第76話「海軍次官・井上成美中将からの密命」
【前書き】(高木惣吉より)
俺は高木惣吉。海軍少将。
この夏、サイパンが落ちて、東條内閣が倒れた。
代わって海軍から米内さんが大臣に返り咲き、そして江田島から、井上成美さんが次官として上がってきた。
半年前、俺はあの人に、東京へ出てこの戦を畳んでくれと頼んでいた。その人が、いまこの海軍省にいる。
これは一人の次官が俺に下した、たった一つの密命の話だ。そしてその命を受けた俺が、病を装い、地の底へ潜っていく話でもある。
【本文】
昭和十九年八月。
東條が去って、海軍省の空気がわずかに緩んだ。
米内さんが大臣に戻り、その懐刀の井上さんが次官の椅子に座った。
かつて日独伊三国同盟に命を張って反対した三人がいた。米内さん、山本五十六さん、そして井上さんだ。
山本さんはもう、南方の空に散った。残った二人がいま、この海軍省に揃った。
俺は当時、海軍省の教育局長だった。
井上さんとは、長い付き合いになる。
近衛公の最初の内閣の頃、米内さんが大臣、井上さんが軍務局長で、俺はその下で大臣官房の調査課長を務めた。
あの人の識見と底の知れぬ胆力を、俺は誰よりも知っている。
調査課長の頃、俺は海軍と民間とをつなぐ窓口になった。
京都の西田幾多郎先生の門を叩き、学者やもの書きを集めて思想や外交を論じる懇談会をいくつも作った。
軍服の内側だけでは、この国の行く末は見えぬ。そう信じていたからだ。
*
今年の三月のことだ。
教育局長になったばかりの俺は、江田島の兵学校へ出張した。校長は、井上さんだった。
人払いをして俺は腹の底を打ち明けた。
「陸海の首脳は、その日暮らしです。誰も、この戦をどう終わらせるかを考えていない」
井上さんは黙って聞いていた。
「校長。ぜひ東京へ出て、この戦局の収拾に当たっていただきたいのです」
あのとき、井上さんは何も答えなかった。
だが半年後、その人は本当に東京へ出てきた。次官として戻ってきたのだ。
*
八月二十九日。
麻生孝雄秘書官に断って俺は次官室の扉を開けた。
井上さんは笑顔で俺を迎え、傍らのソファーをすすめた。
だが俺が腰を下ろすと、その顔から笑みが消えた。井上さんは古びた回転椅子をぐるりと俺の方へ回した。
そして声を落とした。
「戦局の後始末を研究しなけりゃならん」
低い、有無を言わせぬ声だった。
「だが、こんな問題を、現に戦争に打ちこんでいる局長に言いつけるワケにいかん。そこで大臣は、君にそれをやってもらいたいとの意向だが――差支えないかネ」
俺は息を呑んだ。
戦局の後始末。それは、この国がどうやって戦争を終わらせるか、という意味だ。
負けを口にするだけで国賊とされるこの時勢に、その負け方を研究せよという密命だった。
迷いはなかった。
「承りました」
俺はまっすぐに井上さんを見て答えた。
「ご期待に添えるか、分かりません。ですが、最善を尽してみます」
井上さんは深く頷き、念を押すように付け加えた。
「このことは、大臣と総長と私のほかは、誰も知らん。部内に洩れてはマズい。だから君は、病気休養という名目で出仕になってもらう。いいネ」
要職を退き、病を装って表舞台から消える。
そういうことだった。
俺はもう一度頷いた。
*
九月十日。辞令が出た。
「補軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承命服務」
我ながら、意味の取りにくい長ったらしい辞令だった。要するに、閑職である。
就任して半年、任期の半ばにも達さぬ局長が突然病気休養で退く。誰が信じるものか。
部下たちには、何か他の栄職へ移る支度だろうと怨まれた。
事情に通じた先輩や同僚には、嶋田大臣の時代に派手に政治へ首を突っ込んだ祟りだろうと嘲笑された。
俺は何も弁解しなかった。弁解できる筋の話ではなかった。
療養を口実に俺は伊豆へ逃げた。熱海の藤山愛一郎さんの別邸である。
その静けさの中で、俺は終戦への筋道を一から組み立てた。
行き着いた基本の課題は、四つだった。
一つ、どうやって陸軍を戦争終結に同意させるか。
二つ、皇室を守れるかという我々の危惧と、連合国が突きつける降伏条件とをどう折り合わせるか。
三つ、敗戦による民心の動揺をどう抑えるか。
四つ、陛下が御決意を固められるよう、各方面に芽生えはじめた和平の動きをどう一つに束ねて宮中へ届けるか。
中でも第一の、陸軍をどう翻意させるか。これが、最大の難物だった。
*
熱海は坂が多く、考えごとをしながら歩くには向かなかった。
俺は別邸を引き払い、半ば公然と東京へ戻った。
井上さんの計らいで、海軍大学校の本館裏手の木造庁舎に、目立たぬ部屋が一つ用意された。
アシスタントには、東京帝大の法科を出たばかりの遠藤胖という主計大尉が一人ついた。
この一室が、俺のアジトになった。
俺は、動きはじめた。
まず訪ねたのは、近衛公、木戸内大臣、岡田大将、そして宮中の松平康昌さんだった。
彼らに、戦争の実態と動かしようのない情勢とを、洗いざらい知ってもらう。
そうして俺と同じ結論――この戦はもう終わらせるしかないというところまで、一人ずつ引き寄せていく。
それが、俺の狙いだった。
同期の有馬や、海兵を共にした仲間の多くがいまも第一線で死闘を続けている。
ならば内地に残った俺が、命を賭してやり遂げねばならぬ。
俺は病人の顔をして、地の底を這いはじめた。
【後書き】(井上成美より)
私は井上成美。海軍次官。
この椅子に座るつもりは、毛頭なかった。
七月、京都の都ホテルで、米内さんに呼び出された。開口一番、あの人はこう言った。
「おい、やってくれよ」
「何のことですか」
「次官だよ」
冗談ではない。私の政治嫌いは、米内さんがいちばんよく知っているはずだった。
「私には、政治を離れた江田島の方が、余程いいです。何を好んで、別天地の江田島を捨てて、政治の真っただ中に飛び込む人がありますか」
「ううむ。困ったなあ。外に、人がないんだよ」
「それは、あなたが人を知らないからですよ。第一、あなたは私を買い被っている」
しばらく、二人とも黙り込んだ。
やがて米内さんは、あの太い声で言った。
「ようし。政治のときは、君は天井を向いていればいいよ」
その一言で、私は折れた。
「政治のことは知らん顔していいのなら、やります。部内に号令することなら、必ず立派にやります。御心配は、かけません」
次官の椅子に座って電報と報告に目を通し、私は慄然とした。戦局は、私の想像をはるかに超えて悪い。日本は敗ける。
もう、定まっている。
ならば一日でも早く、この戦を終わらせる工夫を始めねばならぬ。
その役目を託す相手は、初めから決まっていた。高木惣吉だ。
軍務局長だった頃、高木は私の下で調査課長を務めた。その識見と才覚は、知り尽くしている。
あの男が西田先生の周りに築いた、学者やもの書きとの広い人脈も、この仕事には欠かせぬ。
何より、今年の三月、江田島へ訪ねてきた高木は、私に、東京へ出て戦を畳めと迫った。
あの男は、私が口に出すより先に、同じ覚悟を固めていた。
だから、安んじて命じることができた。国賊と罵られても文句の言えぬ、この密命を。
高木は病を装って、地の底へ消えた。
その背中を、私は黙って見送った。日本を救う戦は、いま、闇の中から始まる。
■ 人物紹介
高木惣吉(たかぎ・そうきち、1893年〜1979年) ※本話の前書き・本文の語り手
海軍少将。海兵四十三期。貧家に生まれ、苦学して海軍大学校を首席で卒業した異色の経歴を持つ。米内光政のブレーンとして知られ、大臣官房調査課長時代には西田幾多郎ら京都学派の学者・言論人を集めたブレーン・トラストを築いた。本話では、井上成美次官から終戦研究の密命を受け、病気休養を装って教育局長を退き、地下に潜って工作を始める。一人称は地の文で「俺」。
井上成美(いのうえ・しげよし、1889年〜1975年) ※本話の後書きの語り手
海軍中将、海軍次官。米内光政・山本五十六とともに日独伊三国同盟に最後まで反対した三人の一人。極度の政治嫌いで知られ、海軍兵学校長を務めていたが、米内の強い要請で次官に就任した。戦局を直視して早期終戦を決意し、かつて自らの下で働き終戦への意志を共有していた高木惣吉に研究を密命する。一人称は「私」。
米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)
海軍大将、海軍大臣。小磯国昭との連立内閣で現役に復帰した。次官に井上成美を強く望み、京都の都ホテルで自ら口説き落とした。終戦工作を陰で支える海軍の重鎮。
松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)
内大臣秘書官長。宮中にあって木戸幸一内大臣を支え、和平派の連絡調整を担う。本話で高木が接触をはじめる相手の一人で、のちに四人組(松谷・高木・加瀬・松平)を結ぶ要となる。
遠藤胖
海軍主計大尉。東京帝国大学法学部出身。地下に潜った高木のアシスタントとして、海軍大学校内のアジトで工作を補佐した。
藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう、1897年〜1985年)
実業家。熱海の別邸を、療養を装う高木の潜伏先として提供した。戦後、政界に転じて外務大臣などを務める。
■ 用語集
海軍次官
海軍省の事務方の長で、海軍大臣を補佐する要職。大臣が政治・国務にあたる間、省内の実務と統制を取り仕切る。井上成美は「政治には知らん顔をする」ことを条件にこの職を引き受けた。
補軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承命服務
高木惣吉に出された辞令。一見すると閑職への異動だが、実際は「次官の命を承けて服務する」体裁をとり、井上次官の直属として終戦研究に専従させるための偽装人事だった。
国体護持
天皇を中心とする日本の国家体制、とりわけ皇室を守り存続させること。終戦工作における最大の眼目であり、連合国が突きつける降伏条件とどう折り合わせるかが核心の問題だった。
ブレーン・トラスト
高木惣吉が調査課長時代に築いた、学者・言論人らからなる非公式の頭脳集団。西田幾多郎ら京都学派を中心に、思想・外交・政治を論じる懇談会が組織された。軍の枠を超えた高木の人脈の源泉となった。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・東條内閣崩壊後、現役に復帰した米内光政が海軍兵学校長の井上成美を強く望み、昭和十九年七月二十八日夜、京都の都ホテルで自ら説得して次官就任を承諾させたこと。後書きで再現した「次官だよ」「政治のときは君は天井を向いていればいい」等のやり取りは、井上自身の回想に基づきます。井上が生徒の休暇明けを待って八月五日の発令を頼んだことも史実です(井上成美伝記刊行会編『井上成美』)。
・昭和十九年八月二十九日、井上次官が教育局長の高木惣吉を次官室に呼び、「戦局の後始末を研究しなけりゃならんが……君にそれをやってもらいたい」「病気休養という名目で出仕になってもらう」と終戦研究を密命したこと。高木が「承りました。最善を尽してみます」と応じたこと。この密命を知るのが大臣・総長・次官の三人だけであったこと(井上成美伝記刊行会編『井上成美』、高木惣吉『高木海軍少将覚え書』、吉見直人『終戦史』)。
・九月十日、高木に「補軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承命服務」という辞令が出て、病気休養を装い教育局長を退いたこと。半年での辞任が部内で信じられず、嶋田海相時代の政治策動の祟りと嘲笑されたこと。療養を口実に熱海の藤山愛一郎別邸へ引きこもったこと(阿川弘之『井上成美』、外務省編纂『終戦史録』、伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』)。
・高木が熱海で終戦の基本課題を四点(陸軍の同意、国体護持と降伏条件の調節、民心の安定、和平の動きの宮中への統合)にまとめ、陸軍の翻意を最大の難題と見たこと。のち東京へ移り、海軍大学校内のアジトに東京帝大法学部出身の遠藤胖主計大尉をアシスタントとして工作を本格化させ、近衛・木戸・岡田・松平らと接触をはじめたこと(阿川弘之『井上成美』、吉松安弘『東條英機暗殺の夏』、米国戦略爆撃調査団の証言)。
・井上が高木を選んだ理由――軍務局長時代に高木が調査課長として下で働き能力を熟知していたこと、高木のブレーン・トラストの人脈、そして昭和十九年三月に高木が江田島の井上を訪ね「東京に出て戦局の収拾に当たってほしい」と進言していたこと(阿川弘之『井上成美』、川越重男『救国・聖断の史』)。
・高木が、同期の有馬正文ら第一線で戦う仲間への思いを、命がけの終戦工作の動機としていたこと(高木の証言に基づく)。
【創作部分】
・本話の前書き、本文の地の文(高木の内心・情景描写)、および後書きの構成は創作です。史実の発言や経緯を踏まえつつ、当時の緊迫した空気や高木・井上の心情を、読者の没入のために組み直しています。
・井上が高木に密命を下す場面の情景(古びた回転椅子を回す、笑みが消える等)は、井上の人物像と記録を踏まえた演出です。発言の骨子は史実に基づきます。
・後書きで井上が都ホテルでの説得と高木を選んだ理由を語る形式は創作です。再現した会話は井上自身の回想に基づきますが、その間の心情・情景は創作です。
■ 参考文献
井上成美伝記刊行会編『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年
阿川弘之『井上成美』新潮文庫、1992年
阿川弘之『米内光政』新潮社、1978年
高木惣吉『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社、1979年
伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』みすず書房、2000年
吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年
川越重男『救国・聖断の史』人吉中央出版社、2003年
吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』新潮社、1984年




