参拾一、ミハヤの台詞
「──あの時、ユノアにもっと寄り添えれば……そう何度も思ったよ」
父ソルは、茶器の縁を親指でなぞりながら、静かに言った。
「そうしたら、君たちの代にまで、僕の……僕たちの悩みを継がせることはなかった」
ソノラは、父ソルの腹に〈もつれ〉を見た。竹筋のように真っ直ぐなのに、たしかにある。そういうもの。
「君は恨んだだろう。ほんとうに、すまないことをした」
父は、頭を下げた。若草色の頭は、たしかに自分の父であるとわかる色で、そのなかに長くあったであろう〈もつれ〉を思うと、なにも言えなかった。
ソノラは、ゆっくりと、まぶたを落とす。
自分のなかに、ゆらっと生じたものを感じる。
「……少し、外に出てもよいでしょうか」
ソノラは、立ち上がって、つぶやくように訊いた。
「ああ……もちろん」
父の返答に、小さく目礼すると、ソノラは主堂を出た。
ぼんやりと、雨上がりの朝空を見る。
空気がひんやりとして、軒先からは、ぽたん、ぽたん、と雫が落ちていた。落ちた先で、基壇の石が穿たれて、雨水が溜まっている。
「──すっきりしたかい?」
ソノラがぼうっとしていると、ミハヤの声がした。紅の透かし戸を越えて、ソノラの隣に立つ。
「してないって顔だね?」
ミハヤが、にやっと笑った。
ソノラは、視線を逸らす。
「自分が捨てられたわけじゃないってわかってよかった。出生のこともわかって、そういうことだったら、まあ仕方なかったかなって納得した」
「うん、それで?」
「ほどき師……のことも、ちょうど芝居小屋で、変な噺を聞いたばかりだったから、事実を知れてよかった」
「あんた、そんなのを観に行ってたの?」
「だって、奏聞のあいだ暇だったんだよ。きょろきょろしてたら、大勢の人に巻き込まれたっていうのもあるけど」
「おのぼりさんだからねえ」
けけけ、とミハヤは笑う。
ソノラは無視して、つづけた。
「スオノにも言いたいことが言えてよかった。久々に、あんなにだれかに対して怒りをぶつけたかも」
「いつの間にか、実のお姉さんと会ってるなんて知らなかったよ。オリで時折夜に抜け出したのはそれだったんだね」
「たまたまだよ。ほんとうに、たまたま会って、それから年に数回会ってたの」
「夜中に出歩くなんて、とんだ親不孝な娘を育てちまったって思ってたもんだよ」
ミハヤは変わらず、楽しそうに笑う。
ソノラは、笑えなかった。
「でも……」
なにも、滲まなかった。
「すっきりは、しない」
「そうだね」
ミハヤの相槌は、はやかった。
「全然、すっきりしない」
「そりゃそうだ」
「……それで、わたしの十七年間が変わるわけじゃないもの」
それが、ソノラの正直だった。
出生のこと。ほどき師のこと。親たちの思い。
あとから聞いたところで、自分の育ってきた時間と、そのあいだに感じたことがなかったことになるわけではない。捨てられて育ったというソノラのもつれは、簡単にほどけるものではない。
雨垂れに穿たれた窪みを見つめる。
「そんなもんだと思うよ、あたしは」
ミハヤは、ソノラと同じ窪みを見ながら、静かに笑っていた。
「簡単にすっきりできるもんじゃないと、あたしは思う」
ソノラが横を見上げると、ミハヤは歯を見せて、にっとした。
「あたしだって、すっきりしてないことのひとつやふたつ、いっぱいある」
「ミハヤに?」
「未だに、夫を許してないし、納得もしてないさ」
ミハヤが、酒の席で管を巻く、あの話だ。
ソノラは、やっと笑みがこぼれた。
「たしかに」
「いつか、ぶっ叩いてやろうと思ってるよ」
「出ていく時、やらなかったの?」
「あたしも、若かったからね。まだしおらしかったのさ」
ソノラは、吹き出した。声を上げる。
ソノラの笑いに、ミハヤは、失礼な、と顔をしかめてから言った。
「でも、だからこそ、あんたをもらうことができたからね」
ソノラは、笑いを止めて、ミハヤのおこげ色を見つめた。
「結果的に、そうなってよかったんだ。いい娘をもらうことができた。あたしは、そう思ってる」
ソノラは、ミハヤのおこげを見つめつづける。
「だけどさ、それってあとから思うことなんだよ」
「……うん」
「あとから、思い返してみて、よかったって思う」
「うん……」
「だから、今はすっきりしなくて、なんなら怒りが沸いたっていいんだよ。無理にいい子ぶらなくて、聞き分けのいい子にならなくていい」
ソノラは首だけで肯く。
「もつれは、持ったままでもいいんだよ」
「持ったままでも……?」
「あんたは、見えるし、声をかけてほどくのも上手だから、どうにかしなきゃって思うかもしれないけどさ、小さな……あんまり大きすぎない、ややこしすぎないもつれだったらさ、あたしは持ったままでもいいと思う」
「でも、それだったら、見逃したことにならない?」
──決して、〈もつれ〉は見逃さない。
それが、糸繰りの匠ミハヤの信念のはずだ。
「いいや、すくいとるんだよ」
ミハヤは、またしても糸を引くように、唇をにーっとした。かっこいい笑みだった。
「すくいとる?」
「そ。ほどくだけが、正解じゃない。ちゃんと見て、すくいとるんだ。そうするだけで、あとから勝手にほどけることもあるしね」
ソノラは、ミハヤの台詞を、ゆっくりと呑み込んでいく。
「……うん」
──このままでも、いい。
そう思うと、自分の気持ちが、少しだけ楽になった気がした。




