弐拾三、蕎麦の〈もつれ〉
ソノラは、質のよい長衣をまとった若男が、赤ら顔で呂律の回らない様子に、いささか呆れた様子で見返した。身分の高そうな身なりであったが、宮中のしきたりなどを知らないソノラは、目の前の男がどんな身分の人間なのかわからなかった。
「おい、聞いているのか、私の言うことが聞けぬのか!」
「あの……大丈夫ですか」
水でも飲んだほうがよいのではないだろうか。
「私をだれだと思っている!」
(名乗ってもらえないと、わからないから)
ソノラは内心ではそんなことを思っていたが、おくびにも出さなかった。
酒精の含まれた唾を飛ばしている若男の腹に、固まった蕎麦のような〈もつれ〉を見つけたからだった。
「ちょっと座りますか……?」
足元がふらついているようだったので、ソノラは岩場に懸けられた廊の、適当なところを指さす。若男は、千鳥足で、ひょっとしたら欄干から地上へ落下するのではないかという足取りであったが、なんとか岸壁沿いのほうに腰を下ろした。
ひっく、としゃっくりが聞こえる。
「私はだなあ!」
ソノラも少し距離を空けて、近くに腰かける。
若男は、酒臭い語りをはじめた。
「〈暮れ〉の国が皇子ヨルカなるぞ!」
ソノラは、一瞬びっくりしたが、「そうなんですか」と呑気に相槌を打った。ヨルカと名乗った若男は、また唾を飛ばす。
「無礼者めが! 殿下と呼べ!」
「……すみません。庶民なので、よくわからず」
ソノラがそんな返事をすると、皇子は近くに唾を吐く。
「え……汚い」
ソノラのつぶやきに、皇子は目くじらを立てた。
「黙れ!」
「すみません、思わず!」
「私をばかにしているのか!」
「ばかにしてなど……」
「お前もどうせ、私をばかにしているのだ!」
酔っている人間になにを言っても無駄であった。
ミハヤも酔っ払うと、絡みが面倒臭い。一度、匠ノ会のあとの酒盛りに同席したことがあったが、ミハヤは他の匠たちに絡みに行っては、昔の夫がひどかったと怒ったり泣いたりして、大変であった。
ソノラは、こういう酔っ払いの相手は、よく心得ている。
溜息をついた。湯上げしてひっついた蕎麦のような〈もつれ〉を見定めながら、ソノラは皇子に尋ねる。
「なんで、そんなふうに思うんですか?」
「ばかにしてるからだ!」
「殿下は、そう思うんですね」
「そうだ!」
「殿下のことを知らないもので、もう少し教えてほしいんですが……」
ソノラは、くっついた蕎麦に、ゆっくりと出汁の利いた汁をそそぐように尋ねる。
同じ目線に合わせると、ヨルカの酔った焦点の合わない目は、ぼうっとソノラを見た。ぽつりと、つぶやかれる。
「……どうせ、オレは短気な男なのだ」
「ご自分でわかってるんですか?」
「最悪なことにな」
「やめればいいのに」
「そうできたら苦労しない!」
「たしかに」
ソノラは思わず、力強く肯いてしまう。
「たしかに、それは大変ですね」
ソノラが同調すると、皇子の〈もつれ〉は、時を止めるようにした。
「……そうだ。オレは大変だ」
「そうですね」
「オレだって、ほんとうは怒り散らかしたくない」
「損ですもんね」
「……そうだ」
なぜだか、皇子と名乗った若男は、話しているうちに悄然としていった。懐から、いつの間にか瓶子を出し、くいっと呷る。ソノラは、これ以上飲んでも大丈夫なのか心配になった。
「……オレだって、こんな自分が嫌いだ。だから、姫も……オレには心から笑いかけてくれない」
言いながら涙を流しはじめるヨルカに、いよいよソノラは、ミハヤを思い出した。
「あたしは夫を愛してたのにいー。子どもができないからって捨てられたんだよおー」
ミハヤはよくそう言って号泣していたが、ソノラは、そんなミハヤをよく慰めた。
つらかったね、母さん。うん。わたしは母さんに拾ってもらってよかったよ。うん。会えてうれしかったよ、母さん。うん。だから、母さんはなんも悪くないよ。うん。
そうやって、よくミハヤを慰めた。
「お酒でも飲んでないとやってらんないですね」
「…………」
「怒鳴り散らす自分がいやなのに、ついうっかりいらいらしちゃう。それでまた、自分がいやになる。いやの繰り返し。お酒を飲んで忘れたくなる」
「……そうだ」
「わたしは、そういうお話を聞けてよかったなーと思います」
「……なぜだ?」
とろんとした目が、ソノラを見た。
「殿下のお人柄を知れたからです。でなきゃ一発、殴ってやらないと気がすまないところでした」
「殴る?」
皇子の目が、爛々と不穏な光をたたえはじめた。
ソノラは慌てて手を振る。
「すみません、たとえです。わたしは、ちょっと、殿下に思うところがあったんです」
「なにを?」
「……昨日、奏聞に来た里長と匠が捕まったんです」
話の流れだった。
「オリの里の長と、ミハヤという名の匠です」
「…………」
「ミハヤは、わたしの母で、里長は、わたしの大事な雇い主です。ただ里の現状を訴えに来たのに、どこぞの皇子さまのお怒りにふれて、捕まってしまったんです」
「あれは……」
「ミハヤはきっと直球に言ったんだと思います。だから、きっと怒りにふれた。母さんはそういう人で、だからこそ好かれているところもありますが、苦手な人は苦手です。あまりにも直接的な言い方は、人を傷つけることもありますから」
ソノラは、酔ったヨルカの目を見た。
「ですが、ミハヤはわたしの大事な母です。ご寛恕いただけるのであれば、うれしいです」
「…………」
「殿下のお人柄を知れたからこそ、お話ししています」
ソノラがしっかりとヨルカを見つめると、ヨルカの腹のなかでは〈もつれ〉がうねうねとなった。じたばたと意志を持ったように暴れて、それから、少しずつゆるんでいく。
「……熟慮する」
言うと、ヨルカは、ふらっと立ち上がった。
酒瓶を持ったまま、足取りのあやしいまま、けれど岩壁に手をつきながら、ソノラのもとを去っていった。
ソノラは、それから、下働きの集まる場所に戻った。来るのが遅かったソノラは注意を受けたが、それまでの働きで厳しく問い質されることはなかった。
日雇いの給金をもらい、央ノ宮の門まで下りる。
皇子と会うことはできたが、結局、ミハヤたちが捕縛されている場所などはつかむことができなかった。
紅塗りの門の前で、佇む。
「──ソノラ?」
大好きな声が聞こえてきて、ソノラはびっくりして顔を上げた。
西陽に、ミハヤの顔が影って映る。捕まったままのはずのミハヤが、立っていた。里長と、それから、後ろにはヒジャルと、タカラ、知らない偉丈夫がいたが、ソノラは憚らずに駆け寄った。
「ミハヤ!」
なんで、という思いとともに大きな胸に飛び込むと、たった一日離れただけなのに、懐かしいおこげの匂いがした。
ヨルカ皇子が釈放を促してくれたのだろうか。
「おいおい、どうしちまったんだ」
ぎゅっと抱きしめると、ミハヤは呆れながらも、ソノラの背に腕を回す。
「──そなたが、ソノラという娘か」
偉丈夫が尋ねた。ソノラは見上げる。背が低いほうではなかったが、男はずっと上背がある。
「この方が口利きをしてくれてね」
ミハヤが言う。
「偉い方らしくて、牢から解放してもらったっていうわけさ」
その答えを聞いた時、ソノラは少し、残念に思った。
(ヨルカ皇子も、きっと動いてくれただろうに……)
去り際の〈もつれ〉のほどけ方から、そう感じていただけに、すれちがってしまったのが、残念だった。
ミハヤから離れながら、偉丈夫を見上げる。
「どなたでいらっしゃいますか……?」
「部下たちが世話になった。私は、テソンと申す」
清々しく気持ちのよい名乗り方だった。
「〈明けの国〉が皇子テソンだ。……スオノ殿に、たしかにそっくりだな。雰囲気はまるでちがうが」
ソノラは、琥珀色の目を見開く。
「少し、そなたと話がしたい。ついてきてくれるか?」
腰の低いテソンの問いかけに、ソノラはミハヤと目を見合わせてから、思わず肯いていた。




