第四話 十時間の眠りと、最初の鍵『白銀香油』の検品
柔らかな朝の陽射しで目を覚ました私は、雲のようにふかふかの羽毛布団の中で壁時計を見上げ、思わず息を呑んだ。
(……じゅ、十時間!? 私、一度も目を覚まさずに十時間も眠ってしまったの!?)
実家にいた頃は夜明け前に叩き起こされ、四時間も眠れれば上出来だった。誰にも扉を叩かれずに眠り続けた朝が、これほど頭を冴え渡らせ、目の下の薄い隈まで消してくれるとは知らなかった。
支度をして階下へ降りると、外出の装いを整えたジークハルト閣下が待っていてくださった。侍女の手には、仕立ての良い銀青色の外出着と、白銀の刺繍入りハンカチが捧げ持たれている。
「おはよう、フィーネ。よく眠れたようで何よりだ。通商院の石床は冷えるから、その外出着を着ていくといい」
「か、閣下……! このような高価なお品までご用意いただき、恐れ入ります」
(昨日の膝掛けに続いて、外出着まで……。つい値段を見積もりそうになるけれど、今日はありがたく甘えておきましょう。せっかく閣下が選んでくださったのだもの)
ほのかに甘い香木の薫る白銀のハンカチを受け取り、私は気を引き締めて一礼した。
◇
朝の王立通商院・献上品検品ホールは、本日の王妃宮主催『秋の茶会』へ納める品々の審査で緊張感に包まれていた。
私はジークハルト閣下と共に検品台へ進み、『アシェンバルト公爵家・白銀工房』名義で提出した特級『白銀香油』の水晶瓶を主席検品官へ差し出した。
栓を抜いた瞬間、月光花と朝露を閉じ込めたような澄み切った香気が広がり、白銀の液体がきらめいた。
「おお……! これほど雑味のない香気と透明度は初めて目にいたします! まさに特級の中の特級、マルグリット先代女伯爵の再来ですな!」
主席検品官は感嘆し、王妃宮への納入証に印を捺した。
これで『一つ目の鍵』の納品は完了だ。私が安堵して証書を受け取ろうとした、その時だった。
「――いたぞ、フィーネ! こんなところに隠れていやがったのか!」
係官の制止を振り切って怒鳴り込んできたのは、元婚約者のカシアン様と、私の寸法で仕立てた旧花嫁衣裳を、茶会向けに無理やり丈と袖を詰めて着込んだ妹のロッテだった。
「お前が引き継ぎをサボったせいで共同献上枠が失効したじゃないか! どういう嫌がらせだ!」
「そうよ! 私がレシピメモを見て作った香油を通してもらうわ! 今すぐこれを通しなさい!」
ロッテが得意げに瓶を取り出し、検品台の上で栓を引き抜いた。
直後、ぼこっと鈍い音を立てて、すえた油と焦げた薬草の悪臭がホール中に立ち込めた。瓶の中の液体は茶色い泡を浮かべて無残に二層へ分離していく。
「うわあっ!? な、なんだこの腐敗臭は……っ、げほっ!」
周囲の検品官たちが咳き込んで後ずさる中、私は眉ひとつ動かさず、白銀の刺繍入りハンカチを口元に当てた。まず涙目の主席検品官へ「お鼻が利かなくなっては大変ですわ。どうぞこちらを」と清めの薄荷香の小袋を差し出してから、呆然とする二人へ向き直る。
「ごきげんよう、カシアン様、ロッテ。……ロッテ、婚礼衣裳の丈と袖を、茶会向けに無理やり詰めたのね。銀糸の刺繍が引きつれて泣いているわ」
顔を真っ赤にする二人を制し、私は書類挟みから二通の公文書を検品台へ広げた。
「カシアン様、こちらをご覧くださいませ。昨日カシアン様ご自身が直筆で署名なさった『名義・実務一切の放棄確認書』と、昨日のうちに通商院で正式に受理された『共同献上枠の登録抹消および名義変更受理証』でございます。王妃宮への特級香油の献上資格は、先代女伯爵の後継者である『フィーネ・ヴァルモール個人』の調合印に交付されていたもの。ご命令通りわたくしの名前を抜いたのですから、枠が失効するのは当然の帰結ですわ」
続けて、私は茶色い泡を浮かべるロッテの瓶へ冷ややかな視線を落とした。
「それからロッテ。あなた、レシピメモの一ページ目の配合比率だけを見て、裏面の『摂氏十二度以下での六時間の低温撹拌と灰汁抜き』の地味な工程を丸ごと飛ばしたでしょう? 熱に脆い月光花の精油を温かい基油に混ぜれば、一時間後には酸化して腐敗し、悪臭を放つようになります」
(昨日の朝に見た『悪夢』の中では、この失敗に私が前夜に気づき、指先を何か所も火傷しながら徹夜で作り直して尻拭いをしてあげたのよね。けれど、私が手を貸さなければ、現実はこれほど正直に実力を暴き出すわ)
「昨日、あなた方は『地味な個人名義の手配など要らん、全部片付けておけ』と仰いましたわね。仰せの通り、私の名前が入った地味な手配をすべて引き揚げただけでございます。ご自分の実力で作られたその香油を、どうぞ胸を張って王妃宮へお持ちくださいませ」
私が淑女の礼をして半歩下がると、ロッテは顔を真っ赤にして逆上した。
「だ、黙りなさいよ! お姉様がわざと意地悪なメモを置いたんじゃない! そんな証書なんか破り捨ててやるわ!」
「そうだ! 侯爵家の権力で、そんな名義変更など今すぐ取り消させてやる!」
ロッテが腐敗香油の瓶を掴み、私の手元の検査証書めがけて力任せに投げつけた。
瓶は検品台の縁で砕け散り、とっさに検査証書を庇った私の右手の薬指を、跳ねた小さなガラス片がほんのわずかに掠める――のとほぼ同時に、黒い外套が大きく翻った。
ジークハルト閣下が私の肩を引き寄せ、広い背中と外套で完全に覆い隠すように立ち塞がってくださったのだ。飛散した腐敗油はすべて閣下の外套が受け止め、私の服には一滴も届かない。
「……フィーネ。怪我はなかったか? 証書はいい、私の後ろに下がっていてくれ」
薬指に微かな痛みを感じたものの、長年染みついた癖で、私は右手を書類挟みの陰に隠して微笑んだ。
「はい、閣下のおかげでかすり傷ひとつございません」
頷いたジークハルト閣下は、絶対零度の双眸で正面の二人を射抜いた。
「……ほう。王立通商院が正式に受理した名義変更を、侯爵家の権力で取り消させる、だと? よく聞け、カシアン・ベルジュ、ロッテ・ヴァルモール。貴様らが犯したのは単なる検品落ちではない。第一に、安全工程すら怠った腐敗物を王妃宮への献上品として持ち込み、検品所を汚損した罪。第二に――」
閣下の瞳が細められ、冷厳な威圧感がホールを支配する。
「私の妻であり、アシェンバルト公爵夫人であるフィーネの身体に、ガラス瓶を投げつけて危害を加えようとした罪だ。この場で首を落とされないだけ、王国の法に感謝するがいい」
閣下は震える主席検品官へ視線を送り、一切の慈悲を含まぬ声で宣告した。
「主席検品官、検品所規則に基づいて処分を記録せよ。腐敗物の持ち込みと検品所汚損により、両家には『三年間の宮廷納入停止』、ならびに汚染清掃費および違約金として『金貨二百枚の即時徴収』を科す。本日の茶会への入場差し止めは、総裁名で王妃宮へ急ぎ通達しておく。――妻への危害の件は、私情を挟まぬよう王都衛兵隊と司法院に委ねる。衛兵、この二名をつまみ出せ! 徴収書は今日中に王立銀行の決済枠へ回しておけ!」
「なっ!? ま、待てジークハルト公爵! 三年間の納入停止など商会が立ち行かなくなる! 金貨二百枚なら王立銀行の特別枠から払えば端金だ、離せ!」
泣き叫ぶロッテと青ざめて暴れるカシアン様が衛兵につまみ出されると、ジークハルト閣下は即座に表情から冷気を消し去り、私の肩にそっと手を添えた。
「驚かせてしまったな、フィーネ。……本当にどこも痛むところはないか? 控え室で外套を着替えたら、王妃宮の特別席へ向かおう。君の好きな温かいお茶を用意させてある」
優しい眼差しと、『私の妻』と言い切ってくださった低い声の余韻が、いつまでも胸の内側で反響している。
(お、落ち着きなさいフィーネ。『妻』というのは契約上の肩書きで、庇ってくださったのも契約上の福利厚生ですから……! この動悸は、十時間睡眠で血行が良くなりすぎたせいですわ……!)
火照った頬を書類挟みで隠すようにして、私は小さく頷いた。




