第75話「小磯内閣成立(4/4)――外交を一つに」
【前書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一です。
七月二十二日、小磯國昭大将の新しい内閣が発足しました。
私はこの内閣を、後に「木炭車内閣」と呼びました。
小磯さんは、自ら現役に復帰して陸軍大臣を兼ね、軍を抑えようとしました。
だが東條一派の抵抗にあって挫け、杉山元帥を陸相に迎える妥協を呑まされたのです。
陸軍への支配権を持たず、その支持も得ぬ総理。
それは、揮発油の代わりに木炭を焚いて坂を登る代用燃料車――のろのろと危なっかしい足どりの、あの車に似ていました。
つまるところ、東條政府の続きと何ほども変わりません。
ですが、その頼りない車にもただ一つ確かな歯車がありました。外務です。
陸が代わり海が変わり宮中が動きました。その渦の中で外交だけは一本の背骨を通したまま――重光葵大臣が外相の椅子に残られました。
いや、ただ残られたのではありません。あの方はこの組閣の混乱を衝いて、長年の宿願を一息に握り取られたのです。
外交一元化。それを私はこの目で見ました。
【本文】
昭和十九年(一九四四年)七月二十一日の夜。
外相官邸。私は大臣のかたわらに控えていました。
障子の外で夏の虫が鳴いています。卓に冷めた茶が二つ。
電話が鳴りました。
受話器を取られた大臣の顔がわずかに強張りました。相手は退陣を目前にした東條総理です。
「対外関係は継続性を要する」
受話器の向こうの声は、いつになく低いものでした。
「貴下の右に出づる者はない。どうか留まっていただきたい」
私は奇妙な心地がしました。
(あれほど倒そうとした男が、最後の最後に大臣を頼んでいる)
(東條という人にとっても、対外関係だけは余人をもって代えがたかったのだ)
大臣はほとんど何も言われませんでした。ただ低く、承知した、とだけ。
受話器を置かれた大臣に、私は声をかけました。
「総理は、外相の留任を」
大臣は冷めた茶に手を伸ばされました。
「倒すべき相手から留まれと言われる。皮肉なものだな」
「お受けになるのですか」
「受ける。ただし――」
大臣はそこで一度言葉を切られました。眼の奥にいつもの静かな光が宿ります。
「ただ留まるのでは、意味がない」
その前後です。元総理の広田弘毅さんから、大臣に言伝が届きました。
「この機を逃さず、外交を一元に。継続して実現すべし」
広田さんは外交の古強者です。退陣の混乱こそ、宿題を片づける好機だと見抜いておられました。
外交一元化。
二年前、東條総理は大東亜省を作って外交を二つに割りました。大東亜圏は大東亜省、欧米と中立国は外務省。
一つの国の外交が、二つの役所に分かれたのです。
東郷茂徳前外相はこれに反対して職を退かれました。重光大臣もずっとこの分断を憂えておられたのです。
外交が二つに割れていては、いざ和を講じるその日に、誰が舵を握るのか分かりません。
広田さんの言伝は、その急所を突いていました。
(大臣は、動かれる)
私はそう直感しました。
*
七月二十二日。
組閣本部に、私は大臣のお供で詰めました。
人の出入りが慌ただしい。電話が鳴り、書類が運ばれ、廊下を将官や官吏が足早に行き交う。新しい内閣がここで形を取っていくのです。
陸相に杉山元帥。海相に米内大将。
市ヶ谷の人事も海軍の人事も、ここで一つの内閣に縒り合わさっていきます。
本部の一室で、小磯大将と米内大将が額を寄せておられました。
組閣の大命は、小磯大将ひとりに下ったのではありません。米内大将と協力せよ――そういう異例の御沙汰でした。
陸の小磯と、海の米内。二人で組むべし、というのです。
そこへ阿部信行大将が偶然のように加わられました。
私はその光景を外務の側から静かに見ていました。
(陸と海が、一つの机に着いている)
(東條の二年でこれほど遠くなった陸と海が、いま同じ内閣を組もうとしている)
胸の奥で、何かが小さく音を立てました。
希望と呼ぶには、まだ早い。だが絶望ではありませんでした。
*
大臣に、御沙汰が伝えられました。
ソ連との関係を悪化させぬように――と。
(ソ連だ)
(この戦を終わらせる細い糸は、いまやソ連の仲介より外にない。陛下もそれを案じておられる)
大臣は、御沙汰をただ押し頂いて引き下がる方ではありませんでした。
新内閣の前途について、厳しい現状認識を率直に開陳されました。戦局はもはや取り返しのつかぬところに来ている。
外交がその実相を知らずして、和戦の時機は計れぬ――と。
そして、ただ一点を握られました。
外務大臣に加えて大東亜大臣を兼ねること。二つに割れた外交を、ふたたび一つの手に戻すこと。
これが大臣の留任の条件でした。
小磯大将も米内大将も、これを容れました。
重光葵は、外務大臣兼大東亜大臣として留任を受けられました。
二年前に割られた外交がこの日、一人の隻脚の外交官の手にふたたび一つに戻ったのです。
その夜、大臣は官邸の執務室で、義足を投げ出すように椅子へ深く凭れておられました。
私は茶を淹れて差し出しました。
「大臣。外交を、一つに戻されましたね」
大臣は湯気を見つめておられました。
「加瀬君。外交が二つに割れていては、いざ和を講じるその日に、誰が舵を握るのか分からぬ。一つにしておかねば、その日に間に合わぬ」
「その日、とは」
「この戦を、終える日だ」
私は息を呑みました。
大臣がこれほど明け透けに「終える」と口にされたのは、初めてでした。
「いまは、まだ言える時ではない。だが、いつか必ずその日が来る。来たとき外交が割れていては、話にならぬ。器は、いまのうちに整えておく」
大臣は湯飲みを両手で包まれました。
「ソ連だ。細いが、いまはあの糸しかない。佐藤大使に、モスクワをしっかり繋いでおいてもらわねばな」
「佐藤さんには、私から」
「頼む」
大臣はふと窓の外の闇に目をやられました。
「松谷大佐は、いま南京か」
「はい」
「あの人は、市ヶ谷で命を賭けて直言された。その跡を、今度は俺たちが踏むのだ」
大臣の声は低く、しかし揺るぎませんでした。
「いつか南京へ申し上げねばな。お前の直言は東京で、こうして引き継がれている、と」
私は唇を噛みました。返事は、できませんでした。
「だが、言伝だけでは足りぬ」
大臣の眼に力がこもりました。
「あの頭脳を、南京に埋もれさせておく手はない。この戦を終えるその日、松谷大佐の冷えた眼とあの筆が、どうしても要る。陸軍の内側で、誰よりも早く敗北を見据えた人だからな」
「ですが、あの方は陸軍の――」
「分かっている。外務の俺が、陸軍の人事にどこまで手を伸ばせるか」
大臣はふっと笑われました。
「だが、できることはする。人知れず手を回してでもな。あの直言を、無駄にはせぬ。市ヶ谷で頭を下げてくれた人への、せめてもの礼だ」
私は深く頷きました。
その夜、私は外相官邸を出ました。
夏の夜気の中を歩きながら私は南京の松谷さんのことを思いました。
(松谷さん。陸のあなた、外務の私、宮中の松平閣下。そして海軍にも、米内さんが戻ってこられた)
(それぞれの持ち場に、同じ一つの戦を終えようとする者がいる。まだ互いの顔さえ知らぬとしても)
(糸は、確かに、一点へ向かっています)
陸、海、宮中、外務。四方の地下水脈が、ゆっくりと一つの淵へ流れ込もうとしていました。
それが一つの河となって地表に噴き出す日――昭和二十年の一月。
ですが、それはまだ少し先の話です。
【後書き】(松平康昌より)
僕は松平康昌。内大臣秘書官長を務めています。
小磯内閣が、なぜ小磯さんと米内さんの二枚看板になったか。さあ、自分のことは話しにくいのですが――その裏には、僕の眠れぬ一夜がありました。
発端は、近衛文麿公です。
七月十八日の重臣会議で次の総理に小磯さんが推されたが、近衛公は小磯さん一人ではこの難局を越えられぬと案じられた。
国民の信望厚い米内さんと二人で組ませてはどうか、と。
七月十九日の夕、近衛公からこの話を受けた木戸内府は、即座に賛成された。そして六時半、僕を呼んでこう言われた。
他の重臣の肚を、今夜のうちに残らず聴いてこい、と。
僕は車を駆って、重臣の屋敷を一軒ずつ回りました。
難物は、岡田啓介大将でした。
回り着いたのは、もう十二時近く。大将はすでに床に就いておられましたが、起きていただいて話しました。
「米内は、今出すべきではない」
大将の声は、はっきりしていました。
「まだ、つかってはいかん。それに、米内も受けまい」
大将は、米内さんを終戦の切り札として最後まで温存するおつもりだったのです。
僕は一歩踏み込みました。
「では――米内さんの現役復帰が叶うなら、いかがです」
その夜は、それで別れました。
翌朝六時。岡田大将から、僕に電話がありました。賛成だ、と。
僕はすぐ、この旨を内府に報告しました。
こうして二十日の朝には、反対していた重臣からも次々に賛成が届き、総意がまとまりました。
同日午後五時十分、小磯・米内の両大将に「卿等協力して内閣を組織すべし」という、異例の連立の大命が降りました。
宮中の障子の内で糸をたぐるだけが、僕の仕事ではありません。
ときには深夜の東京を駆け回り、大物の懐に飛び込んで一歩も引かずに食い下がる。それもまた、内大臣秘書官長の務めです。柄にもないと笑われそうですがね。
陸の松谷君、海の高木さん、外務の加瀬君。そして宮中の僕。
まだ顔は揃いません。ですが、それぞれの場所で同じ一つの灯を守る者たちが、確かにいます。
その灯が一つに集まる日は――もう、そう遠くないでしょう。
■ 人物紹介
加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年) ※本話の前書き・本文の語り手
外務省外相秘書官。重光葵外相の腹心で、英米通の俊敏な外交官。本話では重光の留任と外交一元化の実現を、秘書官として間近に見届ける。小磯内閣を「木炭車内閣」と評した。
重光葵(しげみつ・まもる、1887年〜1957年)
外務大臣。大分県出身。隻脚の外交官として知られる。日独伊三国同盟に反対した親英米派で、「作戦と外交の緊密化」を持論とした。本話で小磯内閣に外相留任し、大東亜大臣を兼任して外交一元化を握る。後にミズーリ号で降伏文書に調印する。
松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年) ※本話の後書きの語り手
内大臣秘書官長。木戸内大臣の特命を受け、深夜に重臣を歴訪して小磯・米内の連立内閣を実現させた。宮中と外部を結ぶ調整役にとどまらず、自ら東京を駆け回る行動力を見せる。
小磯國昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年)
陸軍大将、本話で新内閣の首相となる。自らの現役復帰と陸相兼任で軍を統制しようとしたが東條派の抵抗で挫け、杉山を陸相に迎える妥協を呑んだ。組閣の大命は、米内と協力せよという異例の形で下った。
米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)
海軍大将、海軍大臣。前話で現役に復帰し、副総理格の海相に親任された。本話では小磯と組んで新内閣を支える一方の柱となる。岡田啓介が終戦の切り札として温存しようとした人物でもある。
東條英機(とうじょう・ひでき、1884年〜1948年)
陸軍大将、前首相。本話の七月二十一日夜、退陣を目前にして重光に電話し、対外関係の継続性を理由に外相留任を求めた。二年前、大東亜省を設けて外交を分割した当人でもある。
広田弘毅(ひろた・こうき、1878年〜1948年)
元首相・元外相。福岡県出身。本話で重光に「外交を一元に、継続して実現すべし」と言伝を送り、外交一元化の好機を促した。後に東京裁判で文官唯一のA級戦犯として絞首刑となる。
近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年〜1945年)
公爵、元首相。本話で、小磯単独では難局を乗り切れぬとして、米内との連立内閣を構想した。その案が松平の深夜の奔走の発端となる。
木戸幸一(きど・こういち、1889年〜1977年)
内大臣。本話で近衛の連立構想に即座に賛成し、松平に重臣の意向を一夜で聴取するよう特命を下した。
岡田啓介(おかだ・けいすけ、1868年〜1952年)
海軍大将、元首相。海軍最長老。本話では、米内を終戦の切り札として温存すべきだとして連立に難色を示すが、松平の「米内の現役復帰」という一手を受け、翌朝賛成に転じる。
阿部信行(あべ・のぶゆき、1875年〜1953年)
陸軍大将、元首相。本話の組閣本部で、小磯・米内の会談に加わる。翼賛政治会総裁。
佐藤尚武(さとう・なおたけ、1882年〜1971年)
外交官、駐ソ大使。本話では、重光が断ってはならぬと念を押す「モスクワへの細い糸」の担い手として言及される。ソ連仲介による和平の最前線に立つ人物。
東郷茂徳(とうごう・しげのり、1882年〜1950年)
外交官、開戦時の外相。外交官出身。二年前、大東亜省の設置に外交一元化の原則から反対し、職を退いた。後に鈴木内閣で再び外相となり、終戦の中核を担う。
松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年)
陸軍大佐。早期和平を東條に直訴して市ヶ谷を追われ、本話の時点では支那派遣軍総司令部(南京)に転出している。本話では重光の言葉と加瀬の思いの中に登場する。
■ 用語集
木炭車内閣
加瀬俊一が小磯内閣を評した言葉。燃料統制下、揮発油の代わりに木炭ガスで走った非力な代用燃料車になぞらえたもの。小磯が陸軍の現役復帰・陸相兼任に失敗して軍への支配権を持てず、内閣が遅々として危うい歩みを続けたことを皮肉った。
連立内閣の大命
本話では、小磯國昭一人にではなく、小磯と米内光政の二人に「協力して内閣を組織せよ」と下された組閣の大命を指す。単独首班が通例の中、極めて異例の形であった。
外交一元化
一国の外交を、一つの役所・一人の責任者のもとに統一すること。当時、外交が外務省と大東亜省に二分されていたため、和戦の舵取りが妨げられるとして問題視された。重光は大東亜大臣を兼ねることでこれを実現した。
大東亜省
昭和十七年、東條内閣が設けた省。大東亜圏(中国・満洲・占領地)の政務・外交を所管し、外務省の権限を割いた。東郷茂徳外相はこれに反対して辞任した。
大東亜大臣
大東亜省を統括する国務大臣。小磯内閣で重光葵が外務大臣と兼任し、二つに割れていた外交の指揮を一手に握った。
重臣
主に首相経験者からなる、天皇の重要な相談相手。後継首相の奏薦に大きな影響力を持った。本話では、その意向の取りまとめに松平が奔走する。
御沙汰
天皇のお言葉・ご指示。本話では、組閣にあたり「米内と協力せよ」との御沙汰、留任する重光への「ソ連との関係を悪化させぬように」との御沙汰が示される。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・昭和十九年七月二十二日に小磯國昭内閣が成立し、重光葵が外務大臣に留任したこと。組閣の大命が小磯と米内光政の協力を求める異例の形で下ったこと(外務省編纂『終戦史録』、鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』)。
・加瀬俊一が小磯内閣を「木炭車内閣」と評したこと。小磯が現役復帰して陸相を兼任することで軍を統制しようとしたが、東條一派の抵抗にあって挫け、杉山元が陸相となる妥協を余儀なくされたこと。これにより小磯が陸軍への支配権も支持も得られず、内閣の歩みが頼りないものになったこと(加瀬俊一『ミズリー号への道程』)。
・七月二十一日、退陣を目前にした東條英機が重光に電話し、対外関係の継続性を理由に「貴下の右に出づる者はない」として外相留任を求めたこと。前後して広田弘毅から、この機に外交を一元化し継続して実現すべしとの言伝が重光に届いたこと(重光葵『重光葵手記』)。
・昭和十七年に東條内閣が大東亜省を設置して外交を外務省と大東亜省に二分したこと、当時の東郷茂徳外相が外交一元化の原則からこれに反対して辞任したこと(重光葵『重光葵手記』、外務省編纂『終戦史録』)。
・組閣にあたり、重光が御沙汰として「ソ連との関係を悪化させないように」との御意向を受けたこと。重光が留任を受けるにあたり、新内閣の前途について厳しい現状認識を率直に述べ、外務大臣に大東亜大臣を兼ねることで外交一元化を握ったこと(重光葵『重光葵手記』)。
・ソ連仲介による和平が、この時期の数少ない望みであり、駐ソ大使・佐藤尚武がモスクワとの連絡の要であったこと(鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』、山本智之『主戦か講和か』)。
・小磯・米内の連立内閣が、近衛文麿の構想に始まること。七月十九日夕、近衛の提案を受けた木戸幸一内大臣が即座に賛成し、午後六時半に松平康昌を招いて他の重臣の意向を今夜中に聴取するよう依頼したこと(木戸幸一『木戸幸一日記』)。
・松平が深夜に重臣を歴訪し、最後に回った岡田啓介大将が、米内を温存すべきとして「米内は今出すべきではない、まだつかってはいけない、米内も受けないだろう」と難色を示したのに対し、松平が「米内の現役復帰が出来たらどうか」と踏み込み、翌朝六時に岡田から賛成の電話があったこと。松平が直ちにこれを内大臣に報告したこと。同日(二十日)午後五時十分に連立の大命が降下したこと(実松譲編『海軍大将米内光政覚書』、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』、木戸幸一『木戸幸一日記』)。
・松谷誠が昭和十九年七月に支那派遣軍総司令部(南京)へ転出していたこと、いわゆる「四人組」が昭和二十年一月に正式に結ばれること(既出。松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
【創作部分】
・語り手・加瀬俊一の一人称による心情や所感、各場面の五感の描写は創作です。
・場面A〜Cの会話の細部、東條の電話を加瀬がかたわらで聞く場面、組閣本部での小磯・米内会談を加瀬が見る場面、留任の夜の重光と加瀬の対話は、史実の趣旨を踏まえた演出です。
・重光が「この戦を終える日」のために外交一元化を急ぎ、松谷を中央へ戻そうと決意を語る場面は創作です。重光が、松谷の市ヶ谷での直言を高く買い、これを引き継ぐという思いを抱いていたことは、本作のこれまでの叙述(第六十七〜七十話前後)に基づきます。
・後書きの松平による連立工作の叙述は、木戸日記・近衛日記・米内光政覚書に基づく史実ですが、岡田大将とのやり取りの細部や松平の心情は創作です。末尾の四方の同志への感懐は、回想として先取りした創作です。
・後書きの松平の語り口(「〜ですね」「〜ですがね」といった柔らかい話しぶりと控えめな態度)は、戦後の対談に残る松平自身の話しぶりを踏まえた演出です。
■ 参考文献
伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』中央公論社、1986年
加瀬俊一『ミズリー号への道程』文藝春秋新社、1951年
木戸日記研究会編『木戸幸一日記 下巻』東京大学出版会、1966年
共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』共同通信社、1968年
実松譲編『海軍大将米内光政覚書』光人社、1978年
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年
山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮文庫、2013年
矢次一夫『天皇・嵐の中の五十年 矢次一夫対談集1』原書房、1981年




