四拾四、錦鯉の飛沫
言ノ葉が石切りとなって、ヨルカのたたえた憎しみの水面を滑っていった。やがて、池底にある記憶を、飛沫を上げて喚び起こす。
──〈暮れ〉は、血の気の多い一族であった。
側室の生まれであったヨルカは、よく正室から生まれた他の皇子たちと比べられた。
膂力と、武勇。
〈暮れ〉で尊ばれるのはこういうもので、体の弱い側室から生まれたヨルカはどちらかというと線が細く、兄皇子たちと力比べをしても敵うことはなかった。思ったことをすぐに口にするから、からかいばかりを受けて、気づけばいらいらと、つまらぬ諍いばかりを繰り返して、「損気のヨルカ」と揶揄されてばかりいた。
ヨルカに転機が訪れたのは、兄皇子たちと一緒に央ノ宮に招かれた場であった。次代の〈幹〉であるメノウ姫との、見合いの場だった。
当時、十を超えたばかりのヨルカは、その時、メノウが、水飛沫に金の鯉を鷲掴みする姿を見た。
「かっけえー!」
思わず、ヨルカは声を上げた。
そのためらいのなさ。
淡桃色の品のなかにある、堂々とした振る舞い。
メノウは叱られたが、ヨルカはただ尊敬で、彼女を見つめた。
これが〈幹〉なのか。これが、大地を支える〈幹〉の血筋なのかと、ヨルカは奮起させられた。
──メノウに認められたい。
だらしない、損気な男、と言われるのではなく、評価されたい。彼女を笑わせられるような、余裕のある男になりたい。
そう思った矢先、なにを理由にか、〈暮れ〉を代表する皇子として名が定まったのは、僥倖に思えた。
「誠心誠意、姫君に尽くします」
そう言って、細身でも武功を立て、自分の活躍をメノウに伝えつづけてきた。彼女を笑わせるような武勇伝を語るために、練磨を怠らなかった。
ところが、今度は、〈明け〉のテソンと比べられるようになった。
テソンは、ヨルカと同じ細い男で、武芸に優れたわけではなかったが、人当たりのよい思いやりの優れた人物で、央ノ宮に顔を出すようになってからすぐに人望を集めた。
ヨルカは、くやしくてたまらなかった。
(なぜ、オレばかりが……)
メノウの視線は、成長するにつれて、自然とテソンへと向いていく。
無邪気で元気な姫君は、次代の〈幹〉になるために成長し、しとやかな姫君となっていく。度量の広いテソンは、そんなメノウを支える。ふたりが惹かれ合うのは当然で、ヨルカは損気だが、心の読めぬ男ではなかった。
ヨルカだけが、子ども心のまま、置いていかれていく。
「ヨルカさまは、面白い方でいらっしゃいますのね」
メノウのその言葉だけが、ヨルカの唯一の慰めだったが、酒を舐めても虚しかった。
遠縁のナヒョンと、告げの当主ウロンの画策で、ヨルカは、姫の伴侶として選ばれた。偽りのあいだ、姫は懸命にヨルカと親しくなろうと努力してくれた。
幸福だった。
(オレは、もしかしたら、ほんとうに選ばれたのであろうか)
そう錯覚したくなって、ヨルカもまた、姫に真にふさわしい男になろうと努力した。
けれど、メノウとヨルカは、合わなかった。懸命に話を聞こうとして、相槌の早さを誤る。さもなくば、ヨルカが一方的に喋るか、ふたりで黙っている。気まずさだけが、増していく。
沈黙が許せなくて、ヨルカはまた、いらいらする。メノウの顔は次第に陰って、健やかさとはほど遠い。
(オレは、ただ……)
無邪気に、昔の元気さを取り戻してほしいだけだ。
あの堂々とした振る舞いを。あの喜々とした生気を。
だが、偽りの伴侶は見破られた。
──神は、ヨルカの損気を許さなかった。
選ばれたのは、やはりテソンであったのだ。
骨の髄を伝っていくような憎悪が、ヨルカを支配した。怒り。虚しさ。屈辱。抑圧されてきたすべてが、テソンに向くようであった。
「──婚礼の儀をねらいましょう」
ナヒョンの提案に、ヨルカは、一も二もなく、肯いた。
警護の厚くなる婚儀をねらうのは、身を滅ぼすこと同然であったが、雪辱を果たせるのであれば、あとはなくてもいい。〈暮れ〉の人間は皆、少なからずそういう思いをいだいていた。
ナヒョンも、そうだ。豪族という地位にありながらも、娘に成人の祝い着一着さえこしらえてやれない。〈暮れ〉は、ほんとうに貧しいのだ。戦での功や、〈幹〉の伴侶に縋り付くしか手立てがない。〈明け〉のようにたとえ商いをはじめたとしても、血気盛んな者たちは、満足な交渉もできない。
央の、沈みゆく稜線。それが、〈暮れ〉なのだ。
(その苦しみを……)
知ればいい。
たとえ、粛清されようとも、襲撃が失敗しようとも、〈暮れ〉の思いがどれほどのものか、知れ渡ればそれでいい。
ヨルカは、思う。
剣を、抜く。鞘から、すうっと鉄の刃が抜けていく音は、重く腕にのしかかってくるが、ヨルカの意志は鮮明だった。
──だが。
衝動が、全身を貫いた。
(あいつだけは……!)
テソンだけは、仕留めて、同じ苦しみを味わえばいい。
ヨルカは、走った。
〈明け〉や央の護衛たちを抜けていく。細いが、ヨルカは、これまで鍛えてきた。〈暮れ〉では弱くとも、この場では、ヨルカは武に秀でた〈暮れ〉の皇子であった。
そうして、剣を大上段に構え、吶喊の声を上げているところに、ソノラの声は、石切りとなって響く。
「──殿下は、そんなお人柄だったんですか!」
一瞬、走る足が止まったものの、ヨルカはやはり走り抜けた。
まもなく、メノウ、テソン。
玉梅の後ろ。
かがよう神木は、ヨルカを照らす。
ヨルカは、剣を構える。
メノウの、見開く金の眼。テソンがかばうように覆いかぶさる。
にわかに、足が止まる。
金の鯉。
流水紋。
メノウの、衣の意匠が目に入った。
ぽちゃん、と石が沈む音がした。想起する。
「──わたくしは……」
いつだったか、メノウが言った。もう数年前の記憶だ。
「あの時、すぐにヨルカさまがかっこいいと言ってくださって、うれしかったのです」
そう話した時のメノウは、まだ子どもらしい満面の笑みを浮かべていた。
「すぐに言ってくださったのが、うれしくて。褒めようと考えたのではなく、感じたことを言ってくださったのだとわかったのです。皆、おべっかばかりですから」
こんなだからですが、とまだ少女の面影を残すメノウは照れる。
「……わたしは、これから〈幹〉として生きていかなければいけません。姫や、次代として見られるのではなく、メノウという人間の振る舞いを見て、素直な感情を口に出してくださるヨルカさまは、信用に足るお人柄だとそう思ったのです」
──だから、ヨルカさまを選んだのです。
思い出して、ぴたりと動きを止めた。
(そうだ……)
なぜ、忘れていたのだろう。
(姫は唯一……)
──自分の、悪癖を認めてくれたというのに。
動きを止めたヨルカに、迫ったタカラが棟打ちを食らわすと、ヨルカの体は傾いだ。
その寸暇を縫ったのは、タカラから蹴り飛ばされたはずの、ナヒョンであった。短剣を持って、テソン、メノウに襲いかかる。
「軟弱者めが!」
ナヒョンがヨルカを罵倒する。
タカラが、遅れる。
間に合わない。
そこに、ソノラが、飛び込んだ。




