拾一、過ちの花萌葱
禊を終え、雫のしたたる髪を拭ってもらいながら、襦袢を着て、上衣に袖を通す。
つめたい水に浸かったホロンの体は、震えが止まらなかった。水のせいだけではない。これから起こることや、自分がせねばならぬことに、叱られてきた記憶が結びついて、震えが生じるのだ。
「ホロンさま、こちらに」
王宮の侍従が、濡れたホロンを案内する。樹脂を塗った床板は艶があって木目が美しかったが、足裏からホロンの体をさらに冷やすようだった。
一本、二本、柱を越える。
三本、四本、光沢に、侍従の吊り提灯が、ぼうっと映る。
辿り着いた場所は、ホロンの冷えた体を芯からあたためるような、春を灯す内苑であった。三方がつめたい壁に囲われるなかで、開けた空からは、月光が降り注ぐ。そこには、日中の常春が満ちている。
大木が、あった。
透き通った黄金とも言えぬ幹から枝が広がり、光をまとって、黄に輝く梅花を咲かせている。花心が金粉を散らし、濃い梅の香りを放っていた。
はじめて見る玉梅に、ホロンは陶然とする。
神授の梅は、あたたかさとやさしさに満ちていた。
「──では、ホロンさま、夜明けにまた参りますので」
侍従の言葉に、はっと現実を取り戻して、ホロンは頭を下げる。
人払いのされた内苑につづく主殿は、どこまでも静けさが広がっていた。
春告げ鳥に招かれたように、かがよう玉梅に近づく。見上げると、散って、軸だけになっている花があることに気づいた。よくみると、まばらにそういった枝がある。
満開ではない。
今上の〈幹〉が衰えているから、そうなのだと知る。
ホロンは、そっと幹にふれた。
そうすると、幹から指先に導管が伝ったように意志が流れ込んでくるのがわかった。〈告げの宮〉で〈告げ〉を聞く時よりも、強い意志と鮮明さ。梅の気と神の意志が、漏れ聞こえてくる。
──〈告げ〉の子。
やわらかく、ほがらかな声であった。
〈告げ〉の子、〈告げ〉の子
かなしきかな、かなしきかな
〈支え〉の娘、
〈明け〉の皇子求めるぞ
〈告げ〉ておやり
〈結び〉をおやり
〈支え〉は、健やかに根ざすものぞ
木霊のように聞こえた声が、しんとなると、ホロンは気が抜けたように立っていた。またたきのあいだなのに、いつの間にか、空には朝靄が立ち込め、曙光が差そうとしている。
迎えに来た侍従に先導されて、どこか夢見心地のまま玉梅の庭を去った。雲海の上を歩いている気分で歩を進める。ホロンの頭は、梅の香気が残っていて、酩酊しているようであった。
だが、それも、御殿の外に集まる大勢の人間が視界に入ると、明瞭になった。
すうっと鮮やかに視界が遠近を描く。数段下がったところで膝つく人々が目についた。央の貴族、〈明け〉や〈暮れ〉の者たち、筆頭するテソン皇子とヨルカ皇子。
ホロンは、その数に圧倒されることになった。
がくがくと、膝が笑いはじめる。
つめたくなった体を思い出した。
「──それでは、〈告げ〉の儀をはじめんとする」
だれが、進行をはじめたのだろう。
ホロンはもう、わからなかった。淡々と説明される場で、震える体が言うことを利かなかった。階下から、ウロン爺の睨みが凄みとなって、押し寄せる。ヨルカ皇子や〈暮れ〉の国の期待の眼差しが、ホロンを刺す。
「これより、〈告げ師〉より〈告げ〉を賜らん」
ホロンの唇は、青くなっていた。
高さを同じくする場に、不安そうなメノウ姫の目と、訝しむスオノの目が入る。
「じ……じ、じ、次代を、さ、さ、さ、支えるのは……」
ホロンの喉は、渇いていた。
蒼穹をも、乾かすように、広場に響く。
「て……」
テソン皇子だ。メノウ姫に添うのは、テソンだ。
そう言ってしまえばいい。
ホロンは、嘘つきになりたくない。
そんな人間に、なりたくなかった。
立派だった、死んだ父が、言ったのだ。
「〈告げ師〉は、その内容がどんなに残酷であっても、嘘は言ってはいけない」
それが〈告げ師〉の誇りなのだ、と。
「て、て、て……」
ホロンは、もつれる舌をどもる喉から絞り粕を捻り出すように言おうとした。
だが、瞬間、ウロン爺の視線が槍術となって、ホロンを穿った。
──わかっているな?
恐怖が、さらに、舌と唇を不自由にする。
「て、と、と、と、て……」
ホロンには、苦手な音があった。なぜだか、〝た〟や〝て〟からはじまる言葉がうまく言えないのだ。〝と〟など、近しい音や、その音自体を、何度も何度も繰り返してしまう。
どもってばかりいるホロンに、いよいよ皆が怪訝さをあらわに視線を束にして寄越してくる。恐怖が、後押しされる。
父の教えが、邪険にされる。
「て……、よ──」
ふっと、舌が、ちがう音を発すると、口のなかが楽になった。息が通っていく。
同時に、爺の言葉が思い出される。
「お前は、ヨルカ皇子の名を〈告げ〉ればよい」
嘘をついてはいけない、という父の声が押しやられる。
「お前の聞いた〈告げ〉をどうするのか、責任を負うのは〈結び師〉だ」
ホロンは、舌が楽なままに告げた。
「──よ、ヨルカ皇子さまにございます」
吐き出した途端に、後悔が押し寄せてきた。
「じ、次代の〈幹〉メノウ姫さまを、お、お支えするのは、く、〈暮れの国〉の皇子、よ、ヨルカさまにございます」
嘘が、紡がれる。
ホロンの心とはべつに、唇が楽をする。
「つ、〈告げ〉は、い、い、以上にございます」
どっ、どっ、どっ、と鼓動が耳を突き破るように音を立てていて、ホロンは自らが取り返しのつかぬことをしてしまったことに、内心で叫び声を上げていた。
スオノは、ホロンの〈告げ〉を聞いた瞬間、それが嘘であることを見破っていた。
(どうしたの、ホロン)
ホロンは、御殿広場に姿を現した時から顔色がひどく悪く、なにか事情があるのだろうと思った。
──そんなこと、あるわけがないのに。
メノウの相手は、テソン皇子のほうだろうと話したばかりだった。
スオノの頭は、混乱した。
自分に次の役目が回ってくることを忘れる。
「──まあ。わたくしを笑わせてくれるヨルカ皇子さまが、一緒に、央を支えてくれますのね」
メノウ姫のほうが、理解に至るのがはやかった。金色の目を丸くしたのち、すっと姫の顔になって、階をくだり、ヨルカ皇子の手を取る。
皇子が、感銘を受けて、メノウを見上げた。白皙の姫の手を取る。
「このような僥倖があろうとは……!」
ヨルカは、感激したまま姫の手を力で引き寄せた。姫の体がわずかに傾ぐ。メノウが慌てて、足を踏ん張って体勢を保った。ふたりで手を取って、階段をのぼる。スオノの前へと訪れる。
そこで、スオノは、今度は自分が〈結び師〉の役割と求められているのだとわかった。
ふたりの背景に、俯くホロンを見る。
(ホロン……!)
ほんとうなの?
ほんとうに、ヨルカ皇子が、次代のメノウ姫を支える相手だというのだろうか。
スオノは、ホロンを凝視した。どんなに見つめても、ホロンの頭は、上がらなかった。震えるようにしていて、ホロンはスオノを見ない。
スオノは、視線をすべらせた。
〈告げ〉を受けなかった、〈明けの国〉のテソン皇子の姿が目に入る。その姿には、なんの迷いもくやしさも浮かんでいなかった。現実を受け入れようと顔を上げる姿は毅然としていて、ただ目のなかには、メノウを慕う、惜しむ色があった。
その横に、あの武官──タカラという男の姿があった。深緋の視線が、スオノを厳しく問うている。
──ほんとうか。
ほんとうに、ヨルカ皇子が、メノウ姫の相手なのか、と。
(知らないわ……!)
スオノは、知らない、と目を逸らした。
(私は、知らないもの)
〈結び師〉のスオノは、ホロンが受けた〈告げ〉を知らない。スオノはただ、結ぶ役割しかない。たとえ、もし異なっていたとしても、ここでどうすればよいというのだろうか。
スオノは、自分に言い訳をする。
用意していた打紐が、スオノの動揺を読み取ったように波打つように揺れる。花萌葱の紐は、仮紐だ。この場で、メノウと、伴侶となるものの婚約を結ぶ紐だ。縁を結ぶ役割。
スオノは、その〈結び〉を行う役割がある。
風間に、母の教えが匂い立つ。
「縁は一度切り。〈結び師〉として、誓って縁は逃さないと、心に留め置きなさい」
ふたりの前に出る指が震えた。
(まちがえて……いたら?)
もし、スオノが過って、一度切りの縁をべつに結んでしまったら?
考えると恐ろしくて、口からなにかが、転がり落ちてしまいそうだった。
(だれか……)
──ソノラ。
自分が、都合のいいことを願っていることを、スオノはわかった。
仮となる打紐を、スオノは差し出されたメノウの手首、ヨルカ皇子の手首に結ぶ。蜂が踊るようにふたりの手首に巻き付けていきながら、紐を結い上げる。指先から、玉梅の光が漏れるのがわかった。
〈結び〉の光。
(ホロン……)
幼馴染は顔を下げたまま。
(ソノラ……)
妹は、ここにはいない。
(私は、この〈結び〉をしていいの……?)
──だれか、答えを教えて。
スオノは持参した実りの鈴で寿ぎながら、迷いを舞に描く。鈴が、白金色を帯びる。しゃんっしゃんっと、音がする。
なにか自分はいけないことをしている。
わかっているはずのことを、見ないようにしている。
(だれか……!)
しゃんっ、と鈴の音が、終わった。
光の帯が、消えていく。
「──これにて、〈結び〉と相成ります」
スオノが辞儀をすれば、そうして、メノウ姫と〈暮れの国〉の皇子ヨルカの〈結び〉は終えられたのであった。
二章:結び師と告げ師──了──




