弐拾六、ミハヤとタカラ
屋根瓦に、雨粒が落ちる音がする。
スオノは臥榻に横たわりながら、帳の隙間、漏窓から見える庇に下がる吊り灯籠と、夜霞の庭園を見ていた。
メノウを抱きしめた時に感じた後悔が、自分のなかに煙霧を滞留させているような気がする。
結んでしまった縁を思うと、指先が、一寸も動かなかった。
「スオノお嬢さま」
雨音に聞こえたのは、扉より外の侍女の声であった。
「お客さまがいらっしゃっています」
「……だれかしら?」
体が、億劫だった。
今は、だれとも会いたくない。
「それが……〈明け〉のテソン皇子さまでございます」
「え?」
スオノは、身をあっという間に起こした。
「お忍びでの訪問とのことです。折り入って、お話があると」
自分が断罪されるのではないかと、身の内に冷や水を浴びせられたような心地になった。
今すぐ逃げ出したい気持ちが、臥榻に下ろす足をためらわせる。
──寝ていることにしておいて。
侍女にそう言おうと口を開いたところで、雨の音を感じた。逡巡は、やがて、足を花靴へと通す。
「……主堂へご案内して。お父さまはまだお帰りではないから」
スオノが命ずると、侍女はすぐに踵を返して去っていった。
木霊する足音に、石に打つ雨声を感じる。
スオノは聞こえるものを呑み込むと、顔をあげて私堂を出た。つづく廊を進む。夜の静けさに、主堂の明かりが煌々としていた。
室内に、座するテソン皇子を認めると、スオノは、体に染みついた礼を取る。
「央の払暁、〈明け〉の皇子テソン殿下に、結び師スオノが、夜鳥のご挨拶を申し上げます」
「堅苦しい挨拶をさせてすまない。夜も遅くなって、先ぶれもないなかの訪れ、むしろ、謝罪申し上げる。どうしても会わせたい人物がいて参った」
「残念ながら、父は商工処の接待が終わっておらず、帰宅しておりません。もし、〈明けの国〉近隣の、外ツ国との商談の話でございましたら、明日に──」
「いや、今夜は、スオノ殿。そなたに会わせたい者なのだ」
「私に?」
珍しく遮るテソンに、スオノは、柳ノ眉を訝しんだ。
それから、テソンの横に座していた人物に、やっと気がいった。
室内に、葉傘を被って虫垂れ衣で顔を覆う人物。女だ。庶民のまとう衣で、テソンとの隣り合わせに、スオノはますます怪訝が浮かんだ。
「どなたでございましょう……?」
「──わたしよ、スオノ」
またたきのできごとだった。
その人物は、立ち上がると、葉傘を脱ぎ捨てて、厳しい視線でスオノを見下ろす。
スオノは、唖然と言葉を失った。見上げて、ただ、名だけを呼ぶ。
「ソノラ……」
「話があってきたの」
自分とそっくりな妹の姿を借りて、スオノは、自分が見なかったことにしてきたものと向き合うことになった。
*
タカラは、主堂の側廊に当たる場所で、夜陰に背中を預けて、中の様子に注意を払っていた。なにかあってもすぐ動けるように気を張り巡らす。
「──ここが、あの娘の実家かあ」
のんびりとした、物見遊山の野次馬のような声が隣から聞こえて、タカラは一瞬、気が散った。
ミハヤが感慨深げに腕を組んでいるので、タカラは散じた気をまとめながら、ミハヤの言葉に一部を分割する。
「心配か?」
「ん? なにをだい?」
「拾った娘が、実親のところへ戻ってしまうのではないかと心配か?」
タカラが問うと、ミハヤは、鉄鍋ではじけた栗を喰らったような顔をした。
「ソノラから聞いたのかい?」
なんでそんなことを知っている、という顔だった。
「捨てられた、と。それしか聞いておらぬ」
「あの娘が、それをあんたに喋ったのかい?」
「たまたま、スオノという娘をべつで見たのだ。気になって尋ねたところ、話を聞いた」
「そう……」
ミハヤが雨霧に黙る。
タカラも余計なことは言わなかった。
「ソノラはずっと、奥底で、悩んでいたのかもしれないね」
「実親から、捨てられたという身の上であれば、当然だろう」
タカラにも覚えがある。
「あたしは、全然気にしてなかったんだけどねえ」
「捨てられ、拾われると、どうしても考えてしまうことがあるのだ」
タカラは柄にもなく、そんな心情を口にした。
「どんなことを?」
「──また、捨てられるのではないか」
かつて、タカラもそういう苦しさを、いだいていたことがあった。
「実親から捨てられたのだから、引き取られた先でもまた、捨てられるのではないか。そういうものだ」
「…………」
「だから、もらわれた先で従順になるか、粗暴な振る舞いをして、試してしまいたくなる」
「あんたは、どんなことをしたんだい?」
ミハヤが楽しそうに訊いてきた。
タカラの境遇を察したのであろう。タカラは、夜陰に浮かぶ深緋を光らせた。
「山を荒らすごろつきに喧嘩を売りに行った。おれは義憤に駆られているつもりだったが、あれは親父を試した行動だった」
「親父さんはなんて?」
「ぶん殴られた」
タカラは笑った。思い出すと、死ぬほど頭頂が痛かった。
「いい加減にしろ、小童めが、と。顔中が腫れ上がるまで殴られた」
「それで、あんたはどうだったの?」
「すっきりは、した」
「へえ!」
ミハヤは、げらげら笑った。
「そんで、ちょっと落ち着いたの?」
「落ち着いたのはもう少し先だ。だが、どうしようもない不安は、少しだけなりを潜めた」
「男同士って気持ちよくていいねえ」
ミハヤは、羨ましい、とタカラに言った。
「ソノラも、そうやって暴れてくれたんならいいけどさ。自分の気持ちを出しづらい娘だから。大人しくなっちゃうほうだったんだろうね。いい娘なんだよ、ソノラは。働き者で」
「そのようだな」
「それでも、奉公に出るまでは気持ちを出すことがあったかな。あの娘は働き者だけど、不器用なところがあってね。あたしの……糸紡ぎの技をどうしても真似できなかったんだ。何度やっても上手くいかなくて、それが一年以上つづいた時、あの娘は暴れて、泣き叫んだよ。くやしさで叫んでた」
「なんて、叫んだ?」
なんとなく、タカラはわかった。
「わたしは、母さんを継げないって」
「…………」
「もう、継いでくれているのにねえ」
「……あなたを慕っていたのだろう」
「ああ。継げるのは技だけじゃない。目にできるものではないのだけどね」
「それでも、不安で形を求めるものだ」
「あんたの話を聞いて、そう思ったよ。やっと、あたしも理解できた」
ミハヤは、満足げに笑った。
その笑みが、死する養父の笑みにそっくりで、タカラは懐かしくなった。
ありがとうねえ、とミハヤは言う。ミハヤは、なにかを自分のなかに落とし込んでいて、タカラは特になにも返さなかった。
「話が、うまくいくといいんだけどね」
ちらっと、ミハヤは透かし窓から見える様子を気にする。横顔は、娘を心配する母そのものの顔をしていた。
「……あの娘なら、問題ないだろう」
「そうかね?」
「おそらく」
「確証は?」
「ない」
タカラの勘だ。テソンにまた渋い顔をされる。
「あんたが言うなら、当たりそうだね」
ミハヤはタカラの返事を聞くと、少しだけほっとした様子でそう笑った。




