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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第8章 小磯内閣の成立(昭和19(1944)年7月18日~)

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第77話「最低戦争指導会議」

【前書き】(加瀬俊一より)


 加瀬俊一です。


 最高戦争指導会議。


 そう聞けば、いかにも国家の運命を双肩に担う、いかめしい場のように響くでしょう。看板だけは、まことに立派でした。


 だが、その看板の末席に外務省の幹事補佐として連なっていた私は、白状すると、名に値する光景をついぞ一度も拝んだことがありません。


 もっとも、末席には末席の利があります。秘書官や幹事補佐というのは、その気になれば案外いろいろなことのできる稼業なのですよ。この話の終わりで、それがお分かりいただけるでしょう。


 事情に通じた者は、この会議をもっと正直な名で呼んでいました。


――最高ならぬ、最低指導会議、と。


 これは、絶望の戦局を前にして国家の頭脳が見事に空回りを続けた、夏から秋にかけての、いささか滑稽で、しかし哀しい数ヶ月の話です。


 そして、その空っぽの器の片隅に、後の世で国を救う一つの仕掛けが、誰にも気づかれぬまま仕込まれていた話でもあります。



【本文】


 昭和十九年(一九四四年)八月。


 小磯國昭という人は不思議な総理でした。


 予備役の陸軍大将でありながら、戦争の指導そのものに自らの手を突っ込もうとされたのです。


 総理大臣が作戦に口を出す。統帥に踏み込む。それは明治このかた軍が金科玉条としてきた「統帥権の独立」を侵すに等しいのですね。


 小磯さんは、陸海の統帥部に三つの条件を突きつけられました。


 一つ、総理大臣が大本営の一員になれるよう、大本営令を改めること。


 それが駄目なら二つ、この戦に限り、総理を大本営に加える特別の軍令を出すこと。


 それも駄目なら三つ、せめて総理が戦争指導に強く関与できる、何らかの仕組みを作ること。


 陸海の両総長は、一と二をにべもなく撥ねつけました。統帥権は、何人にも侵させぬ――と。


 残ったのは、三つ目の妥協案だけです。


 八月四日。それまでの「大本営政府連絡会議」が衣を替え、「最高戦争指導会議」が生まれました。


 国務と統帥の調整。政戦両略の吻合調整。役目を述べる言葉だけは立派に整っていました。


 重光葵大臣は、その名を聞いて薄く笑われましてね。


「最高、とはな」


「看板だけは、ご立派ですね」


「名だけだよ、加瀬君。中身は連絡会議のままだ。看板を掛け替えて総理の気を済ませた。それだけのことさ」


 大臣の見立ては、いつものように冷たく正確でした。


「小磯さんは、東條のやり方に戻ろうとしているのさ」


 大臣は窓の外の夏空へ目をやられました。


「軍と政府を一つに溶かし込んで、自分はその真ん中に座る。東條の大本営内閣と、肚は同じだ。違うのは、東條が現役の大将で、小磯さんは予備役だということ。看板を背負っても、軍は言うことを聞かんよ」


「では、なぜ陸軍はこれほど突っぱねるのです」


「統帥権がどうのと、もっともらしいことを言うがね」


 大臣の口元に皮肉が滲みました。


「本当のところは、もっと下らん。小磯さん一派の予備役連中と、いまの陸軍の主流が虫が好かんのさ。国の浮沈がかかった話を、派閥の意地で蹴り合っている」


 私は背筋が冷えました。国家の頭脳が、こんな次元で動いているのです。


「私が小磯さんを買わぬのは、ここだ」


 大臣の声が低くなりました。


「あの人は何かといえば軍の力で政治を回そうとする。そして外交を、外交官を心底から見下している。軍の力にすがり、素人の駆け引きで国の命運を弄ぶ。あんな人を国家の最高指導者に戴いたのは、この国の大きな不幸だよ」


 大臣は、しばらく窓の外を見ておられました。それから、ふと声を落とされたのです。


「外からいくら正論を吐いても、陸軍は動かん。あの巨大な岩を内から少しずつ砕ける男が、どうしても要る。肚を割って話せる、信の置ける男がな」


 私には、大臣が誰を思い描いておられるか、すぐに分かりました。


 この夏、東條に盾突いて南京へ追われた、あの松谷大佐です。私とはロンドン以来の友で、陸軍きっての頭脳でした。


「やはり、あの男が必要だ」


 大臣は、それきり口を閉じられました。ですがその横顔には、すでに密かに手を回しはじめている人の、静かな確信がありました。



 会議の卓には、六人の首脳が着きます。


 総理、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長。世に「六巨頭」と呼ばれる面々です。


 ところが、この六巨頭には妙なものがぶら下がっているのですよ。風鈴です。


 軒に吊るした風鈴のように、会議の脇には陸海の軍務局長と内閣書記官長――三人の幹事が控えています。


 涼しげに鳴っているだけかと思えば、とんでもない。本当に音を立てて会議を回しているのは、この風鈴の方でした。


 幹事が作文を拵えて卓へ運びます。すると上座で雑談していた六巨頭が「よしよし」と頷いて、それで決まるのです。


 会議が始まれば進行を仕切るのも両軍務局長で、時には参謀本部や軍令部の次長まで割り込んで喋ります。


 国家の最高方針が、こうして幕僚の手の上で転がされていたのです。


 その幹事に、さらに幹事補佐がぶら下がります。私も外務省を代表して末席に座っていました。風鈴に下がった、糸くずのようなものですね。


 会議にかける作文は、元をただせばこの糸くずどもが書いています。それを幹事がまとめ、上の御歴々が押し頂くわけです。


 考えてみれば妙な話でした。


 八月九日。第一回の会議で、重光大臣はその出来合いの作文に真っ向から異を唱えられました。


「幹事や書記局が議題を整える。そこまではよろしい。だが会議の土台となる案――ことに外交に関わる案は、外務当局にも作らせていただきたい。幹事だけで拵えたところで、結局は無駄骨に終わりましょう」


 幕僚の手で握り潰される前に外交の筋は外交の者が引く。大臣は、そう釘を刺されたのです。


 ですが会議は変わりませんでした。


 ある日の散会のあと、私は同じ末席に連なる一人と、廊下で苦笑を交わしました。


「妙な会議ですな」


 相手が、苦い顔で頷きます。


「妙だとも」


 私は、声をひそめました。


「名ばかりが、鬼の面のように仰々しい。あの卓で国の命運が転がされていると思うと、世が世なら、上等な笑い話ですよ」


 相手は、声も立てずに笑いました。


 笑うしか、なかったのです。


 私が、心の中で幾度「最低指導会議」と呼んだか、知れたものではありません。


 ただ一つ。この会議の発足にあたって、後に思いもよらぬ意味を持つ取り決めが、一つだけ結ばれていました。


 八月五日。梅津美治郎参謀総長がこう言い出されたのです。


「今後、機微にわたる戦争指導を行うには、幹事を入れずに会議をする場合も、予期しておいてはどうか」


 機密を要するときは幹事――つまり幕僚を外し、六巨頭だけで会議を開ける。一同これを了としました。


 このとき誰がこの取り決めの本当の値打ちを見抜いていたでしょう。


 幕僚の目を盗み、首脳だけが密かに卓を囲む。


 その「幹事抜きの会議」こそ、後の世――鈴木貫太郎内閣において、終戦へと舵を切る六首脳の密談の、合法の隠れ蓑となるのですから。


 ですが、それはまだ、一年も先の話です。



 会議の卓には、四つのまるで違う戦争が並んでいました。


 総理の小磯さんは「一撃和平」という幻にすがっておられました。どこか一つの戦場で敵に大打撃を与え、その勢いで有利な講和に持ち込む。


 一度でいい、勝ってから手を打つ――と。


 陸軍の杉山元帥と梅津総長は、徹底抗戦の体面を頑として崩しません。八月十九日の御前会議では、勇ましい決戦の方針が決められました。


「帝国ハ現有戦力ヲ徹底的ニ結集シテ敵ヲ撃破シ、以テ其ノ終戦企図ヲ破摧ス」


 紙の上の文字だけはどこまでも強気でした。


 海軍の米内大将は、ほとんど口を開かれません。外交のことは重光大臣に任せ、ご自分はまるで天井でも眺めるように黙っておられました。


 私には分かっていました。あの沈黙は無策ではないのです。


 米内大将はこの決戦内閣で泥をかぶることを避け、力を温存して次の出番をじっと待っておられるのですね。


 そして外務の重光大臣だけが、ただ一人冷えた目で現実を見据えておられました。


 軍は、苦しまぎれにソ連を頼ろうとしました。ソ連を味方に引き入れ、あわよくば独ソの和平を仲介させて局面を覆そう――と。


 重光大臣はその虫のよさを容赦なく斬って捨てられました。


「いまの有様で、ソ連が日本を助ける立場にあると考えるのは、誤りだ。ソ連は、日本と英米を噛み合わせて、両方とも傷つくのを望んでいる。それだけのことさ」


 ソ連は日本の敗北に乗じて己の縄張りを広げる肚です。過大な望みを抱くな――大臣のこの読みは、後に一分の狂いもなく的中します。


 それでも、細い糸は手繰らねばなりません。


 九月四日の会議で、外務省は元総理の広田弘毅さんを特使としてソ連に送る案を出し、全会一致で容れられました。


 ですが駐ソ大使の佐藤尚武がモスクワにこれを打診すると、ソ連は冷ややかに撥ねつけました。


 両国の間に新しい問題はない、いまさら持ち出す要もない――と。


 入口の扉は、固く閉ざされていたのです。


 会議が空転する間も、戦は容赦なく崩れていきました。


 夏、マリアナの島々が次々と玉砕しました。テニアン、グアム。本土の大半が、敵の新型爆撃機B二九の翼の下に入りました。


 十月、台湾沖の航空戦で、海軍は「敵空母を大半撃沈した」と大本営に発表させます。ですが、それは幻でした。


 前線の搭乗員の誤認が雪だるまのように膨れ上がった、ありもしない戦果です。


 その幻を信じた陸軍は、決戦の場を急にレイテへ移し――そして十月下旬、レイテ沖の海戦で連合艦隊は事実上、消えてなくなりました。


 残ったのは戦艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦八隻、潜水艦七隻。かつての大海軍の、これが亡骸でした。


 十月二十五日には、海軍がついに神風特別攻撃隊を放ちました。若者が、爆弾もろとも敵艦へ体当たりする。それが、新しい戦法と呼ばれたのです。


 最高戦争指導会議は、この崩壊を前にして、ついに何一つ手を打てませんでした。幕僚の作った紙が回り、首脳がそれをなぞる。


 その間にも海の底へ、島々へ、空へ、若者たちが次々と沈んでいきます。


 私は外務省の机で会議の議事を整えながら、幾度も拳を握りました。


 紙の上の戦争と、本当の戦争。その隔たりは、もはや目もくらむほどでした。


 最高の名を冠したこの会議は、最高の崩壊を前にして、ついに最低の雑談会のまま秋を終えようとしていたのです。



【後書き】(重光葵より)


 私は重光葵。外務大臣を務めている。


 最高戦争指導会議。名は、いかにも厳めしい。


 だが、あの卓で交わされる議論の、何と空疎なことか。幕僚の作った筋書きを、首脳がなぞるだけ。


 一撃で勝てると信じる者、抗戦の体面に縋る者、ただ黙して時を稼ぐ者。誰も、肝心のことを口にしない。


 肝心のこととは、これだ。


 この戦は、もう勝てぬ。


 私は、外相に就いた一昨年の春から、そう見ていた。勝てぬ戦を、どう終えるか。いや――どう負けるか。


 それこそが、私に課された、最も重い仕事だった。


 ただ無様に潰れるのではない。国の体面と、大義名分を、ぎりぎりのところで保ったまま、いかにして負けるか。


 そのためには、外交を一本に束ね、ソ連という細い糸を切らさず、戦後に日本が立ち上がるための足場を、いまのうちに組んでおかねばならぬ。


 会議は空回りしている。だが、私の本当の戦は、あの空疎な卓の上にはない。その底で、人知れず続いている。


 陛下も、木戸も、おそらく同じ淵を見ておられる。


 いつか、この国を破局から救い出す手が、ばらばらの場所から伸びてくるだろう。


 その手と手が固く結ばれる日を、私は待っている。


■ 人物紹介


加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年) ※本話の前書き・本文の語り手

 外務省外相秘書官。重光葵外相の腹心。最高戦争指導会議では外務省の幹事補佐として末席に連なり、会議の空転と幕僚支配を間近に見た。この会議を「最低指導会議」と評した。


重光葵(しげみつ・まもる、1887年〜1957年) ※本話の後書きの語り手

 外務大臣兼大東亜大臣。隻脚の外交官。小磯内閣発足の時点で既に「敗北は必然」と見抜き、「いかに負けるか」を最大の戦略課題としていた。会議では軍部の希望的観測を容赦なく論破した。


小磯國昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年)

 内閣総理大臣、予備役陸軍大将。組閣にあたり統帥への関与を強く望み、最高戦争指導会議を設置させた。「一撃和平論」を抱いたが、統帥部から作戦の実情すら知らされず、孤立を深めた。


梅津美治郎(うめづ・よしじろう、1882年〜1949年)

 参謀総長、陸軍大将。本話の八月五日、機微な戦争指導の際には幹事を入れずに会議を行う案を提起した。この取り決めが、後の終戦工作で六首脳のみの密談を可能にする枠組みとなる。


杉山元(すぎやま・はじめ、1880年〜1945年)

 陸軍大臣、元帥陸軍大将。梅津とともに徹底抗戦の体面を守り続けた。八月十九日の御前会議で決戦の方針が決められた。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 海軍大臣、海軍大将。会議ではほとんど発言せず、外交は重光に任せて沈黙を守った。決戦内閣で泥をかぶることを避け、力を温存して次の内閣での和平実現を待つ老獪な姿勢をとった。


広田弘毅(ひろた・こうき、1878年〜1948年)

 元首相・元外相。本話の九月四日の会議で、ソ連への特使として全会一致で推された。


佐藤尚武(さとう・なおたけ、1882年〜1971年)

 外交官、駐ソ大使。広田特使案をモスクワに打診したが、ソ連側から時期尚早として事実上拒否された。


■ 用語集


最高戦争指導会議さいこうせんそうしどうかいぎ

 昭和十九年八月、従来の大本営政府連絡会議に代わって設けられた協議機関。統帥(大本営)と国務(政府)という戦争遂行の両輪を調整し、戦争指導の一元化を図ることを目的とした。実態は連絡会議とほぼ変わらなかった。


大本営政府連絡会議だいほんえいせいふれんらくかいぎ

 日中戦争開始間もない昭和十二年に設けられた国策決定会議。大本営(統帥)と政府(国務)の意志をまとめる場だったが、政府は軍部に押され、統帥と国務の分裂を防げなかった。


統帥権の独立とうすいけんのどくりつ

 軍の指揮運用(統帥)の権限は天皇に直属し、政府(内閣)の関与を受けないとする原則。これを盾に、統帥部は総理大臣の大本営への参加を拒んだ。


政戦両略の吻合調整せいせんりょうりゃくのふんごうちょうせい

 政略(政治・外交)と戦略(軍事・作戦)を食い違いなく擦り合わせること。最高戦争指導会議が担うとされた役目だが、実際にはほとんど機能しなかった。


六巨頭ろっきょとう

 最高戦争指導会議の正規の構成員六名。内閣総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣・参謀総長・軍令部総長を指す。


幹事・幹事補佐かんじ・かんじほさ

 会議の運営を取り仕切る実務役。幹事は内閣書記官長と陸海軍の軍務局長。その下に大本営・内閣・各省の高等官が幹事補佐として置かれた。加瀬は外務省の幹事補佐を務めた。


幹事抜きの会議かんじぬきのかいぎ

 機微な案件を扱う際、幹事(幕僚)を排して構成員(六巨頭)のみで開く会議。本話で梅津が提起した。終戦時には「構成員会議」「六巨頭会談」として頻繁に開かれ、強硬派の目を逃れて終戦を協議する装置となった。


一撃和平論いちげきわへいろん

 どこかの戦場で敵に一度大打撃を与え、それを契機に有利な条件で講和に持ち込もうとする考え。小磯首相が抱いたが、レイテ決戦の惨敗により潰えた。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】


・小磯國昭が組閣にあたり戦争指導への強力な関与を望み、統帥部に三条件(総理を大本営構成員とする大本営令改正、それが不可能なら特別の軍令、それも不可能なら総理が戦争指導に強力に干与し得る組織の新設)を提示したこと。両総長が統帥権の独立を盾に前二者を拒み、その妥協として昭和十九年八月四日に大本営政府連絡会議に代わる最高戦争指導会議が設置されたこと(防衛研究所戦史研究センター編/和田朋幸「小磯国昭内閣と決戦」)。


・最高戦争指導会議の構成が、六巨頭(首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長)と、幹事(内閣書記官長・陸海軍軍務局長)、および幹事補佐からなったこと。加瀬俊一が外務省の幹事補佐を務めたこと(吉見直人『終戦史』、防衛研究所/和田論文)。


・加瀬が、最高会議は前身の連絡会議の変形で「鬼面人を威す」観があったが内容は貧弱で、上程案件はすべて幹事(というよりも幹事補佐)が作案し会議は大体これを形式的に採択するだけであり、両軍務局長が進行に当たり参謀本部・軍令部の両次長もしばしば出席発言した、幕僚に依存しその意図のままに動く「低調な雑談会」になりがちだったと回想したこと。加瀬が、六巨頭に陸海軍務局長と内閣書記官長の三幹事が「風鈴」のようについており、幹事が作文を作って持っていくと雑談している上の六人が「よしよし」と言って決まる惰性的で空虚なものだったと評したこと。消息通がこの会議を「最低指導会議(最低会議)」と呼んだこと(加瀬俊一『危機と決断 指導者はいかに対応したか』、加瀬俊一『加瀬俊一回想録 下』、加瀬俊一・飯塚毅対談「八・一五終戦秘話」『バンガード』一九八三年九月号)。


・八月九日の第一回会議で、重光が事務当局主導の運営を批判し、会議の基礎案、ことに外交に関する案は外務当局にも作製に参与させる必要があり、幹事限りで作案しても徒労に終わると主張したこと(伊藤隆・武田知己編『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』)。


・八月五日、梅津参謀総長が「機微なる戦争指導を実施する為には幹事なしで実施する場合あるを予期するか」と提起し、全員の了解を得たこと。この「幹事抜きの会議」が、後の鈴木貫太郎内閣における六巨頭会談(構成員会議)の枠組みとなり、終戦工作に活用されたこと(防衛研究所/和田論文、吉見直人『終戦史』)。


・八月十九日の御前会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、現有戦力を徹底的に結集して敵を撃破し終戦企図を破摧する旨が謳われたこと(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』)。


・小磯が一撃和平論を抱いたこと、陸軍が徹底抗戦の体面を守ったこと、米内が会議で寡黙を貫き外交を重光に委ねたこと、重光が軍部の対ソ幻想を「ソ連は日本と英米を闘わせ両者が傷つくことを望んでいる」と論破したこと(伊藤隆・武田知己編『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』)。


・九月四日の会議で広田弘毅をソ連特使とする案が全会一致で決定され、佐藤尚武駐ソ大使を通じて打診したが、ソ連側が「両国間に新しき問題なし」として事実上拒否したこと(外務省編纂『日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録』、伊藤隆・武田知己編『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』)。


・夏のマリアナ諸島テニアン・グアムの失陥、十月の台湾沖航空戦の幻の戦果、十月下旬のレイテ沖海戦による連合艦隊の事実上の消滅(残存兵力が戦艦一・巡洋艦二・駆逐艦八・潜水艦七であったこと)、十月二十五日の神風特別攻撃隊の初出撃(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、加瀬俊一『危機と決断』)。


・重光が外相就任(昭和十八年春)の時点で既に「望みなき戦争」と認識し、「いかに負けるか」を最大の戦略課題としていたこと、天皇・木戸も同様の認識であったこと(伊藤隆・武田知己編『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』、外務省編纂『終戦史録』)。


・重光が、小磯の戦争指導への関与を東條内閣の「大本営内閣」方式への逆行と見て、小磯が軍人としての地位を利用して実際の指導権を握ろうとしたものと分析していたこと。小磯の現役復帰・陸相兼任の試みが陸軍に拒まれたのを、統帥権の独立という建前のみならず、小磯一派の予備役軍人と軍主流派の感情的な対立によるものと冷徹に見ていたこと。重光が、小磯が軍の力に依存して外交官を蔑視し外交を無視する姿勢に強い不信を抱き、小磯が最高指導者に選ばれたことを「帝国の不幸であって取り返しのつかぬ事」とまで断じていたこと(重光葵『重光葵著作集1 昭和の動乱』、伊藤隆・渡邊行男編『続 重光葵手記』)。


・重光が、徹底抗戦に傾く陸軍を内部から和平へ動かすため、東條に左遷されて南京にあった松谷誠大佐を中央の要職へ呼び戻すよう軍中央に要請しており、それが翌十一月の松谷の陸相秘書官就任として実現したこと。重光が松谷を「真に国家の将来を案じていた唯一の真の男」と評し、ロンドン勤務以来の加瀬の親友でもあった松谷のもたらす正確な戦局情報を深く信頼していたこと(加瀬俊一『危機と決断 指導者はいかに対応したか』、伊藤隆・渡邊行男編『続 重光葵手記』)。


【創作部分】


・語り手・加瀬俊一の一人称による心情や所感、各場面の五感の描写は創作です。


・改組をめぐる重光と加瀬の会話(「最高、とはな」等)、会議の情景描写、各場面の構成は、史実の趣旨を踏まえた演出です。重光や梅津の発言は、史料の記録を平易な話し言葉に改めたうえで会話として配置しています(御前会議の大綱のみ、文書の記録として原文に近い文語で示しています)。重光が小磯を「東條のやり方への逆行」「派閥の意地」「軍の力にすがり外交官を見下す」と評する台詞は、重光の手記・著作の記述(前掲)を会話に改めたものです。


・加瀬が米内の沈黙を「次の出番を待つもの」と読み取る描写は、米内が水面下で終戦研究を進めていた史実を踏まえた解釈です。


・前書きで加瀬が秘書官・幹事補佐の立場を「案外いろいろなことのできる稼業」と評する叙述は、秘書官は政治的に動くことを許されていたという加瀬自身の戦後の対談での述懐を踏まえた演出です。


・場面Bで、加瀬が会議を「風鈴」や「鬼の面」になぞらえ、幕僚が作文を作って六巨頭が「よしよし」と決めると評する地の文・会話は、加瀬自身の回想・対談(前掲)の語り口を踏まえた演出です。末席の幹事補佐の相手は創作上の同僚です。場面C末尾の、加瀬が紙の上の戦争と本当の戦争の隔たりに拳を握る叙述は創作です。


・場面Aで重光が松谷の復帰の必要を加瀬に漏らす「やはり、あの男が必要だ」の場面は、重光が松谷の中央復帰を強く望み軍中央に要請したという史実(前掲)を踏まえた演出で、台詞そのものは創作です。


・後書きの重光による手記体の述懐は、重光の「敗北の必然」「いかに負けるか」という史実上の認識に基づきますが、文章そのものは本作で構成した創作です。


■ 参考文献


伊藤隆・武田知己編『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』中央公論新社、2004年


重光葵『重光葵著作集1 昭和の動乱』原書房、1978年


伊藤隆・渡邊行男編『続 重光葵手記』中央公論社、1988年


加瀬俊一『加瀬俊一回想録 下』山手書房、1983年


加瀬俊一『危機と決断 指導者はいかに対応したか』PHP研究所、1981年


加瀬俊一・飯塚毅対談「八・一五終戦秘話」『バンガード』1983年9月号


松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年


伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』みすず書房、2000年


外務省編纂『日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録』山手書房、1990年




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