第八話 初霜の朝と、三つ目の鍵『冬越え保温魔石』の解除
十月下旬のその朝、王都に今年初めての霜が降りた。
庭園が白銀の氷晶に覆われる中、私がジークハルト様の執務室の『保温魔石』を調律し終えると、玄関ホールから怒鳴り声が響いてきた。実父のヴァルモール伯爵とカシアン様が四輪馬車で乗りつけ、門前で「フィーネを出せ」と喚いているという。一昨日、王立銀行で金貨二千枚の一括返済通告を受けた二人が早朝から押しかけてきた理由は、すぐに察しがついた。
私が書類入れを携え、正面玄関の石造りテラスへ出ようとした時だった。
「待て、フィーネ。そのまま出るな」
ジークハルト様が歩み寄り、昨日の採寸をもとにミレイユ夫人の工房が針子総出で夜通し仕上げ、今朝届けてくれたばかりの冬用外套を、私の肩へ羽織らせた。深い氷青色と月光銀のウールを重ね、襟元から裾の縁まで純白の狐毛皮があしらわれた一着だ。彼は目の前で屈み込み、温かい指先で白狐の襟元を寄せ、顎の下のリボンを結んでくださった。
「かっ、閣下……!? 自分で結べますわ……!」
「じっとしていろ。今朝は初霜だ。冷たい風が一息たりとも君の肌に触れないようにしないとな」
指先が首筋をかすめ、耳の奥まで熱が駆け上がる。仕立て下ろしの羊毛と白狐の毛皮に包まれた肩は、陽だまりの中にいるように温かい。
(針子さんたちが夜通し縫い上げた一着を、閣下ご自身の手で……。いつもの癖で手間賃を見積もろうとしたのに、首筋に残った指先の温度のせいで、桁がひとつも定まらない)
私は熱くなる頬を柔らかな毛皮の襟に埋め、ジークハルト様と並んで正面テラスへと踏み出した。
門の鉄柵の向こうでは、煤けた外套を着たお父様とカシアン様が、唇を紫にして震えていた。その姿を見た瞬間、私の頭の中で冷ややかな算盤が弾き出される。
(……あら。カシアン様の袖口にこびりついたタール煤と、焦げた硫黄の臭い。昨日わたくしが閣下に申し上げた最悪の手順を、本当になさいましたのね)
石欄干の前に立った私を見つけるなり、お父様が怒鳴り上げた。
「フィーネ! 昨夜から屋敷中の保温魔石が壊れて、サロンも寝室も氷室のように冷え切っているんだぞ! ロッテが『寒くてお肌が荒れる』と泣いているんだ、親孝行だと思って今すぐタダで直しに来い!」
「そうだぞ、フィーネ! うちの本邸もサロンも、魔石がただの冷たい石塊になった! 伯爵邸の地下には俺が新しい魔石を入れてやったのに、通気孔から真っ黒な煤と冷気しか出ない! お前が手入れをサボっていたせいで導管が詰まったんだ! 今すぐ二十四基すべて無償で調律しろ!」
鉄柵を掴んで吠える二人を見下ろし、私は不思議なほどの静けさを感じていた。
祖母から引き継いだ第三の鍵――『冬越え保温魔石・二十四基の定期調律契約』。言いなりだったあの悪夢の中でも、カシアン様が費用を惜しんで粗悪魔石を主導管にねじ込み、魔力逆流を起こした。あの時は私が徹夜で煤を被り、凍傷寸前の指先で二十四基の銀導管を洗浄したのに、翌朝にはロッテに手柄を奪われ、お父様からは叱責されたのだ。
けれど、今の私は無償で酷使される『手がかからない姉』ではない。私は胸元から二通の公文書を取り出し、凛と澄んだ声で告げた。
「ごきげんよう、お父様、カシアン様。お袖のタール煤と硫黄臭から察するに、昨夜、減圧弁も閉めずに未精製の粗悪魔石を主導管へ押し込まれましたわね? それは手入れ不足ではなく、魔力逆流による導管破裂ですわ。伯爵邸の十基は銀線回路が焼き切れ、調律期限を過ぎたベルジュ邸とサロンの十四基も安全弁が落ちて、もはや再調律では戻りません。二十四基の銀導管総入れ替えと煙道洗浄だけで、最低でも金貨九百六十枚はくだりませんわよ」
「なっ……!? きゅ、九百六十枚だと!? 理屈をこねるな、お前が直せばタダで済む話だろうが!」
「いいえ、私が直すことはございません。こちらが王立魔導具管理庁に受理された『冬越え保温魔石・二十四基の定期調律契約解除通知』です。初日にお二人が署名なさった『一切の実務・保証の放棄確認書』に基づき解約いたしました」
「そんな紙切れなど知らん! 『白銀工房』の職人たちをよこせ! 一昨日工房を見に行ったらもぬけの殻だったぞ、どこへ隠した!」
「隠してなどおりませんわ。二通目の魔石工ギルドの『専属職人籍・移管登録証』をご覧くださいませ」
私は公式刻印入りの羊皮紙を開いて見せた。
「一級魔石職人六名は全員、昨日付でアシェンバルト公爵家工房へ移籍いたしました。共済積立金に空いた四百枚の穴は私が私財で埋めましたけれど、その穴が誰の宝石箱へ消えたかは、ギルドの通告書でもうご存じのはずですわ。彼らにも私にも、もうヴァルモール家に尽くす義務はございません」
「だ、黙れっ! 娘が実家のために払った金など家族内の小遣いと同じだろうが! 父親の屋敷を直すのは親孝行だ、今すぐ四輪馬車に乗って二十四基すべてタダで直せ!」
お父様が唾を飛ばした瞬間、隣にいたジークハルト様が半歩前へと進み出た。長身の背中で私を庇うように立ち塞がっただけで、鉄柵を揺さぶっていた二人の手が、霜に貼りついたように止まる。
「――随分と都合のいい『親孝行』だな、ヴァルモール伯爵。他家の夫人に無償労働を強要する前に、ご自身の窃盗まがいの債務を精算していただこうか」
ジークハルト様は、私の債権に基づいて王都司法院が発した『即時強制執行令状』を、鉄柵越しに突きつけた。
「貴様が横領した積立金四百枚は、フィーネが私財で立て替えたことにより、全額が彼女個人の『優先求償債権』へと切り替わっている。――司法院の執行官殿、令状の執行を頼む」
氷のような声を合図に、司法院の執行官たちが門前の四輪馬車と馬二頭に真紅の『差押封印札』を貼り付けていく。
「な、何をする! それは我が伯爵家の馬車だぞ!」
「優先求償債権・金貨四百枚の一部担保として、四輪馬車一輌と馬二頭を即時差し押さえる。さらに魔石工ギルドは、その四百枚と延滞金が現金で完済されるまで、所属調律官を両家へ一人も派遣しないと決議した。自分で薪でも割って暖を取るがいい。もっとも、破裂した導管を放置して暖炉を焚けば、硫黄煤に引火してサロンごと吹き飛ぶかもしれんがな。――門を閉めろ」
「う、嘘だろう……馬車まで取られて、この寒空の下を歩いて帰れというのか……!?」
「お、覚えていろよフィーネ……っ、くそっ、寒い……!」
馬車を牽き去られ、煤だらけの外套を掻き合わせながら、凍てつく北風の中を徒歩で帰っていく二人の姿を、重厚な鉄門がガシャンと遮断した。
静寂が戻ったテラスで、私はジークハルト様を見上げて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、閣下。私が立て替えた積立金四百枚まで債権として回収してくださるなんて……。これも閣下がギルドの規律を重んじていらっしゃるからこそですわね」
するとジークハルト様は、冷酷な気配を嘘のように消し、底なしに優しい眼差しで私を見下ろした。彼は黒革の手袋を抜き取ると、私の襟元の毛皮を整え、温かい素手の指先で私の頬にそっと触れた。
「……規律のためだけではない、フィーネ。俺の大切な妻に、誰かの尻拭いのための一銅貨も削らせはしないし、二度と冷たい床で凍える思いもさせない。……それと、覚えておいてくれ。君に触れるときだけは、俺はこの手袋を外すと決めている。革越しでは、君の頬にどれだけ温もりが戻ったか確かめられないからな。君の体温を確かめる役目は、侍女にも医師にも、この先誰にも譲るつもりはない。……この外套、君によく似合っている」
「っ……! は、はいっ、閣下……! 襟の毛皮がふわふわで、とても温かいですわ」
掌の熱と独占欲の滲む甘い言葉に、私は頬の火照りを隠しきれないまま、ふかふかの襟に顎を埋めた。
(頬に残る素手の温度を、さっきまでの手袋越しの記憶と比べてしまっている……。どうして私、そんな違いを確かめようとしているのかしら)
それでも、悪夢では得られなかった温もりが嬉しくて、私は氷青色の外套の裾を抱きしめて微笑んだ。
「閣下のおかげで、今年の冬は凍える心配などなさそうですわ。さあ、中へ戻りましょう。閣下の執務室の保温魔石、今朝一番で最高の状態に調律しておきましたのよ」
「……そうか。なら、今度は俺が君を温める番だな。生姜と蜂蜜入りの熱いミルク茶を用意させてある。行こう、フィーネ」
差し出された彼の腕に手を添え、私は温もりが待つ屋敷の中へと足を踏み出した。




