第74話「小磯内閣成立(3/4)――米内の現役復帰」
【前書き】(高木惣吉より)
俺は海軍少将、高木惣吉。
七月二十二日、小磯國昭大将に組閣の大命が下り、新しい内閣が発足した。
だが俺の戦は内閣の顔ぶれが揃って終わるものではない。
二年だ。海軍の中堅と長老を結び、嶋田を海軍から追い、東條を倒す。その一点に、まる二年を費やしてきた。
東條は市ヶ谷で倒れた。けれどもその東條に二年寄り添ってきた嶋田が、まだ軍令部総長の椅子に残っている。
残る仕事は三つ。米内大将を現役に呼び戻して海相に据えること。次官に然るべき人を置くこと。
そして嶋田を、軍令部から去らせること。
海軍がよみがえるまでの、十日あまりの話だ。
【本文】
昭和十九年(一九四四年)七月二十二日。
俺は目黒の第一分室で、新内閣発足の報せを受けた。
海軍大臣の席には、米内光政大将の名が挙がっていた。
ただ米内さんは予備役だ。現役を退いて、もう四年になる。大臣の椅子に座るには、まず現役に戻らねばならぬ。
そしてその現役復帰を、海軍の旧い首脳部が阻もうとしていた。
午後、俺は角筈の岡田大将の屋敷を訪ねた。
火鉢を挟んで、岡田大将は茶をすすっておられた。海軍の最長老だ。今年で七十六になられる。
「殿下のお言葉が出たよ」
大将は湯飲みを置かれた。
「米内一人だよ、米内一人よ――とな」
「伏見宮殿下が」
「野村が昨日熱海まで伺候した。そのとき殿下が二度念を押された」
俺は身を乗り出した。
「省部の旧い方々は、得心されたのですか」
「すんなりとはいかんよ」
大将は苦笑された。
「一昨日の夜だ。永野、嶋田、野村、岡の四人が会合した。米内を現役に戻すことに賛成したのは永野ただ一人。あとの三人は反対した。岡などは永野に食ってかかる始末だ」
「岡次官が、永野元帥に」
「東條の身代わりのつもりだろうよ」
大将の声に冷ややかなものが混じった。
「結局四人では決まらなんだ。御内意を伺うほかないとなって昨日の朝九時に参内した。野村が陛下に直々お伺いした。米内を海相にするのは果たして思召か――とな」
「思召、でしたか」
「木戸内府を通じて、はっきりお示しがあった。現役復帰は米内に限る、とな。野村はそれを携えて熱海の殿下のもとへ走った」
俺は息を吐いた。
「小磯さんご自身も、現役に戻りたがっていたと聞きます」
「あれは潰れた」
大将は手を振られた。
「東條が総理は文官であるべきだと言って頑として反対した。皮肉なものさ。その東條が、自分は陸相の資格で現役に居座っていたのだからな」
「嶋田大臣は」
「渋ったよ。陸軍が反対している、と口実を並べてな。だが陸軍の反対は陸軍の部内で現役復帰をやることへの反対だ。海軍がやることに口を出す筋ではない。それを小磯に突かれ、米内の現役復帰が思召と分かって、嶋田もとうとう諾した」
俺は深く頷いた。
(三月だ)
胸の内で呟いた。
(あの三月、岡田大将は伏見宮殿下に二度進言された。米内を現役にすることに、殿下は「全然同意だ」とお応えになった。「嶋田が断行すれば良いんだね」とも)
(あのお言葉が、ようやく実を結ぶ)
俺は黒子だった。
長老と中堅を結び、情報を集め、伏見宮殿下のお心が動くよう、岡田大将の背を押し続けた。表には一度も出ていない。
それでいい。米内さんが現役の軍服に袖を通す。それだけで、二年の労は報われる。
七月二十二日、米内光政大将は現役に復帰し、海軍大臣に親任された。
予備役の老提督が副総理格の重みを負って、海軍省の大臣室に戻ってきた。
*
米内さんが初めて登庁された日、俺は大臣室に呼ばれた。
四年ぶりに見る米内さんは少し痩せられたが、眼の光は変わらなかった。低く静かで底の知れぬ落ち着きがある。
俺はかねて気にかかっていたことを尋ねた。
「岡中将を、そのままお使いになりますか」
米内さんはほんの一拍間を置かれた。
「一夜にして放逐する」
短い言葉だった。声を荒らげるでもない。ただ有無を言わせぬ響きがあった。
俺は息を呑んだ。
岡敬純。東條内閣の海軍省を軍務局長として、次官として、二年支え続けた男。嶋田とともに「東條の副官」と陰口を叩かれた、その人だ。
その岡を、一夜で。
「では、次の次官は」
「兵学校の井上だ」
俺は胸を衝かれた。
(井上さん)
(あの三月、俺が江田島まで訪ねて、本省へ出てくれと頼んだ、あの井上中将だ)
あの夜、井上さんは静かに、しかしきっぱりと俺の懇請を断った。政治は嫌いだ、予備になるまでこの江田島で御奉公したい――と。
俺の言葉では、あの人は動かなかった。
それを、米内さんは動かそうとしている。
井上さんが上京されたのは、七月の末だ。
俺はひそかにお会いした。
兵学校長の軍服のまま、井上さんは苦笑しておられた。
「とうとう、捕まりましてね」
「都ホテルで、米内さんに」
「二十八日の晩です」
井上さんは湯飲みを両手で包まれた。
「お目にかかるなり、米内さんがいきなり言われた。おい、やってくれよ、と」
「何のことです、と空とぼけたら、次官だよ、と」
俺は思わず身を乗り出した。
「お断りに」
「断りましたとも」
井上さんは笑われた。
「冗談じゃありません、私の政治嫌いは前から御存知のはずだ、私には江田島が一番よい、何を好んで次官なんかやる馬鹿がありますか――と、突っぱねました」
「米内さんは何と」
「困ったなア、外に人がないんだよ、と」
「それで」
「それはあなたが人を知らないからです、第一あなたは私を買い被っています――と申し上げた」
井上さんはふと真顔になられた。
「すると米内さんが、しばらく黙ってから、例の大きな声で言われたんです」
「ようし、それでは政治のときは君は天井を向いておればよろしい――と」
俺は言葉を失った。
政治のときは、天井を向いておればよい。
井上さんの政治嫌いを、咎めるでも説き伏せるでもない。そのまま丸ごと抱き取ってそれでいいと言う。
「あの抱擁力の大きさには、頭が下がります」
井上さんは静かにそう言われた。
「政治のことは知らん顔してよいのならやりましょう、部内をまとめることなら御心配はかけません――と、お受けしました。条件は、それひとつです」
(俺が動かせなかった人を、米内さんはたった一言で動かした)
(説得ではない。包容だ)
俺は自分の二年の工作が、最後にこの一言の前にひれ伏す心地がした。
そしてそれが少しも悔しくなかった。
海軍が、米内光政という人を、ようやく頂に戴いた。それだけで十分だった。
*
海相は米内さん、次官は井上さん。海軍省は、見違えるように変わった。
だが軍令部総長の椅子には、まだ嶋田が座っていた。
海相と軍令部総長を兼ねる――その兼任こそ、二年前、海軍の伝統を破って中堅の怒りに火をつけた当の問題だ。
米内さんが海相に就いても、嶋田が総長に居座る限り、海軍は半分しか生き返らない。
俺は日記に書きつけた。
軍令部総長問題は速やかに解決しなければ、社会的にも政治的にも非常に工合が悪い――と。
その焦りを抱えたまま、俺は七月二十九日、宮中に松平康昌内大臣秘書官長を訪ねた。
宮中の旧首脳部の動きには、まだ霧がかかっている。
野村前海相が拝謁の際「現役復帰は米内に限る」との御言葉があったと言いふらし、末次大将の出馬は絶望と見られていた。
一方で、永野元帥に野心ありとの観測も流れている。
その御信任のほどを宮中はどう見ているのか。それを松平閣下に問うた。
閣下の話の要旨は、こうだった。
「七月二十一日、野村前海相が米内さんの件で参内されたとき、直接拝謁して自ら御伺いされたのです。米内を海相にするのは果たして思召か、と。内大臣は介在していません。おかげで内府は、責任を逃れたと喜んでおられますよ」
松平閣下は、いつもの柔らかな調子で続けられた。
「『現役復帰は米内に限る』との御言葉が本当にあったかどうかは、詳しくは存じません。ただ、それは野村大臣の伺いように因るところでしょう。そう強い意味で『米内に限る』との思召であったとは、拝察できません。新しい大臣が御願いすれば、御許しがないようなものとも思えません」
「末次大将は」
「末次でよろしいのか、という程度の御不安はおありのように承っています。ですが、これとて責任大臣が御願いしたときに、絶対にならぬというほど強いものではないでしょう」
「永野元帥は」
「元帥にも御不安がおありのようです。ただ、これは少し意味が違う。杉山さんと同じで、タガが緩んでいる、締まりがない――そういう御不安ですよ」
松平閣下は、ふと声を落とされた。
「岡次官も、変な立場になりましたねえ。やはり、あまりに東條内閣と深入りしすぎたのです」
俺は、宮中の冷静な観測に唸った。
末次は御信任の壁の前にある。永野も同じだ。御思召は「米内に限る」というほど強くはないが、米内さんで動かす分には障りがない。
宮中は、すべてを見ていた。
七月三十一日の夕、四時十五分。
電話が鳴った。軍需省の石川信吾少将だ。
「高木さん、部内の話ですがね」
石川さんの声はいつものように早口だった。
「及川大将が、自分から総長に出る肚ぐみではないか、と見ています」
「及川さんが、ご自分で」
「末次を参軍にする考えはどうか、と、及川さんから私に話がありました。次官は井上さん、軍務局長は多田さんに内定の様子です」
俺は受話器を握ったまましばし考えた。
(末次大将を、参軍に)
(永野元帥も、かねて末次の名を出しておられた。だが末次は、陛下の御信任が薄いと聞く。容易ではない)
後で判ったことだ。
軍令部総長を誰にするか。それは、米内さんと井上さんの間で、すでに決していた。
七月の終り頃、米内さんが井上さんに問われたという。
「嶋田は駄目だ、やめさせるよ。あとは誰がよいか」
「長谷川さんでしょうね」
井上さんが台湾総督の長谷川清大将の名を挙げると、米内さんは首を振られた。
「長谷川は台湾総督で、とれない。外に誰かないか」
「しかたがなければ、先任順ですな」
井上さんは淡々と続けられたという。
「やらせてみて無能だと思ったら首にすればよい。まだ五、六人はおります。大将がいなくなれば、中将ですなァ」
「先任順となれば、及川だが――」
米内さんはそこで言い淀まれた。
「あれは矢張り岩手だ。困ったな」
及川古志郎大将は米内さんと同じ岩手の生まれだ。同郷の者を引き上げては身贔屓と見られる。米内さんはそれを気にされた。
井上さんの答えは短かった。
「そんなケチな事を顧慮される時機ではありません」
米内さんからも井上さんからも、最後まで末次の名は出なかった。
これで、及川古志郎の総長就任が決まった。
八月二日。
及川大将が、護衛総司令長官から軍令部総長に転じた。
そして嶋田繁太郎と岡敬純がついに中央の椅子を離れた。
俺は八月三日の日記に短く記した。
及川大将、軍令部総長に転任。嶋田、岡両氏も愈々中央の椅子を離れることになった――と。
二年だ。
「東條の副官」と罵られ、海軍を陸軍に売り渡したと中堅に憎まれた男が、海軍の頂から静かに去っていく。
俺は勝ち誇る気にはなれなかった。ただ深く長い息を吐いた。
その日のうちに俺は天川勇嘱託を、新総長の及川大将のもとへ走らせた。
人事の刷新を一日も早く――それが俺の言伝だった。
及川大将の返答は、こうだった。
「早速やらねばならぬが、政治面との噛み合せがあるから、直ぐには参りません。出来るだけ早い機会にやりたい。御配慮の点、ありがたく御礼申し上げます」
慎重な、しかし誠実な答えだった。
海軍は、よみがえった。米内さんが頂に立ち、井上さんが支え、嶋田が去った。
だがこれは終わりではない。始まりだ。
(海軍は整った。次は、この戦をどう終わらせるかだ)
俺は南京へ去った松谷大佐のことを思った。陸軍の和平を、たった一人で案じていた人だ。
そして宮中の松平閣下。外務省の加瀬さん。
陸、海、宮中、外務。まだ顔を揃えてはいない。だが糸は確かに伸びつつあった。
その糸が一本に縒り合わさる日は、もう、そう遠くない。
【後書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一である。
あの七月の末から八月の初めにかけて、海軍が静かに、しかし鮮やかに衣を替えた。
私は外務省の机からそれを眺めていた。
米内光政が現役に戻り、海軍大臣となった。井上成美が次官に座り、嶋田繁太郎が中央を去った。
私は六月に米内閣下をお訪ねしたことがある。
閣下はサイパンの失陥を「最悪の不幸」と呼ばれ、この戦を続ける意義はもはや無いと、明言された。
その米内閣下が、海軍の頂に立たれた。和平を望む者にとってこれほど心強いことはない。
海軍が衣を替えた、その裏で誰が絵筆を握っていたのか。そこまでは、外務の私の窺い知るところではない。
だが、確かに感じる。表には出ぬ持ち場で、同じ一枚の絵を描いている者が、きっといる。
陸には松谷さん、宮中には松平閣下。そして海軍にも――まだ顔も知らぬ、志を同じくする誰かが。
では、外務はどうか。
新内閣でも重光葵大臣は外相の椅子に留まられた。
陸が代わり海が変わり宮中が動く――その渦の中で外交だけは一本の背骨を通したままだった。
外交とは、最後の一手まで表に出ぬ仕事だ。
動かさぬことが、外交の構えだったからだ。だがその静けさの底で、大臣は確かに一本の糸を手繰っておられた。
ばらばらに伸びた手を一本に縒り合わせなければ、この国は戦の終い方すら誤る。
次は、その外務の話を、私がしよう。
■ 人物紹介
高木惣吉(たかぎ・そうきち、1893年〜1979年) ※本話の前書き・本文の語り手
海軍少将、海軍省教育局長。海兵43期。米内光政・岡田啓介の海軍ブレーンとして、二年越しに嶋田更迭と東條打倒の合法工作を黒子として支えてきた。本話では米内の海相就任、井上の次官起用、嶋田退場という海軍刷新を見届ける。
米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)
海軍大将、元首相・元海相。海兵29期。岩手県出身。予備役にあったが、本話で現役に復帰し、副総理格の海軍大臣に親任される。岡敬純次官を「一夜にして放逐」し、兵学校長の井上成美を次官に迎えた。寡黙で底の知れぬ落ち着きと、大きな抱擁力を併せ持つ。
井上成美(いのうえ・しげよし、1889年〜1975年)
海軍中将、海軍兵学校長。海兵37期。宮城県出身。政治を嫌い、江田島での教育に専念していたが、米内の都ホテルでの説得を受けて海軍次官を引き受ける。「先任順で」と割り切り、米内の郷党への遠慮を「ケチなこと」と一蹴する冷徹な合理主義の人。
嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう、1883年〜1976年)
海軍大将。海兵32期。海相のまま軍令部総長を兼任して海軍の伝統を破り、東條に追従して「東條の副官」と揶揄された。本話で軍令部総長の座を及川に譲り、八月二日、ついに中央を去る。
及川古志郎(おいかわ・こしろう、1883年〜1958年)
海軍大将、護衛総司令長官。海兵31期。岩手県出身。本話で先任順により軍令部総長に起用される。自ら総長就任に意欲を示し、末次信正の参軍起用も口にしていた。
岡敬純(おか・たかずみ、1890年〜1973年)
海軍中将、海軍次官。海兵39期。東條内閣下で軍務局長・次官を務め、嶋田とともに東條への追従ぶりを中堅から批判された。本話で米内に更迭され、嶋田と相前後して中央を去る。
野村直邦(のむら・なおくに、1885年〜1973年)
海軍大将。海兵35期。嶋田の後を承けて短期間海相を務めた。本話では七月二十一日に参内して米内現役復帰の御内意を伺い、熱海の伏見宮へその旨を伝える使者となる。
永野修身(ながの・おさみ、1880年〜1947年)
元帥海軍大将、元軍令部総長。海兵28期。七月二十日夜の旧首脳部の会合で、ただ一人米内の現役復帰を支持した。
伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう、1875年〜1946年)
元帥海軍大将、元軍令部総長。海軍部内に絶大な影響力を保持する皇族。三月に米内現役復帰へ「全然同意」を示し、本話では野村に「米内一人だよ、米内一人よ」と念を押した。
岡田啓介(おかだ・けいすけ、1868年〜1952年)
海軍大将、元首相。海兵15期。海軍最長老として、伏見宮への進言を重ね、米内現役復帰の道を開いた。本話では高木に宮中・旧首脳部の動きを伝える。
松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)
内大臣秘書官長。本話の七月二十九日、高木の訪問を受け、米内現役復帰をめぐる御思召や、末次・永野への御信任、岡次官の立場について、宮中の観測を率直に語る。
石川信吾(いしかわ・しんご、1894年〜1964年)
海軍少将、軍需省総動員局総務部長。海兵42期。幅広い情報網を持つ反東條派の同志。本話の七月三十一日、高木に及川総長就任の内報を電話で伝える。
小磯國昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年)
陸軍大将。本話で組閣の大命を受け、新内閣の首相となる。自らの現役復帰を望んだが東條の反対で実現しなかった。
末次信正(すえつぐ・のぶまさ、1880年〜1944年)
海軍大将(予備役)、元連合艦隊司令長官。海兵27期。艦隊派の代表格。参軍起用の観測が流れたが、御信任の薄さもあり、総長人事で名が挙がることはなかった。
天川勇
高木のもとで動く嘱託。本話の八月三日、高木の使者として新総長の及川を訪ね、人事刷新を急ぐよう申し入れる。
加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年) ※本話の後書きの語り手
外務省外相秘書官。重光葵外相の腹心。本話では外務の側から海軍の刷新を見つめ、次の外務の話へと橋を渡す。
重光葵(しげみつ・まもる、1887年〜1957年)
外務大臣。小磯内閣でも外相に留任し、外交の一元化を構想する。本話の後書きで言及される。
■ 用語集
現役復帰
予備役にある軍人を、再び現役に戻すこと。米内光政は予備役の身であったため、海軍大臣に就くにはまず現役へ復帰する必要があり、その可否が本話の最大の焦点となった。
副総理格
内閣の中で、首相に次ぐ重みを持つ閣僚の地位。小磯内閣において、海軍大臣の米内光政は副総理格として遇された。
軍令部総長
海軍の作戦・用兵を統括する軍令部の長。嶋田繁太郎は海相のままこの職を兼任して海軍の伝統を破り、中堅層の反発を招いた。本話で及川古志郎に引き継がれた。
護衛総司令長官
昭和十八年に新設された海上護衛総司令部の長。船団護衛を統括する。及川古志郎はこの職から軍令部総長に転じた。
参軍
軍事参議官の通称。天皇の軍事上の諮問に応じる顧問格の高等武官。本話では、及川が末次信正をこの職に充てる案を口にしていたことが伝えられる。
先任順
将校の任官の古い順、すなわち序列の順。井上成美は、適任者を選びかねるなら先任順で総長を決め、無能なら更迭すればよいと割り切った。これにより及川古志郎の就任が決した。
教育局長
海軍省で教育行政を統括する局の長。高木惣吉は三月以来この職にあり、目黒の第一分室を拠点に、表向きは教育、その実、終戦工作の情報を集めていた。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・昭和十九年七月二十二日に小磯國昭内閣が成立し、米内光政が予備役から現役に復帰して副総理格の海軍大臣に親任されたこと(外務省編纂『終戦史録』、阿川弘之『井上成美』)。
・七月二十日夜、永野修身・嶋田繁太郎・野村直邦・岡敬純が会合し、米内の現役復帰を支持したのは永野ただ一人で、嶋田・野村・岡は反対し、岡が永野に反抗的な態度を示したこと。決着がつかず御内意を伺うこととなり、翌二十一日午前九時に参内したこと(高木惣吉『高木海軍少将覚え書』、八角三郎の証言)。
・七月二十一日朝、野村直邦前海相が参内し、木戸内大臣を通じて米内現役復帰が思召である旨が示されたこと。野村が熱海の伏見宮博恭王のもとへ伺候したところ、殿下が「米内一人だよ、米内一人よ」と念を押されたこと(八角三郎の証言、松平康昌内大臣秘書官長の証言、伊藤隆他編『高木惣吉 日記と情報 下』)。
・小磯國昭自身も現役復帰を望んだが東條英機が「総理は文官であるべきだ」と反対して実現せず、東條が陸相を退いた以上は予備役に編入されたこと。嶋田が陸軍の反対を口実に渋ったものの、海軍部内の人事に陸軍が容喙する筋ではないと小磯に指摘され、米内現役復帰が思召と分かって諾したこと(八角三郎の証言)。
・三月に岡田啓介が伏見宮博恭王に米内現役復帰を二度進言し、殿下が「米内を現役にすることは全然同意だ」「嶋田が断行すれば良いのだ」と応じていたこと。この地ならしが七月の決着につながったこと(伊藤隆他編『高木惣吉 日記と情報』。第三十八〜四十四話で既述)。
・米内が海軍大臣として初登庁した日、教育局長の高木惣吉が岡敬純を留任させるかを尋ねたのに対し、米内が「一夜にして放逐する」と答え、意中の新次官が「兵学校の井上」であったこと。なお高木自身の覚書では、大達茂雄・後宮淳が米内に同様の質問をした版も記録されている(阿川弘之『井上成美』、高木惣吉『高木海軍少将覚え書』)。
・七月二十八日の晩、京都の都ホテルで米内が井上成美に次官就任を求め、井上が政治嫌いを理由に固辞したのに対し、米内が「政治のときは君は天井を向いておればよろしい」と応じ、井上が「政治のことは知らん顔してよいのならやりましょう」と引き受けたこと。他に条件はなかったこと(井上成美伝記刊行会編『資料編 井上成美』)。
・三月に高木惣吉が江田島に井上成美を訪ね、本省への復帰を懇請したが、井上が政治嫌いと教育への専念を理由に固辞したこと(阿川弘之『井上成美』。第四十四話で既述)。
・七月二十九日、高木惣吉が松平康昌内大臣秘書官長を訪ね、米内現役復帰の御思召について宮中の観測を聴取したこと。松平が、七月二十一日に野村前海相が自ら参内して御伺いし内大臣は介在しなかったこと、「現役復帰は米内に限る」との思召がそれほど強いものとは拝察されないこと、末次・永野には御信任に関わる御不安があること(永野については杉山と同様「締まりがない」という意味の御不安であること)、岡次官が東條内閣に深入りしすぎて立場を失ったことなどを語ったこと(伊藤隆他編『高木惣吉 日記と情報 下』、高木日記七月二十九日条)。
・七月三十一日午後四時十五分、軍需省の石川信吾少将が高木に電話し、及川古志郎が自ら軍令部総長に出る肚であること、末次信正を参軍にする案が及川から出ていること、次官は井上、軍務局長は多田武雄に内定の様子であることを伝えたこと(伊藤隆他編『高木惣吉 日記と情報 下』、高木惣吉『高木海軍少将覚え書』)。
・七月終り頃、米内と井上の間で軍令部総長人事が話し合われ、長谷川清が台湾総督で動かせないため先任順とし、米内が及川の同郷(岩手)を理由にためらったのに対し、井上が「そんなケチな事を顧慮される時機ではありません」と一蹴したこと。米内からも井上からも末次の名は出ず、及川古志郎の総長就任が決まったこと(井上成美伝記刊行会編『資料編 井上成美』『本文 井上成美』)。
・八月二日付で及川古志郎が護衛総司令長官から軍令部総長に転任し、嶋田繁太郎と岡敬純が中央を去ったこと。八月三日、高木が天川勇嘱託を使者として及川に人事刷新を急ぐよう申し入れ、及川が「早速やらねばならぬが、政治面との噛み合せがあるから直ぐには参りません、出来るだけ早い機会にやりたい、御配慮の点ありがたく御礼申し上げます」と答えたこと(伊藤隆他編『高木惣吉 日記と情報 下』)。
・嶋田繁太郎が「東條の副官」と揶揄され、海相のまま軍令部総長を兼任して海軍建軍以来の伝統を破ったことが、中堅層の嶋田更迭運動の決定的な引き金になっていたこと(阿川弘之『井上成美』、第三十六〜三十九話で既述)。
【創作部分】
・語り手・高木惣吉の一人称による心情や所感、各場面の五感の描写は創作です。
・場面Aで岡田啓介が七月二十日夜の会合と二十一日の参内の経緯を高木に語る会話は、史実の趣旨を踏まえた構成上の演出です。岡田が八角三郎を情報源としていたこと、高木が松平康昌からも同旨の情報を得ていたことは史実ですが、この一場の語りそのものは本作の構成です。
・場面Cの高木と松平康昌の七月二十九日の会談は、高木日記の同日条に基づきます。松平の談話の要旨は史実に沿いますが、会話としての口調や高木の所感は創作です。
・場面Bで、井上成美が都ホテルでのやり取りを高木に直接語る設定は構成上の創作です。原典は井上自身の回想であり、本作では高木が井上から直に聞いたという形に置き換えています。
・場面Cの米内と井上の軍令部総長をめぐる会話を、高木が「後で判った」として配置したのは構成上の創作です。会話そのものは井上の回想に基づきます。
・加瀬俊一による後書きの外務視点と感懐は創作です。加瀬が六月に米内を訪ね、米内が「最悪の不幸」と述べたのは史実(第六十一〜六十四話前後で既述)に基づきます。
■ 参考文献
阿川弘之『井上成美』新潮文庫、1992年
井上成美伝記刊行会編『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年
伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』みすず書房、2000年
高木惣吉『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社、1979年
高木惣吉『高木惣吉日記 日独伊三国同盟と東條内閣打倒』毎日新聞社、1985年
外務省編纂『終戦史録 1』北洋社、1977年




