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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第8章 小磯内閣の成立(昭和19(1944)年7月18日~)

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第72話「小磯内閣成立(1/4)――異例の連立内閣」

【前書き】(高木惣吉より)


 俺は海軍少将、高木惣吉。


 東條が倒れた。年来の重荷が一時に消えた。


 だがあの祝杯の苦さを、俺はいまも覚えている。倒したのは、東條ひとりだ。あの椅子は、まだ空いている。


 空いた椅子にまた東條好みの男が滑り込めば、何も変わらぬ。倒した意味が、消える。


 だから俺は増田の祝杯もそこそこに、華族会館へ走った。これからの戦いは、刃でも合法でもない。人選だ。


 誰をどの椅子に据えるか。その一点に、すべてがかかっていた。


 とりわけ海軍だ。米内さんをもう一度、表へ出さねばならぬ。あの人がいなければ、この戦は終われぬ。


 これは東條の空けた椅子をめぐる、宮中と重臣と陸海軍の息の詰まる数日間の話だ。


 そして俺たち海軍が最後の切り札を表舞台へ押し上げる、その入口の話でもある。



【本文】


 昭和十九年(一九四四年)七月十八日。東條内閣が倒れた、その日の夜である。


 俺は華族会館でひとしきり人を動かしたあと、赤坂の岡田邸へ車を回した。


 昼に俺と無言で手を取り合い、互いの眼に涙を光らせたあの岡田大将の屋敷である。だが夜のいま、感傷に浸る暇はない。


 午後四時から宮中で開かれた、後継の首班を選ぶ重臣会議。その中身を一刻も早く知りたかった。


 誰が次の総理になるか。そこに海軍の運命が懸かっている。


 書斎に通されると、岡田大将は籐椅子とういすに深く身を沈めておられた。


 七十六の老体に、西溜にしだまの長い議論はこたえたとみえ、顔に疲れが滲んでいた。


 開け放った窓から、夏の夜のぬるい風が庭の樹々の匂いを運んでくる。


「西溜の間は、いかがでした」


 俺が問うと、大将は瞼を半ば閉じたまま、ゆっくりと口を開かれた。


「もめたよ。まず、軍人にするか文官にするか、でな」


 大将は籐椅子の肘掛けを指で軽く叩かれた。


「口火を切ったのは、阿部だ。端的に言えばこの際は現役の軍人がよい、いまいちばん大事なのは海軍だ、だから海軍から出てもらってはどうか――そう言って、いきなり米内さんの名を挙げた」


 俺は思わず身を乗り出した。


「米内さんを、首班に」


「そうだ。ところが、当の米内さんが真っ先に断られた」


 大将は薄く笑われた。


「軍人は作戦と統帥の殻に入って、それに専念するのが本分だ、政治は文官が当たるのが筋だ、今度は陸軍、次は海軍と源平のように代わる代わるではよくない――とな。理路整然、ぐうの音も出ぬ」


 いかにも米内さんらしい。あの人は、自ら表の頂に立つことを決して望まぬ。


「若槻さんが続いた。戦争中はやはり軍人がよい、国防の第一線は海軍に頼むほかない、だがそこから首相が出ると、かえって御遠慮や御気兼ねが出る、とな」


「木戸内大臣は」


「木戸ははっきりしておった。内外の情勢、ことに今後の国内の防衛を思えば、陸軍の軍人でなければならぬ、と。これで流れは、陸軍の大将に絞られた」


 大将は湯飲みに手を伸ばされた。冷めた茶をひと口含まれる。


「そこへ近衛公が妙な球を投げた。世間には鈴木貫太郎さんを推す声もある、とな」


「鈴木大将を……」


 俺は意外に思った。侍従長を長く務めた、あの鈴木貫太郎である。


「平沼さんが食いついた。個人の事情はともかくいまは国家のためだ、鈴木は立派な人だ、出てもらうのが筋だ、と。だが、そこで水を差したのが原枢密院議長よ」


 大将の声が少し低くなった。


「原はこう言った。鈴木さんは常々、自分は軍人だから政治の地位には絶対に就かぬ、たとえ大命があっても絶対に拝受せぬ、と申しておられる、御参考までに、とな。これで、鈴木案はすっと消えた」


 俺はしばし黙った。鈴木貫太郎。その名がここで一度浮かんで、沈んだ。


 だが、この名が一年後にどれほどの意味を持つか――この夜の俺には、知る由もなかった。


「で、最後に残ったのが小磯だ」


 大将は湯飲みを置かれた。


「平沼が、小磯は如何、と問うた。すると米内さんがこう言われた。小磯はよい人だ、手腕もあるし腹もある、とな」


「米内さんが、小磯を」


「ああ。米内さんが買っておられるなら、座も傾く。木戸が、今回は重臣の支援という意味で、大命を受けた者と重臣の懇談を考えたい、とまとめた。そして皆で候補の順を決めた。寺内、小磯、畑、そして海軍――この順だ」


 俺はその四つの名を胸の内で並べた。


「寺内元帥が、第一」


「そうだ。だが、わしはな……」


 岡田大将は、窓の外の闇へ眼を向けられた。


「寺内も畑も、いまは第一線の総司令官だ。この戦の最中に、前線の将を引き抜けるか。残るのは結局、小磯ということになりはせぬか――とな。わしは、そこに引っかかった」


 庭で、葉擦れの音がした。湿った夜気が、書斎の畳をひたひたと這う。


 東條は倒れた。だがその後にどんな男が座るのか。まだ霧の中だった。



 翌、七月十九日。空はどんよりと曇っていた。


 俺の懸念は的中していた。


 昼前、町村警保局長けいほきょくちょうから情報が入った。


 朝鮮の小磯総督から、東京都長官の大達茂雄おおだち・しげお氏に連絡があったという。


 小磯は明二十日の午前七時に京城を発ち、十一時に東京へ着く――と。


 寺内も畑も、消えたのだ。


 あとで分かったことだが、木戸内大臣が陛下に重臣会議の結論を奏上したとき、陛下は参謀総長の東條に、寺内元帥を呼び戻せるかを諮られたという。


 東條はこう答えた。


「反攻がこれほど激しいときに、第一線の総司令官を一日でも空けることはできません。内地の政治の動きを前線に持ち込むのは、士気に関わります。共栄圏や中立国に与える影響も、甚大です」


 もっともな理屈だった。陛下も尤もと思う、と仰せになり、小磯を召すことに決められた。


 寺内が第一線にある以上、同じく前線の畑も引けぬ。残ったのは内地にいる小磯ただ一人だった。


 俺はその日の日記にこう書いた。


――国民は、東條倒るのニュースに久し振りに明るくなっているという。誤解も、甚だしい。


 倒したのは、東條ひとりだ。後継が定まり、その後継が国を導けねば、何も始まらぬ。


 そして俺はその後継たる小磯という人に、一抹の不安を覚えていた。


 その不安を俺は岡田大将にぶつけた。


「大将。小磯という人で、この難局が乗り切れますか」


 大将は苦い顔をされた。


「正直、心もとない。長く朝鮮にいて、中央の機微から遠い。陛下御自身、御不安をお持ちだと聞く」


「御不安、と」


「三月事件に関わったという噂もある。神がかったところもあり、経済も知らぬ、とな。それでも米内や平沼が勧めるので、不本意ながら小磯に、と仰せになったそうだ」


「不本意ながら、ですか」


「ああ。だからこそだ」


 大将の眼が鋭くなった。


「その小磯を、独りにしてはならぬ。誰かが横で支えねば、この内閣はもたぬ」


 ここで宮中から一つの構想が降りてきた。


 近衛公の発案だった。小磯一人ではどうにも物足りぬ。原枢密院議長などは、いっそ重臣全部に大命を、とまで言っている。


 そもそも小磯を推すには、米内の力も大きかった。


 ならば、米内も内閣に加えてはどうか――。


 近衛公はこれを平沼さんに諮り、平沼さんは即座に賛成した。木戸内大臣もすぐに同意した。


 松平秘書官長を使いに立てて各重臣の意向を確かめさせ、米内さんには近衛公自らが発案者として話をする、と。


 小磯・米内の、連立内閣。


 米内さんを海軍大臣として、副総理格で内閣に据える。これこそ俺たちが東條打倒の最初から思い描いていた、まさにその形だった。


 だが――。



 この連立の構想に、思わぬところで待ったがかかった。


 岡田大将である。


 その晩、俺が岡田邸を再び訪ねると、大将は腕を組んで唸っておられた。


「高木。わしは迷っておる」


「連立に、ですか」


「米内さんを海相に出すのはよい。だがな、米内さんが内閣に入れば、重臣の列から抜ける。重臣会議の重しが一つ減るのだ。それでよいのか、とな」


 俺は膝を進めた。


「大将。逆にお考えください。重臣の列にいる米内さんは、外から物を言うだけです。だが海相となれば、内から国を動かせます」


「内から、か」


「いまは、内から動かす人が要る時です。小磯独りでは、軍を抑えられません。陸軍は、東條の色をそのまま残そうとするでしょう」


 俺は声を落とした。


「その中で米内さんが海軍を握り、副総理格で睨みを利かせる。これより確かな備えが、ほかにありますか」


 大将はなお唸っておられた。


「米内さんを内閣の中に置くこと。それがこの国を終わりへ近づける、ただ一つの道です。大将のお力で、どうか」


 岡田大将は、長いあいだ目を閉じておられた。


 やがて、ふう、と息を吐かれた。


「……分かった。米内さん本人とも、もう一度話してみよう」


 その夜、俺は岡田大将と手分けして米内さんとも連絡を取った。あの人の肚も、確かめねばならぬ。


 米内さんの答えはこうだった。


「自分は政治は分からぬ。東條内閣に無任所大臣で入れと言われたのを、断った手前もある。この際、総理となるのは困る。だが――海軍は、自分で言うのもおこがましいが、自分が出なければ納まらぬ。出るとすれば、海軍大臣として出たい」


 その一言で、俺は確信した。米内さんは肚を決めておられる。


 あとは、岡田大将が動けば連立は成る。


 果たして、翌二十日の早朝。午前六時すぎ、岡田大将は松平秘書官長へ電話を入れられた。


 昨日の態度を変更し、米内との連立に賛成する――と。


 昨夜、俺や米内さん本人と連絡を取った末の翻意だった。この一本の電話が、米内海相実現の決め手となった。



 七月二十日。朝のうちは晴れていたが、夕刻には雨になった。


 午前十一時、小磯大将が京城からの飛行機で東京に着いた。


 そして、午後五時十分。


 小磯、米内の両大将が宮中に召され、陛下に拝謁した。


 両大将に、こう大命が下された。


――けいら、相協力して内閣を組織せよ。


 さらに陛下は、憲法の条章を守ること、そして大東亜戦争を完遂するためソ連を刺激せぬよう心せよ、と加えられた。


 軍務局からの電話でその報せを聞いたとき、俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。


 大命降下(たいめいこうか=天皇が組閣を命じること)。小磯を首班とし、米内を擁する連立内閣。


 東條を倒した、その日からわずか二日。俺たちが描いた絵が、ここまで形になった。


 だが俺は浮かれなかった。


 大命が下ったとはいえ、米内さんが本当に海軍大臣の椅子に座れるかは、まだ決まっていない。


 米内さんはすでに予備役に退いた身だ。海相となるには、特例で現役に復帰せねばならぬ。前例のないことだった。


 そして海軍省には、いまも東條に近い旧首脳部が居座っている。


 野村海相、嶋田総長、岡次官――彼らが、米内さんの現役復帰を黙って見過ごすはずがない。


 大命は、降りた。


 だが、米内さんを本当に海相の椅子へ据えるための、本当の戦いは――ここから始まる。


 俺は受話器を置き、窓の外を見た。


 夕立の雨が、海軍省の硝子を静かに叩いていた。



【後書き】(橋本正勝より)


 俺は橋本正勝。陸軍少佐、参謀本部戦争指導班に在る。


 東條閣下の城が崩れた、あの七月十八日。海軍では高木少将のような方々が、米内大将を表へ押し上げようと奔走しておられた。


 だが同じ頃、市ヶ谷の内側――陸軍では、まるで逆のことが起きていた。


 空いた椅子に、誰を据えるか。海軍が良識の重鎮を担ぎ出したのに対し、陸軍は旧来の力をそのまま温存しようとした。参謀総長の椅子。


 陸軍大臣の椅子。その二つをめぐって、東條閣下は最後の最後まで、御自身の影を残そうとされた。


 次は、その陸軍の人事を市ヶ谷の内から語る。後宮閣下の総長案が、なぜ覆ったか。


 富永次官が、なぜ涙ながらに、一度上げた内奏の取り消しを願い出たか。そして杉山元帥が、なぜ再び引っ張り出されたか。


 種村大佐と、あの日戻ってきた田中中佐と、俺と――三人で見届けた、あの数日の話を。


■ 人物紹介


高木惣吉(たかぎ・そうきち、1893年〜1979年) ※本話の前書き・本文の語り手

 海軍少将、海軍省教育局長。米内光政のブレーンとして東條内閣打倒に奔走し、その後の米内海相擁立にも力を注いだ。本話では岡田啓介大将から重臣会議の模様を聞き、米内を連立内閣に加えるべく岡田を翻意させ、米内本人の肚を確かめる。自らは表に立たず、長老を前面に押し立てる「裏方」に徹した。


岡田啓介(おかだ・けいすけ、1868年〜1952年)

 予備役海軍大将、元首相。重臣の一人。本話では7月18日の重臣会議に列席し、その模様を高木に伝える。米内を連立内閣に加えることに当初は逡巡するが、高木の説得を容れて翻意し、7月20日早朝、松平秘書官長へ賛成の電話を入れた。これが米内海相実現の決め手となった。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 予備役海軍大将、元首相。海軍の良識派の重鎮で、高木が長く支えてきた人物。重臣会議では首班に推されるも「政治は文官が当たるのが筋」と固辞した。一方で「海軍は自分が出なければ納まらぬ、出るなら海軍大臣として」と、副総理格での海相就任には強い覚悟を示した。


近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年〜1945年)

 公爵、元首相、重臣。小磯一人の内閣では心もとないと見て「小磯・米内連立内閣」を発案。米内を海相として加える構想を自ら平沼・木戸に諮り、米内本人にも発案者として説いた。


木戸幸一(きど・こういち、1889年〜1977年)

 内大臣。天皇を補佐する宮中の要職。重臣会議の結論を天皇に奏上し、後継選定の実務を担った。近衛の連立構想にも即座に同意した。


小磯国昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年)

 陸軍大将、朝鮮総督。本話で後継首班に選ばれる人物。長く中央を離れていたため、その政治力を不安視する声が天皇・重臣の双方にあった。陸軍士官学校は杉山元と同期(第12期)。


若槻礼次郎(わかつき・れいじろう、1866年〜1949年)

 男爵、元首相、重臣。重臣会議の座長を務めた。


平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう、1867年〜1952年)

 男爵、元首相、重臣。鈴木貫太郎を推し、のち小磯を推した。


阿部信行(あべ・のぶゆき、1875年〜1953年)

 陸軍大将、元首相、重臣。重臣会議で米内の首班を提案した。


広田弘毅(ひろた・こうき、1878年〜1948年)

 元首相、重臣。重臣会議に列席した。


原嘉道(はら・よしみち、1867年〜1944年)

 枢密院議長。鈴木貫太郎が大命を拝受しない旨を会議で伝え、鈴木案を退ける一因となった。


鈴木貫太郎(すずき・かんたろう、1868年〜1948年)

 予備役海軍大将、枢密院顧問官(元侍従長)。重臣会議で首班候補に挙がるも、本人の意向により見送られた。のちの終戦時の首相。


寺内寿一(てらうち・ひさいち、1879年〜1946年)

 陸軍元帥、南方軍総司令官。後継首班の第一候補に挙がるが、第一線の総司令官であるため見送られた。


畑俊六(はた・しゅんろく、1879年〜1962年)

 陸軍大将、支那派遣軍総司令官。後継候補に挙がるが、寺内同様、第一線にあるため見送られた。


東條英機(とうじょう・ひでき、1884年〜1948年)

 陸軍大将。前首相・前陸相で、本話の時点ではなお参謀総長。天皇から寺内召還の可否を諮られ、第一線の将は動かせぬと答えた。


松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)

 内大臣秘書官長。各重臣の意向確認の使者を務め、岡田大将からの連立賛成の電話を受けた。のちに松谷・加瀬・高木と「終戦四人組」を結ぶ宮中側の要。


橋本正勝はしもと・まさかつ ※本話の後書きの語り手

 陸軍少佐、参謀本部戦争指導班員。松谷誠大佐の左遷後も班に踏み留まる。次話(第73話)で陸軍人事の暗闘を語る。


■ 用語集


重臣会議じゅうしんかいぎ

 内閣総辞職の際、後継の首班を選定するために、首相経験者(重臣)と内大臣・枢密院議長らが宮中に参集して行う協議。法的な決定機関ではなく、内大臣が天皇に奏上する際の参考意見をまとめる場であった。本話の会議は、昭和19年7月18日午後、宮中の「西溜の間」で開かれた。


大命降下たいめいこうか

 天皇が特定の人物に内閣の組織を命じること。これを拝受した者が組閣に着手する。本話では7月20日、小磯・米内の両大将に「相協力して内閣を組織せよ」との異例の「二人への大命」が下された。


連立内閣れんりつないかく

 複数の勢力が協力して組織する内閣。本話では、政治力に不安のある小磯を、国民の信望厚い米内が海軍大臣(副総理格)として支える「小磯・米内連立内閣」が構想された。


現役・予備役げんえき・よびえき

 軍人の身分の区分。一線で勤務するのが現役、退いて待機の身となるのが予備役。陸海軍大臣は原則として現役の軍人が就くため、予備役の米内が海相となるには、特例で現役に復帰させる必要があった。


副総理格ふくそうりかく

 法律上の役職ではないが、内閣の中で首相に次ぐ実力者として遇される立場。本話では、米内が海軍大臣でありながら、事実上の副総理として小磯を支える役割を期待された。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】


・昭和十九年七月十八日午後四時、宮中の西溜の間で後継首班を選定する重臣会議(若槻・岡田・広田・近衛・阿部・米内・原・木戸の各重臣・要職者)が開かれたこと。本文中の会議のやり取り――阿部が「現役の軍人がよい、海軍から、米内に」と口火を切ったこと、米内が「軍人は作戦統帥に専念するのが本分、政治は文官が筋、源平の如く代わる代わるはよくない」と固辞したこと、若槻の発言、木戸の「陸軍の軍人でなければならぬ」、近衛が鈴木貫太郎の名を挙げたこと、平沼がこれを支持し、原嘉道が「鈴木は政治の地位には絶対に就かぬ、大命があっても拝受せぬと申している」と述べて鈴木案が消えたこと、平沼の「小磯は如何」に米内が「小磯はよい人なり、手腕もあり腹もある」と応じたこと、最終的に「寺内・小磯・畑・海軍」の順で候補を挙げて合意したこと――は、いずれも木戸の日記の記述に基づきます。台詞は原典の言い回しを現代文に整えました(木戸幸一『昭和19年分木戸幸一日記』)。


・木戸が重臣会議の結論を奏上した際、天皇が参謀総長の東條に寺内元帥召還の可否を諮り、東條が「反攻の苛烈な際、第一線の総司令官を一日でも空けることは不可能」等と反対したこと、天皇が「尤もと思う」として小磯を召すことに決めたこと。寺内・畑がいずれも第一線にあったため、内地の小磯に絞られたこと(木戸幸一『昭和19年分木戸幸一日記』、鈴木多聞『「終戦」の政治史』)。


・天皇が小磯の資質に不安を抱いていたこと(三月事件への関与説、神がかりの傾向、経済への不案内)、それでも米内・平沼が勧めるので不本意ながら小磯に大命を下したこと(鈴木多聞『「終戦」の政治史』)。


・近衛文麿が「小磯一人では物足りぬ」として小磯・米内連立内閣を発案し、米内を海相として加える構想を平沼・木戸に諮って即座に賛成を得たこと、松平秘書官長を使者として各重臣の意向を確かめ、米内本人には近衛が発案者として話したこと。米内が「総理は困るが、海軍は自分が出なければ納まらぬ、出るなら海軍大臣として」と応じたこと(細川護貞『細川日記』、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』)。


・岡田啓介が当初は米内を連立に加えることに逡巡したが、高木惣吉や米内本人と連絡を取った末に翻意し、七月二十日早朝、松平秘書官長へ賛成の電話を入れたこと、これが米内海相実現の決め手となったこと(吉松安弘『東條英機暗殺の夏』、川越重男『救国・聖断の史』)。


・高木惣吉の日記の記述――七月十九日条(町村警保局長の情報として、小磯総督から大達茂雄への連絡、小磯が二十日午前七時京城発・十一時東京着の予定、国民が東條退陣の報に明るくなったことへの「誤解も甚だし」との所感)、七月二十日条(午後五時十分、小磯・米内両大将拝謁、相協力して内閣を組織すべき旨の大命)(高木惣吉『高木惣吉日記 日独伊三国同盟と東條内閣打倒』)。


・七月二十日、小磯・米内の両大将に大命が下り、あわせて憲法の条章の遵守と、大東亜戦争完遂のためソ連を刺激せぬよう着意すべき旨の御言葉が加えられたこと(木戸幸一『昭和19年分木戸幸一日記』、高木惣吉『高木惣吉日記』)。


・米内が予備役であり、海相就任には特例の現役復帰を要したこと、海軍省には野村直邦海相・嶋田繁太郎軍令部総長・岡敬純次官ら旧首脳部がなお在職しており、米内の現役復帰に抵抗する勢力であったこと(その攻防は第七十四話で描きます)(阿川弘之『米内光政』、高木惣吉『高木海軍少将覚え書』)。


【創作部分】


・語り手・高木惣吉の一人称による心情、所感、および各場面の五感の描写(岡田邸の書斎の夜気、籐椅子に沈む老将の疲れ、庭の葉擦れ、海軍省の硝子を叩く夕立など)は、すべて創作です。


・重臣会議の模様を、高木が岡田大将から夜の岡田邸で聞くという叙述の構成は創作です。高木は会議に列席していないため、史実の会議内容を岡田の語りとして再構成しました。重臣たちの台詞は、木戸日記の記述をもとに現代文へ整えたものです。


・高木が岡田大将を翻意させ、米内本人の肚を確かめる場面の具体的な会話は創作です。岡田が逡巡の末に賛成へ転じたこと、高木・米内と連絡を取ったことは史実ですが、その対話の細部は記録になく、当方で書き起こしました。


・「鈴木貫太郎の名が一度浮かんで沈んだ」ことへの高木の感慨(一年後の意味を予感させる地の文)は、後の終戦を知る読者へ向けた演出で、当時の高木がそう考えた記録はありません。


■ 参考文献


木戸日記研究会編『木戸幸一日記 下巻』東京大学出版会、1966年


高木惣吉『高木惣吉日記 日独伊三国同盟と東條内閣打倒』毎日新聞社、1985年


高木惣吉『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社、1979年


細川護貞『細川日記』中央公論社、1978年


共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』共同通信社、1968年


鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年


吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上』新潮社、1984年


吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』新潮社、1984年


川越重男『救国・聖断の史』人吉中央出版社、2003年


阿川弘之『米内光政』新潮社、1978年




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