参拾八、正直者(二)
その場に、困惑と緊張、期待、さまざまな感情が蠢いた。ソノラは遠くから、さまざまな〈もつれ〉がこの場に満ち、されど、中央に立つホロンという告げ師の〈もつれ〉に、目がいった。
「──め……」
ホロンは、わずかの間ののち、口を開いた。
「め、メノウ姫さまを、さ、さ、さ、支えるのは……」
待つものにとっては、長く感じる時間だった。
「て、て、と、と……」
ホロンは、音を繰り返す。
「──て、テソン皇子さまに、ご、ございます」
すうっと、〈もつれ〉が消えてゆく。
朝の空にとけて、涼風に、運ばれていく。
風車が、カラカラ、と回る音がする気がした。
壇上で、顔を覆うメノウ姫の姿があった。すぐに、テソン皇子が姫のもとに膝を折りにいく。〈告げ〉を受けて、ふたりが手を取り合うのは、どんな芝居を見るよりも感動するような場面に見えた。
ソノラは、けれど、視線を横に動かした。
感動的な場面で、ひとり、ぽつんと取り残された姿。その蕎麦のような〈もつれ〉をとらえる。それがうじゃうじゃと増殖するように黒くなって、地へと流れるのを目にして、足を踏み出そうと──……
「──ソノラ」
名を呼ばれて、ソノラは、顔を上げた。
父のソルが、手を伸ばしている。
「〈幹〉が呼んでいる」
「え?」
「君とスオノを、呼んでいるよ」
そこで、ソノラは、スオノと、面紗をかけた自分に、百を越える視線が注がれているのがわかった。
大衆が割れて、その先には、〈幹〉が美しいかんばせを浮かべている。
父に、手を取られる。
ソノラは、導かれるままに、人形のように着せられた華美な裳裾をひいた。スオノと手をつなぎ、前に出る。
「──お前が、ほどき師か?」
目の前の、神々しい女人が、ソノラの面紗を取った。スオノとそっくりの顔が現れると、静かなざわめきが広がった。
凶兆。凶ツ者。
そんなつぶやきが聞こえて、けれど、ソノラの耳には残らなかった。
「双子とは奇っ怪よの。されど、このような時のために、神は用意したもうたのだね。お前の出番だよ」
〈幹〉は、なにが、とは言わなかった。
ソノラは、スオノの琥珀と目が合って、その奥に輝いているものを見つけると、自分がこの場でなにをすればよいのかわかった。
すっと、一歩、はじめて履いた花靴を踏み出す。
メノウ姫の前に、出る。
その手首に結ばれた、目に見えない金色の結び紐を見た。ソノラには、輝く打紐が見える。梅結びの美しい結び目が光を放って、結ばれている。
指先で、輝きにふれた。
(わたしは……)
途端に、ソノラの指からも金の光が流れ出て、しゅるりしゅるりと、音を立てるように、梅の結びがほどけていく。梅の花びらが散じる。かがよう紐は、波紋が凪ぐように消えていく。
ソノラは、糸を紡ぐことのできぬ過去を思い出した。
スオノと並んで、結び紐を結べぬ自分を思い出した。
──〈ほどき〉の力。
ほどき師としての、力。
そういうものが、自分に宿っているのだとわかった。
(でも……)
──わたしがやるのは、ほんとうに、これだろうか。
またたきのうちだった。
ソノラがほどいた横から、スオノが新たな花萌葱の打紐を取り出すと、メノウとテソンの手首に〈結び〉を施す。実りの鈴とともに、紗の衣をまとい、風を孕み、花裳を開いて舞うスオノは、同じ姉妹だとは思えぬほど、高貴で神々しい存在だった。
しゃんっ、しゃんっ、という鈴の音が響く。
神の社での舞だった。
白金色の光が、真の〈結び〉を祝福するように、梅と鶴、エ霞紋を描いて、周囲を明るくした。
「正しき〈告げ〉と〈結び〉に祝福を」
〈幹〉がメノウとテソンの手を取ると、歓声が、沸く。
ソノラは、自分の指先を、静かに見つめていた。
*
宮殿から帰ってきて、ウロンは、ぐったりと脇息にもたれかかった。慣れぬことをしたからだろう。張っていた気がゆるむとともに、体に気怠さが残っていた。
どこか、満足のいく疲労感であった。
(後悔は……ない)
死地に向かうことが決まったとしても、ホロンが立派に務めを果たすことができたのを見れば、兄やカロンに、夜見の国での報告ができるというものだ。
「──当主さま」
従者から声がかかって、まもなくして客人が招かれた。
ウロンは、もたれていた背筋を伸ばす。
無論、想定していたことだった。
昨日から今朝にかけてウロンが行ったことは、あちらの国には一切伝えていないことで、今日のことは寝耳に水であっただろう。
ウロンは用心して、入室してきた男──〈暮れ〉のナヒョンを見定めて、その明るい剽軽さに面食らった。
「今日は一本、取られましたわ!」
ナヒョンは、額を叩いた。
「まさか、あのような形で、〈幹〉に我らが舐めてきた辛酸を伝えるとは、思いつきますまい」
「…………」
「そのうえで、ウロン殿がすべて罪をかぶってくださるとは、なんとありがたきこと! 酒盛りでもしましょうや!」
ナヒョンは言って、酒瓶を差し出した。しばし、ナヒョンの浮薄な目の奥に、鋭い光が浮かんだ。ウロンは無言で、その光を受け止める。
ほんの数瞬後、ウロンは痛い膝に鞭を打つと、戸棚から盃をふたつ、取り出した。
こぷこぷ、と酒が、波々と注がれる。
ウロンは、ナヒョンから酒盃を受け取って、目顔で、乾杯を示した。
くいっ、と口のなかに招く。
(ああ……)
うまい酒だ。
老いた体の、隅々のしわに沁みる酒であった。米の味わいが深く、昔ながらの粕漬けを思い出す。
(兄者……カロンや……)
──儂は、告げ師の誇りを、守ることができただろうか。
ウロンは、まぶたを閉じ、酒を一気に飲み干す。ナヒョンは、そのさまを見届けると、いつの間にか退室していった。
ウロンは、隅に敷かれた蒲団に向かって、体の思うままに横たわった。
遠くなる視界に、幼いホロンを、思い出す。
(もう一度……)
──風車を、買ってやりたかったなあ。
そう思うと、ウロンは、しっとりと夜気にくるまれるように眠った。
翌朝、ウロンは起きてこなかった。従者が起こしに来た時には、つめたくなった顔に笑みを浮かべて、眠っていた。
五章:一族の誇り──了──




