表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第2章 上層部への提案と敗北(昭和18(1943)年9月~)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/82

第9話「『大東亜戦争終末方策(九月案)』――三日三晩、孤独な起案」

【前書き】(松谷誠より)


 松谷だ。


 九月十三日の夜、外務省を辞して市ヶ谷台に戻ってからの三日三晩を、俺は自席の椅子と原稿用紙の前で過ごした。


 誰にも告げず、誰の助けも借りず、たった一人で書いた。


 書類を残せば、即発覚する。仲間に分担を頼めば、漏れる。それは、その者の命を危うくする。


 だから、俺は孤独に書いた。



【本文】

 九月十三日、夜。


 外務省を辞して参謀本部に戻った俺は、自席の机を徹底して片付けた。日常の戦況連絡、業務報告、決裁待ちの書類――すべてを引き出しの奥にしまい、机の上に白い罫紙けいしだけを残した。


 夜九時、種村も田中も、すでに帰宅していた。


 部屋には、俺一人。


 窓の外、市ヶ谷の坂道を、灯火管制下の街灯が薄く照らしていた。


 俺はペン軸を握り、深く息を吐いた。


 書き出しの一文――それが、最大の難関だった。


    *


 「大東亜戦争終末方策」。


 この題を、俺はすでに腹の中で決めていた。「終末」――終わりの方策である。語義からして、すでに大本営の建前を踏み越えている。


 冒頭の「戦争指導方針」を、俺はゆっくりと書きつけた。


 「昭和十九年夏秋の候を期し、主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し、政戦略の諸施策を統合して、自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む」


 筆が、止まった。


 「自主的に」。


 この三文字を書いた瞬間、俺の腹の底が、すっと冷えた。


 これまで、日本の戦争指導の大前提は「ドイツの勝利に依存し、英国の屈服を待ち、米国の戦意喪失を期する」という受動的なものであった。「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」は、その典型である。八月案も、まだその影を引きずっていた。


 しかし俺は、いま、書いた。


 「自主的に、戦争終末の機を、捕捉する」――。


 ドイツが勝とうが、負けようが、関係ない。ドイツの戦況に依存せず、日本は日本の判断で戦争を終わらせる。同盟国の動きを待たず、自国の運命は自国で決める。


 これは実質的に、三国同盟の精神からの離脱宣言であった。


 俺はペンを置き、しばらく天井を仰いだ。


 窓の外、月は出ていなかった。雲が低く東京の空を覆っていた。


    *


 九月十四日、夜半。


 俺は罫紙の上で、すでに二十数枚を反故にしていた。


 書き出すたびに、筆が止まる。これがどういう書類なのかが、俺自身の腹に重く響くからだ。これは、参謀本部第十五課の一課長が、参謀総長を介して御前会議の国策決定に異議を唱える文書である。形式上は「具申」、しかし内容は実質的な政策転換の提案。


 しかも、その骨子は開戦時の「腹案」を根底から否定している。


 筆先が、わずかに震えた。


 俺は再びペンを取り、三本の柱を確定させた。


 第一、ドイツ崩壊以前に、日本は自主的に対米英妥協和平を策す。仲介の主軸は、対独中立を保ち、かつ日本と中立条約を結んでいるソ連を想定する。


 第二、昭和十九年夏秋を期し、対米「必勝不敗」の戦略態勢を確立する。具体的には、絶対確保線を中部太平洋・西部ニューギニア線で構築し、敵の反攻に一大打撃を与え、その上で和平交渉を有利に運ぶ。


 第三、万一ドイツが先に崩壊した場合、日本もこれを機に終戦に踏み切る。


 いずれの項も、開戦時の「腹案」とは骨格から異なる。腹案は、ドイツの勝利と英国の屈服を前提とし、米国の戦意喪失を受動的に待つものだった。九月案は、ドイツの敗北を前提とし、日本の主体的な選択で米英との直接和平を図る。


 主体は、日本である。


 ここまで、まる一日と半夜を費やした。


    *


 九月十五日、未明。


 俺は本文の次に「別紙」三通を書き起こし始めた。


 別紙第一――対ソ譲歩条件。米英との仲介役をソ連に引き受けさせるための「お土産」である。


 俺はペンを止め、しばらく目を閉じた。


 ここが、最も書きにくい一節だった。


 「満州国の非武装」。


 書きつけた瞬間、俺の手はわずかに止まった。満州国は、関東軍が血を流して築いた帝国の生命線である。それを「非武装化」するとは、実質的にソ連への引き渡しに近い譲歩を意味する。陸軍の主流派が読めば、卒倒するであろう。


 しかし、俺は書いた。書かねばならぬ。米英との和平をソ連の手で実現させるためには、ソ連にそれだけの動機を与えねばならぬ。


 続けて――。


 「北樺太利権、および漁業権の返還」。


 「亜欧連絡の打通だつう」。


 亜欧連絡の打通。これは、米国からソ連への援助物資輸送ルートに、シベリア鉄道経由・日本海ルートを開放する、という意味である。同盟国ドイツに対する、決定的な背信。


 しかし、俺は書いた。


 ドイツはすでに、先に裏切りつつある。バチカンを通じて米英と手を組もうとしているのは、彼らの方だ。日本だけが、信義のために自滅する義務はない。


 別紙第二――対英米講和条件、戦争が比較的有利に展開した場合。


 別紙第三――対英米講和条件、不利な妥協をせざるを得ない場合(いわゆる本音の最低線)。


 俺は別紙第三に、こう書きつけた。


 一、無併合・無賠償。

 二、米国の四原則の承認。

 三、三国同盟の破棄。

 四、中国からの撤兵、日中戦争前への復帰。

 五、仏印以南の南方地域からの撤退、昭和十五年九月以前への復帰。

 六、内南洋の非武装。


 すべて、開戦前の日米交渉ラインまでの全面後退である。日中戦争の推進と三国同盟の締結が対米戦争を引き起こした、という客観的な反省に基づく。


 書き終え、俺はしばらく動けなかった。


 もしこれが、この一綴りが、何かの拍子に作戦課の手に渡れば――いや、軍務局長や陸軍大臣の机に正規の手続きを経ずに置かれれば――俺はおそらく、その夜のうちに憲兵隊に拘束されるだろう。降伏主義者、敗北論者、国賊。罪状はいくらでも作れる。


 筆を置いた。


 窓の外、九月十五日の払暁の薄明かりが、市ヶ谷の空に低く差し始めていた。


    *


 九月十五日、午後。


 俺は課員たちにいつもより遅く挨拶し、自席で別の業務に取り組む振りをした。机の引き出しの奥に、書きかけの綴りを隠す。種村がちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。


 その日の夕方から夜にかけて、俺はもう一度自席に残り、別紙第三を含む全文を徹底的に推敲すいこうした。文言を整え、論理の矛盾を消し、読み手が反論しにくい文章へと仕上げていく。


 この作業を誰かに手伝ってもらえれば、半日で済むだろう。


 しかし、頼めない。


 種村中佐に頼めば、彼は「参謀本部の分を越える」と、また反対するかもしれぬ。田中中佐は堅実な実務家だが、これほどの極秘文書を共有するには、まだ信頼関係が浅い。その他の課員には荷が重すぎる。


 結局、俺一人で書く。それが最も安全な道であった。


 しかし――孤独だった。


 ペンを置いた瞬間に襲ってくる疲労が、肉体ではなく精神の芯に来る。これだけのものを書きながら、誰一人、俺の肩を叩いて「よくやった」と言ってくれる人間がいない。


 もちろん、加瀬は知っている。重光閣下も、おそらく察している。だが、彼らは外務省の人間であり、陸軍の参謀本部の中でいま俺がしていることの孤独までは、分かち合えない。


 俺は引き出しの奥から、革表紙の私物の手帳を取り出した。


 ペンを取り、一行だけ書きつけた。


 ――「九月十五日深夜。誰にも、告げず。されど、書く。これは、わが軍歴の、最も重き起案なり」


 筆を置いた。


    *


 九月十六日、朝。


 罫紙、十二枚。本文と別紙三通を含めて、青い表紙で綴じた。題して「大東亜戦争終末方策」。


「種村。これより、総長閣下のところに行ってくる」


「課長殿、お顔色が」


「構わぬ」


 俺は一階下の参謀総長室へと、廊下を歩いた。


 革靴の音が、いつもよりわずかに重い。三日三晩、ほとんど眠っていない。だが、頭の芯は冴えていた。冴えすぎて、痛いほどだった。


 杉山閣下、そして秦彦三郎参謀次長――この二人の机に、いまから、これを置く。


 その後、何が起きるかは、俺には分からない。



【後書き】(松谷誠より)


 松谷である。


 九月十六日の朝、俺の手の中には十二枚の罫紙があった。


 書きながら、何度ペンを止めたか分からぬ。書きながら、何度、自分の家族の顔を思い浮かべたか分からぬ。


 これを総長閣下の机に置けば、軍歴はここで終わるかもしれぬ。


 だが、書かねば、国が終わる。


 書く方を選んだ。


────────────────────────────


■ 人物紹介(生没年・当時の階級つき)


杉山 元(すぎやま・げん、1880年〜1945年、当時63歳)※本話では言及のみ

 陸軍大将・参謀総長。第1話で松谷に「白紙」の負託を与えた、本作における松谷の最大の後ろ盾。次話で「九月案」を受け取る。


秦 彦三郎(はた・ひこさぶろう、1890年〜1959年、当時53歳)※本話では言及のみ

 陸軍中将・参謀次長。三重県出身。陸士24期。ロシア通の情報将校出身で、杉山総長を支える統帥部の実務責任者。次話で「九月案」を受け取る。


■ 用語集


「大東亜戦争終末方策」(九月案)

 昭和十八年九月十六日、松谷誠戦争指導課長が起案し、杉山元参謀総長および秦彦三郎参謀次長に直接具申した極秘の終戦構想。ソ連仲介による対米英自主和平、ドイツ崩壊を待たぬ早期決着を骨子とし、対ソ譲歩条件として満州国非武装・北樺太利権の返還・亜欧連絡打通を、対英米講和条件(最低線)として開戦前の日米交渉ラインまでの全面後退を含む。陸軍中央で起案された最初の本格的終戦構想であり、その後の終戦工作の理論的土台となる。


亜欧連絡の打通だつう

 米国からソ連への援助物資輸送ルートに、シベリア鉄道経由・日本海ルートを開放するという、九月案の対ソ譲歩条件の一つ。同盟国ドイツに対する決定的な背信行為に該当するが、ソ連を米英との仲介に立たせるためには不可欠な「お土産」と位置づけられた。


米国の四原則べいこくのよんげんそく

 1941年4月、ハル米国務長官が日米交渉の出発点として日本側に提示した四つの原則。すなわち、(一)領土保全と主権尊重、(二)他国の内政不干渉、(三)通商上の機会均等、(四)太平洋の現状維持(武力による現状変更の不承認)。日本側は当時これを事実上拒否し、対米開戦に至った。九月案では、これを承認することを和平条件として組み入れている。


満州国非武装まんしゅうこくひぶそう

 九月案の対ソ譲歩条件の一つ。関東軍が血を流して築いた満州国を、ソ連の信頼を得るために非武装化(実質的にソ連の影響下への引き渡しに近い形)するという、陸軍主流派には受け入れ難い譲歩条件。


腹案(対米英蘭蔣戦争終末促進ニ関スル腹案)

 開戦直前の昭和十六年十一月に決定された唯一の終戦方針。ドイツの勝利による英国の屈服と、それに伴う米国の戦意喪失を「待つ」受動的な構想で、九月案はこれを根底から書き換えるものだった。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】

・昭和十八年九月、松谷誠が「大東亜戦争終末方策」(九月案)を起案し、九月十六日に杉山参謀総長・秦参謀次長へ具申したこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、山本智之『主戦か講和か』)。

・九月案の三本柱――(一)ドイツ崩壊以前にソ連仲介で自主的に対米英妥協和平を策す、(二)昭和十九年夏秋を期して必勝不敗の戦略態勢を確立する、(三)ドイツが先に崩壊した場合は日本も終戦に踏み切る――の骨子(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。

・対ソ譲歩条件(満州国の非武装、北樺太利権・漁業権の返還、亜欧連絡の打通)と、対英米講和の最低線条件(無併合・無賠償、米国四原則の承認、三国同盟の破棄、中国からの撤兵、南方からの撤退、内南洋の非武装)の内容(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、山本智之『主戦か講和か』)。

・冒頭の「戦争指導方針」の文言(「……自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む」)が九月案の核心であったこと。


【創作部分】

・三日三晩の孤独な起案という執筆過程の描写(罫紙十二枚、二十数枚の反故、深夜の推敲、私物手帳への書き込み)は、松谷が秘密保持のため単独で起案したという事実を膨らませた創作的再構成です。起案に要した正確な日数・枚数を特定する史料はありません。

・種村とのやり取り、課内の情景は創作です。


■ 参考文献

松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年

山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年

山本智之『「聖断」の終戦史』NHK出版新書、2015年

軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 上』錦正社、2008年


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ