四拾五、落下
ソノラは、ヨルカに声をかけたそば、蹴り飛ばされたナヒョンが、タカラの背を影に、尋常ではない速度で、メノウやテソンたちに差し迫るのを見た。
同時に、ヨルカの〈もつれ〉がふわっと浮き上がる。どこにも結び目が見えなくなったはずであったのに、気づけばゆるみ、ほどき目が見える気がした。
止められるよりも先に、体が動いた。
「ソノラ……!」
スオノが名を呼ぶ。
だが、ソノラは止まらない。
手を、伸ばす。
(いけない……!)
今、もし、ここで、テソンが刺されたら、どうなるだろう。
(きっと、後悔する)
せっかく、自分を制したのに、今度こそヨルカの〈もつれ〉は、ほどけなくなってしまう。
ソノラは、体当たりをするように飛び込んだ。
ナヒョンは、虚を衝かれて倒れ込む。振りほどこうとして、力いっぱい引きはがされそうになったが、ソノラは面紗がはがれても食らいついて離れなかった。
「この凶ツ者めが!」
ソノラは、ナヒョンが持つ短剣に手を伸ばす。振り払われそうになりながらも、力を振り絞り、そうしてふたりでもつれ、内苑の隙間、高欄からふたりが落下するのは、あっという間のできごとであった。
叫び声が、響いた。
ソノラは、落下の浮遊を得る。強引にソノラをはがしたナヒョンが先に落ちる。男の体が岩肌に打ちつけられながら落ちていくさまを、ソノラは奇妙にゆっくりと見届けた。すぐに自分もそうなるとわかった。
視界が落下とはべつのものを捉える。
金の〈根〉。
地に伸びるもの。
それが、黒く淀んで……
ふいに落下が止まったのは、飛び降りてきたタカラが、宙にソノラの体を担いだからであった。岩ヤギのように跳ね、ソノラを抱いて駆け登る。
宮に放り込むように戻されて、汗を浮かべたタカラに見下ろされた。泣いたスオノと、ホロンが駆け寄ってきて、ソノラの体を抱きしめる。
「なんてばかなことを……!」
青梅の焚き染めた香りに、ぎゅっとされる。
ホロンが、胸を撫で下ろした。
ソノラは、ぼうっとしながら、姉スオノの背に腕を回した。背中の先で、〈暮れ〉の襲撃者たちは、血に沈むか、ヒジャルらに捕らえられていた。
玉梅の下で、こちらを見て呆然と佇むヨルカを認める。膝をつけたメノウと、矢傷をかばうテソンも。
短い抱擁から抜け出ると、ソノラは、よろよろとヨルカのもとへ行った。すでに剣は、取り上げられていた。
ソノラは、腹に残る蕎麦の〈もつれ〉を見て、つぶやくように言う。
「正解でした」
ヨルカが、ソノラを見た。
怪訝に眉根を寄せて、だれだか思い出したように眉を開く。
「お前は……」
「殿下のお人柄を信じて、正解でした」
ソノラは目笑する。
「今度は、短気に負けずにすみましたね」
瞬間、ヨルカの顔がくしゃっとなった。ひっついた蕎麦がほどけるのと同時に、男の顔が情けなくなる。その場で、腕に、静かに涙する。
ソノラは、ほっと息をつく。
(なんとか……)
間に合った。
肩から、力が抜ける。思い出したように落下した恐怖が襲ってきた。どくっどくっ、と鼓動が耳から聞こえる。足元から這い上がってきた震えで、座り込みたくなるのをなんとかこらえる。ただ、息を吐いて気持ちを落ち着ける。
そうして、安堵できたのは、ほんのいとまだった。
刹那のことだ。地から、どん、と突き上げるような揺れ。立っていられない震動がやってきて、皆が倒れる。近くの柱に寄りかかる。
「なんだ……ッ」
メノウの体を支えながら、テソンが叫ぶ。
ソノラは、揺れが突き上げてくる衝撃で、この場からすっとすり抜ける感覚を得た。音が遠のく。意識が高く、央ノ宮を抜け、都、藩州、〈明け〉や〈暮れ〉の国々まで見渡せる。
夢の鳥になったようであった。
──大地全体に、〈もつれ〉が見える。
ゆるく、されど激しく蠢動する、〈根〉に張る黒い、〈もつれ〉が。
ほどき師のソノラにでさえ、どうする術もない……
「玉梅が!」
だれかの大声で、ソノラの浮いていた足が地についた。
息を呑む。皆が見る。
金色に輝く玉梅が、美しくも儚く、花びらを散らしはじめていた。少なかった花が、鬱金色の弱々しい光を放ちながら、散じていく。
「どうして……」
〈結び〉を行ったのに。
スオノが、蒼白になってつぶやく。
メノウが、言葉を失う。
呆然とする暇はなかった。次の間に、また揺れが突き上げてきて、宮全体がみしっと激しく軋んだ。木屑が落ちてくる。
「出るぞ!」
タカラが先導する。
だれもが危ないと、悟った。
「お母さま……!」
メノウが、玉梅の袂にいた〈幹〉の手を引く。
〈幹〉は醜悪にも見える弧を、唇に描いた。
「これぞ、凶ツ時」
ソノラを、ちらっと見る。
「凶ツ者なるぞ」
ソノラは、ひやっと鼓動が脈打つのを感じながら、花びらを散らす玉梅を背に、揺れる御殿をあとにした。




