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第8話「1943年秋、重光・松谷ラインの結成」

【前書き】(松谷誠より)

 松谷だ。

 九月十三日、月曜日。半年間積み重ねてきた水面下の連携が、ついに「同盟」へと進化する日であった。


 この日、奇しくも、もう一つの歴史的な出来事が、はるか遠いモスクワで起きていた。だがそのとき、俺は知らなかった。

 昭和十八年九月十三日、午前九時。

 俺は参謀本部から都電で霞が関方面に向かった。

 

 目指すは外務省。


 銀杏並木はまだ青い。日比谷の空も、晴れていた。

 

 九月八日のイタリア無条件降伏から、五日。

 

 この五日間、俺は迷った。動くべきか、もう少し待つべきか。だが、迷えば迷うほど、答えは一つに定まっていった。

 

 動くしかない。今日、動かねば、間に合わぬ。

 

 なぜ、間に合わぬのか。それは、俺の腹の中に、一つの数字が、鉛のように沈んでいたからだ。

 

――船舶。


 戦争指導課で、夏の間、何度も研究を重ねてきた数字。日本の作戦遂行のために必要な船舶徴用量と、それによって民間需要がどこまで圧迫されるか。鉄鋼生産、食糧、石油精製、軍需工業――すべては、船で運ばれる。船が止まれば、国が止まる。


 俺たちの研究の結論は、冷酷だった。


 来年一杯。


 昭和十九年(一九四四年)の暮れ、これがおそらく日本の戦争遂行能力の限界である。それ以降は、軍も民も、共倒れになる。


 この数字は、作戦課の主戦派には、まだ共有されていない。彼らは依然として「昭和二十三年末まで戦える」と信じている。あるいは、信じたいと欲している。


 しかし、戦争指導課が冷徹に算定した結論は、彼らよりも遥かに短い、わずか一年三ヶ月であった。


 ――この数字を、俺は今日、重光閣下にお伝えする。


 軍の機密だ。陸軍省軍務局の佐藤局長にすら、この数字の確定値は、まだ正式には共有されていない。それを、俺は政府の外相に、口頭で流す。


 越権である。だが、やる。


    *


 午前九時三十五分、外務省・大臣官房応接室。


 義足の音とともに、重光閣下が現れる。奥の扉から、加瀬俊一も静かに入室し、俺の隣に坐った。


「来たか、松谷君」


 重光は、俺の眼を見るなり、こう言った。


「イタリアの件で、来ると思っていた」

「は」


「四月以来、加瀬経由で、君の流してくれる戦局情報には、たびたび目を覚まされてきた。礼を言う」

「いえ、外相」


 俺は、軍服の襟を整えた。


 ここからが、本日の本題である。


「外相閣下。本日参上いたしましたのは、五つの事柄を、お伝え申し上げ、ご相談申し上げるためであります」


「五つ。よかろう。聞こう」


 重光は、義足を組み直し、応接椅子に深く坐り直した。


    *


「第一――」

 俺は、声を低めた。


「統帥部としても、戦争終末について、考え置くことが必要であると、考えるに至りました」


 重光の眉が、わずかに動いた。隣で、加瀬が息を呑んだのが、わかった。


「ただし、これは、政府より切り出すべきものでありまして、統帥部としては、言い出し得ざるものであります」


 俺は、深く頭を下げた。


「軍の建前として、作戦を指導する統帥部の側から『戦争を終わらせよう』と公に提案することはできませぬ。主戦派が一斉に潰しにかかります。陸軍中央は、いまもなお必勝を叫んでおります。その内側から、終戦を口にすれば、その者は即座に追放されます。ですから、政府の側から、外交上の判断として、戦争終末への布石をお打ちいただきたく」


「うむ」


 重光は、深く頷いた。


「第二――」

 俺は続けた。


「ここから、軍機に触れる話を、申し上げます」


 重光と加瀬の眼が、わずかに鋭くなった。


「近日中に、御前会議等にて、作戦用船舶の大量徴用が、正式に決定される見込みであります。これにより、民需に回せる船舶は、極端に減少いたします。生産状況、輸送、国民生活――すべてに、致命的な影響を及ぼします」


「うむ」


「統帥部の冷徹な算定によれば、現状の徴用量と損耗の趨勢を勘案いたしますと、戦争を遂行できる時間的限度は――」


 俺は、ひと呼吸置いた。



「来年(昭和十九年)、一杯。それが、限度であります」



 重光の動きが、止まった。


 大臣がこんなに長く沈黙されたのを、俺は見たことがなかった。


 応接室の窓の外、霞が関の街路樹の葉が、晩夏の風にわずかに揺れていた。

 やがて、重光は低く言った。


「来年一杯。――松谷君、それは、確たる数字か」


「は。戦争指導課で、夏の間、繰り返し算定いたしました結果であります。これ以上、長くは持ちませぬ」


「ふむ」


 重光は、しばらく義足の膝をさすった。


「統帥部としては、この一年余りに全力を尽くす、という覚悟であります。だからこそ――この一年のあいだに、終戦への外交的布石を、政府にお打ちいただかねば、間に合わぬのであります」


「了承いたした」


 重光の声は、低いが、揺るぎがなかった。

「政府として、覚悟を改める。承る」

    *

「第三――」

 俺は続けた。


「ドイツとの共同宣言につき、ご相談申し上げたく」

「共同宣言」


「は。三国同盟の枠組みの中で、日独共同の戦争目的を、改めて宣明する文書であります。これを、戦争終結への含みを持たせる形で、整理し直したく考えております」


「ほう」


「現状の戦争目的は、ドイツの『新秩序建設』、日本の『大東亜新秩序』――いずれも、攻勢的・拡張的な響きを帯びております。これでは、講和への糸口は、開けませぬ」


「うむ」


「したがって、日独で目的を一致させる過程において、もう少し、防勢的・自衛的な性格を、前面に押し出したく――」


「松谷君、それは『自存自衛』への回帰、か」


 重光は、俺の言葉の先を、半歩、先に読んだ。


「は」

 俺は、頷いた。


「これが、第四点であります。開戦の詔書には、明確に『自存自衛』の語があります。これに立ち戻ることで、わが国の戦争目的は、決して攻撃的な拡張ではなく、自国の生存と防衛のためである、と国際社会に対して再表明できます。これは、講和への――言い換えれば、戦争終末への――一つの足場を、確保することになります」


 重光は、しばらく考え込んだ。


 やがて、彼は、首を、ゆっくりと横に振った。


「松谷君、君の構想は、わかる。理解する。だが今日、いきなり『自存自衛』に戻すと、敵の宣伝にかえって利用される恐れがある」


「と、申されますと」


「敵は、こう言うであろう。『日本は、緒戦で領土を奪うときは「大東亜新秩序」「アジア解放」と言っていたが、戦況が傾くと急に「自存自衛」と言い出した。これは敗北主義の表れだ』と。世論戦で、わが方は不利になる」


 俺は、息を呑んだ。


 外交官の見方は、軍人とは違う。重光閣下は、宣言文の一語一語が、世界の世論にどう響くかを、瞬時に計算しておられる。


「わしは、就任以来、『新秩序』という言葉は、できるだけ使わぬようにしておる。『大東亜新政策』『対支新政策』――そういう、実態に即した用語を選んでおる。『自存自衛』を強調するのも、もう少し時期を見て、しかるべき場で行わねばならぬ」


「拝承いたしました」


 俺は、頭を下げた。

 学んだ。これが、外交である。軍人の率直さだけでは、対外宣伝戦に、勝てぬ。


「ただし――」

 重光は、続けた。


「日独共同宣言の機会があるなら、九月二十六日――三国同盟成立三周年の日に、何か出すことを、考えてみよう。それも、『新秩序』ではなく、もう少し、防勢的な含みを持たせる形で」


「ありがたく」


    *


「第五――そして、最後でございます」

 俺は、姿勢を正した。


「以上、第一から第四の事柄は、軍務局長を含む陸軍省の関係者には、内密といたします。閣下と、加瀬さんに限り、お知らせいただきたく」


「我々だけ、と」

「は。最終的な大方針は、政府側でお決めいただきたく。陸軍省や陸軍大臣を経由いたしますと、必ず、漏れます。漏れれば、潰されます」


 重光は、しばらく、俺の眼を見ていた。


「松谷君」

「は」


「君は、自分の所属する組織を、半ば、信用しておらぬのだな」


 俺は、答えなかった。


 答えられなかった。


「いや、責めておるのではない。むしろ、そういう冷徹な見方ができるからこそ、君は今日、ここにいるのだ」


 重光は、ふっと苦笑した。


「ただし、わしから、一つだけ申し上げる」


 彼の声が、急に厳しくなった。


「重大な事件を、下僚にて決定し、上司は単にこれを承認する――こういう、わが軍部のやり方は、時機を逸する。よろしくない。君は今日、この応接室で、軍務局長には内密の話を、わしに直接、している。それは結構だ。だが、本来あるべきは、陸軍大臣や軍務局長が、自らの覚悟で、わしのところに来ることだ」


「閣下――」


「君のしておることは、英断だ。同時に、君の組織が病んでいる(あかし)でもある。両方を、わしは認識した上で、君と組む。そういう覚悟を、わしも、するということだ」


 俺は、深く一礼した。


    *


 最後に、俺は、もう一つだけ、重光閣下に問うた。


「閣下、ソ連を、仲介に使うことは――」


 重光は、わずかに苦笑した。


「松谷君、忌憚(きたん)なく申すぞ。対ソ仲介は――実は、わしから見れば、あまり実現性のない道だ」


「はっ」


「就任以来、独ソ関係の調整に心を砕いてきた。だが、ドイツ側は、自信過剰で、決意が堅い。対ソ関係はますます感情的になっておる。独ソ和平の調整は、目下のところ困難だ。時間を要する」


「では、ソ連を介した対米英和平は」


「やってみる価値は、ある。あるいは、やってみるという過程それ自体が、終戦への国内の意思を固めるかもしれぬ。だが、過大な期待は、禁物だ」


「拝承いたしました」


 重光は、立ち上がり、俺の手を、強く握った。


「政府として、君の構想を支える。具体策は、追って、加瀬経由で伝える。さらに――」


 彼は、わずかに、俺の眼を覗き込んだ。


「『陸軍の空気の中にあって、真に国家の将来を案じている、唯一の真の男』――松谷君、わしは、君を、そう思っておる」


 俺は、息を呑んだ。


 軍隊で四十年、過ごしてきた。「悲観論者」「消極論者」と陰口され、左遷もされた。だが、こうして真正面から、政府の最高責任者の一人から、こう評していただいたのは、初めてだった。


「過分のお言葉、痛み入ります」


 俺は、深く頭を下げた。


 四月の握手は、九月、ついに「同盟」へと進化した。


 「重光・松谷ライン」――後世、そう呼ばれるこの細い結び目は、この日、霞が関の応接室で、確かに、結ばれた。


    *


 応接室を出る時、加瀬が一歩、俺に近づいた。


「松谷さん」

「はい?」


「私もまた、外相と同じ思いです。あなたは、職業軍人にしては珍しく、大局を見る明があります」


 加瀬の眼は、まっすぐだった。

 俺は、しばらく言葉を返せなかった。


「ありがたく」


 加瀬もまた、深く一礼した。


    *


 外務省を辞した俺は、しばらく霞が関の歩道を歩いた。

 陽はまだ高く、官庁街の石壁は白く輝いていた。


 あとは、参謀本部の中で、闘うのみ。


 九月案――「大東亜戦争終末方策」――を、書き上げる。書き上げて、杉山閣下と秦次長の机に、置く。


 俺は流しのタクシーを拾った。


「市ヶ谷へ」


 窓の外、霞が関の樹々が、晩夏の風に揺れていた。


    *


 俺は、知らなかった。


 この同じ日、ちょうど俺と重光閣下が応接室で握手を交わしていたその時刻――いや、そのわずか数時間後――遠くモスクワの外務人民委員部の一室で、ヴャチェスラフ・モロトフ外相が、佐藤尚武大使に、冷たい一言を告げていたことを。


 「現戦局において、ドイツと休戦または講和をする可能性があるとは、考えない。日本政府の申し出は、受諾できない」


 日本政府が、八月から打診していた「対独和平斡旋のための特使派遣」――その最初の企てに対する、ソ連からの正式な拒絶通告であった。


 俺の九月案の最大の柱――ソ連仲介――の、最初の試金石が、この日、モスクワの石造りの部屋で、音もなく折れていた。


 俺がその事実を知るのは、数日後である。


 そしてその時、俺は、ペンを止めなかった。


 ソ連の拒絶は、ある。しかし、ほかに道は、ない。やってみる過程それ自体が、終戦への国内の意思を固めるかもしれぬ――重光閣下のあの言葉を、俺はその後の二年間、何度も、何度も、自分自身に言い聞かせることになる。

【後書き】(重光葵より)

 重光葵である。


 あの日、わしの応接室で、松谷君が「来年一杯」と数字を口にした瞬間、わしは、覚悟を決めた。


 陸軍の中に、こういう男が、まだいる。組織の論理を踏み越えて、国家の将来のために、自分一人が泥をかぶろうとする男が。彼が泥をかぶる以上、わしも、政府の側で、共に泥をかぶらねばならぬ。それが、わしの政治家としての矜持(きょうじ)であった。


 次回、松谷君は、市ヶ谷の自席に籠もります。三日三晩、ろくに眠らず。出来上がるのは、十二枚の罫紙――題して「大東亜戦争終末方策」。

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