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第六話 ★凍結された特別融資枠と、読めない複式帳簿【元婚約者視点】

【カシアン視点】


 王立銀行からの帰路、ヴァルモール伯爵家の馬車の中は焦燥に満ちていた。


 窓の外を十月下旬の冷たい風が吹き抜ける。俺は座席に身を沈め、頭取から突きつけられた最後通牒を反芻していた。


 ――『白銀工房主フィーネ様』の連帯保証解除により、上限金貨三千枚の特別融資枠は完全凍結。既存の借入・ツケ千八百枚に昨日の通商院徴収金二百枚を加えた合計金貨二千枚を、来月十五日までに現金で一括返済せよ。期限を過ぎれば両家の屋敷および領地を即時差し押さえる。


「……馬鹿げている。どいつもこいつも石頭め!」


 俺が拳を握ると、向かいの義父――マルティン・ヴァルモール伯爵も蒼白な頬を引きつらせて鼻を鳴らした。


「まったくだよ、カシアン君。たかがフィーネの個人印が一つ抜けた程度で、両家の信用枠を止めるなどどうかしている。監査院の手前、大げさなポーズを見せているだけに違いない」


「ええ。何年も俺たちに逆らわず『かしこまりました』と徹夜で雑務をこなしてきた地味な姉ですよ? 公爵家の馬車に乗ったのも、一時的な雑用係として雇われたからでしょう。少しばかり構ってほしくて拗ねているだけです」


 口に出すと、それが事実のように思えてきた。両家の看板を背負ってきたのは俺と伯爵であり、華やかなロッテだ。当面の現金なら屋敷の『白銀工房』の在庫を売ればいいし、帳簿など俺たちが見ればすぐに片づく。


 そう結論づけて馬車を降り、伯爵邸の玄関扉を開けた瞬間だった。


「――もう嫌っ! なんなのよこの家は! 誰かいないの!?」


 一階の応接室から、ロッテの甲高い怒声が響き渡ってきた。


 扉を開けると、いつもならフィーネが適温と甘い香りで整えていた部屋は秋の底冷えが澱んでいた。巻き毛を乱したロッテが、ティーカップを叩きつける寸前の剣幕で立ち上がる。


「カシアン様、お父様! ベルを鳴らしてもメイドは遅いし、やっと持ってきた紅茶は渋くてぬるくて飲めたものじゃないわ!」


「なんだと? おい執事、茶葉の配合くらいちゃんとしろと命じただろう!」


 伯爵が怒鳴ると、部屋の隅で老執事が気まずそうに目を伏せた。


「お言葉ですが……ロッテお嬢様のお好みに合わせた茶葉の配合と湯温管理は、毎朝フィーネお嬢様が指示書を出しておられましたので。それに今朝から商会が現金払いでなければ茶葉も卸せないと……」


「それだけじゃないわ!」


 ロッテは執務机に雪崩のように積み上がった未処理の請求書と複式帳簿の山をバンッと叩いた。


「さっき王宮御用達の仕立て屋とレース商が来て、『花嫁衣裳のお直し代、金貨三百枚を今日中に現金で払え』って騒いだのよ! 王立銀行の手形を切ろうとしたら、『今朝、両家の特別融資枠が凍結されたと広まっていますので手形は紙屑同然です』って、飾り帯もベールも引き揚げてしまったの! 早く現金を払わせてよ!」


「ちっ、もう商会にまで銀行の噂が回っているのか……!」


 俺は動揺を隠してロッテを宥め、伯爵と執務机へ向かった。


「落ち着け、ロッテ。今すぐ俺たちでフィーネの帳簿と工房を調べて資金を引き出してやる。たかが女の事務仕事だ、難しいはずがない」


 俺と伯爵は分厚い帳簿を広げた。だが――ページをめくった瞬間、言葉が詰まった。


「……なんだ、この細かい数字の羅列は……?」


 羊皮紙に並んでいたのは、精緻な複式簿記と複合関税計算式だった。どこに現金残高があるのかすら判別できない。横で伯爵が赤い数字の欄を指さして声を裏返らせた。


「おいカシアン君、これを見ろ……『両家月次収支』が毎月赤字になっているぞ!?」


 その下の備考欄に記されたフィーネの筆跡に、俺は息を呑んだ。


『※本邸維持費の赤字分、ならびに工房職人六名の補助賃金(伯爵家負担・二ヶ月未払い分)は、白銀工房主フィーネ個人の特許印税および調合報酬より立替補填済み』


「……立替補填だと? あいつ、俺たちに内緒で個人の印税なんて稼いでいたのか!」


 自分たちがフィーネの個人収入に寄生していた事実から目を背けるように、俺は声を荒らげた。伯爵も机を叩いて叫ぶ。


「長女のくせに個人資産を隠し持っていたとは何事だ! こんな暗号みたいな帳簿は見なくてもいい! 中庭の『白銀工房』へ行って、熟練の職人六人に香油と魔石を作らせて現金化すれば済む話だ!」


 俺たちは応接室を飛び出し、別棟『白銀工房』の扉を押し開けた。


「おい職人ども! 今日から俺と伯爵が直接指揮を執る! 完成品を――」


 怒鳴り声はがらんどうの空間に消えた。


 誰もいない。六人の一級職人――熟練の調香師と魔石職人たちの姿もなければ、フィーネ個人の所有だった原液瓶も調律器具も塵一つ残らず運び出されている。作業台には、魔石工ギルドの通告書だけが置かれていた。


『通告書。当ギルド所属の一級職人六名は【白銀工房主フィーネ個人】との専属契約下にあったことを証明する。なお、ヴァルモール伯爵マルティンによる補助賃金二ヶ月分の未払い、ならびに【職人共済積立金・金貨四百枚】の無断流用が監査院により確認されたため、本日付で全六名の伯爵家工房における就労を停止し、アシェンバルト公爵家工房への移籍手続きに入ったことを通知する』


「う、嘘だろう……!? 職人も道具も、全部フィーネ個人の契約だっただと!?」


「ま、待て! 共済積立金の四百枚は、先月ロッテが首飾りを欲しがるから一時的に借りただけで、あとでフィーネに埋めさせるつもりだったのだぞ!?」


◇


 翌日になっても、誰ひとり手伝いに来ない屋敷に、十月下旬の夕闇が迫っていた。


 一日じゅう金策に駆け回っても成果はなく、重い足取りで応接室へ戻った頃には、窓の外の空気が刺すように冷え込み始めていた。


「さ、寒い……! もう夕方なんだから、壁の保温魔石が動いてもいい時間でしょう!?」


 ロッテがショールを掻き合わせ、壁面の『冬越え保温魔石』を睨みつけた直後だった。


 ガタガタッ、と格子の中で異音が響き、温風の代わりに灰色の煤煙と氷のような冷気が噴き出したのだ。


「きゃあああっ!? 煙が出たわ! ドレスに煤がつくじゃない! ゴホッ、ゴホッ!」


「な、なぜ保温魔石から冷気と煙が出る!?」


 むせ返る二人の横で、俺は棚の『保守管理ファイル』を開き、扉の控え書きに冷や汗を流した。


『保守管理要項:両家屋敷およびサロンに設置された【冬越え保温魔石・計二十四基】は、毎年十月中旬、初霜の前に白銀工房主フィーネによる精密波長調律を要す。未調律のまま稼働させた場合、魔力逆流および煤煙噴出の恐れあり』


「こ、これだ! 両家の二十四基すべて、フィーネが毎年秋に調律していたのか!?」


「じゃあ早くギルドの技師を呼んでよ! こんな寒い部屋にいたら風邪をひくわ!」


 泣き叫ぶロッテに、伯爵は青ざめて首を振った。


「だ、駄目だ……積立金流用の件で、前金を積まなければ技師一人派遣してくれん……!」


 このままでは暖房一つ動かせない無能だと認めることになる。俺は棚の奥から未調律の安物の粗悪魔石を掴み取り、工具箱の鉄レンチを握りしめた。


「ふざけるな! 魔石を台座に嵌めるくらい、誰にだってできる単純作業だ!」


 俺は地下室へ駆け下り、主暖房ダクトの台座へ未調律の魔石を力任せに押し込むと、レンチで叩いて無理やり固定した。


 ――ゴォォォン……ッ、ギギギ……!


 配管の奥から不気味な低音と振動が突き上げてきたが、俺は気づかないふりをして応接室へ戻った。


 夜が更けるにつれて窓ガラスは白く曇り、煤煙の漂う部屋は凍えるほど冷え込んでいく。毛布にくるまって震えながら、ロッテが恨めしそうに鼻をすすった。


「なんで私たちがこんな目に遭うのよ……! お姉様は長女なんだから、妹の私とお父様のために働くのが当たり前でしょう?」


「……その通りだ! 娘には父親に尽くす『親孝行』の義務がある! 親が凍えているのに知らん顔など世間が許さん!」


「ええ、そうですよ義父上! 明日の朝一番に、アシェンバルト公爵邸へ乗り込みましょう! 門前で『親を見捨てる不孝者め』と叱りつければ、フィーネのやつ、泣きながら土下座して戻ってきて、二十四基の魔石を調律し、銀行の保証印も押し直すに決まっています!」


 配管から響く不気味な低音にも耳を塞ぎ、俺たちは冷え切った応接室で、明日の朝にはすべて元通りになるという甘い幻想にすがりついていた。

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