第十一話 水上回廊の罠と、宙を舞った白銀カメオ
十月二十六日、午前十時。硝子の天井越しに、植物園の時計塔の鐘がくぐもって響いた。
王立植物園の大温室・水上回廊に足を踏み入れた瞬間、湿った熱帯植物の蒸気と混ざり合って、昨日手紙から嗅いだのとまったく同じ安物の薔薇香油の匂いが鼻をついた。
私のすぐ背後の熱帯椰子の列柱の陰にはジークハルト様が控え、さらに上層の回廊や巨大なシダの柱の後ろには、九時半から配置についた王都警備隊と司法院の執行官たち、そして立ち会いの植物園管理局長が息を潜めている。
私は白い手袋をはめた右手を胸元に添え、浅い室内水路へと降りる白大理石の階段――その一段目の手前でぴたりと足を止めた。
視線を落とせば、湿気で濡れた白い石段の上から三段目までに、不自然な虹色のぎらつきを放つ無色透明の粘性薔薇香油がべっとりと塗られている。階段の下の水路の縁では、妹のロッテがハンカチで目元を押さえながら、右手に『祖母マルグリットの白銀カメオのブローチ』を掲げていた。さらに数歩先のハイビスカスの生垣の陰からは、カシアン様のブーツの爪先と、悪夢の中でも見覚えのある私設公証人ギルバートの黒い法衣の裾が半分はみ出している。
(……本当に、あの悪夢と一分一秒違わない配置だわ。いいえ、決定的に違うことが二つある)
一つは、私がもう妹の嘘に騙されて駆け降りるお人好しの姉ではないこと。もう一つは――今の私のすぐ後ろに、私の指一本、髪一筋の安全までご自身の管轄だと仰ってくださる、頼もしい旦那様が立っていてくださることだ。
「お姉様っ、来てくれたのね……! ごめんなさい、お父様もカシアン様もひどいわ。これ、お祖母様の白銀カメオのブローチよ! 誰かに見られる前に早く階段を降りてきて、受け取ってちょうだい!」
手招きするロッテを見下ろし、私は一歩も動かぬまま澄んだ声で告げた。
「ロッテ。お祖母様の形見を持ってきてくれたことだけは感謝するわ。――でも、その階段を降りるのは遠慮しておくわね」
「えっ……? な、何を言っているの! 早く降りてこないと、手が滑って水路に落としてしまうわよ!」
焦って声を尖らせるロッテに、私は足元の白大理石を指し示した。
「ええ、本当に滑ってしまいそうね。この階段の上から三段目までにべっとりと塗られた、あなたお得意の『粗悪な粘性薔薇香油』の上を歩けば、の話だけれど」
ロッテの顔からサッと血の気が引いた。私はそのまま視線を上げ、階段脇の生垣へと声を投げかけた。
「それに、そちらの生垣の陰で朱肉と証書を握りしめていらっしゃるカシアン様、買収された私設公証人のギルバート殿。ブーツの爪先と法衣の裾が丸見えですわよ」
「なっ……!? 貴様、なぜそれを……!」
生垣をかき分けて、顔を真っ赤にしたカシアン様と青ざめた公証人ギルバートが飛び出してきた。私は冷ややかに言い放った。
「筋書きなら、昨日の便箋の匂いで読み終えておりますの。三流の茶番に二度も付き合うつもりはございませんわ」
「だ、黙れっ! ここまでおびき出したんだ、四の五の言わずに今すぐその右手首を突き出して拇印を押せ、フィーネ!!」
逆上したカシアン様が証書を振りかざし、私の右手首を力ずくで掴もうと階段を駆け上がってくる。同時にロッテまでが「逃がさないわよ!」と私のスカートを掴もうと飛びついた――その瞬間だった。
「あっ――!?」
「きゃあああっ!?」
自分たちで油を塗った三段目をまともに踏み抜いた二人の足が、綺麗に宙を舞った。ロッテの手から『祖母マルグリットの白銀カメオのブローチ』が空中へ弾け飛ぶ。
「――下がっていろ、フィーネ」
低く落ち着いた声とともに、椰子の列柱から踏み出したジークハルト様の腕が私の腰を力強く抱き寄せた。私の体を後ろへ引き上げると同時に、ジークハルト様のもう片方の白手袋の手が閃き、宙を舞う白銀カメオを鮮やかに掴み取る。
直後――バシャアァァンッ!!
凄まじい水音とともに、階段を滑り落ちたカシアン様とロッテが、頭から浅い観賞用水路の泥水へと突っ込んだ。
ジークハルト様が咄嗟に黒の外套を大きく広げて私を胸元へ包み込んでくださったおかげで、泥水の飛沫は一滴たりともかからない。濡れた大理石の床には、カシアン様が落とした『債務引受および無償調律同意書』と『成功報酬・金貨百枚の買収念書』が散らばり、上層回廊から駆け降りてきた王都警備隊と司法院の執行官たちが、植物園管理局長の立ち会いのもと、公証人と泥まみれの二人を瞬く間に包囲した。
◇
「ぶほっ、げほっ……! な、なぜ警備隊と司法院の執行官がここに……!?」
水路で藻掻くカシアン様には目もくれず、ジークハルト様は私を囲っていた外套をそっと解き、身を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「怪我はないか、フィーネ。泥水もかかっていないな?」
「は、はいっ……! ジークハルト様が抱き止めて外套で庇ってくださったおかげで、指先一つ汚れておりません……!」
外套の内側に満ちる白檀の香りと力強い腕の温もりに、この階段で右手首を捻挫して冷たい石に転がった悪夢の記憶が、潮が引くように遠ざかっていく。
ジークハルト様は受け止めた白銀カメオを取り出すと、清潔なハンカチでロッテの指紋と香油を丁寧に拭き取り、私の襟元へと掲げた。
「えっ……? あ、あの、自分で着けられますから……」
「じっとしていろ。他人の指が握っていたものを、拭ったからといってそのまま君の喉元へ預ける気はない。君の肌に触れるものは、ひとつ残らず、最後にこの手を通してからだ」
有無を言わせぬ響きの奥に、ひどく優しい熱を滲ませた声に、私は言葉を失って頷いた。大きな指先が私の喉元にかすかに触れ、襟元へ白銀カメオの留め具をぱちりと留める。
(ロッテの指紋ひとつ残さず拭ってから、ご自分の指で……。まるで、私に触れるものを一つずつ検品していらっしゃるみたい。――検品台に載せられているのが私のほうだなんて、どうして少しも嫌ではないのかしら)
頬が熱くなるのを感じながらカメオを両手で包み込み、「お祖母様の形見も私の右手も、すべてジークハルト様が守ってくださいましたわ」と微笑むと、彼は愛おしげに私の頭を撫で――次の瞬間、私を背後に庇って振り返り、温室の蒸気さえ冷え込むような声を落とした。
「――さて。随分と見苦しい水浴びだな、ベルジュ侯爵令息、ならびにヴァルモール伯爵令嬢」
「ジ、ジークハルト公爵閣下!? ち、違います、これはただの事故で……!」
「事故だと?」
ジークハルト様がそれ以上を口にするより早く、執行官に両腕を取られたギルバートが、青ざめた顔で金切り声を上げた。
「わ、私は金貨百枚で立ち会いを頼まれただけです! 油を塗る段取りもベルジュ令息のご指示で、念書もそちらの懐に――!」
「き、貴様っ、裏切る気か!」
金で買ったはずの公証人に真っ先に売られ、カシアン様が水路の中で口をぱくぱくさせる。司法院の執行官が、床から拾い上げた同意書と念書を掲げて淡々と告げた。
「私設公証人ギルバート、強要未遂および公証職権濫用の共謀により拘束する。公証資格については、監督局の審理に付す」
縄を打たれたギルバートが、警備隊に引き立てられていく。
続いて、採取した香油の小瓶を手にした植物園管理局長が、震える二人の前へ進み出た。
「特別保護区の白大理石を油脂で汚損された件、植物園として『王立施設損壊および特別清掃賠償金』金貨五十枚を、お二方へ即時請求いたします。証拠目録の写しは、監査院より頂戴しておりますので」
「きゃああっ!? ただお姉様を転ばせようとしただけなのに、どうして私がそんな大金を……あっ!」
口を滑らせたロッテの隣で、カシアン様が絶望に蒼白となる。ジークハルト様は封蝋付きの公文書を水路の縁へ突き出した。
「自白までご苦労だ。カシアン・ベルジュ、これが貴様らの『傷害未遂および恐喝未遂』について、監査院総裁の名で王都司法院へ提出した正式な告発状の控えだ。同じ写しと証拠目録は、十一月十五日の返済期限を待たず、すでに早馬で貴様の父・ベルジュ侯爵のもとへ直接届けられている」
「なっ……!? ち、父上に早馬で!? ま、待ってください、今朝も収支報告書の不備で厳命を受けたばかりなのに、こんな告発状が届いたら私の跡継ぎの立場が……!」
「貴様の立場など知ったことか。実家で父君の雷を待っているがいい。――行くぞ、フィーネ」
ジークハルト様が私の白い右手をご自身の腕に添わせる。泣き叫ぶ声を背に歩き出しながら、私は一度だけ襟元のカメオに指を触れた。悪夢の中では、この朝、腫れ上がった右手の親指が冷たい朱肉へ押しつけられかけたのだ。――今その右手は、温かな腕にしっかりと預けられている。




