第10話「真田作戦課長、激怒す、九月案、敗れる」
【前書き】(真田穣一郎より)
真田穣一郎である。
松谷――あの男のことを、わしは、いま思い返す。陸軍中央において、戦争指導課長としての「和平論」は、必勝を期する作戦課にとって、甚だ迷惑な、遺憾極まる提言であった。
あの日、わしは、わざわざ松谷を、わしの課長室に呼びつけた。あの男の部下たちの前で怒鳴っては、戦争指導課の秩序が壊れる。それは、わしの本意ではなかった。
怒鳴るときは、二人きり――わしの矜持であった。
この一戦、ご覧あれ。
九月十六日、朝。
俺は参謀総長室の扉の前で、副官に取り次ぎを願った。
「松谷大佐殿でありますか。お入りください」
扉が開いた。
「失礼いたします、杉山閣下」
「おう、松谷君。入りたまえ」
杉山元参謀総長――六十三歳。陸軍三長官すべてを経験した重鎮。執務机に向かっていたが、俺の入室と同時に、椅子を回してこちらに向き直った。
部屋には、煙草の匂いが満ちていた。杉山は揉み消したばかりのシガレットを灰皿に置き、ぎょろりと俺を見た。
部屋の隅には、もう一人。秦彦三郎参謀次長が、書類を片手に立っていた。事前に副官を通して、二人同席の場を頼んでおいたのだ。
「何やら、大事な起案と聞いたが」
「は。大東亜戦争の終末方策であります」
俺は、青い表紙の綴りを差し出した。
杉山はそれを受け取り、ゆっくり、一枚、また一枚と繰った。秦次長が、その横で、同じ綴りの写しを併読する。
時計の音だけが、コチ、コチ、と刻んでいた。
俺は直立不動のまま、二人の表情を見ていた。眉一つ、動かない。
――十分。
――二十分。
ようやく、杉山が、綴りを閉じた。
「松谷君」
「はっ」
「これは、真田が読めば激怒するな」
「――覚悟しております」
杉山は、俺の眼を見た。長い、しかし鋭い視線。いつもの実務型の調整者の眼ではない、もっと深いところを覗き込もうとする、軍歴五十年の眼であった。
「戦争指導を主務とする課長として、広く、遠く、深く考究する立場からすれば、この具申は、当然と言えば当然だ。受け取る」
「ありがたく」
「しかし――」
杉山の声が、一段低くなった。
「九月二十五日の大本営政府連絡会議、三十日の御前会議――ここで採られる国策は、既に作戦課が練った『五ヵ年長期戦争指導計画』に決まりかけている。君の案を、ここで国策として採るには、わしには、難しい」
「閣下」
「いや、松谷君、誤解するな。わしが、君の案を、無視するという意味ではない。ただ、今のわしには、作戦課の主戦熱を抑え込んで、君の案を国策の中心に据えるだけの腕力は、ない。これは、わしの不徳と思え」
俺は、息を呑んだ。
杉山閣下は、自らの限界を、率直に認めておられる。
承詔必謹の人。陛下のご意向のあるところには、必ず立つ御方。しかし、自ら大局を切り開いて部下を引っ張るタイプではなく、組織の決定に追随することの多い御方――そう、佐藤局長から、わしは聞いていた。それが、この瞬間、現実として目の前にあった。
秦次長が、横から、低く言った。
「松谷大佐」
「はっ」
「君の起案は、ここに記録する。しかし、写しは、最小限の関係者にしか回さぬ。作戦部にも、原則として渡さぬ」
「次長――」
「ただし、作戦課長の真田には、君から直接、説明したほうがよかろう。彼が後で文書で見るより、君の口から、直接、聞いた方が、まだ救いがある。わしから、真田に伝えておく」
「拝承いたしました」
「諦めるな、松谷大佐。今すぐの国策化は、難しい。しかし、戦争指導課というわが部署のあり方そのものを、わしは、考え直しておる。一月ほど、待て。十月の中頃、機構改革を考えておる」
俺は、深く頭を下げた。
*
その日の昼下がり。
参謀本部三階、作戦課・課長室。
俺は、副官に通され、扉を叩いた。
扉の向こうから、低い声がした。
「入れ」
俺は、軍帽を脇に抱え、入室した。
作戦課長室は、戦争指導課の部屋と同じ階にあるが、室内の空気はまるで違っていた。広い机の上に、各方面の戦況地図が広げられ、壁には太平洋の大地図と中国大陸の大地図、そして欧州戦線の地図。机の隅には、直通電話。シガレットの煙が、どこか張り詰めた印象を、室内に漂わせていた。
真田穣一郎作戦課長は、机の向こうに坐ったまま、俺を見上げた。
その手には、俺の「終末方策」の写しが、すでに握りしめられていた。総長から、すぐさま彼の机に回されたのだろう。
「松谷大佐、坐れ」
俺は、机の前の椅子に坐った。
部屋には、二人だけ。真田と俺。副官は、退室していた。
「これはッ、何の真似だ」
真田は、開口一番、綴りを机に叩きつけた。
声を抑えてはいる。だが、その分、腹の底から押し出される圧があった。
「我が作戦課は、いま『五ヵ年長期戦争指導計画』で、昭和二十三年末までの長期不敗体制を構築しようとしている。絶対国防圏を設定し、敵の反攻を中部太平洋線で撃摧する。それが、我が陸軍の道だッ」
「真田課長」
俺は、姿勢を正したまま、静かに返した。
「作戦指導の責任者として、必勝を策されるお立場、そのこと、小官は当然と思惟いたします」
「ならば、なぜ、こんなものを書いた」
俺は、ようやく、顔を上げた。真田の眼を、まっすぐ見据えた。
「戦争指導を主務とする小官としては、さらに広く、遠く、深く考究しなければならぬ立場にあります。ドイツが敗れた時、日本はどうするのか。絶対国防圏が崩れた時、日本はどうするのか。その備えを今からしておくのが、戦争指導課の任務であります」
真田の顔が、朱に染まった。
「貴様ッ、和平論で、陸軍の士気を毀つ気かッ」
ようやく、声を荒げた。
しかし――俺は、彼の眼を逸らさなかった。気づいた。彼は、ここでも、机を立ってはいない。怒鳴り声は、課長室の扉の外に漏れぬほどに、抑えられていた。彼は、わざと俺をここに呼んだのだ。戦争指導課の部下たちの前で、俺と衝突するのを、彼自身が避けた。
なるほど、と俺は腹で頷いた。
この男は、やはり、馬鹿ではない。陸大四十期恩賜、つまり首席卒業組である。並みの主戦派ではない、頭の切れる主戦派だ。
「士気を毀つのではありません。最悪の事態にも、陸軍が陛下と国を護れるように、今から備えるのです」
「松谷、貴様は――悲観論者だな」
「春に、佐藤局長らの席で申し上げました。悲観ではなく、直視です」
沈黙が落ちた。
真田は、俺の顔を、しばらくじっと睨んでいた。歳は俺より下だが、視線の重みは、ずしりと圧があった。
彼は、何かを言いかけ、しかしそれを呑み込み、もう一度、別の言葉を選んだ。
「松谷」
「は」
「貴様、これを、軍務局長や、陸軍大臣には、見せたか」
「いいえ。総長と次長のみであります」
「……ふん」
真田は、苦々しげに鼻を鳴らした。
真田は、椅子の背にもたれた。シガレットに火を点け、深く吸った。煙が、ゆっくりと天井へ上っていく。
しばらく、彼は何も言わなかった。
やがて、低く、重く、言った。
「松谷。御前会議で、貴様の案は葬る」
「は」
「貴様の名は、わしの記憶に留める。覚悟しておけ」
「拝承いたしました」
「下がれ」
俺は、立ち上がり、敬礼した。綴りの写しは、真田の机の上に残されたままだった。
扉を出る時、振り返らなかった。
廊下に出て、扉を後ろ手に閉めた瞬間、俺は、自分の額に、わずかに汗がにじんでいることに気づいた。
戦争指導課の自分の部屋へ戻る道のりが、いつもより遠く感じられた。種村も橋本も田中も、俺がたった今、何をしてきたのかを、知らない。そして、これから先も、知らせない。彼らの安全のために。彼らの将来のために。
九月案は、陸軍の中で、二人の人間――俺と真田――の間にだけ、いま、存在していた。
いずれ、もう一人――陸軍大臣・東條英機の耳に、届く日が来るのか。それは、まだ、わからない。だが、来た時が、勝負だ。
*
九月二十五日、大本営政府連絡会議。九月三十日、御前会議。
俺は、いずれの席にも、出ていない。出席者は、首相、外相、陸海相、両統帥部長――俺のような一課長は、列席資格すら持たない。
ただ、出席した杉山総長から、後日、結果を聞いた。
国策として採択されたのは、作戦課の「五ヵ年長期戦争指導計画」。「絶対国防圏」の設定――千島、小笠原、内南洋中西部、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを絶対に確保する圏域とし、昭和二十三年末までは戦争を継続する――という、長期戦の構え。
「今後採るべき戦争指導の大綱」として正式採択された文書には、こう書き込まれていた。
「随時敵の反攻戦力を捕捉破摧す」――徹底抗戦、長期戦。
俺の「九月案」は、正式な国策には、一行たりとも反映されなかった。
御前会議の席上、当時の枢密院議長――鈴木貫太郎海軍大将――が、絶対確保の決意について質した時、議場は一瞬、緊張に包まれたという。
それでも、東條首相の強弁で、国策は強行採択された。
――陛下は、どう聞かれたのだろうか。
杉山によれば、陛下の表情は、会議の間、暗く沈んだままであった、という。
*
九月三十日の夜。
俺は、参謀本部の自室に独り残っていた。
他の課員は早く帰した。種村にも、「今夜は、独りでよい」と言って下がらせた。
窓の外、月は見えなかった。分厚い雲が、東京の空を覆っている。風の音だけが、市ヶ谷台を吹き抜けていた。
俺は、机上の電話に手を伸ばした。
受話器を握る手が、自分でもわかるほど震えていた。
外務省・大臣官房の交換手に番号を告げ、しばらく待つ。やがて、聞き慣れた声が出た。
「加瀬です」
「松谷だ」
「松谷さん、御前会議は」
「……敗れた」
声が、自分の声でないように低くかすれた。
「九月案は、一行も、国策に入らなかった。五ヵ年長期、絶対国防圏――これが、わが国の新しい国策だ」
しばらく、受話器の向こうは静かだった。
俺は、ふと、部屋の暗闇を見つめていた。電気スタンドの黄色い光だけが、机の上を照らしている。
やがて、加瀬の声が、低く、しかし明瞭に返ってきた。
「松谷さん。一度の敗北で、終わりではありません」
「しかし――」
「聞いてください。我々の敵は、時間です。しかし時間は、我々の味方でもある。昭和二十三年末まで戦えるとあの連中は信じているが、現実には、あと一年も経たぬうちに、絶対国防圏は崩れます」
「……」
「その時、誰が信用されるか。九月案を書いた者――あなたです、松谷さん」
俺は、受話器を握りしめた。
目の奥が、熱くなった。
起案の三日三晩で泣かなかった俺が、真田の課長室で泣かなかった俺が、御前会議の結果を聞いて泣かなかった俺が、いま、加瀬の声で、初めて――。
しかし、流しはしなかった。
軍人の流すものではない。これは、戦闘中の涙だ。
「九月案は、敗れた」
俺は、絞り出すように、言った。
「だが、俺は止まらない」
「止まらないで、ください」
加瀬の声は、細く、しかし、まっすぐだった。
受話器を置いた後、俺は『機密戦争日誌』を開き、九月三十日の欄に、無機質な事実だけを書き込んだ。
――「御前会議、『今後採るべき戦争指導の大綱』採択。絶対国防圏設定」
ただ、それだけ。九月案については、ただの一字も、書かなかった。これは、誰の眼にも触れさせてはならぬ仕事だ。
筆を置き、私物の手帳を取り出し、こう書きつけた。
――「九月三十日。九月案、葬らる。されど、闘い、これより始まる。秦次長より、一月後の機構改革を予告さる。これは、英断なるか」
筆を置き、俺は深く息を吐いた。
市ヶ谷の夜は、静かに更けていった。
【後書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一です。
あの夜、松谷さんから電話を頂いたとき、私は受話器の向こうの彼の沈黙の重さに、息が詰まりました。
しかし、彼の最後の一言――「だが、俺は止まらない」――を聞いたとき、私は、この男と一生を共にしようと決めたのです。彼が止まらない限り、私も止まらぬ。それは私が、自分自身に対して密かに立てた誓いでした。
次回、十月十五日。陸軍中央に、組織改編の嵐が吹き荒れます。戦争指導課は「班」に縮小され、しかし――それは秦次長の英断でもありました。
【次話予告】
十月十五日、大本営陸軍部の機構改革。第十五課(戦争指導課)は作戦部から外され、参謀総長・参謀次長の直属機関「第二十班(戦争指導班)」へと改編・縮小される。表向きは降格だが、これは秦次長の英断であった。主戦派の作戦部の影響下から、終戦研究を切り離す。俺は、他の業務を部下に任せ、終戦工作の極秘研究に専心することになる。




