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第五話 深夜のホットミルクと、薬指の包帯

静まり返った深夜の書斎に、羊皮紙をめくる音と羽根ペンを走らせる音だけが響いていた。


 燭台の灯りの下、私は祖母から受け継いだ『引き継ぎ箱』の二つ目の束――『第二の鍵』の書類一式を最終点検していた。


 ふと右手の薬指がチクリと疼き、指先に巻いた細いリボンに視線を落とす。昼間、通商院でロッテが投げつけた香油瓶から検査証書を庇ったとき、ガラス片が掠めた浅い擦り傷だ。


 実家にいた頃は、火傷を負っても三日続けて徹夜で帳簿を合わさせられても、「ロッテが体調を崩している時に大げさな」「お前は手がかからない姉なのだから自分で手当てしなさい」と眉をひそめられるだけだった。だから小傷や夜なべはリボンで隠して笑ってやり過ごすのが癖になっている。ましてや雇用主のジークハルト様に心配をかけるわけにはいかない。


(それにしても……ふふ、明日の朝が楽しみですわ)


 カシアン様は今日、「金貨二百枚なら王立銀行の特別枠から払えば端金だ」と息巻いていた。けれど、帳簿を回していた私は知っている。カシアン様の馬車代もロッテの宝石やドレスのツケも、すべて私の個人印が裏書きされた上限金貨三千枚の特別融資枠に頼り切っていることを。明日の朝この解除通知が届いて枠が凍結され、既存のツケの一括返済まで突きつけられたら、どんなお顔をなさるだろうか。


 そこまでは、いつも通り落ち着いて数字を追えていたのに。


 不意に扉が開き、甘く芳しいシナモンの香りとともにジークハルト様が姿を現した瞬間、私はハッと肩を揺らし、慌てて立ち上がった。


「かっ、閣下……! まだお休みではなかったのですか!? 夜分遅くまで灯りをつけてしまい、申し訳ございません……!」


 私は帳簿を揃えると、リボンを巻いた右手の指先が彼の目に入らないよう、そっと袖の中へ引っ込めて頭を下げる。


「まずは昼間の騒動……私の実家と元婚約者が公爵家の御前で見苦しい狼藉を働きましたこと、心よりお詫び申し上げます。アシェンバルトの御名に泥が跳ねることはございませんでしたでしょうか」


 それから顔を上げ、右手を袖に隠したまま、左手で祖母の個人印と私の解約署名が入った証書、そして精算監査目録を胸を張って示した。


「ですが、ご安心くださいませ。明日、王立銀行へ提出する『第二の鍵』の書類は最終点検まで完璧に整いました! 両家への特別融資枠・上限金貨三千枚の連帯保証解除通知、ならびに既存借入とツケ、しめて金貨千八百枚分の精算監査目録でございます。明日これが届けば、あちらの信用貸しは一銅貨も動かなくなりますわ」


 報告を終えた私は、ジークハルト様の手にある湯気の立つカップに気づいて目を丸くした。


(な、なぜ閣下が手ずからホットミルクを……!?)


 温かいミルクとシナモンの甘い香りに、頭の中に並べていた数字がふわりとほどけていく。少し襟元を緩めたジークハルト様の瞳が、燭台の火を映して柔らかく揺れていた。私は右手を袖に隠したまま、どうにか笑顔を作って見せた。


「あの、わざわざ様子を見に来てくださったのですか? 私、これくらいの夜なべは慣れておりますので全然平気です! 閣下こそ、どうぞ私のことはお気になさらないでくださいませ」


 ジークハルト様は微笑む私の顔を無言で見つめたあと、静かに息を吐き、銀盆を机の端へ置いた。


「……完璧な監査書類だ、フィーネ。明日、王立銀行の頭取が青ざめる顔が目に浮かぶ」


 穏やかな低音で労いながら、彼は一歩踏み出し、私が袖の中へ隠した右手へと、迷いなく手を伸ばした。引っ込めようとする私の右手首が、決して痛くはないが振り解けない大きな掌で、すくい上げるように優しく包み込まれる。


「だが――俺の目をごまかせると思わないでもらおうか」


 ジークハルト様は私をそっと椅子へ座らせると、その前に片膝をついて屈み込み、目線を私の手元へと合わせた。


「か、閣下!? こんなところに膝をおつきになっては……!」


 慌てる私の前で、彼の長い指先が薬指のリボンを丁寧に解きほぐす。指の腹に浮かぶ小さな赤い擦り傷が露わになると、ジークハルト様の眉間がかすかに寄った。


 彼は持参した小瓶から治癒軟膏をすくい取り、息を詰めるほど慎重な手つきで傷口へ優しく塗り広げていく。清潔な包帯を巻き終えると、彼はその包帯の上から、唇が触れるか触れないかほどの距離でそっと息を吹きかけるように指先を寄せ、私の両手を大きな掌で包み直した。


(ひゃ、ひゃあぁっ……!?)


 指先から駆け上がった熱が、一気に頬へ集まっていく。


「よく聞いてくれ、フィーネ。昼間の騒ぎで、アシェンバルトの名に泥など一滴も跳ねてはいない。あんな連中がどれほど吠えようと、俺にとっても公爵家にとっても痛くも痒くもない」


 ジークハルト様は顔を上げ、深い熱を帯びた瞳で私をまっすぐに見つめ返した。


「だが――君が自分の傷を隠して『平気だ』と笑うことだけは、俺は絶対に許したくない」


 切実な熱がこもった声だった。彼は銀盆の上から、シナモンと蜂蜜が香るホットミルクのカップを取り上げ、私の両手にそっと持たせてくださる。


「昔から夜なべに慣れているなどと、俺の前では言わないでくれ。夜更けまで一人で冷たい机に向かう必要はないし、痛みを我慢して笑う必要もここにはない。……君が怪我をせず、温かいものを飲んで、俺の隣で心から笑っていること。それが、このアシェンバルト公爵家にとって最大の利益だ」


 カップを包む私の指先を大きな手で外側から温めるように覆いながら、彼はひどく優しい声で囁いた。


「今夜はもう、ペンを置いてこれを飲んでくれないか。……それとも、俺が隣で見張っていなければ、また隠れて書類を広げてしまうだろうか?」


「い、いいえっ! 飲みます、今すぐ全部いただきます……!」


 私はカップに口をつけ、温かく甘いホットミルクを飲み込んだ。優しい甘みが胸の奥へと広がっていく。包帯越しに残る彼の指の温もりは、カップが空になっても消えてくれなかった。


◇


【カシアン視点】


 翌朝、王立銀行の頭取応接室。俺は義父となるヴァルモール伯爵と並んで、革張りのソファにふんぞり返っていた。


「まったく、フィーネのやつめ! 公爵家の馬車に乗ったくらいで図に乗りすぎだ!」


「案ずるな、カシアン君。二、三日もすれば泣きながら頭を下げに戻ってくるに決まっている」


 伯爵は鷹揚に頷き、入室してきた頭取に向かって尊大に顎をしゃくった。


「おい、頭取! 昨日の違約金二百枚の決済に加えて、ロッテの新しいドレス代に金貨三百枚を引き出せ!」


「さっさと用意しろ。そのための上限金貨三千枚の特別枠だろうが!」


 だが頭取はニコリともせず、重厚な公文書を二通、テーブルへ突きつけてきた。『白銀工房主フィーネ様の連帯保証解除通知』と、監査院検印入りの『即時精算監査目録』だ。


「お二方に一銅貨もお貸しできません。一昨日カシアン様ご自身が署名された『名義・実務一切の放棄確認書』に基づき、保証人であるフィーネ様の連帯保証印が正式に解除されました」


「なっ……!? あの特別枠は我が侯爵家と伯爵家の信用で……!」


「いいえ。先代女伯爵より全権を継承されたフィーネ様個人の信用と保証印のみを担保としていたものでございます」


 喉の奥がひゅっと鳴った。頭取は眉ひとつ動かさず、冷ややかに続ける。


「お二人の特別融資枠(上限三千枚)は今朝をもって完全凍結されました。これまでの借入・宝飾店等のツケ千八百枚に、昨日付で回付された通商院の徴収金二百枚を加え、合計金貨二千枚を来月十五日までに現金で一括返済していただきます。期限を過ぎれば両家の屋敷および領地の即時差し押さえとなりますので、悪しからず」


「き、金貨二千枚を一括だとぉっ!? そんな大金、来月までに用意できるわけがないだろう!!」


 隣で伯爵が裏返った声を上げる。俺は震える膝を叩くようにして立ち上がり、テーブルに拳を打ちつけた。


「う、嘘だ! フィーネのやつ、俺たちに黙って保証印を抜いただと!? 今すぐあいつを連れてこいーっ!!」


 自分の怒鳴り声だけが、朝の王立銀行の高い天井に虚しく反響していった。

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