第二話 氷狼公爵の馬車と、焼きたての蜂蜜タルト
氷狼公爵と恐れられるお方が、石畳の上で片膝をつかんばかりに身を屈め、私へ大きな掌を差し伸べている。耳に残る低い声が、まだ胸の中で反響していた。
(『先月からずっと、君一人のために』……っ! やはり北方領の冬越え魔石の調律スケジュールが、それほど逼迫していたのね!)
私はハッと背筋を伸ばし、差し出された手へ恐る恐る指先を重ねた。
公爵様の温かい掌が私の冷たい指先をそっと包み込む。袖口の隙間から覗く古い薬品火傷の痕と、私の目の下にうっすらと残る隈に、彼の氷青色の瞳が一瞬だけ鋭く細められたように見えた。だが彼はすぐにその険を呑み込み、私の片手から革鞄を引き取って温かい車内へと優しくエスコートしてくださった。
「――本邸へ出せ。揺れを拾うな、大通りの一番滑らかな石畳を通れ」
御者へ命じて扉を閉めると、馬車は滑るようにヴァルモール邸の門前を離れた。
公爵様は向かいの席に腰を下ろすなり、白狐の毛皮付きの膝掛けを手に取り、私の肩から膝元へとふわりと掛けてくださる。
「指先まで冷え切っている。この膝掛けを掛けていても構わないだろうか? もし重苦しければすぐに外すが……まずは少しでも身体を温めてほしい」
「あ……っ、ありがとうございます、閣下。全然重苦しくなど……むしろ、春の陽だまりみたいに温かいですわ」
肩から膝元まで包まれた毛皮と、隅に縫い込まれた保温魔石のぬくもりに、私は目を丸くして小さく息を吐いた。
(な、なんて温かい膝掛けなのかしら……! 保温魔石の波長が驚くほど精密で、芯から冷えていた身体がみるみる温まっていくわ。しかも車輪の揺れがほとんど伝わってこない……閣下が『一番滑らかな石畳を通れ』と命じてくださったおかげね)
公爵様は穏やかに頷くと車内の保温箱を開け、湯気の立つ濃厚なミルク茶をカップへ注ぎ、黄金色に焼き上がったばかりの蜂蜜タルトと一緒に私の手元へと寄せた。
「長丁場の交渉だったはずだ。書類を見る前に、どうか一口でも喉を潤してくれないか。うちの料理長に作らせた蜂蜜タルトなんだが、甘さの加減が君の好みに合うといいのだが」
湯気の立つミルク茶と、黄金色に輝く焼きたての蜂蜜タルト。それを見つめた瞬間、私の肩が一瞬だけビクリと強張り、周囲を窺うように視線が揺れた。
(――早く隠さなければ、ロッテに『お姉様だけずるい!』と取り上げられてしまうわ)
長年の習慣で反射的に身構えてしまった自分が気恥ずかしい。
(……そうよ、もうあの屋敷にはいないのだから、誰に遠慮する必要もないのだわ。実家ではいつも『お前は手がかからないから』と冷めたお茶と端切れの菓子ばかりだったし、今朝の悪夢では、別棟に閉じ込められてからは黴びたパンと水しか口にできず、最後は高熱に浮かされたまま冷たい床で息絶えたのよね……)
私は頬を染めながら、恐縮した手つきでカップとタルトを受け取った。
「では、お言葉に甘えて……いただきます」
温かなミルク茶で喉を潤し、サクッと音を立てて蜂蜜タルトを一口頬張った途端、私の瞳は大きく見開かれた。濃厚な蜂蜜の香りとバターの優しい甘みが口いっぱいに広がり、胸の奥がキュッと締めつけられるほど染み渡る。あんまり美味しくて、視界が滲みそうになるのを必死で堪えた。まつ毛が微かに震え、自然と柔らかな笑みが唇に浮かぶ。
「……っ、すごく、美味しいですわ……! こんなに温かくて甘いタルト、初めていただきました」
(でも、どうして私が蜂蜜タルトを好きだとご存じだったのかしら……? いえ、きっとこれも筆頭公爵家ならではの事前調査と、技術者の血糖値を素早く上げて稼働効率を高める高度な労務管理に違いないわ!)
最後の一口まで綺麗にいただくと、私はハンカチで口元を押さえて居住まいを正した。
公爵様は私が差し出した『放棄確認書』と、第一の鍵である『王立通商院への名義変更届』を受け取られた。一瞥しただけで、監査院総裁としての鋭利な双眸に深い感嘆の色が宿る。
「……見事だ。ベルジュ侯爵家の次期当主とヴァルモール伯爵、双方の直筆署名と実印。個人資産と連帯保証の完全分離、一切の求償権の放棄まで、法的に蟻の這い出る隙間もない。私たちが手を回すまでもなく、自分の剣で退路を断ってきたわけか」
公爵様は満足げに口元を緩めると、内ポケットから『婚姻ならびに専属調律官契約書』を取り出された。
名義変更届には『本日中に通商院で受理手続きを』と書き添えた付箋を貼って脇へ置き、続けて婚姻契約書の署名欄に流麗な筆跡で『ジークハルト・フォン・アシェンバルト』と自らの名を書き記し、万年筆を私へと差し出された。
「こちらの条件は先月伝えた通りだ。公爵領の冬越え魔石の専属調律官、および一年間の契約夫人として、君の全ての権利と安全、そして専用の工房をアシェンバルト公爵家が全面的に保証する。君の意思に反する義務や慣習を強いることは一切ない。婚姻の届けは、本日中に私の名で式部院へ出しておこう。……さあ、最終確認をしてくれ。君が望むなら、ここに署名を」
万年筆を受け取った際、公爵様の大きな指先がわずかに触れ、氷の公爵とは思えないほど優しい眼差しで「君が望むなら」と囁かれた瞬間、頭の中のそろばんが、珠ひとつ弾けなくなった。
(ち、違うわフィーネ、落ち着きなさい! 閣下は契約が滞りなく締結されて、リスク管理が完了したから安堵していらっしゃるだけよ!)
私は自分に言い訳しながら契約書へ視線を走らせ、彼の署名の隣に『フィーネ・ヴァルモール』と名を記し、持参した先代女伯爵継承の個人印を鮮やかに捺した。
「これにて契約成立でございますね、閣下。わたくしの技術と実務のすべてをもって、アシェンバルト公爵家に誠心誠意お仕えいたします」
◇
やがて馬車がアシェンバルト公爵本邸へと滑り込み、私は南向きの陽当たりに満ちた特別室と、その隣に設けられた最新鋭の専用温室工房へと案内された。
選び抜かれた魔石研磨機、温度管理された薬草棚、塵ひとつない白銀の調律台。理想の工房とふかふかの天蓋付きベッドが並ぶ特別室を交互に見渡し、私の胸は感激に震えた。
(さ、さすが筆頭公爵家……! 技術者への福利厚生と初期投資のスケールが凄まじいわ……! これだけの設備をいただいたからには、初日からフル稼働で元を取っていただかなくては!)
私は頬を上気させてジークハルト様へと向き直り、拳を握りしめて凛と宣言した。
「閣下、これほど完璧な設備と休息環境を与えてくださるなんて……! わたくし、この一年間は風邪ひとつ引かず決して倒れたりせず、必ずやこの破格の待遇の十倍の成果をお返しいたしますわ! まずは今夜、徹夜で北方領の冬越え魔石の初期検品リストを――」
「――却下だ、フィーネ。専属調律官としての君への最初のお願いをする。今夜の君の仕事は、そのベッドで十時間ぐっすり眠ることだ」
ジークハルト様の低く穏やかな声に遮られ、私は「じゅ、十時間もでございますか!?」と目を白黒させた。
(じゅ、十時間睡眠が最初の仕事……!? ええと、時給換算すると寝ているだけで金貨が飛んでいく計算になるのですけれど……っ! でも、閣下のあの真剣で温かいお目元を見ていると、とても反論なんてできないわ……。こ、これもきっと、明日から最高の精度で魔石を調律するための、厳格なコンディション調整業務……のはずよね!?)
私は耳の先まで真っ赤に染めて、新しい部屋の真ん中で立ち尽くすことしかできなかった。




