四拾一、前夜
霜楓を肌で感じる。
ぶるっと、体を震わすと、ソノラは両腕を自分でさすった。
(そろそろ帰ろうかな)
立ち上がろうとして、にわかに声があった。
「──感心しないな」
ソノラは振り向く。
黒漆の傘を被り、濡羽色の引き回しをまとったタカラであった。
夜警の帰りだろうか。
疲労が見てとれたが、わからなかった。疑問に、深緋を見上げたが、答えはない。
「そのような格好で出歩いていると、すりに遭う」
「巾着を持っていませんから」
タカラの小言に、苦笑する。ソノラはスオノから借りた絹の長衣をまとっていたが、それだけだ。
「少し、待っていてくれ」
ソノラの返事になにを思ったのか、タカラは、近くの屋台で花巻をふたつ買った。醤油の香ばしい角煮も買って、湯気の出る花巻のなかに角煮を包んでもらっていた。戻ってくると、いいにおいがする。
「食べるか」
ひょい、とひとつ差し出されたので、ソノラは思わず受け取る。
石積に迷いなく腰かけ、花巻を口にするタカラに、ソノラは少々驚いた。迷った末に、花巻にそっとかぶりつく。
蒸された花巻のあまいにおいと、醤油の香ばしさが絶妙で、ソノラは食べるのに夢中になりそうになった。すんでのところで、少しずつ口にするようにする。
「貴族の方でも、こういうところで食事をすることがあるんですね」
「おれは貴族ではない」
タカラは、世間話のように返した。
ソノラは顔を上げる。
「でも、ユンって……」
「おれは養子だ。ユン家は、もらわれた先の姓だ」
ソノラは、食べるのを忘れて、タカラの横顔を見た。
特になんの色も浮かべていない男の顔に、ソノラは黙る。しばらく食べるのをやめて、ふと思ったことを尋ねた。
「タカラさんは、迷うことってあるんですか?」
「なんだ急に」
「迷う人に見えないので」
ソノラが見上げる腹には、変わらず、すーっと天から降りてきた糸が見える。いささかの揺らぎもない、されど、しなやかな糸。
「おれとて、人の子だ。迷う時もあれば、あやまちを犯すこともある」
タカラは立ち上がった。
「それでも、おれの信条は変わらぬ」
タカラの返答に、ソノラは、目を丸くして、それから微笑する。
残っている花巻を、大きな一口で平らげると、幸せな気持ちになった。口の中がなくなってから、同じように立ち上がる。
「そうですね」
裾を、少しだけ払う。
「たしかに、わたしも変わりません」
ソノラがにっこり笑むと、表情のなかったタカラも少し笑んだ。
帰路につく。すっかりと朝陽が昇ったあとだったので、晩秋の風が気持ちよかった。通りには、人がごった返している。
ソノラとタカラはほとんど言葉を交わさずに歩いたが、最後の小路に差しかかったところで、ソノラは口を開いた。
「ひとつ、気になっていることがあるんです」
タカラが足を止めた。
塀のある、人の少ない小路だったので、話すのにちょうどよい場所だった。
「〈暮れの国〉のことです」
「話してみろ」
タカラは腕を組んで塀に寄りかかった。
「──このまま、何事もないと思いますか?」
ソノラが尋ねると、タカラは首を振った。
「告げの当主が、〈暮れ〉の分も罪を被ったが、あれで収まるようだったら、そもそもテソンをねらっていない。だから昨夜も警戒に当たっている」
「テソン皇子は何度もねらわれてきたのですか?」
「そのたびに、返り討ちにしている」
酷薄な笑みを浮かべるタカラに、ソノラは応えなかった。代わりに、ぽつりと言う。
「……もつれてるんですね」
ソノラの頭には、央の都から国全体を越え、〈明け〉や〈暮れ〉全体に伸びる〈根〉を浮かんでいた。夢のなかで見えていた、その光景。
「黒く、もつれてる」
ひとりごとのように、繰り返す。
タカラは、なにも言ってこなかった。
ソノラは今一度、尋ねる。
「〈結び〉をし直してから、テソン殿下がねらわれることは?」
「ない。不気味なほどにな」
タカラの返答に、ソノラは押し黙る。
「なにかあるとしたら、テソンと姫の婚礼だろう」
「……はい」
「あなたも参列するか?」
「……はい」
そうか、とタカラは言った。
ソノラは、身の裡にやって来たものを、ごくりと唾と一緒に呑み込んだ。送り届けてもらったタカラとの別れ際、一言告げる。
「どうか、ご無事で」
タカラは背を向けながら、横顔に傘の縁をつかんで、不敵に笑んだ。
「──ユン家の男は、逆境には負けぬ」
*
婚礼前夜、ソノラとスオノは、一緒の臥榻に入って、掛布のなかで、きゃあきゃあ言った。なんの話をしてそうなったのか、くすぐり合って、笑い転げる。
ひとしきり笑い終えたあと、スオノは息を整えながら、まごまごと言った。
「明日が終わったら、話したいことがあるの」
「今言えばいいのに」
ソノラは、笑い疲れた気怠さで掛布をはがす。室内に残る秋のつめたさが心地よかった。
「終わってからがいいのよ」
「なにそれ」
恥ずかしそうにするスオノに、ソノラはまた笑う。
姉は、ソノラとほんとうにちがう。仕草も性格も。顔は瓜ふたつなのに、まるでちがう。生来の気質もあれば、育ちのちがいもあるのだろう。
けれど、不思議なことに似通っているところもある。味の好みや、寝る時の落ち着く向き。ソノラは、笹の味噌蒸しが好物だが、スオノも一番の好物だという。寝る時は、ふたりして絶対に左向き。仰向きで寝るなんてありえない、絶対に寝られない、とふたりで肯き合った。
姉妹だな、と思う。血のつながっている、たったふたりの姉妹。ちょっとしたことに、臥榻に入れられた陶炉のような、あたたかさを覚える。
「……明日、なにも起こらないといいけれど」
ふいに、スオノがぽつんとつぶやいた。
「……うん」
「宮殿の警備も増すから、きっと大丈夫よね」
自らに言い聞かせようとするスオノを視界に入れながら、ソノラは、タカラと交わしたやり取りが脳裏をよぎった。
姉の言葉に、たやすく、肯くことはできない。
考えた末に、ソノラは、自分のなかでここ数日考えてきたことを口にしていた。
「人は、なんで、当たり前の判断ができなくなるんだと思う?」
「え?」
「落ち着いて考えれば、ちょっと引いて見れば、それが正しくないってわかるのに、たまに人はとてもばかな選択をしてしまう。なんでだと思う?」
〈暮れの国〉について考えていると、そんなことを思う。大人が寄り集まっているはずなのに、なぜ当たり前の判断ができないのだろう、と。
ソノラが尋ねると、スオノは一度きょとんとしてから、しばらくして感慨深げに答えた。
「気持ちが追い詰められているから……だと思うわ」
「気持ち?」
「追い詰められてしまうと、冷静な判断も、広い視野も、持てなくなってしまうの」
私がそうだった、とスオノは語った。
「どんなに正論であっても、それが眩しくて、見られなくなってしまうの」
「そういうもの? わたしはよくわからない」
ソノラが、慣れない襦袢をさわりながら尋ねると、スオノは苦笑する。たとえばね、と付け足した。
「結びの宮には、恋に盲目になった人が、必ず縁を成就させてほしいって来ることがあるのよ。恋する乙女の状態って言えば、わかる?」
「わかるような、わからないような」
「あとは家族ね。閉鎖的な家族。家独特の慣習があって、はたから見たら絶対におかしいのだけど、中で過ごしていると、わからない。そういうものよ」
「ああ……」
ソノラは、思わず声を上げた。
オリの里の隅に、そういう家があった。
木綿の繊維は浅はかで、代々から伝わる苧麻こそが、央の大地よりの恵みであると、冬で凍死するのを厭わず、苧麻の衣をまといつづける一族が。……その家はそうして途絶えてしまった。
「気持ちも同じ。追い詰められてしまうと、そういう、どうしようもないものを、人は抱えてしまうことがあるの。同じ気持ちをともにしている人間が集まれば、よりその濃度は濃くなる。外の声も、周りも全部見えなくなって、まともな判断がつかなくなってしまうのよ」
「集まると……」
見えなくなる。
人は集まると、見えなくなってしまうことがあるのだろうか。考えることが、面倒になってしまうのだろうか。
スオノは、ソノラに身を寄せながら、ぬくもりを求めるようにつぶやく。
「人は、どうしようもないものを抱え込んでしまう、生きものなのかもしれないわ」
そういう生きものが集まると、どうなってしまうのだろう。
ソノラもまた、ぞっと感じたものに、ぬくもりを求めるように、スオノに身を寄せて眠りについた。




