第三話 ★三年前の雪の夜と、氷狼公爵の秘めた執着【公爵視点】
【ジークハルト視点】
掌に収まる小さな白銀の魔石には、丁寧な鏨の跡で六花の雪結晶が刻まれている。
三年前の秋、北方国境に近い『聖セシリア修道院』の納屋で、吹雪の夜に俺の命を繋ぎ止めてくれた世界でただ一つの『白銀の保温魔石』だ。
あの夜、鉱山視察の帰路で刺客と暴風雪に遭った俺は、身分を隠したまま脇腹の傷を押さえて修道院の納屋へ転がり込んだ。
出血で意識が霞み、指先の感覚すら失われかけていた俺を見つけたのが、奉仕滞在で修道院を訪れていた当時十六歳のフィーネだった。彼女は血塗れの男を前にしても悲鳴ひとつ上げず、清潔な麻布と薬草で手際よく傷を縫い合わせ、震える俺の掌にこの温かい魔石を握らせてくれたのだ。
『どうか、夜が明けるまでこれを握っていてくださいませ。わたくしが調律した保温魔石ですから、朝まで決して熱は切れませんわ』
ランプの光に照らされた淡い銀灰色の髪と澄んだ翠の瞳。そして、凍えた俺の指を包み込んだ彼女の指先の、泣きたくなるほどの温かさ。
翌朝、追っ手を巻くため礼も告げずに発った俺は、王都へ戻るなり、あの少女がヴァルモール伯爵家の長女フィーネであることを突き止めた。
だが、王立通商監査院の総裁として俺が目にした彼女の日常は、あまりにも理不尽だった。
亡き先代女伯爵マルグリットの技術を受け継いだ彼女は、十六歳の若さで実家の白銀工房と帳簿のすべてを背負わされていた。王妃宮へ献上される特級『白銀香油』の精製も、婚約者であるベルジュ侯爵家嫡男カシアンが自分の手柄として提出する収支報告書も、すべてはあの美しい筆跡――フィーネ一人の細腕と、睡眠を削った夜なべ仕事によって支えられていたのだ。
それなのに、父のヴァルモール伯爵もカシアンも華やかな妹のロッテばかりを飾り立て、フィーネには「手がかからない姉だから」と冷めた茶と雑務だけを押し付けていた。
(……今すぐあの屋敷へ乗り込んで、彼女を攫ってしまいたい)
この三年間、監査院で彼女の筆跡を見るたびに何度そう思ったか知れない。
だが、誠実で責任感の強い彼女にいきなり「三年前の恩人だから」「ずっと愛していたから」と権力を振りかざせば、彼女は義理や負い目から心を閉ざしてしまうだろう。彼女に必要なのは、自らの技術を正当に評価され、あの吸血鬼のような実家と婚約者から大手を振って離れられる「対等な大義名分」だった。
だから俺は先月、『冬越え魔石の専属調律官』の招聘状を彼女個人に宛てて送った。他家の婚約者に求婚などすれば、それこそ彼女の立場を悪くする。『婚約が白紙に戻った折には、一年間の契約夫人として迎える』という付帯条件を一行添えるのが、俺に許された精一杯だった。
そして昨日、ベルジュ家の顧問が式部院へ『婚姻助成金の名義差し替え』を照会してきたと監査院に報告が上がった。奴らが今日にもフィーネに婚約の譲渡を迫ると睨んで、俺は今朝から伯爵邸の門前に馬車を停めて待ち続けていたのだ。
◇
朝の冷たい風のなか、伯爵邸の鉄門が開き、革鞄ひとつを提げたフィーネが一度も振り返らずに出てきた瞬間――俺の心臓は三年前の夜と同じくらい激しく跳ねた。
石畳の上でカーテシーをとろうとしながら、『本日ただいまより、わたくしを雇ってはいただけませんでしょうか』と凛と告げた彼女の前へ、俺は従僕が動くのも待たず昇降口から身を乗り出していた。
「頭を上げてくれ、フィーネ。そんな冷たい石の上で礼をとる必要はない。……ああ、席は空いているとも。先月からずっと、君一人のために空けてあった」
差し出した掌に彼女の細い指先が重なる。触れた瞬間、俺は奥歯を噛み締めて表情を取り繕うのに必死だった。
三年前はあれほど温かかった彼女の指が、氷のように冷え切っている。揃えられた袖口の隙間からは薬品調合で負ったのであろう古い白い火傷の痕が覗き、気丈に俺を見上げる翠の瞳の下には、どれほど睡眠を削ればこうなるのか分からない薄い隈が刻まれていた。
(ヴァルモール伯爵とカシアン・ベルジュ……! 俺が三年間、硝子細工に触れるように遠くから見守り続けてきた大切な女性に、どれほどの重荷を背負わせてきたのか。今すぐ法と帳簿で二つの屋敷を更地にしてやりたいが……今はフィーネを怯えさせるわけにはいかない)
沸き上がる怒りを氷青色の瞳の奥へ押し込め、俺は彼女を馬車へとエスコートした。
保温魔石を縫い込んだ白狐の毛皮の膝掛けで彼女の肩を包み、本当は大好物なのに実家ではいつも妹に譲っていたと調べてあった焼きたての蜂蜜タルトと温かいミルク茶を勧める。
タルトを見た瞬間、フィーネの肩がビクリと強張り、誰かに取り上げられるのを警戒するように視線が揺れたのを見て胸が締めつけられた。だが次の瞬間、一口頬張った彼女が翠の瞳をまん丸に見開き、頬を染めて綻ばせた笑顔に、俺の理性は危うく吹き飛びそうになった。
『……っ、すごく、美味しいですわ……! こんなに温かくて甘いタルト、初めていただきました』
(……ああ、駄目だ。そんな風に無防備に笑われたら、誰の目にも触れぬ場所へ閉じ込めて、これから先の一生分の甘いものを全部君の前に並べてやりたくなる)
早鐘を打つ鼓動を抑えて冷静な公爵を演じながら、俺は彼女が差し出した『放棄確認書』と『王立通商院への名義変更届』を受け取った。
カシアンと伯爵の直筆署名が入った、法的に一分の隙もない完全な権利放棄。なぜ今日突然、彼女がここまで見事に奴らを見限って俺の手を取ってくれたのかは分からないが、俺は名義変更届を当日中に通商院で受理させる手配をし、続けて『婚姻ならびに専属調律官契約書』に署名を交わした。
本邸へ到着し、今日のために整えておいた南向きの特別室と最新鋭の専用温室工房へ案内したときも、彼女はどこまでも健気だった。
『わたくし、この一年間は風邪ひとつ引かず決して倒れたりせず、必ずやこの破格の待遇の十倍の成果をお返しいたしますわ! まずは今夜、徹夜で――』
なぜそこまで「倒れない」と必死に強調するのかは不思議だったが、隈を作ったまま徹夜などさせるはずがない。
「――却下だ、フィーネ。専属調律官としての君への最初のお願いをする。今夜の君の仕事は、そのベッドで十時間ぐっすり眠ることだ」
耳まで真っ赤にして目を白黒させる彼女を侍女たちに託し、俺は執務室へと引き揚げたのだった。
◇
夜更けの執務室。侍女長から「奥様は天蓋付きのベッドで深く眠っておられます」と報告を受け、俺は安堵の息を吐いた。
(『この一年間は誠心誠意お仕えいたします』、か。……すまないな、フィーネ。一年で手放すくらいなら、俺は最初から迎えになど行かない)
懐の白銀の保温魔石を指先で撫でる。これから一年かけて、彼女がこの屋敷と俺の隣にすっかり馴染み、自分の口から「ずっとここにいたい」と言うまで甘やかし尽くして外堀を埋めるつもりだ。
その時、扉がノックされ、執事が一枚の封書を盆に載せて入ってきた。
「閣下。先ほどヴァルモール伯爵家の使いが、表門へこれを投げ入れるように置いていったとのことです。宛名は『フィーネ』とだけ書かれておりますが」
「……貸せ。検閲する」
紙質も雑な封筒を開くと、そこには伯爵とカシアンの連名で傲慢極まりない文面が殴り書きされていた。
『フィーネ、公爵家に転がり込んで意趣返しのつもりか知らんが、勝手な真似は大概にしろ。明日の王妃様のお茶会の香油がまだ届いていないぞ、朝一番で持ってこい』
あの愚か者どもは、自分たちが今朝署名した『放棄確認書』の意味も、フィーネが公爵家の馬車に乗った意味すら理解せず、まだ彼女を便利な召使い程度に思っているらしい。
俺は冷ややかな笑みを浮かべ、その手紙を暖炉の炎へと無造作に投げ込んだ。
明日の『秋の茶会』――両家の共同献上枠はすでに今日付で抹消され、新たに『アシェンバルト公爵夫人フィーネ』の工房から王妃陛下へ直接献上される手筈が整っている。
「おやすみの邪魔になる。こんなゴミは、二度とフィーネの目に入れるな」
「はっ。畏まりました」
燃え尽きていく赤い灰を見下ろしながら、俺は静かに微笑んだ。
「……明日の朝、通商院の検品所で吠え面をかくがいい」




