第九話 ★温室の雪結晶と、外すつもりのない理性の鎖【公爵視点】
【ジークハルト視点】
フィーネをアシェンバルト公爵邸へ迎え入れてから、五日目の夜が更けていく。
今朝、鉄柵越しに吠えていた二人を馬車ごと徒歩に変えて追い返したというのに、胸の底の苛立ちはまだ燻っている。それを鎮めるには、彼女の顔を見るのが一番早い。夕食後も離れの温室工房の灯りが消えないと聞き、俺は彼女の肩に掛けるための柔らかな外套を腕に携えて、夜の回廊へと足を向けた。
温室工房の前まで歩み寄ると、ガラス扉の向こうに魔導ランタンの琥珀色の光が浮かんでいた。
冬薔薇やハーブに囲まれ、作業台の前で淡い銀灰色の髪を揺らすフィーネの姿が見える。彼女は掌に収まる小ぶりな『白銀の保温魔石』へ細彫りの鏨を当てたあと、鹿革の布で丁寧に磨き上げていた。三日前の夜、俺が軟膏を塗って包帯を巻いた右の薬指が痛む様子もなく動いているのを見て、胸をなで下ろす。
静かにガラス扉をノックして中へ入ると、冬薔薇と白銀香油の優しい香りが鼻腔をくすぐった。
「あっ、ジークハルト……いえ、閣下! こんな遅くに温室工房までどうなさいましたの?」
作業台の前で振り返った彼女が、慌てて言い直すように瞬きをする。
(……っ、今、彼女は俺を『ジークハルト』と呼びかけたのか?)
少し照れたように頬を染めながら俺の名を口にした声に、胸の奥が甘く疼いた。だが、本当の衝撃はその直後に訪れた。
フィーネは包帯の巻かれた右の薬指を庇いつつ、磨きたての白銀の保温魔石を両手で大事そうに差し出し、翠の瞳をまっすぐに俺へ向けて微笑んだ。
「あの……今朝も表門であんなに冷たい風にお当たりになっていたでしょう? ですからこれ、よろしければお納めください。これから夜風が冷たくなりますから、外出なさるときに外套へ忍ばせておいてくださいませ。わたくしが調律した保温魔石ですから、朝まで決して熱は切れませんわ」
誇らしげな響きとともに、俺の掌へ温かい白銀の魔石が乗せられる。そして、その底に彫り込まれたばかりの『六花の雪結晶』の刻印が目に入った瞬間――俺の呼吸は完全に止まった。
(……ああ、やはり。すべて現実だったのだ)
一字一句違わぬその言葉と、六つの花弁を持つ雪結晶の印。
吹雪の納屋のランプの下、震える俺の掌にこれを握らせた十六歳の指先。その手首の内側には、まだ赤みの残る小さな火傷があった。魔力が尽きて久しい一粒目の雪結晶は、三年間ずっと、俺の左胸の内ポケット――心臓の真上で眠り続けている。
「あの夜の男は俺だ」と告げれば、誠実な彼女は恩義という鎖で自分を縛るだろう。彼女が恩ではなく心で俺を選んでくれるまで、あの夜は胸の内にしまっておく。
――そう理性の鎖を繋ぎ止めたはずなのに。
「え……あ、あの、閣下……? も、もしかして、底にわたくしの工房の雪結晶の印を彫ったのは、その、規則違反でしたでしょうか……っ、きゃっ!?」
不安げに翠の瞳を揺らされた瞬間、俺の中で張り詰めていた自制の糸がぷつりと切れかけた。
後ずさった彼女の華奢な背が作業台の縁に当たる。俺は外套を作業台の端へ置くなり、一歩踏み込んで正面から彼女の逃げ場を塞いだ。
「……規則違反などであるはずがないだろう、フィーネ」
俺は渡されたばかりの雪結晶の魔石を掌に収めたまま、包帯の巻かれた右薬指を庇うようにして彼女の両手を優しく包み込んだ。そのまま彼女の両手を俺の左胸――内ポケットに眠る三年前の魔石の真上へと引き寄せ、深く身を屈めて、彼女の額に自分の額をぴたりと重ね合わせる。
「か、閣下、あの、近……っ、お顔が、近いですわ……っ」
至近距離で長い睫毛が震え、白い頬が林檎のように真っ赤に染まっていく。
「君が自分の印を刻んで、俺のために調律してくれた魔石だ。……俺がどれほど、君の手からこれを受け取りたかったか……言葉ではとても言い尽くせない」
布地越しに、左胸の三年前の魔石と新しい魔石が重なり合い、二つの白銀の魔石が共鳴したかのように深く甘い熱が胸の奥底まで広がっていく。
(……たまらない。この硝子の温室の冬薔薇と同じように、外気の一筋も届かない場所へ、彼女をそっと植え替えてしまいたい)
重ね合わせた額から伝わる体温も吐息も愛おしすぎて、暗い独占欲がせり上がってくる。この工房の冬薔薇の温度を決めているのが彼女であるように――彼女の一日の寒暖を決める権利を、天候からも、実家からも、季節そのものからも取り上げて、俺一人の掌に収めてしまいたい。朝の湯の温度も、夜具の厚みも、指先を撫でる風の冷たさも、すべて俺が選んだものだけで満たし尽くして、『一年の契約』という言葉が入り込む隙間など、どこにも残らないようにしてしまえたら。
そんな衝動を抑え込みながら手を包んでいると、俺の体温に安心したように、フィーネの肩からふっと力が抜けた。潤んだ翠の瞳が夢見心地に細められ、無防備な吐息がぽろりと唇から零れ落ちる。
「……よかったですわ。あの夢の冷たい別棟と違って、ジークハルト様の手はこんなに温かくて……」
甘い声で『ジークハルト様』と呼ばれた歓喜が背筋を駆け抜けたのと同時に――氷のように鋭い違和感が俺の心臓を貫いた。
(……『あの夢の冷たい別棟』だと? なぜ今、彼女は本当に極寒の別棟で凍え切った記憶があるかのような、切実な声を出した……?)
直後、フィーネは「あっ!」と小さな悲鳴を上げて目を瞠り、首筋まで朱に染めて慌てふためいた。
「ち、違いますの、今のはそのっ! 実家を出る前の朝に、ちょっとばかり嫌な寝汗をかくような悪夢を見まして、その夢の中で冬の別棟がすごく寒かったものですから、つい寝言みたいに口が滑っただけで……っ! とにかく閣下の体温が健康的で何よりだと、調律官として確認いたしましたと申しますか……っ!」
しどろもどろに言い訳する彼女を見つめ、俺の脳裏でいくつかの点がひとつの線に繋がった。四日前の朝、憑き物が落ちたように実家とカシアンを見限って俺の馬車に乗ったこと。そして初日から『風邪ひとつ引かず決して倒れたりせず』と、まるで病で倒れる未来を恐れるように必死に強調していたこと。
(まさか……彼女はあの朝、実家やベルジュ家に搾取され尽くした末に、火の気のない冬の別棟へ押し込められ、高熱の中で凍えていく悪夢を見たというのか?)
たとえ夢の話だとしても、彼女が冷たい部屋で震えていた光景を想像しただけで、胸の奥にどす黒い殺意が渦を巻く。両家は法と数字で葬るだけでは生ぬるい。彼女の夢にすら二度と影を落とせぬよう、徹底的に息の根を止めてやらねばならない。
俺はその殺意を押し隠し、親指で彼女の白い手の甲と、右手首の内側にある古い火傷跡を愛おしげに撫でた。
「……そうか。実家を出る朝に、そんな寒い悪夢を見たのだな」
触れ合った額から直接響くように、優しい声で囁く。
「聞いてくれ、フィーネ。それがどんな悪夢であったとしても、この屋敷にいる限り、君に冷たい部屋や孤独な夜など二度と経験させはしない。もしまた夜中に寒い夢を見て目が覚めたなら……遠慮せずにいつでも俺を呼んでくれ。この保温魔石と一緒に、朝までずっと俺の体温で君を温めよう」
俺は包んだままの彼女の左手の甲へ微かに吐息を触れさせ、真っ赤になって言葉を失う顔を覗き込んだ。
「それと……ひとつだけ、俺のわがままを聞いてくれるか。公の場では構わないが、こうして二人きりでいるときは、よそよそしい『閣下』ではなく……もう一度、さきほどのように『ジークハルト』と呼んではくれないか。君の声で俺の名を呼ばれるのが、どんな魔石よりも俺の胸を熱くするから」
胸元に寄せた彼女の手の中で、二つの雪結晶の魔石がひときわ温かく脈動していた。




