第7話「1943年夏、陸軍と外務省 水面下での接触」
【前書き】(松谷誠より)
松谷誠だ。
四月下旬、外務省の大臣室で重光葵閣下と握手を交わした。その晩、霞町の小料亭で加瀬俊一と猪口を合わせた。
あれから九月十三日に再び霞が関の扉を叩くまでの四ヶ月余り――この期間、何もなかったわけではない。むしろこの数ヶ月こそが、後のすべての闘いの土台を築いた、静かで濃密な「地下水脈」の時期だった。
今日は、その数ヶ月の話をしよう。
【本文】
昭和十八年五月、下旬。
ある夕刻、加瀬俊一から短い電話が来た。
「今夜、芝の小料理屋へ。お見せしたい数字があります」
俺は戦争指導課の業務を片付け、背広に着替えて芝へ向かった。
梅雨入り前の、湿った夜気。二階の小座敷で、加瀬はすでに待っていた。膳の脇に、手帳が一冊。
「数字、とは」
坐るなり俺が問うと、加瀬は手帳を開いた。
「米英国力の実相です。北米一課の分析と、中立国経由の情報を突き合わせました。――松谷さん、まず航空機から」
加瀬の声は静かだった。
「米国の航空機生産は、昨年一年でおよそ四万七千機。本年は――八万機を超える見込みです」
俺は猪口を持つ手を止めた。
「……八万」
「わが国の本年の見込みは、よくて一万六、七千機。差は五倍。来年はさらに開きます」
「船はどうか」
「リバティ型の輸送船が、平均して一日に三隻、進水しています。年間で一千万総トンを超える勢い。わが国の年間建造量の十倍以上です」
俺は黙って手帳の数字の列を見つめた。
几帳面な細かい字で、生産量、就役数、損耗推定が月別に並んでいる。野尻の「主要物資需給見透」と同じ眼を持つ男が、海の向こうの国力を測っていた。
「空母は」
「エセックス型の正規空母だけで十数隻が建造中。護衛空母を含めれば、年内に数十隻が就役します。――大本営発表を信じれば、米海軍の空母はとうに太平洋から消えている計算ですが、現実には、沈めた数より多くの空母が毎月、新たに進水している」
遠くで省線の汽笛が鳴った。
俺は猪口を干し、長く息を吐いた。
「……野尻の数字と突き合わせてみる。だが、結論はもう見えている。彼我の開きは時間と共に幾何級数で開く。決戦で一度や二度勝っても、埋まる差ではない」
「この数字を見て、なお戦争を続けられると言う者がいたら――それは数字の読めない人間か、読みたくない人間です」
「軍の中央は、その両方で満ちている」
加瀬は手帳を閉じ、静かに言った。
「だから、あなたに見ていただきたかった。数字を読める軍人に」
俺はこの夜の数字を、生涯忘れなかった。
絶望の数字である。しかし、絶望を正確に知る者だけが、正しい出口を測ることができる。
*
六月初旬。
俺は加瀬と再び芝の小料理屋で差し向かいに坐っていた。
いや――今夜は、俺が呼んだのだ。
「加瀬さん。先日の数字の礼に、というわけではないが――今日は俺から申し上げたいことがある」
加瀬は猪口を置き、俺を見た。
「重光閣下の持論――『作戦と外交の緊密化』。四月にお会いした時から、ずっと考えていた。あれは正しい。外交が作戦の実相を知らずに、終戦の時機など計れるはずがない。だが現実には、大本営は政府にすら本当の戦況を伝えていない」
「……」
「今日から、俺の責任においてやる。主要な戦局ごとに――節目節目に――作戦の実相を、あなたと重光閣下に連絡する。書類は残さぬ。口頭のみだ」
加瀬はしばらく俺の眼を見ていた。
「松谷さん。軍機保護法、国防保安法――ご承知の上ですね」
「最高刑は死刑。承知の上だ」
「……ありがたく、お受けします」
俺たちは猪口を合わせた。
以後、俺はこの約束を一度も破らなかった。
アッツ玉砕の実相。北アフリカ独伊軍降伏の戦略的影響。ガダルカナル以後のソロモン諸島・ニューギニア戦線の本当の損耗。船舶喪失の累計。航空機損耗の真実。
いずれも、大本営発表の「戦果」とはまったく別の絵図であった。
加瀬もまた、受け取るだけではなかった。外務省・北米一課が把握する米国生産力の最新統計、各国駐在公使からの欧州内幕電報、加瀬自身のロンドン以来の英米人脈――これらを俺に還流してくれた。
軍と外交が、人の眼に触れぬ細い管で結ばれていく。
*
六月のある日、戦争指導課の自席。
加瀬の数字は、書き写さなかった。あの夜のうちに、すべて頭に刻んできた。
俺は種村中佐、田中中佐、野尻少佐を呼んだ。
「諸君、本日より本課の研究をもう一段、深める」
「題は『彼我戦力変転の予想、特に国力判断』、および『情勢判断』。船舶損耗、鉄鋼生産、航空機補充、米国生産力――これらの数字を徹底的に集める。そして、ジリ貧の予測を立てる」
種村が低く頷いた。彼はいまや表向きは俺の路線に従っている。完全な納得ではないが、職業的良心が現実のデータの重みを認め始めていた。
七月二日、別館。
俺たちは終日、研究にあたった。日誌の執筆を担当した田中中佐は、その夜こう書きつけた。
――「此儘推移センカ、国力ハジリ貧状態ヲ辿リ、遂ニ積極的行動ヲ執リ得サルニ至ルヤヲ恐ル」
ジリ貧。
その三文字が戦争指導課の課員全員の腹に共有される瞬間だった。
七月四日には「長期戦指導要綱(案)」を起案した。表向きは長期不敗体制の確立。しかし、その文書の根底にはこう書いてあった。
――「長期不敗ノ戦略態勢ヲ確立シツ、国家戦力ヲ充実シ以テ世界戦争ノ主導権ヲ把握シテ終戦ニ臨ムコト、其ノ根本ナリ」
不敗体制の確立は、終戦に持ち込むため。
その文言を俺は、種村にあえて筆録させた。種村が自らの手で「終戦」の二文字を文書に書き込む――それ自体が、彼の認識の転換の一つの里程標であった。
*
七月二十五日、ローマからの一報。
ムッソリーニ、失脚。
その夕方、俺は加瀬から電話を受けた。
「松谷さん、ムッソリーニが倒れました。もう、書かねばなりません」
「書く、とは」
「論策です。題は『戦局に関する一考察』。ドイツ必敗を分析し、日本は機を失わずに和平工作に着手すべし、と。家内と子どもらが軽井沢に疎開しています。夏前に長男が疫痢で生死の境をさまよいましてね――九月に入ったら三日ほど休暇をもらい、家族の顔を見ながら書き上げるつもりです。書き上げたら、内輪にしか配りません。重光外相、木戸内大臣、石井菊次郎子爵、広田弘毅、吉田茂、東郷茂徳――それと、あなた」
俺は深く頷いた。
加瀬は書く。俺は起案する。別々の机の上で、同じ絵図を同時に。
――のちに九月中旬、加瀬は予告通り三日の休暇を取り、軽井沢の家族のもとでこの論策を書き上げる。夫人とゴルフをするかたわらで、だ。憲兵に嗅ぎつけられれば即拘束されるであろう十数枚を、避暑地の机の上で。
論旨は明瞭だった。「ドイツ必敗、イタリア間もなく脱落、日本は速やかに和平工作に着手せよ」。
俺の九月案がまだ骨格すら固まっていないこの夏、加瀬は外交官の側からすでに同じ結論へ歩を進めていた。
俺たちは同じ山を、別の方角から登っている。
*
八月五日。
杉山参謀総長から戦争指導課に、機微な指示が降りた。
「陛下より、独ソ妥協についてご下問あり。研究せよ」
俺は息を呑んだ。
陛下は、戦争の前途を独ソ妥協という外交手段で打開する道があるか、お探りになっておられる。これは終戦への、初めての具体的な御意向の発露であった。
俺は即座に種村中佐を主任として、独ソ和平調停問題の再検討に着手させた。
数日後、課内の意見はこうまとまった。
――「独『ソ』和平ノ実現ハ帝国ノ希望スルトコロナルモ、今日ハ尚其ノ時機ニアラズ。先ヅ独ノ国力判断ニ努メ、其ノ後機ヲ見テ、帝国ノ誠意ヲ披瀝シテ和平ヲ勧告スル如クスルヲ可ト認ム」
いまはまだ早い。だが、機を見て日本がドイツに対して和平を勧告する。これは「日独伊三国同盟の盟主として、日本がドイツに頭を下げて言う」という構想に等しい。陸軍中央のドイツ派が知れば、卒倒するであろう。
しかし、これを促したのは陛下のご下問だった。
俺は研究結果を、杉山閣下経由で上奏できる形に整えて提出した。陛下のご意向に応える、初めての具体的な答案であった。
*
八月二十一日。
俺は自席で「大東亜戦争終末方策」の最初の草案を書き上げていた。後に「八月案」と呼ばれる初稿である。
しかし、書き上げてみて、俺はその内容に自ら不満を覚えた。
「昭和二十一年ヲ目標トシテ、米英ノ戦意ヲ喪失セシム」――昭和二十一年。三年も先だ。長すぎる。
陸軍内の主戦派を意識し、長期戦の形を取り繕ったために、まだ抜本的な早期終戦に踏み込めていない。これは温い。これでは間に合わぬ。
俺はその草案を、引き出しの奥にいったん封じた。
*
九月八日。
イタリア無条件降伏の電報が、市ヶ谷台に届いた。
俺はその朝、自席で電報の写しを読み下しながら深く息を吐いた。
――三国同盟の一角は崩れた。ドイツも、もはや時間の問題だ。
俺は引き出しの奥から「八月案」を取り出し、それを破り捨てた。
書き直す。「自主的に戦争終末の機を捕捉する」――同盟国に依存せぬ、日本の主体的な早期終戦案を。
そして、それを実際に動かすためには、まず政府の側からの支えが要る。
九月十三日、霞が関へ。
俺の腹は決まった。
【後書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一です。
あの九月、私は軽井沢で家族の傍らに坐り、「戦局に関する一考察」を書きながら、市ヶ谷台で同じ絵図を描いている松谷さんのことを何度も思い浮かべました。
憲兵が横行する暗黒政治の中で、敗戦と和平を文書に書きつけるという命がけの作業――それを別々の机の上でたった独りで進めていた二人が、九月にはついに同じ部屋に立つことになる。
それは必然であったと、いまでも思っております。
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■ 人物紹介(生没年・当時の階級つき)
石井 菊次郎(いしい・きくじろう、1866年〜1945年)※本話で名前のみ言及
子爵。外交官。第一次大戦中の日米石井・ランシング協定の日本側当事者。元外相・駐米大使・駐仏大使。本話時点では老元老外交官として、加瀬の極秘論策の配布対象となった少数の有力者の一人。
広田 弘毅(ひろた・こうき、1878年〜1948年)※本話で名前のみ言及
外交官・政治家。元内閣総理大臣・外務大臣。本話時点では民間にあって時局を案じる重臣の一人。戦後、東京裁判で文官唯一のA級戦犯として絞首刑。
東郷 茂徳(とうごう・しげのり、1882年〜1950年)※第6話で名前のみ既出、本話で再言及
外交官。本話時点では、開戦時外相を経て民間にあった。後に、本作後半の鈴木貫太郎内閣で外相として終戦の中核を担う重要人物として再登場。
■ 用語集
「作戦と外交の緊密化」
重光葵外相の持論。戦争指導においては作戦(統帥)と外交(国務)が車の両輪であり、外交側が作戦の実相を知らなければ和戦の時機を計れない、とする考え方。統帥権の独立を盾に作戦情報を政府にすら秘匿していた当時の大本営の慣行に対する、根本的な批判を含んでいた。松谷はこの持論に共鳴し、自らの責任で作戦の実相を外務省側へ連絡する決断をする。
「米英国力の実相」
昭和十八年春夏、加瀬が松谷に示唆した、米英両国の生産力・動員力に関する実勢情報。大本営発表の華々しい戦果とは裏腹に、米国の航空機・艦船の生産は日本を桁違いに上回る規模で拡大しつつあった。松谷は戦後、加瀬から与えられたヒントの実例としてこれを挙げている。
「ジリ貧」
戦争指導課が1943年7月の研究で確立した、日本の国力推移に関する見通しを示す語。船舶損耗・鉄鋼生産限界・航空機補充の三つの指標から、日本がじわじわと国力の限界に追い込まれていく状態を、課員たちが日常的に共有する認識として用いた。『機密戦争日誌』に「此儘推移センカ国力ハジリ貧状態ヲ辿リ……」と記された一節が起源。
「戦局に関する一考察」
加瀬俊一が1943年9月中旬、家族が疎開していた軽井沢の別荘で、3日間の休暇のあいだに起草した長文の極秘論策。ドイツの必敗を分析し、日本は機を失わずに和平工作に着手すべしと主張。重光葵、木戸幸一、石井菊次郎、広田弘毅、吉田茂、東郷茂徳ら極めて少数の有力者に密かに配布された。松谷の九月案と並ぶ、外務省側の同時期の理論的支柱。
長期戦指導要綱(案)
1943年7月4日、戦争指導課が起案した文書。表向きは「長期不敗体制の確立」だが、その根本目的は「主導権を握って終戦に持ち込むこと」と『機密戦争日誌』に明記された、二重構造の文書。
ムッソリーニ失脚
1943年7月25日、イタリアのファシズム大評議会で不信任を受けたベニート・ムッソリーニが、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世により解任され、逮捕された事件。後継のバドリオ政権が9月3日に連合国と秘密に休戦協定を結び、9月8日に公表した。
独ソ妥協(の御下問)
1943年8月5日、昭和天皇が杉山参謀総長に対して下された、独ソ間の和平の可能性とその仲介・斡旋について研究を命じる御下問。
八月案
1943年8月21日、松谷誠が起案した「大東亜戦争終末方策」の初稿。「昭和二十一年ヲ目標トシテ米英ノ戦意ヲ喪失セシム」という、まだ長期戦の形を取り繕った案。9月8日のイタリア降伏を受けて松谷自身により破棄され、より抜本的な「九月案」へと進化する。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・松谷が昭和十八年六月頃から自らの責任において、主要な戦局ごとに作戦の実相を外務省側(重光・加瀬)へ口頭で連絡し、昭和十九年七月の転任まで継続したこと。秘密保持のため極力書類を残さなかったこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
・加瀬が昭和十八年春夏の候における「米英国力の実相」について松谷に示唆を与えたこと。松谷が加瀬を「戦争間および戦後にわたる私の後半生に、軍人以外で最も深い影響を与えた人物」と回想し、「俊敏な外交感覚と軍部内では知り得ない内外情報の示唆」に助けられたと記していること(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
・重光外相が「作戦と外交の緊密化」を持論とし、松谷がこれに深く共鳴していたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
・昭和十八年七月二日の研究で「此儘推移センカ、国力ハジリ貧状態ヲ辿リ……」の認識が『機密戦争日誌』に記されたこと。七月四日に「長期戦指導要綱(案)」が起案され、「……主導権ヲ把握シテ終戦ニ臨ムコト、其ノ根本ナリ」の文言が記されたこと(『機密戦争日誌』)。
・昭和十八年八月五日、天皇から独ソ妥協についての御下問があり、戦争指導課が種村中佐を主任として独ソ和平調停問題を再検討し、「独『ソ』和平ノ実現ハ帝国ノ希望スルトコロナルモ……」の結論を得たこと(『機密戦争日誌』、山本智之『主戦か講和か』)。
・加瀬が昭和十八年九月中旬、三日間の休暇を取って家族が疎開する軽井沢の別荘を訪ね、夫人とゴルフをするかたわら「戦局に関する一考察」を起草し、重光・木戸ら少数の有力者に配布したこと。同年夏前には長男・英明が疫痢で発病し、夫人が看病のため帰京する苦難があったこと(加瀬俊一『加瀬俊一回想録 下』、加瀬俊一『慕情やみがたく』)。
・ムッソリーニ失脚(七月二十五日)とイタリア降伏の公表(九月八日)。
・松谷の終末方策案が長期戦型の「八月案」から、自主的な早期終戦を志向する「九月案」へと書き改められていったこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、山本智之『主戦か講和か』)。
【創作部分】
・芝の小料理屋での二つの会合(五月の「米英国力の実相」、六月の連絡開始の盟約)の日付・場所・会話の細部は、創作的再構成です。加瀬が示す具体的な数字(航空機八万機、リバティ船一日三隻など)は、戦後の検証で明らかになった米英の生産実勢に沿わせた創作です。
・「八月案」を自ら破り捨てる場面は、八月案から九月案への転換を象徴化した演出です。
■ 参考文献
加瀬俊一『加瀬俊一回想録 下』山手書房、1983年
加瀬俊一『ミズリー号への道程』文藝春秋新社、1951年
加瀬俊一『慕情やみがたく』文化出版局、1983年
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 上』錦正社、2008年
山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年




