第十話 薔薇香油の呼び出し状と、悪夢の記憶の先回り
安物の薔薇香油の匂いは、封を切る前から銀盆の上で鼻についた。十月二十五日の午後、調合室で図面を整理していた私のもとへ、執事長が運んできた一通の封書だ。
わざと水滴で滲ませた便箋には、妹ロッテの丸っこい文字が並んでいる。
『お姉様、お父様とカシアン様が間違っていました。屋敷が凍えるように寒くて怖いの。直接会って謝りたいのです。本邸の奥で、お祖母様の遺品の「白銀カメオのブローチ」を見つけました。こっそりお返ししたいから、明日の朝十時、誰にも言わずに一人で「王立植物園の大温室・水上回廊」へ来てください』
――『王立植物園の大温室・水上回廊』。そして、『祖母マルグリットの白銀カメオのブローチ』。
その二つの言葉を目にした瞬間、背筋を氷の刃のような悪寒が駆け抜け――直後、頭の中が驚くほど冷ややかに澄み渡った。
(……覚えている。あの悪夢の中でも、文面こそ違え、同じ『祖母のカメオ』と『水上回廊』を餌にした呼び出し状を受け取ったわ)
夢の中の私は、婚約も花嫁衣裳も奪われて別棟に押し込められながら、「カメオを返したい」「謝りたい」という妹の言葉を信じて、誰にも告げずに一人で朝の植物園へ向かったのだ。
水上回廊は蒸気で湿度が高く、水路へ降りる大理石の階段は、朝十時の庭師の交代時に死角になる。悪夢の中で、ロッテは階段の下で涙ぐむふりをして手を振り――私が駆け降りようとした一段目に、無色透明の粗悪な粘性香油を塗っていた。
足を取られて転がり落ち、右手首を強く捻挫して動けなくなった私の上に、植込みの陰からカシアン様と買収された私設公証人が飛び出してきたのだ。『足を滑らせたお前が悪い』『治療してほしければ、この債務引受証書に拇印を押せ』と怒鳴られ、腫れ上がった右手の親指を無理やり朱肉に押しつけられそうになった、あの冷たい石の感触と香油の臭気。
便箋を持つ自分の指先を見る。右手首の内側には三年前の小さな白い火傷跡があるけれど、今の手首は捻挫などしていない。先日かすり傷を作った右の薬指も、ジークハルト様が夜更けに自ら軟膏を塗って手当してくださったおかげで綺麗に塞がっている。
あの夜、ジークハルト様は『君が自分の傷を隠して「平気だ」と笑うことだけは、俺は絶対に許したくない』と、深い熱を宿した瞳で仰った。
(以前の私なら一人で抱え込んでいたはず。でも、今は違う。便箋の香油の成分と水上回廊の死角を論理的に説明すれば、閣下ならすべてお見通しになるわ)
私は便箋を白いハンカチで挟んで封筒に戻すと、迷わずジークハルト様の執務室へと向かった。
◇
「失礼いたします、閣下。お時間よろしいでしょうか」
執務室へ入ると、ジークハルト様は書類から顔を上げ、眉間の険を和らげて羽根ペンを置いた。小卓には、今日も焼きたての林檎パイと温かいハーブティーが用意されている。
「……また実家から不躾な使いが来たようだな、フィーネ。顔色が少し硬いぞ。まずはそこに座って、温かい茶を飲め」
「ありがとうございます……。お仕事中に甘いお菓子までご用意いただいて、恐縮ですわ」
ソファに腰を下ろし、カップを受け取る。陶器の温もりと林檎とシナモンの香りに、肩の力がすっと抜けていく。
(一昨日は生姜のミルク茶、今日は林檎パイ。いつの間にか、執務室の扉を叩く前に小卓の上を思い浮かべている自分がいる。……一年後、この癖はどうやって手放せばいいのかしら)
熱くなる耳たぶを隠すように一口お茶を飲んでから、私はハンカチに包んだ手紙を卓上に置いた。
「閣下。先ほど妹のロッテからこのような手紙が届きました。匂いがきついので、少し離してご覧くださいませ」
ジークハルト様が手紙に目を通される間、私は落ち着いた声で言葉を継いだ。
「『謝りたい』『祖母マルグリットの白銀カメオのブローチをこっそり返したいから、明日の朝十時、一人で王立植物園の大温室・水上回廊へ来てほしい』と書いてあります。ですが――これは百パーセント、カシアン様とロッテが仕組んだ罠ですわ」
ジークハルト様の氷青色の瞳が鋭く細められる。私は自分の右手首を軽く押さえながら、冷静に分析を並べた。
「門前で追い返され、馬車まで失ったあちらには、もう正面から来る手段がございません。だから、私が決して無視できない祖母のカメオを餌にしたのです」
私はさらに、便箋の端を指差した。
「それに、この便箋の薔薇の匂いは、粘度の高い下級ベースオイルを混ぜた調合失敗品です。ロッテは昔、侍女を転ばせるためにこの無色透明の粘性香油を廊下に塗ったことがございました。そして『水上回廊』は蒸気で大理石が常に湿っており、大温室の案内板にも掲げられているとおり、朝十時は庭師の見回りが交代して無人になる死角です」
そこまで言って、私はまっすぐにジークハルト様を見つめた。
「明日の朝十時、階段にはこの香油が塗られているはずです。転んで動けなくなった私の指に、債務引受と無償調律の同意書へ拇印を押させる――体裁を整えるために、金で動く私設公証人まで呼んで」
言い終えた瞬間、執務室の空気が凍りつくほど低く沈んだ。
ジークハルト様が手にしていた銀のペーパーナイフが、ぎしりと鈍い音を立てる。その瞳の奥に、凍てつくような殺意と怒りが渦巻いていた。
「……大理石の階段に油を塗って、君の足を滑らせる、だと? やっと薬指の傷が癒えたばかりの君に、怪我をさせて無理やり拇印を奪おうなどという下劣な真似を……」
窓ガラスが震えるほどの威圧感だった。けれど次の瞬間、ジークハルト様は私の隣へ歩み寄り、片膝をついて私の右手を両手でそっと包み込んだ。その指先は、壊れ物に触れるかのようにどこまでも優しかった。
彼は私の右手首を掬い上げると、内側の小さな白い火傷跡のすぐそばへ、唇が触れそうなほど顔を近づけた。見上げてくる眼差しが、底知れない熱と暗い独占欲を滲ませて私を射抜く。
「……この火傷跡を、君の肌に他人のせいで刻まれる最後の痕にする。これから先、この手首に何かが触れて痕を残すことがあるとすれば――それは俺の指の熱だけでいい。君の手首を傷つけようとした蛆虫どもは、俺がこの手で、二度と立てぬほどに踏み潰してやる」
「か、閣下……っ」
手首の内側を掠める熱い吐息と、これから先の痕まで先回りして囲い込むような重く切実な囁きに、私の鼓動は痛いほど速くなる。
けれどジークハルト様は、そこでふっと愛おしそうに目を細め、火傷跡の上を親指でそっと撫でた。
「だが――よく一人で抱え込まずに、すぐ俺のところへ持ってきてくれたな、フィーネ。もし君が一人で植物園などへ向かっていたらと思うと、血が凍る」
「あ、あのっ、手首を捻挫して業務に支障を出したり、印章を奪われて公爵家に損害を与えたりしては大変ですから、共有するのは当然の義務でして……っ」
真っ赤になった頬をごまかそうと言い訳した私に、彼は深く柔らかな声で言った。
「義務でも何でもいい。君が俺を頼ってくれた、それだけで十分だ」
そしてジークハルト様は顔を上げ、唇の端に冷酷な笑みを浮かべた。
「連中が公証人まで連れて犯罪現場で待っているなら――明日の朝十時、水上回廊へは予定通り行こう。明朝九時半には植物園の管理局長の許可を取り、王都警備隊と司法院の執行官で上層バルコニーを完全包囲させ、現行犯で押さえる。祖母君の形見のカメオもその場で残らず回収してやる。君には階段の一段たりとも踏ませはしない」
「……! ありがとうございます、閣下……いいえ、ジークハルト様。明日の朝、どうかよろしくお願いいたしますわ」
頼もしい旦那様を見上げて少し照れながらお名前を呼ぶと、ジークハルト様は「――っ」と息を呑み、耳の端をわずかに赤く染めて視線を逸らした。
「……ああ、任せておけ。……それより、林檎パイが冷めてしまうぞ。しっかり食べて、今夜も十時間は眠ってもらうからな」
差し出された林檎パイを一口頬張る。甘酸っぱさが舌に広がるのに、さっき彼の吐息が掠めた手首の内側だけが、いつまでも熱を手放してくれなかった。




