一、山間の襲撃
「──雨がひどいな」
皇子テソンのつぶやきに、タカラは肯いた。かぶっている笠には、梢をかいくぐって雫が強く降り落ちる。漆を塗った笠は丈夫であったが、雨粒の勢いは山道に障る。隊が濁流に呑まれては、警護の意味を失ってしまう。
タカラは、テソンに断ると、隊から外れ、道行く先を探りに向かった。
(急げば、日没には間に合うか)
目指す里は、まもなくのはずであった。
タカラは、引回しの裾を翻しながら、岩ヤギのごとく軽足に岩場を登っていく。タカラの身のこなしは常人ではない。雨ごときで滑落する男は、ユン家の一族ではなかった。
高岩に登れば、目指す里が見えるかもしれない。
だが、登り終えるより前に、馬の嘶きとともに、後方で鞘走る金属の音が響いた。
はっとして、タカラは寸暇のうちに身を翻した。岩肌を蹴り、宙を跳躍し、登ってきた高さをものともせずに飛び降りるように駆け下りる。
懐に手を入れた。短剣を引き抜く。
襲いかかるのは、何者か。
──複数。
タカラは、襲撃者たちの覆面を剥がすよりも先に、あいだを縫っていった。頭首を、見つける。
「お前か!」
飛び上がりながら蹴り上げる。止められた。短剣と、太刀。刃が滑り合って、拮抗する。そのあいだにも、タカラは昂った体とはべつに、相手を見定めた。
(賊ではない)
ねらいは、テソンか。
相手の太刀を蹴り飛ばすと、タカラはわずかの間に切創を刻む。怯んだうちに、こめかみに拳を定めた。
昏倒させ、目的をあきらかにする。
されど、相手も素人ではなかった。タカラのねらいに気づくと、なんとか身を捩って、急所が外された。竹笛を吹いて、合図を鳴らす。さあっと襲撃者たちは潮が引いていくように、遁走していく。
「待て!」
タカラが追おうとすると、呼び声があった。
「──タカラ! 殿下が……っ!」
靴底が泥濘に入った。踵が、ずぶりと沈み込む。
逃げ去る姿に口惜しいものを感じながらも、タカラは背を向けた。すれちがいざまに、部下へと追跡を命じる。元いた場所まで戻ると、腕を負傷し、岩場に背を預ける乳兄弟の姿を見つけた。黒目はしっかりしているが、顔色が悪い。
「毒か」
「おそらくは。殿下自ら、処置を。面目ございません」
タカラと同じ近衛のひとりが答えた。テソンの腕は傷より下が縛られている。
「テソン、動けるか」
「……少しは」
「おれの背に乗れ」
「すまぬ……」
「水臭いことを言うな」
テソンを背負いながら、タカラは、にやっと笑みを向ける。
「おれと、お前の仲だろう?」
青白い顔に、テソンは微笑を返した。額から汗が伝い、曙色の髪が張りついている。急がねばならない。
「走るぞ」
テソンが応じるのに合わせ、タカラは膂力を踏ん張る。
──ユン家のタカラは、逆境には負けぬ。
深緋の目に雨間の残照を乗せると、タカラは結った黒髪を返し、がれ場を駆け上がっていった。
*
ミハヤのいびきが、うるさくてたまらない。
ソノラは朝陽が昇る頃になると、養い親のいびきで目が覚める。
今日もいつものように目覚めると、だらしない格好で寝ている中年女を見下ろした。呆れた気持ちと同時に、ほっこりとした気分になる。小さく笑みを浮かべてから、ソノラは襦袢を脱ぎ捨てて、いつもの朝をはじめることにした。
やることは、いっぱいある。
まずは、突き上げ窓に棒を入れる。そうすると、陽光が家を照らすから、ミハヤを起こす手間も、少し省ける。
それから、土間に飛び散った灰を掻き出す。毎日やらないと、すぐに煤ネズミたちの遊び場になってしまうのだ。
昨夜のうちに浸けておいた米に火を入れ、炊き終える前に裏に行って、水を汲みに行く。何度か行き来して、水瓶をたっぷりにする。御厠を処理してから、魚腥草や蓬で作った薬液で手を洗った。
そうしているうちに、しゅうしゅうっ、という釜のにおいが漂ってくる。
一度目。ソノラは、掛け布を引っぺがす。
ううん、とミハヤが唸っているうちに、囲炉裏に鍋を運んで、汲んできた水を入れた。切った根菜を適当に入れ、火を熾す。
二度目。今度は、藁枕を取ってやった。ミハヤの頭が、ごろんと落ちる。
割れた瓢箪で、水瓶から桶に水を移す。襤褸の切れ端を浸け入れて、ぐっと絞って水を切る。手首を内側に回すように引き絞ってやるのだ。人間の体は、内側に力が入りやすくなっているから、そうすると水をよく絞れるのだと、染め職人のひとりが教えてくれた。
絞った布で、床板をきれいに拭いていく。ぶつかるのは、ミハヤの転がる敷蒲団。最後は、十七になった力技で引き抜くと、ミハヤの大柄な体は、俵のようにごろごろ転がった。
「……やあ、ソノラ」
ミハヤは、むっくりと起き上がって、ぼんやりとしたおこげ色の目でソノラを見た。
「おはよう、母さん。やっと起きた?」
「いいにおいだ」
「昨日は、何時に帰ってきたの?」
黒い髪を寝癖だらけにした養い親にほほ笑みながら、ソノラは結んであった襷をほどいた。
あとは洗濯が残っていたけれど、食べ終えてから洗濯場に持っていけばいい。
「十一ノ時……は過ぎていたかもしれないな。昨夜は、屋敷でいろいろあってね。ちょっとまあ、大変だったのさ」
昨夜は、〈匠ノ会〉があった。里の匠たちが集まり、大事な決議を行うのが、〈匠ノ会〉であった。
ここ数年、里では、棉花の収穫が落ち込んでいる。ソノラたちの住まうオリの里は、宮へ献上できる質のよい綛を結い、反物を織り上げることで、名のある里であった。それゆえ、棉花の栽培は、厳密に管理されていた。だが、この数年、棉の収穫が芳しくなかった。
棉だけではない。稲などの穀類、芋や根菜、葉野菜など、作物の収穫量も随分と減っていた。
──〈根〉が、腐りはじめているのかもしれない。
皆が、漠然と、そのおそろしい事実に気がついていた。




