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第七話 氷青色のドレスと、「閉じ込めて甘やかしたい」囁き

実家を出て四日目の午後、アシェンバルト公爵邸の温室工房には柔らかな秋の日差しが差し込んでいた。


 私は作業台の上で、亡き祖母マルグリットから引き継いだ『四つの鍵の引き継ぎ箱』の三つ目の仕切りから取り出した羊皮紙の束に、白銀工房主の個人印を捺し終えて息を吐いた。


(……よかった。これで『第三の鍵』の書類も、一分の狂いもなく整いましたわ)


 表題には『ヴァルモール伯爵邸・ベルジュ侯爵邸およびサロンの冬越え保温魔石・計二十四基の定期調律契約解除届』、そして、昨日ヴァルモール家の工房での就労を停止した『一級魔石加工職人六名のアシェンバルト公爵家工房への所属移籍届』と記されている。


 羽根ペンを置いた瞬間、右薬指に巻かれた白麻の包帯が視界に入り、指先がぴくりと揺れた。一昨日の夜、書斎でジークハルト様が膝をついて塗ってくださった金盞花の軟膏の香りと、包帯の上から寄せられた唇の気配、大きな掌の熱を思い出すだけで、耳の奥がじんわりと熱くなる。


(い、いけませんわ、フィーネ。今は業務時間中です! あの夜のホットミルク以来、毎晩十時間も眠らせていただいているのですから、この最高峰の福利厚生に見合う実務成果をお返ししなければ……!)


 書類を麻紐で括り直していたその時、隣接するサロンから車輪の音とともに、ジークハルト様と王都随一の衣装師・ミレイユ夫人が姿を見せた。


「まあ……! フィーネ様、お若い頃のマルグリット様に生き写しでいらっしゃること!」


 かつて祖母の夜会服も仕立てていた名匠である夫人が目尻を押さえて微笑み、私の胸がきゅうっと温かくなる。


 真鍮製ラックに掛けられていたのは、深い氷青色と月光銀の最高級シルク、王都伝統の手編み銀糸レース、そして白狐の毛皮だった。


(なんて美しい氷青色と月光銀の絹かしら……。ジークハルト様の瞳と同じ色ですわ)


 思わず魅入られたのも束の間、十年間染みついた『手がかからない姉』の反射が思考を引き戻した。実家では鮮やかな色やレースはすべてロッテに譲らされ、私が綺麗な生地を見れば「裏方の姉は目立たない実用着で十分だ」とたしなめられてきた。


(――私は一年間の契約夫人で、実態は専属調律官ですもの。一反で金貨数十枚もする最高級シルクなど、裏方の技術者が着たら予算の無駄遣いになってしまいます)


 心を守るいつもの習慣で、私は氷青色のシルクから目を逸らし、ラックの端に防塵用として掛かっていた地味な灰ベージュ色の実用布へと反射的に手を伸ばした。


 その端切れに触れようとした瞬間だった。


 大鏡の前に立つ私の背後へ、音もなくジークハルト様が歩み寄られた。次の瞬間、私の両肩に大きくて温かな掌がそっと重ねられる。


「……っ、閣下……」


 背中から伝わる体温と白檀の香りに肩が跳ねた。鏡越しに見上げたジークハルト様の氷青色の瞳には、暗く深い独占欲の熱が揺らめいている。彼は私の耳元へ身を屈め、鼓膜を震わせる低い声で囁いた。


「この屋敷には、君が遠慮して色を譲らなければならない妹などいない。君の瞳が一番最初に留まった、あの氷青色と白銀を選びなさい。……それとも迷うなら、頭の先から爪先まで俺の色で仕立てさせてもらおうか。王都の男が一人残らず、君が誰の妻であるか見誤らないように」


(――っ!? あ、頭の先から爪先まで、閣下の色に……!?)


 心臓が鐘のように跳ね上がる。さらに私の肩を包む指先にわずかに力がこもり、吐息が耳朶を掠める距離で、危ういほど甘く熱っぽい声が重ねられた。


「……これ以上、俺の前で『目立たない布でいい』などと遠慮して手を引っ込めるなら、いっそ君を北方の居城の一番深い奥室へ閉じ込めてしまいたくなる。誰の目にも触れさせず、北方の鉱山が産出するあらゆる宝石と最高級の絹で君を埋め尽くして、二度と我慢などという言葉を思い出せなくなるまで甘やかしてしまおうか、フィーネ」


 頭の中のそろばんが、ガシャーンと音を立てて派手に弾け飛んだ。


(と、閉じ込めて宝石と絹で埋め尽くすだなんて……他陣営からの引き抜きや侮りを防ぐ『対外的な威信管理』ということでしょうか!?)


 必死に『これも業務上の威信維持のはず』と言い訳を探すのに、肩を包む彼の手が優しすぎて、その瞳が私だけを熱く映しているから、十年間の我慢の殻が春の雪のように溶けて消えていく。


(……ああ、私、もう我慢しなくていいんだわ。このお屋敷では、「これが好き」と自分の声で言っても許されるんだわ)


 私は灰ベージュの布から手を離して一歩踏み出し、包帯の右薬指を庇いながら、左手で氷青色と月光銀のシルク、そして銀糸レースにそっと触れた。滑らかな感触を確かめてから、ジークハルト様を見上げて唇を開く。


「……この氷青色と白銀の生地が、好きです。わたくし、これを着てみたいですわ」


 十年間、一度も口にできなかった混じり気のない本音だった。ミレイユ夫人が「最高の選択でございます、奥様!」と声を弾ませる。私は赤くなった頬で微笑みながら続けた。


「ありがたく仕立てていただきます。……あ、ですがミレイユ夫人、工房で魔石を調律する際にも袖口が邪魔にならないよう、日中用のドレスのカフスだけは機能的な銀釦に調整していただけますか?」


 するとジークハルト様は目元を甘く和ませ、包帯の右手を気遣いながら、私の左手の甲を大きな掌で優しく包み込まれた。


「……よく言ってくれた、フィーネ。君の口から『これが好きだ』と聞けてどれほど嬉しいか、君には想像もつかないだろう。ミレイユ夫人、この氷青色と月光銀の絹を軸に、執務服から夜会ドレス、白狐の冬外套まで一式すべてを仕立ててくれ。調律用のカフス釦には、我がアシェンバルト家の氷狼の紋章を刻んだ純銀の台座に、極小の蒼玉魔石を嵌め込んだ特注品を用意させよう」


 ミレイユ夫人が感激して一礼するのを見届け、私は表情を引き締めて、羊皮紙の束をジークハルト様へ恭しく差し出した。


「それと閣下、採寸の前に本日の実務報告をお受け取りください。『第三の鍵』である両家およびサロンの『冬越え保温魔石』計二十四基の定期調律契約解除届と、一級職人六名の当家工房への所属移籍届が完了いたしました。魔石の気圧反応から見て、明日の明け方には王都に『初霜』が降ります。前日までにわたくし個人の魔力波長で秋の定期調律を行わなければ安全弁が作動し、もし素人が未調律の粗悪魔石を無理に押し込んだりすれば、煤煙と冷気が噴き出した末に、明朝には二十四基すべてが冷たい石塊と化しますわ。……この書類、夕刻便で王立魔導具管理庁へ提出してもよろしいでしょうか?」


 ジークハルト様は私の『白銀工房主』の印章と職人六名の署名に目を通し、冷徹にして優美な笑みを浮かべた。


「見事な手際だ。当事者である当家が自己決裁しては公正さに瑕がつくからな、夕刻の特別急使で、調律契約の解除届は王立魔導具管理庁の正式窓口へ、移籍届は魔石工ギルド本部へ提出させよう。今夜中に双方の公式台帳は書き換えられ、六名には明朝から当家の工房へ出仕する通行証が交付される。……それとフィーネ、監査院の裏帳簿照合でもうひとつ判明した事実がある。君の父マルティンは、職人への二ヶ月分の補助手当を未払いにしていただけでなく、先代女伯爵が設けた『職人共済積立金』から金貨四百枚を無断で引き出し、妹の装飾品購入に横領していた」


「……っ、職人共済積立金にまで……!?」


 息を呑む私の指先を、ジークハルト様の大きな手が温かく包み直した。


「一年前に積立金が不足した際、君が自分の報酬を削って密かに補填していた記録も確認した。……だが、もう君が父親の罪を背負う必要はない。共済口座に空いた四百枚の穴は、君個人の特許印税口座から今日のうちに埋め戻せるよう、手続きを整えておいた。ただし、それは君が父親の罪を肩代わりするという意味ではない。立て替えた四百枚は全額、横領者ヴァルモール伯爵に対する君個人の『優先求償債権』として魔石工ギルドと王都司法院に登録させる。延滞金ごと取り立てる権利を、君自身が持つということだ。……君が頷いてくれるなら、すぐに署名を回そう。明朝、初霜で屋敷中の魔石が冷たい石塊と化せば、凍え上がった伯爵とカシアンは間違いなくこの門を叩くだろう。その時こそ、この調律解除通知とともに金貨四百枚の横領のツケを、司法院の執行官立ち会いのもと、その場で精算させてやる」


 頼もしく微笑むジークハルト様の瞳に守られながら、私は氷青色の絹の手触りと、明朝に訪れる決済の刻を思って静かに頷き返した。

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