると、ホロンは、はっとしてそれから肯く。
緑の屋根瓦が、青垣の四阿であった。瓦はくすんで、ちょうどよく央ノ宮の差し色になっている。
従者に離れてもらい、スオノはホロンを座らせると、今一度尋ねた。
「め、メノウは、て、て、テソン皇子のことが、す、好きなのかな」
ホロンには、〈吃〉がある。生まれ持ったもので、物心つく頃からこのような話し方だから、本人はとても気にしていた。
ホロンが口を開いたら、遮らずに聴く。こちらもゆっくりと返事をするようにして、焦らせないようにする。
スオノとメノウは、慣れていたからそのようにホロンと接していた。なんとなく、そう接したほうが、ホロンの〈吃〉は出にくい様子がある。
ただ、そうしていても、ホロンには言いづらい音があるようだった。べつの音を挟めば言えることもあったが、出しづらいのは変わらないように聞こえる。
スオノは、ホロンの問いに、ゆっくりと返事をした。
「お好きなのだと思うわ。きっと、メノウ姫のお相手はテソン皇子ね。姫さまのことを、よくわかっていらっしゃるもの」
メノウは、たしかにいたずら好きな少女であったが、今では、央の次代としての振る舞いと教養、毅さを持ち合わせている姫君だ。
「わたくしが、きちんとしていなければ、央全体のみならず、明けや暮れの国々にも影響があるもの。それくらい、もうわかっているのよ?」
冗談半分にメノウはそう言うが、その懸命に立とうとする姿こそが、スオノには危うさに見えた。
(テソン皇子は、メノウ姫のそういった危うさも理解されている)
だから、木綿の反物を贈ったのだろう。
姫君が見せようとしないところも、木綿のやわらかさでそっと包んでくれるようなあたたかさを、明けの皇子からは感じている。
(ヨルカ皇子は……)
最後、羞恥と嫉妬に駆られたような姿を見せた皇子は、会が終わると、早足で姿を消してしまった。沸いてきた感情を御しきれなかったのだろう。自分こそが、という思いの透けた美しい絹の織物は、メノウ姫の危うさをきれいに覆い隠すように視えてしまう。
──〈幹〉の伴侶には足り得ない。
「〈告げ〉は、まもなくね?」
スオノが訊くと、ホロンは首を振った。
「え、あ、あ、あ、明日から禊で、そ、それから玉梅に、授かりに行くよ」
「きっと、テソン皇子の名が聞こえるわね。姫さまにぴったりだもの」
これまでも、そうだった。
代々〈幹〉の伴侶となるものは、婚約者候補たちのなかで、〈幹〉が心を預けたものが〈告げ〉で選ばれる。国を支える〈幹〉を支えるのだから、当然と言えば当然だった。
──健やかなれ。健やかなれ。
神は、〈幹〉にそうして、国を支えろと言ったのだ。
(姫さまには、テソンさましかいらっしゃらないわ)
かの皇子であれば、危うい幼なじみを任せられると、スオノも思う。
帰り路に、スオノは、武人の男とすれちがった。背が高く、足も速い男で、すれちがいざまによけようとして、頃合いがわからずどちらともなくぶつかってしまう。拍子に、スオノが後方に均衡を崩したところで、男に詫びられる。
「失礼」
スオノは、男のあまりな無作法に驚いてしまった。
かろうじて後ろ足でとどまって、男を見上げる。
異質な、深緋の目をした男だった。スオノの奥底、これまで自分で見てこようとしなかった淵底まで覗き込まれるような色に、ぶるっと産毛が逆立つような気がした。装いから〈明け〉の国のものであるとわかったが、見たことのない男だった。
恐怖を覚えて、スオノはさっと視線を逸らす。面紗を忘れていたことをそこで思い出した。
「あなたは……」
一方、男のほうは、スオノを見て、驚きを覚えているようだった。スオノが目礼をして男の横を通り抜けようとしたところで、声がかかる。
「出会いがしらに申しわけない。オリの里に、縁戚がおありか?」
スオノは、先月末に会った妹の顔がよぎった。動揺を悟られぬように、優雅に見えるよう緩慢に後ろを見て、そっと答える。
「いいえ」
男が、眉に不審を浮かべる。
「私は、〈結び師〉のスオノです。一族の者は、この央の都にしかおりません。お人ちがいでしょう」
スオノは言うと、これ以上の足止めは許さないとばかりに前を向いて、男に背を向けた。面紗をつけて、花靴を進める。背に視線を感じなくなると、逃げるように急ぎ石段を下っていく。
塗り替えたばかりの南門に帰り着き、月洞門をくぐれば、主堂で父が待っていた。
「お帰り、スオノ」
「ただいま、お父さま」
両手を広げる父に飛び込むようにスオノは抱き着いた。父は、〈結び〉の一族の入り婿であったが、母ユノアが死んでからは、家を仕切ってくれている。商家であった父が管理をしてくれるようになってからは、〈結び〉の一族は、宮もよく栄えていた。
「賤しい商人め」
父をそう揶揄するものは、一族の傍系にいたが、スオノは悪く思っていなかった。
いい暮らしをさせてもらっているのは、父のおかげであったし、なにより父は人のよいあたたかな人間であった。商売も、父の誠実な人柄でうまくいっているようなものだった。だれだって、真似できるものではない。
「私が、お父さまに惚れ込んで、縁を結んでしまったのよ」
厳しい母は、父の前ではそんなふうに笑った。父は照れ臭そうに若草色の髪を掻いて、見つめ合っていたのが眩しい。仲のよい両親であった。なのに……
(ねえ、どうして)
ソノラを捨ててしまったの?
スオノは、その事実を知ってから、胸の奥底につめたい根が張うようになった。
(もし……)
──〈結び〉の力を持つのがスオノではなく、ソノラであったら、捨てられたのはスオノのほうであったのだろうか、と。
そんな恐ろしい疑問が、ずっと胸底に沈んでいるのだ。
「わたしは、気にしてないよ」
ソノラはそう言うが、ほんとうのところはどうなのだろう。
死んだ母は、なにを考えていたのだろう。
あたたかい父は、どう思っているのだろう。
疑問を、自分のなかで見ないふりをしてきて、スオノは、それが癖づいてしまった。父の衣を掴みながら、目を臥せる。
きっと、メノウの〈結び〉が近づいているから、スオノのなかで不安が増しているのだ。重たい責任に、スオノは精神が参っている。
(……はやく終わってほしい)
春の陽射しのような父のあたたかさに包まれながら、そう思った。




