第一話 花嫁衣裳と、四つの鍵の引き揚げ
「フィーネ。お前は昔から手がかからない姉なんだから、来月の花嫁衣裳も婚約者の座もロッテに譲りなさい」
「そういうことだ、フィーネ。ロッテは体が弱く、侯爵家のサロンにふさわしい華がある。お前はこれまで通り、裏で帳簿と工房だけ回してロッテを支えろ」
(……ああ。今朝、目を覚ます直前に見ていた悪夢と、一言一句違わないわ)
十月中旬の朝日が差し込む、ヴァルモール伯爵家の応接間。
長椅子では父マルティンが当然のように顎を引き、隣では私の婚約者カシアン・ベルジュ侯爵令息が傲慢に胸を張っていた。
そしてカシアン様の腕には、栗色の巻き毛の妹ロッテが誇らしげに寄り添っている。
彼女が着込んでいる純白のドレスは、来月十五日の婚礼に向けて、私の寸法で仕立てられたはずの花嫁衣裳だった。
けれど私の胸にあったのは、悲しみではなく、氷水を浴びた後のような静けさだ。
今朝、私はあまりにも生々しい『悪夢』から目覚めた。
夢の中の私は、父とカシアン様に逆らえず、婚約者の座も花嫁衣裳もロッテに譲った。
それから三年間、北の別棟へ追いやられて睡眠時間を削り、香油を調合し、魔石を調律し、両家の裏帳簿を一人で回し続けた。その挙句、ロッテが王妃様への献上品で起こした毒物混入の罪まで被せられ、凍える別棟に閉じ込められたのだ。
高熱に浮かされ、冷たい床で息を引き取った直後――吹雪とともに別棟の扉を蹴り開け、黒外套の長身の男性が駆け込んできた。
王立通商監査院総裁にして『氷狼公爵』と恐れられる、ジークハルト・フォン・アシェンバルト閣下。
その人が、私の遺体を強く抱き上げ、見たこともないほど険しく歪んだ表情のまま、震える声で私の名を呼んでいた。
右手首の内側にある古い薬品火傷の白い跡が疼くほど、あの別棟の冷たさは肌に焼きついている。
「お姉様、ごめんなさいね! でも私たちが結婚したあとも、お姉様は離れの小部屋に置いてあげるわ。これまで通り『白銀工房』の調合も銀行の書類仕事も、全部任せてあげるから!」
「感謝するんだな、フィーネ。地味なお前を侯爵家の下働きとして養ってやるというのだ。さっさとその『婚約譲渡書』へ署名しろ」
ロッテがドレスの裾を翻し、カシアン様が卓上の羊皮紙を顎でしゃくった。
夢の中では泣いて取りすがった場面だが、今の私は涙ひとつこぼさず優雅に微笑んでみせた。
「仰せの通りにいたします、お父様、カシアン様」
私が迷いなく羽根ペンを取り、婚約譲渡書に署名すると、二人は拍子抜けしたように目を丸くした。
私はそのまま革鞄からもう一枚の書類を取り出し、カシアン様の前へと滑らせる。
今朝、目覚めてすぐに書き上げておいた『名義・実務一切の放棄確認書』――フィーネ個人の名義と保証にかかわる手配を、両家からすべて引き揚げるための書面である。
「わたくしが婚約者の座を退くにあたり、これまで『フィーネ個人』の名で手配していた地味な実務や保証が残っては、ロッテの顔に泥を塗ることになりますわ。今後、わたくし個人の名義と印章に関わる手配はすべて引き揚げ、両家には一切関わらないという確認書に、お二人のご署名と捺印をいただけますでしょうか」
「ふん、お前の地味な個人名義の手配など、最初から俺には要らん! 侯爵家と伯爵家の看板があれば、商人も銀行も勝手に頭を下げてくるからな。全部片付けておけ!」
カシアン様は鼻で笑って確認書に署名とベルジュ家の印を叩きつけ、父も得意げに伯爵家の印を押した。
私は心の内で、そろばんをパチリと弾く。
(カシアン様は『俺には要らん』と鼻で笑って署名なさったけれど……王妃宮の秋の茶会へ納める金貨六百枚相当の特級『白銀香油』の配合も、王立銀行の特別融資枠・上限金貨三千枚の連帯保証条件も、両家の『冬越え保温魔石』二十四基の調律も、来月の婚礼承認印と助成金二千枚も。あの四つの鍵はすべて『ヴァルモール伯爵家』ではなく、『先代女伯爵マルグリットの後継者フィーネ個人』の署名と印章で成り立っているのよ?)
(私の保証解除通知が王立銀行に届けば、特別融資枠はその場で凍結。来月の決済日までに、既存の借入とツケ合わせて金貨千八百枚の現金一括返済を求められるわ。ご自分たちで放棄確認書にサインなさった以上、後から私に違約金や補償を求めることもできないけれど……まあ、手がかからない姉の手配など不要とのことですもの。お好きになさればいいわ)
「――ええ、ご安心くださいませ、お父様、カシアン様。わたくしの地味な手配など、華やかなロッテの邪魔になるだけでしょうから、今この場ですべて綺麗に片付けさせていただきました」
私は乾いたばかりの放棄確認書のインクを確かめると、折り目正しく畳んで革鞄へと収めた。
鞄の中にはすでに、亡き祖母から受け継いだ『四つの鍵の引き継ぎ箱』と分厚い調合帳が収まっている。
三人を見渡し、私は袖口の下の古い火傷跡を隠すように指先を揃え、伯爵家長女として非の打ちどころのない優雅な一礼をしてみせた。
「これでわたくし個人の印と名前に関わる手配は、何ひとつ屋敷には残りません。来月の婚礼、お二人にふさわしい賑やかなものになりますようお祈りしておりますわ。――では、ごきげんよう」
引き止める声すら待たず、私は背筋を真っ直ぐに伸ばして応接間を後にした。
◇
一度も振り返ることなく、ヴァルモール伯爵邸の鉄門をくぐり抜ける。
朝の冷たい風が、頬と淡い銀灰色の髪を撫でていった。
門の向かいの石畳には、黒塗りの重厚な馬車が静かに停まっており、開かれた窓の奥から、氷のように鋭く澄んだ瞳――筆頭公爵ジークハルト・フォン・アシェンバルト閣下の視線がまっすぐにこちらを射抜いている。
目が合った瞬間、冷静だった胸の奥がドクンと大きく跳ねた。
(アシェンバルト公爵閣下……! 夢の最後、冷え切った別棟の扉を蹴り開けて、息絶えた私の体を抱き上げていらっしゃったあのお方だわ……!)
間近で見る『氷狼公爵』の威圧感と、息を呑むほど整った黒髪の横顔に、思わず耳の奥が熱くなるのを必死に抑え込む。
(あ、あの夢で閣下があれほど恐ろしいお顔で私の遺体を抱いて怒っていらっしゃったのは、きっと引き抜きをかけていた技術者に契約前に勝手に死なれて、北方領の魔石調律の計算が狂って大損害が出たからに違いないわ……! それに、まるで私が屋敷を出る時間を計っていたかのように門前に馬車を停めていらっしゃるなんて、さすが規律と数字に厳しい筆頭公爵様、人材確保の監査網が恐ろしく徹底していらっしゃるのね。――大丈夫、今度の私は絶対に過労や高熱で死んだりしません。この一年間の白い結婚の契約、閣下に一銅貨の損もさせないよう、健康第一で誠心誠意、骨身を惜しまず勤め上げてみせますわ!)
私は一瞬だけ息を呑み、鞄の持ち手を握り直すと、迷いのない足取りで馬車の窓辺へと歩み寄った。
そして石畳の上で、深く礼儀正しいカーテシーをとろうとする。
「突然お声をかけてしまい申し訳ございません、アシェンバルト公爵閣下。ヴァルモール家のフィーネでございます。……先月、閣下より内々に賜りました『北方領における冬越え魔石の専属調律官』のお申し出――ならびに『婚約が白紙に戻った折には、一年間の契約夫人として』という付帯条件につきまして、もしまだお席が空いているようでしたら、本日ただいまより、わたくしを雇ってはいただけませんでしょうか。実家および旧婚約者との個人名義の契約・保証は、先ほどすべて解消して参りました。即日の稼働が可能でございます」
私が石畳の上で膝を折るよりも早く、馬車の重厚な扉が内側から開いた。
ジークハルト閣下は従僕の助けも借りず自ら昇降口へ身を乗り出すと、深く頭を下げる私の前へ片膝をつかんばかりに身を屈め、大きな掌を差し出した。
驚いて見上げた視線の先で、鋭くも美しい氷青色の瞳が、ただ私ひとりを真っ直ぐに映している。
「頭を上げてくれ、フィーネ。そんな冷たい石の上で礼をとる必要はない。……ああ、席は空いているとも。先月からずっと、君一人のために空けてあった」




