表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第7章 東條内閣倒閣運動(昭和19(1944)年6月下旬~)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/82

第71話「南京にて、畑俊六元帥、賊軍論を語る」

【前書き】(加瀬俊一より)


 加瀬俊一です。


 昭和十九年七月十八日――東條内閣総辞職の報が東京中を駆け巡ったあの日の午後、私の脳裏をふとぎったのは、市ヶ谷ではなく南京でした。


 松谷さんはいま、長江ちょうこうほとりでこの報をどう受け止めておられるでしょうか。


 あの人は命がけで東條総理に直言し、左遷されました。その左遷の因をつくった当の総理が、いま政治の表舞台から退こうとしていました。怒りでもない。復讐でもない。何とも形容しがたい感慨が松谷さんの胸の内に去来したであろうことは、想像に難くありません。


 戦後、私は松谷さんから、あの夜のことをいくつか伺いました。


 とりわけ忘れ難いのは――松谷さんが、総司令官であった畑俊六元帥と官邸の一室で二人だけで向かい合った、あの夜のことです。


 軍の最高首脳の一人と、左遷された一介の参謀。立場は天と地ほどに違いながら、二人の眼には同じものが映っていた、と松谷さんは言われました。


 その夜の対話を、ここに記し残しておきたいのです。



【本文】


 昭和十九年(一九四四年)七月十八日――南京、支那派遣軍総司令部。


 俺は参謀室の自席で軍政担当の書類をさばいていた。


 窓の外で長江を渡る蒸し暑い風が芭蕉ばしょうの葉を揺らしていた。墨の匂いと汗の匂いが官邸の廊下に混じり合っている。


 市ヶ谷を追われて十五日。


 俺の机上に積まれているのは、占領地の物資調達、現地住民との折衝、補給線の管理――いずれも戦争指導とはまったく別の世界の書類であった。


 俺はペンを走らせながら密かに思っていた。


――これでよい。


 市ヶ谷で東條に直言した俺が、その懲罰として軍政の事務机に縛りつけられている。それでよい。あの直言は無駄ではなかった。直言の音は東京の何処かで必ず誰かの耳に届いている。市ヶ谷で踏み留まる橋本少佐、麹町別館の酒井閣下、外務省の加瀬さん、宮中の松平秘書官長――そしてまだ顔も知らぬ海軍の同志――。


 あの直言は彼らの覚悟を必ず一段固めたはずだ。


 俺はペンを置き、椅子に深くもたれた。


 その瞬間、参謀室の戸がせわしなく叩かれた。


「松谷大佐殿」

 書記の伍長が息を切らせて入ってきた。


「東京から、緊急電です」


 俺は椅子から立ち上がった。


 伍長が差し出した電文の紙片を俺は受け取った。


「東條内閣総辞職。後継未定。詳細続報。」


 短い簡潔な、ただそれだけの電文であった。


 俺はしばらくその紙片を見つめていた。


 窓の外、長江の対岸の杜から雷鳴が低く響いてきた。


 夏の夕立が近づいている。


 書記の伍長は敬礼して退出した。俺は紙片をゆっくりと机の上に置いた。


 胸の内に湧き上がってくるものがあった。


 それは勝利のたかぶりではなかった。復讐の喜びでもなかった。怒りの残り火でもなかった。


 ただ――深く深く、息を吐きたくなるような感覚であった。


 俺は窓辺に立った。


 長江の対岸、紫金山しきんざんの杜の上に、入道雲が白く屹立きつりつしていた。


 あの雲の下、東京でいま何が始まろうとしているのか。


 次の内閣が何処へ向かうのか。


 俺の闘いはこれからなのだ。



 その日の夕刻――。


 俺は副官室の伝令から急なお召しを受けた。


「総司令官閣下が、松谷大佐をお呼びです」


 畑俊六元帥陸軍大将――支那派遣軍総司令官。陸軍三長官のうち二職(陸相・教育総監)を歴任され、元帥府に列せられた軍の最高首脳のお一人である。


 俺は軍服の襟を正し、官邸の本館へと向かった。


 総司令官執務室の前で、副官が一礼し戸を開けた。


「失礼いたします」


 俺は室内に入り、敬礼した。


 畑元帥は書類の決裁机ではなく、奥の応接の椅子に軍服のまま腰掛けておられた。卓上には茶碗が二つ。一つにはすでに茶がたたえられていた。


「松谷君、座りなさい」


 元帥のお声は低く穏やかであった。


 俺は勧められるままに、向かいの椅子に腰を下ろした。卓上の茶碗から湯気が細く立ち上っている。


「松谷君、東京からの報は聞いたか」

「はい。先刻、参謀室に電文が参りました」


 元帥はゆっくりと茶碗を手に取られた。


「東條君が内閣をなげうたれた、そうだな」

「間違いございません」


 元帥は茶を一口含まれた。


 しばらく室内には、湯気の細い音と窓の外の蝉の声しか聞こえなかった。


 やがて元帥はふと、俺の眼を見られた。


「松谷君。君は東京で東條君に、何を直言したのか」


 俺はしばし答えに窮した。


 元帥のお声には詰問の色はなかった。しかし軽い世間話の色でもなかった。何か深い確かなものを確かめようとされるお声であった。


「閣下――小官は東條閣下に対し、申し上げました。『勝敗の山は見えました。遺憾ながら、わが方の負けであります』、と」


 俺は姿勢を正して申し上げた。


 元帥はしばし無言で俺を見つめておられた。


 やがてゆっくりと茶碗を卓上に戻された。


「そうか」


 元帥のお声には、何か重いものが沈んでいた。


 元帥は静かに立ち上がり、壁に貼られた大陸の地図の前へ歩まれた。


「松谷君。自分の知っておることを、いくつか言う」


 元帥は地図を見つめたまま続けられた。


「南方へ渡る船は、月を追うごとに沈んでいく。この大陸の兵站(へいたん=補給の道)は細る一方だ。マリアナが落ちた。内地の空も、いずれ騒がしくなろう。――自分に言えるのは、そこまでだ」


「閣下……」


「その先は、言わぬ」


 元帥はゆっくりと振り返られた。


「元帥府に列する者が『その先』を口にすれば、百万の将兵の銃が下がる。総司令官とは、そういう職だ。見えておっても、言えぬ。言えぬまま死んでいった者も、多い」


 俺は息を呑んだ。


「だが君は、その先を口にした。しかも、東條君の面前で」


 元帥はふたたび椅子に腰を下ろされた。そして卓上の茶碗に目を落としたまま、ひとことだけ付け加えられた。


「自分は君の言を――誤りだ、とは言わぬ」


 それきり元帥は口をつぐまれた。


 正しい、とは仰らなかった。ただ、誤りとは言わぬ――その一語だけ。


 だが俺には、それで足りた。


 元帥の眼は、とうに見ておられるのだ。俺が市ヶ谷で口にした、あの勝敗の山を。ただ元帥という位が、総司令官という職が、その先の一語を生涯封じている。口にできぬものの重さが、遠回しの言い方ひとつを借りて、いま俺の前に静かに置かれた。


 その瞬間、俺の胸の内では市ヶ谷以来ずっと張り詰めていた何かがわずかに緩んだ。



「松谷君」

 元帥は再び口を開かれた。


「君は、自分が左遷されたのは東條君の怒りに触れたためだと思っておるか」


 俺は頷いた。


「そう、思っております」


 元帥はしばし、窓の外を見つめておられた。


「半分は正しい。残り半分は違う」


 俺は姿勢を正した。


「半分は、東條君が君の直言を許せなかった。それは事実であろう。だが、もう半分――東條君は君を護られたのかも知れぬ」


 俺はしばし、お言葉の意味をはかりかねた。


「閣下、それは――」


 元帥は静かに続けられた。


「市ヶ谷の中央に敗北を口にする者を留めおけば、憲兵が君をいつらえに行くか知れぬ。中野正剛代議士のことを君も覚えておるだろう」


 俺は思わず息を呑んだ。


 中野正剛――昭和十八年、東條批判の言論を理由に憲兵に拘束され、解放後に自決された代議士である。


「東條君が君を最前線の参謀に出されたのは、君を憲兵の手から遠ざけられた、とも見られる」


 俺はしばし絶句した。


 市ヶ谷で東條の冷たい眼を浴びて以来、俺はあの人を、己の意思で俺を左遷した敵と認識していた。だが――もし畑元帥の言葉が真実ならば、東條は俺を罰しつつ、同時に護ったのかも知れぬ、ということになる。


「閣下――小官には、にわかに信じられません」

「無理もない」


 元帥はわずかにお顔をほころばせた。


「だが東條君という人を長く見てきた自分には、そう思える。あの人は独裁者ではない。陛下への忠節を己の流儀で貫こうとした、一人の軍人であった」


 俺はしばし卓上の茶碗を見つめていた。


 湯気はもう、立っていなかった。



「松谷君、自分も――苦い思いを抱えておる」


 元帥のお声はいっそう低くなった。


「米内内閣の倒閣の件を、覚えておるか」


 俺は頷いた。


 昭和十五年、米内光政内閣で陸相を務められた畑元帥が、単独辞任して米内内閣を倒したあの一件である。陸軍内の中堅将校団が強硬な意見具申を閑院宮参謀総長に対して行い、その閑院宮殿下から畑元帥に直接ご辞職を勧められた、と聞いている。


「あれは自分の意思ではなかった。だが結果として、米内さんを政治の表舞台から降ろしてしまった」


 元帥は深く息を吐かれた。


「米内さんは自分のあの動きの裏にある事情をよく解っておられた。だが――歴史は自分の名を、米内内閣倒閣の張本人として刻むであろう。それでよい」


 俺は何も言えなかった。


「松谷君、戦争指導という仕事は――しばしば己の意思とは別のところで人を動かす。自分が米内さんを倒したように。東條君が君を左遷されたように。誰かの忠節が、誰かの忠節と衝突する。だが衝突したからといって、どちらの忠節も偽りではないのだ」


 俺は静かに頷いた。



 元帥はしばし、卓上の茶碗を見つめておられた。


 やがてふとお顔を上げられた。


「松谷君、ひとつ聞いてくれるか」


 俺は背筋を伸ばした。


「自分の父は、会津藩士であった。名は畑能賢よしかたという」


 俺は思わず息を呑んだ。


 畑元帥のお父上が会津の御方であること、確かに耳にしたことはあった。だが元帥ご自身の口からそれを伺うのは、初めてであった。


「自分は東京の生まれだが、父は若き日、戊辰戦争で薩長の軍と戦った。賊軍と呼ばれた側である」


 元帥のお声には、過去を懐かしむような色も自慢する色もなかった。ただ、ある事実をそのまま提示するお声であった。


「父の従弟に、西川勝太郎という者があった。白虎隊の一員として、飯盛山で自刃した」


 俺は息を呑んだ。


 飯盛山の白虎隊――会津若松城下の戦いで、若き十代の隊員たちが燃え盛る城下の煙を「落城」と見誤り、士道を貫いて自刃した、あの悲劇である。


「父はその弟分のような従弟の死を、生涯口にしなかった。だが語らぬということが、何よりも雄弁であった」


 元帥は窓の外を見つめておられた。長江の対岸の雷鳴が、また一段近くなっていた。


「畑家の遠祖を辿れば、南北朝の頃、楠木正成公や新田義貞公と肩を並べて南朝に仕えた畑時能はた・ときよしに行き着く、と父は申しておった」


 俺は耳を疑った。


 楠木正成――湊川にて足利尊氏の大軍を前に、勝つ見込みのない戦さに出陣した忠臣。畑元帥の御家系は、その大楠公と並ぶ南朝方の武将の血を引かれている、と。


「畑時能は南朝の旗を掲げて越前で戦い、敗れて散った。父祖は鎌倉以来、敗者の側に立ち続けた血である」


 元帥はわずかにお顔を綻ばせた。


「南朝も、会津も――勝った側から見れば賊である。だが敗者の側にも忠義があった。畑家の血は、その敗者の側の忠義を、七百年にわたって連綿と運んできた」


 俺は卓上の冷えていく茶を見つめながら、お言葉を受け止めていた。



「松谷君、自分が陸軍に入った頃――軍の中枢は長州の御方々で占められておった」


 元帥はゆっくりと続けられた。


「会津の血を引く者には、出世の道に厚き壁があった。山県有朋閣下、桂太郎閣下、寺内正毅閣下――いずれも長州。陸軍は明治以来、薩長閥の城であった」


 俺は深く頷いた。


 陸軍内の派閥構造は俺自身も承知している。北陸の傍流に長く位置してきた俺もまた、長州の本流からは遠い者であった。だが畑元帥の家系が背負ってきた「賊軍の血」の重みは、俺の苦労の比ではない深さであったろう。


「だが自分は、その壁を恨むまいと決めた」


 元帥のお声には、自分を律する者の静けさがあった。


「父が賊軍と呼ばれたのは、明治政府の側から見た呼び名にすぎぬ。会津も薩長も、それぞれの忠義を尽くしたのだ。会津は徳川家への忠義を。薩長は『勤皇』の旗を掲げた、彼らなりの忠義を」


 俺は静かに頷いた。


「歴史は勝った側の忠義を『正義』と呼び、敗れた側の忠義を『賊』と呼ぶ。だが敗れた側の忠義もまた、忠義であった。飯盛山の墓に眠る勝太郎の魂が、それをあかす」


 元帥はしばし、窓の外を見つめておられた。


「自分が御前会議や元帥府で見栄を張らぬ性分を貫いてきたのは、おそらく父からの教えである。勝った側の見栄は、敗れた側の真実を踏み潰す。だから自分は見栄を張らぬ」


 俺は深くこうべを垂れた。



「松谷君、いま陸軍中央で起こっておることを、君はどう御覧になるか」


 元帥は再び俺を見据えられた。


「七十六年前、薩長は徳川を倒すために勤皇の旗を掲げた。あれはひとつの忠義であった。だがいま――陸軍中央で『徹底抗戦』を叫ぶ若い将校たちは、自分たちが『勤皇』を掲げて、陛下のお名のもとに国を破滅へと導きつつある」


 俺は息を呑んだ。


「服部、佐藤、その後ろに連なる作戦課の若き者たち――彼らは自分たちこそが陛下に忠であると信じておる。だがその忠義の旗の下で、現地の将兵は死に、国は焼かれていく。これは忠義であろうか」


 元帥のお声は悲しみを帯びていた。


「七十六年前、薩長の若き志士たちもまた『勤皇』の旗の下で、会津を焼き、白虎隊の少年たちを死に追いやった。彼らもまた、自分たちこそが陛下に忠であると信じておった」


 俺はしばし、何も言えなかった。


 元帥が言わんとされることの輪郭が、俺の胸の内でゆっくりと形をなしてきた。


「閣下――いまの陸軍中央の徹底抗戦派は、明治の薩長と同じ、と」


「同じだ、とは言わぬ」


 元帥は穏やかに首を振られた。


「だが構造が似ておる、とは言える。『勤皇』の旗を絶対化し、その旗の下ではいかなる犠牲も正当化される、と信ずる――この構造は、明治の薩長にも昭和の作戦課にも、共通する。そしてその旗の下で焼かれるのは、いつも声を上げぬ民であり、現地の将兵である」


 俺は深く頭を垂れた。



 元帥はそこで言葉を切り、窓辺へ歩まれた。長江の対岸で、雷鳴がまた一段近くなっていた。


「松谷君。ひとつ、たとえ話をする」


 元帥は窓の外を見つめたまま言われた。


「会津は、負けた。城は焼け、父祖は賊の名を着せられ、下北の斗南となみへ移されて辛酸をめた。――だが会津は、消えたか」


「……消えて、おりません」


「消えなかった。なぜか」


 元帥は静かに続けられた。


「誇りを以て敗れたからだ。城が落ちる日まで筋を通し、敗れたのちは黙って耐え、子らを育て、学問を興した。勝者がどう書こうと、敗者が己の忠義を汚さなければ、忠義は消えぬ。七十六年経ったいまも、飯盛山の墓に手を合わせる者が絶えぬのが、その証だ」


 雷鳴が、ひときわ大きく鳴った。


「逆に――負け方を誤れば、どうなるか。忠義そのものが灰になる。守るべきものまで焼き尽くし、玉と砕けて、あとに何も残らぬ。松谷君。敗れることと、亡びることとは、別のものだ」


 俺は、動けなかった。


 元帥は歴史の話をしておられる。戊辰の、七十六年前の話を。


 だが――本当にそうか。


(閣下は……この国の、これからの話をしておられるのではないか)


 南方の島々で「玉砕」の二字が公報を飾るようになって、一年余り。徹底抗戦の旗の下、一億玉砕の声さえ聞こえはじめたいま――敗れることと亡びることとは別だ、というお言葉が、ただの史談であるはずがなかった。


「閣下」


 俺は、声を絞り出した。


「もし――もし、でありますが。この国がいつか、会津の立場に立つ日が来たならば」


 言ってしまってから、俺は己の大胆さに肝が冷えた。


 元帥は、振り返られなかった。


 長い沈黙があった。蝉の声と遠い雷鳴だけが、部屋を満たしていた。


 やがて元帥は、窓の外を見つめたまま、静かに言われた。


「――その時は、会津に学ぶことだ」


 それだけであった。


 もし、という俺の仮定を、元帥は打ち消されなかった。


 そんな日は来ぬ、とは仰らなかった。


 その時は、と――元帥は確かに、そう言われたのだ。


「会津は、負け方を知っておった。守るべきただ一つのために、他のすべてをこらえた。会津にとってのそれは、家名と子らの命であった。この国にとってのそれが何であるかは――君のほうが、よく考えておるだろう」


 国体護持。


 俺が第一案の判決に記した「条件は唯一国体護持あるのみ」の一行が、胸の奥でうずいた。元帥は俺の起案を読んでおられたのか。それとも、同じ結論にお独りで至っておられたのか。確かめる勇気は、なかった。


 窓の外で、夕立の最初のひと粒が芭蕉の葉を叩いた。


「いま賊軍と呼ばれる側に立つ君に、自分は言っておきたい。賊軍と呼ばれることを恥じてはならぬ。会津の父祖は誇りを以て敗れた。畑時能は誇りを以て散った。君もまた誇りを以て、己の忠義を貫きなさい」


 元帥はわずかにお顔を綻ばせられた。


「歴史は必ず覆る。いま賊軍と呼ばれる側の忠義が、いつかは『真の忠義』として世に知られる日が来る。会津の墓と飯盛山の岩肌が、それを教えてくれる」


 俺は深く頭を垂れた。


「閣下――そのお言葉、終生忘れません」



「松谷君」

 元帥は再びお顔を上げられた。


「君はこれから、何をするつもりか」


 俺は居住まいを正した。


「閣下、小官の務めはいま、軍政の事務であります」


「それは表向きの務めであろう。本心はどうか」


 元帥のお声は優しかった。だがその奥には、何かを試されるような深さがあった。


 俺はしばしためらった。


 目の前のお方は軍の最高首脳のお一人である。「終戦工作を続けたい」と申し上げれば、再び最前線の遥かなる僻地へきちに飛ばされても文句は言えぬ。


 だが畑元帥のあの眼差まなざしを前にして、俺は嘘を言う勇気を失った。


「閣下――小官はなお、戦争を終わらせる道を探し続けたいと考えております」


 俺は深く一礼して申し上げた。


「東條閣下が御退陣されたいま――次の内閣に新たな道がひらかれる、と存じます。小官の身は南京にありますが、心はなおその道にあります」


 俺は覚悟して頭を上げた。


 畑元帥はしばし、俺を見つめておられた。


 やがて――。


 元帥はゆっくりと頷かれた。


「君の正直は、君らしい」


 俺は息を呑んだ。


「松谷君、自分は――軍人としては最高位を極めたが、政治は苦手だ。米内内閣で一度失敗しておるからな」


 元帥はわずかにお顔を綻ばせた。


「政治は自分の柄ではない。だが君のような人が己の信念で動くことを、自分は止めぬ。むしろ頼もしく思う」


 それから元帥は、窓の外へ目をやり、独り言のように付け加えられた。


「いつの日か――陛下の御前で、戦さの見通しを直に問われる日が来るかも知れぬ。その日が来れば、自分は見たままを、飾らずに申し上げるほかあるまい。それまでは、言わぬ。言わぬが――見てはおる」


 俺は深く頭を垂れた。


 言わぬが、見てはおる。


 その一言に、元帥という人のすべてが籠っていた。


「閣下――もったいないお言葉であります」


「松谷君、ひとつだけ言っておく」


 元帥のお声は最後に引き締まった。


「君の務めは軍政にある。これをおろそかにしてはならぬ。職務を尽くしつつ、己の信念を密かに磨き続けなさい。表の務めをしっかり果たさぬ者は、裏の闘いも必ず瓦解する」


 俺は深く頷いた。


「承知いたしました」


 元帥はもう一杯、茶を注がれた。湯気が再び卓上に細く立ち上った。


 窓の外で、長江の対岸の雷鳴がより近く響いてきた。


 夕立がいよいよ近づいている。



 その夜、官邸を辞して、俺は宿舎への砂利道を独り歩いた。


 南京の蒼穹に夕立の前触れの雲が深く垂れ込めていた。湿った熱風が頬を撫でていく。


 畑元帥のお言葉がなお耳に残っていた。


「賊軍と呼ばれる側に立つ君に、自分は言っておきたい。賊軍と呼ばれることを恥じてはならぬ」


「いま賊軍と呼ばれる側の忠義が、いつかは『真の忠義』として世に知られる日が来る」


「敗れることと、亡びることとは、別のものだ」


 俺は足を止めて空を見上げた。


 もし本当に、この国が会津の立場に立つ日が来るのなら――上手に敗れる道を、誰かが命懸けで用意しておかねばならぬ。守るべきただ一つを守り抜くための、負け方の作法を。


 それこそが俺の戦さだ、と、雷鳴の下で改めて思い定めた。


 雷鳴が長江の対岸で、いまや明瞭に轟いていた。


――東條閣下。


 俺は心の中でつぶやいた。


――小官の直言をお受け止め下さり、ありがとうございました。あの場で小官を左遷されたお心が、もし畑元帥の言われた通りでしたら――小官は、ただ頭を垂れるばかりです。


――しかし小官の闘いは、これからです。


――次の内閣で、その次の内閣で――陛下の御稜威の護持を、戦局に合う形で必ずや実現申し上げます。


――その日まで、小官は軍政の事務机にあっても、ペンを捨てません。


 雷光が紫金山の杜の上で白く走った。


 数瞬遅れて雷鳴が深く響いた。


 俺は宿舎の門に向かって再び歩き出した。


 大きな雨粒が、軍服の肩にひとつ、ふたつ、と落ちてきた。



【後書き】(松平康昌より)

【後書き】(松平康昌より)


 僕は松平康昌。内大臣秘書官長です。


 松谷大佐が南京で畑元帥と語り合われたあの夜のことを、当時の僕は知りませんでした。後年、加瀬君から聞いて初めて知った話です。


 畑元帥は東京の宮中でも、誠実で実直な方として知られていました。御前会議で、誰もが申し上げにくい絶望的な戦況をそのまま陛下に申し上げられる――そのご気質は、終戦の年(昭和二十年)の御前言上でも、いささかも変わりませんでした。


 僕の祖父・松平春嶽もまた、戊辰の役では旧幕府側に近い立場で薩長と相対した一人です。徳川慶喜公とともに最後まで和議の道を模索し、結果として明治政府の側からは長く冷たく見られた時期もありました。畑元帥のお父上・畑能賢氏が背負われた「賊軍」の重みは、僕の祖父の重みと、形こそ違え、底ではひとつでした。


 戊辰の役から七十六年。会津の墓に眠る勝太郎少年と、飯盛山の岩肌と、越前の畑時能の旧塁とが――昭和の日本の片隅で、密かに繋がっていたのです。


 政治の手腕にけた者だけが、国を救うのではありません。誠実さと実直さこそが、ときに最高の政治となる。そして「賊軍」と呼ばれた血が、ときに最も深く国を案ずる血となる。畑元帥のあの夜のお振舞いは、その何よりの証左であったと、僕は思います。


 あの南京の雷雨の夜から、東京の冬の市ヶ谷へ――松谷大佐の再起の旅路が、ここから始まります。


■ 人物紹介


畑俊六(はた・しゅんろく、1879年〜1962年、当時65歳)

 陸軍元帥、支那派遣軍総司令官(昭和十九年三月〜昭和二十年十一月)。陸軍士官学校十二期、陸軍大学校二十二期。東京生まれ、父・畑能賢は旧会津藩士。畑家の遠祖を辿れば南北朝期、後醍醐天皇方(南朝)に仕えた武将・畑時能に至る。父の従弟に、白虎隊士として飯盛山で自刃した西川勝太郎を持つ、戊辰戦争の「賊軍」の血を引く家系。陸軍内では明治以来長らく長州閥が中枢を占めたため傍流に位置する立場であったが、頭脳明晰、温厚篤実であったため、陸軍三長官のうち二職(陸相・教育総監)を歴任した。昭和十五年の米内光政内閣で陸軍大臣を務め、陸軍中堅将校団の意見具申と閑院宮参謀総長の勧告により単独辞任、米内内閣を倒した「結果としての張本人」となった。しかし米内大将自身がその真相を理解しており、戦後の東京裁判では米内が進んで畑の弁護証人として出廷して徹底的にかばい、畑は米内について「真に軍人の鑑」と評した。終戦時の御前言上では、他の元帥二人(永野修身・杉山元)が強気な意見を述べる中、独り「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に申し上げた誠実さで知られる。戦後、A級戦犯として終身刑判決を受け、巣鴨プリズンでは重光葵らから「ぼっちゃん」の愛称で呼ばれた。畑の日記によれば、戦後も松谷が保安隊研究所への配属、自衛隊陸将への就任、陸将退任のたびに挨拶に訪れており、二人の交流は長く続いた様子である。昭和三十年仮釈放。昭和三十七年五月十日、故郷福島県での戦没者慰霊碑除幕式に出席して挨拶を述べたあと、着席しようとしてそのまま脳出血で昏睡、同日逝去した。『忠鑑畑元帥』には、逝去直前、挨拶を述べる畑の写真が掲載されている。


畑能賢(はた・よしかた、生没年詳細不明)

 畑俊六元帥の実父。旧会津藩士。戊辰の役では会津若松城下で薩長軍と戦った。その従弟である西川勝太郎が白虎隊士として飯盛山で自刃。畑能賢自身は生き延びて、明治新時代を「賊軍」の出として歩んだ。本話で畑元帥が松谷に語る家系史の中心。


西川勝太郎(にしかわ・かつたろう、1853年〜1868年)

 会津藩士。白虎隊士中二番隊員。慶応四年(一八六八年)八月二十三日、戊辰の役・会津若松城下の戦いにて、飯盛山で隊員ら計十九名(一名生還)とともに自刃。享年十五。畑能賢の従弟であり、畑俊六元帥にとっては父の従弟(縁戚)にあたる。本話で畑元帥の口から、戊辰の悲劇の象徴として語られる。


畑時能(はた・ときよし、1320年?〜1341年)

 南北朝時代の武将。新田義貞の家臣として南朝方に属し、越前の鷲ヶ岳・羽渕城で北朝・足利方と戦って敗死。畑家の遠祖と伝えられる。楠木正成・新田義貞らと並び、南朝方の忠臣として後世に讃えられる。本話で畑元帥が「父祖は鎌倉以来、敗者の側に立ち続けた血」と語る際の根源として登場。


松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年、当時41歳)

 本作主人公。陸軍大佐。本話では、南京・支那派遣軍総司令部の参謀(軍政担当)として登場。東條内閣総辞職の報を南京で受け、畑元帥との対話を通じて、自分の南京左遷の意味、東條の真意、そして戊辰以来の「敗者の忠義」の血脈に位置づけられる自身の闘いの意義を再評価する転機を得る。


加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年)

 ※既出。外務省・外相秘書官。本話前書きで、戦後の松谷の追想を伝える役回りで登場。本話本文には登場しない。


松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)

 ※既出。内大臣秘書官長。本話後書きで、畑元帥の人物評と、自身の祖父・松平春嶽が同じく戊辰の役で「賊軍」的立場にあったことを補足する役回りで登場。本話本文には登場しない。


松平春嶽(まつだいら・しゅんがく、1828年〜1890年)

 ※既出。幕末の福井藩主。松平康昌の祖父。本話後書きで、徳川慶喜とともに幕末に和議を模索した立場が言及される。


東條英機(とうじょう・ひでき、1884年〜1948年)

 ※前話既出。本話では畑元帥の口から、また松谷の心の中の語りかけから、間接的に登場。本話で初めて、松谷が東條に「ありがとう」と告げる転機が訪れる。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 予備役海軍大将、元首相(昭和十五年一月〜七月)。本作既出。本話では、畑元帥の昭和十五年の単独辞任により自身の内閣を倒された当事者として言及される。しかし畑の動きの裏事情をよく理解しており、戦後の東京裁判では進んで畑の弁護証人として出廷したという、自身もまた誠実な海軍長老。


閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう、1865年〜1945年)

 皇族、元帥陸軍大将。明治・大正・昭和の三代にわたり陸軍に重きをなした皇族軍人。本話では、米内内閣倒閣時に畑陸相へ直接ご辞職を勧告された場面の背景として言及。


小磯国昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年、当時64歳)

 予備役陸軍大将。本話直後、東條の後を受けて総理大臣に就任する人物。重臣会議で寺内元帥との一騎打ちとなり、米内大将の「政治性は小磯が優れている」との発言を受けて平沼騏一郎が小磯支持に転じ、組閣の大命を拝した。戦後、A級戦犯として終身刑、巣鴨で病死。


中野正剛(なかの・せいごう、1886年〜1943年)

 代議士、東方会総裁。昭和十八年正月、新聞紙上で東條を批判する社説を執筆し、憲兵に拘束される。釈放後の十月二十七日、自宅で割腹自決。本話では、畑元帥が「言論を理由に憲兵に拘束される危険」の例として松谷に警告する場面で言及される。


 山県有朋・桂太郎・寺内正毅

 いずれも明治・大正期に陸軍中枢を握った長州閥の代表的軍人政治家。本話では、畑元帥が「会津の血を引く者には出世の道に厚き壁があった」と語る際の長州閥の象徴として言及される。


■ 用語集


戊辰戦争ぼしんせんそう

 慶応四年(一八六八年)から明治二年(一八六九年)にかけて、薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)を中心とする「官軍」と、旧幕府・奥羽越列藩同盟・函館共和国などの「賊軍」との間で戦われた内戦。会津若松城下の戦い(慶応四年八〜九月)が悲劇の象徴。


白虎隊びゃっこたい

 会津藩の少年兵組織。十六〜十七歳の藩士子弟で構成された士中二番隊の十九名は、慶応四年八月二十三日、戊辰の役・会津若松城下の戦いにて、飯盛山から燃え上がる城下の煙を「落城」と誤認し、士道を貫いて自刃。一名のみが生還して悲劇を伝えた。本話では、畑元帥の父の従弟・西川勝太郎が、その白虎隊士の一人として登場。


飯盛山いいもりやま

 福島県会津若松市東郊の山。白虎隊士中二番隊十九名の自刃の地として知られ、現在も白虎隊の墓所として参拝者を集める。本話では、畑元帥の言葉の中で「敗れた側の忠義」の象徴として登場。


南朝・畑時能なんちょう・はた・ときよし

 南北朝時代(一三三六〜一三九二)、後醍醐天皇方の南朝と、足利尊氏が擁立した北朝とが約六十年にわたって対立したとき、畑時能は新田義貞の家臣として南朝方に属し、越前で敗死。後世「南朝の忠臣」として顕彰される。本話では、畑元帥が「父祖は鎌倉以来、敗者の側に立ち続けた血」と語る際の遠祖として登場。


賊軍ぞくぐん

 官軍(=天皇方を称する側)に対して、これに刃向かったと見なされる勢力。明治政府の歴史観では、戊辰の役の旧幕府方・奥羽越列藩同盟側を指す呼称として用いられた。本話では、畑元帥が「賊軍と呼ばれた側にも忠義があった」と語ることで、本作主題の「忠節の多形性」を歴史的に深化させる。


長州閥ちょうしゅうばつ

 明治政府および明治・大正期の陸軍を支配した、旧長州藩出身者を中心とする政治・軍事派閥。山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一などが代表的人物。陸軍では昭和初期まで長州閥が中枢を占め、それ以外の出身者(とくに旧幕府方の出身者)は傍流に置かれる傾向があった。


支那派遣軍しなはけんぐん

 ※前話既出。中国大陸に駐留した日本陸軍の総軍。総司令部は南京。本話時点(昭和十九年七月)では、畑俊六元帥が総司令官。


元帥府げんすいふ

 天皇の軍事上の最高顧問機関。元帥は終身称号で、陸海軍大将の中から特に功績ある者に対し、天皇から「元帥」の称号が授けられた。


紫金山しきんざん

 南京市東郊の山。中山陵(孫文の墓所)・明孝陵(明の太祖朱元璋の墓所)などが在る景勝地。支那派遣軍総司令部のあった南京の象徴的風景の一つ。本話で松谷の心象風景として登場。


長江ちょうこう

 揚子江。アジア最長の河川。南京市の西を流れる。本話では、雷鳴と夕立の予兆の舞台として登場。


軍政担当参謀ぐんせいたんとうさんぼう

 占領地の行政・治安・物資調達・現地住民との折衝などを担う参謀職。本話時点での松谷誠の名目上の職務。戦争指導(終戦工作)とは無縁の事務職であり、東條による「懲罰人事」の典型例として理解されている。


御前言上ごぜんごんじょう

 天皇に対し、臣下が直接事実や意見を申し上げること。畑元帥は昭和二十年八月十四日の御前言上で「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に申し上げ、ポツダム宣言受諾の決定的契機の一つを作った。本話と直接の関係はないが、畑元帥の人物像を理解する上で重要なエピソード。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】


・昭和十九年七月十八日に東條内閣が総辞職したこと。松谷誠が同年七月三日付で支那派遣軍参謀(軍政担当)へ転出し、南京の総司令部で総辞職の報に接したこと。松谷が東條に「勝敗の山は見えた。遺憾ながらわが方の負けである」と直言したことが左遷の因であったこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。


・畑俊六元帥が当時の支那派遣軍総司令官であったこと。父・畑能賢が旧会津藩士で戊辰戦争を戦い、その従弟の西川勝太郎が白虎隊士として飯盛山で自刃したこと。畑家が南北朝期の武将・畑時能を遠祖と伝えること(『忠鑑畑元帥』ほか)。


・昭和十五年、米内光政内閣の陸相であった畑が、陸軍中堅層の強硬な意見具申と閑院宮参謀総長の勧告を受けて単独辞任し、結果として米内内閣が総辞職に追い込まれたこと。戦後の東京裁判で米内が畑の弁護証人として出廷し、徹底的にかばったこと(阿川弘之『米内光政』)。


・中野正剛代議士が昭和十八年に東條批判の言論を理由に憲兵に拘束され、釈放後に自決したこと。


・畑元帥が昭和二十年八月十四日の御前言上で「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなし」と率直に申し上げたこと(本話の後書き・用語集で言及。伊藤隆・照沼康孝編『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』)。


【創作部分】


・総辞職当日の夜、畑元帥が松谷を執務室に招き、二人だけで語り合ったという場面そのものは、両者がこの時期に南京の総司令部で総司令官と参謀の関係にあったという史実を踏まえた創作です。「賊軍論」をめぐる対話の内容、松谷の左遷を「東條による庇護でもあったかも知れぬ」とする畑の解釈、電文を受け取る場面の情景、松谷の心中の独白は、いずれも創作です。


・畑元帥が松谷の直言に対し、船舶の損耗や兵站の逼迫といった事実のみを挙げ、「その先は、言わぬ」「誤りだ、とは言わぬ」と、敗北の見通しを直接には口にせず示唆にとどめる対話は創作です。ただしその下敷きには、畑が『畑俊六日誌』で戦局を早くから冷静かつ悲観的に観察していたこと、そして昭和二十年八月十四日の御前言上で「敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなし」と、問われた時にはじめて見たままを率直に言上したこと(伊藤隆・照沼康孝編『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』)という史実があります。本話の「言わぬが――見てはおる」は、この一年後の御前言上への伏線として造形したものです。


・「会津の負け方」をめぐる対話(「敗れることと、亡びることとは、別のものだ」「その時は、会津に学ぶことだ」)は創作です。ただし、会津藩が戊辰戦争後に斗南へ移封されて辛酸を嘗めつつ再起したこと、畑家が会津の出自であることは史実に基づきます(斗南での境遇を畑家個別の足跡として描く細部は、会津藩士全体の史実からの推定です)。また、松谷が起案した第一案の判決に「条件は唯一国体護持あるのみ」とあったことは史実で(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)、本話はこの一行を畑の示唆と響き合わせる構成をとりました。畑元帥が実際に第一案を読んだという記録はなく、この点は物語上の含みにとどめています。


・前書きの、戦後に加瀬俊一が松谷から追想を聞いたという枠組み、および後書きの松平康昌の語り(祖父・松平春嶽と「賊軍」の重ね合わせ)は、両者の実際の経歴を踏まえた創作です。


■ 参考文献


松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


伊藤隆・照沼康孝編『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年


鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年


山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮文庫、2013年


阿川弘之『米内光政』新潮社、1978年


梅谷芳光編『忠鑑畑元帥』国風会本部、1964年



 僕は松平康昌。内大臣秘書官長です。


 松谷大佐が南京で畑元帥と語り合われたあの夜のことを、当時の僕は知りませんでした。後年、加瀬君から聞いて初めて知った話です。


 畑元帥は東京の宮中でも、誠実で実直な方として知られていました。御前会議で、誰もが申し上げにくい絶望的な戦況をそのまま陛下に申し上げられる――そのご気質は、終戦の年(昭和二十年)の御前言上でも、いささかも変わりませんでした。


 僕の祖父・松平春嶽もまた、戊辰の役では旧幕府側に近い立場で薩長と相対した一人です。徳川慶喜公とともに最後まで和議の道を模索し、結果として明治政府の側からは長く冷たく見られた時期もありました。畑元帥のお父上・畑能賢氏が背負われた「賊軍」の重みは、僕の祖父の重みと、形こそ違え、底ではひとつでした。


 戊辰の役から七十六年。会津の墓に眠る勝太郎少年と、飯盛山の岩肌と、越前の畑時能の旧塁とが――昭和の日本の片隅で、密かに繋がっていたのです。


 政治の手腕にけた者だけが、国を救うのではありません。誠実さと実直さこそが、ときに最高の政治となる。そして「賊軍」と呼ばれた血が、ときに最も深く国を案ずる血となる。畑元帥のあの夜のお振舞いは、その何よりの証左であったと、僕は思います。


 あの南京の雷雨の夜から、東京の冬の市ヶ谷へ――松谷大佐の再起の旅路が、ここから始まります。


■ 人物紹介


畑俊六(はた・しゅんろく、1879年〜1962年、当時65歳)

 陸軍元帥、支那派遣軍総司令官(昭和十九年三月〜昭和二十年十一月)。陸軍士官学校十二期、陸軍大学校二十二期。東京生まれ、父・畑能賢は旧会津藩士。畑家の遠祖を辿れば南北朝期、後醍醐天皇方(南朝)に仕えた武将・畑時能に至る。父の従弟に、白虎隊士として飯盛山で自刃した西川勝太郎を持つ、戊辰戦争の「賊軍」の血を引く家系。陸軍内では明治以来長らく長州閥が中枢を占めたため傍流に位置する立場であったが、頭脳明晰、温厚篤実であったため、陸軍三長官のうち二職(陸相・教育総監)を歴任した。昭和十五年の米内光政内閣で陸軍大臣を務め、陸軍中堅将校団の意見具申と閑院宮参謀総長の勧告により単独辞任、米内内閣を倒した「結果としての張本人」となった。しかし米内大将自身がその真相を理解しており、戦後の東京裁判では米内が進んで畑の弁護証人として出廷して徹底的にかばい、畑は米内について「真に軍人の鑑」と評した。終戦時の御前言上では、他の元帥二人(永野修身・杉山元)が強気な意見を述べる中、独り「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に申し上げた誠実さで知られる。戦後、A級戦犯として終身刑判決を受け、巣鴨プリズンでは重光葵らから「ぼっちゃん」の愛称で呼ばれた。畑の日記によれば、戦後も松谷が保安隊研究所への配属、自衛隊陸将への就任、陸将退任のたびに挨拶に訪れており、二人の交流は長く続いた様子である。昭和三十年仮釈放。昭和三十七年五月十日、故郷福島県での戦没者慰霊碑除幕式に出席して挨拶を述べたあと、着席しようとしてそのまま脳出血で昏睡、同日逝去した。『忠鑑畑元帥』には、逝去直前、挨拶を述べる畑の写真が掲載されている。


畑能賢(はた・よしかた、生没年詳細不明)

 畑俊六元帥の実父。旧会津藩士。戊辰の役では会津若松城下で薩長軍と戦った。その従弟である西川勝太郎が白虎隊士として飯盛山で自刃。畑能賢自身は生き延びて、明治新時代を「賊軍」の出として歩んだ。本話で畑元帥が松谷に語る家系史の中心。


西川勝太郎(にしかわ・かつたろう、1853年〜1868年)

 会津藩士。白虎隊士中二番隊員。慶応四年(一八六八年)八月二十三日、戊辰の役・会津若松城下の戦いにて、飯盛山で隊員ら計十九名(一名生還)とともに自刃。享年十五。畑能賢の従弟であり、畑俊六元帥にとっては父の従弟(縁戚)にあたる。本話で畑元帥の口から、戊辰の悲劇の象徴として語られる。


畑時能(はた・ときよし、1320年?〜1341年)

 南北朝時代の武将。新田義貞の家臣として南朝方に属し、越前の鷲ヶ岳・羽渕城で北朝・足利方と戦って敗死。畑家の遠祖と伝えられる。楠木正成・新田義貞らと並び、南朝方の忠臣として後世に讃えられる。本話で畑元帥が「父祖は鎌倉以来、敗者の側に立ち続けた血」と語る際の根源として登場。


松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年、当時41歳)

 本作主人公。陸軍大佐。本話では、南京・支那派遣軍総司令部の参謀(軍政担当)として登場。東條内閣総辞職の報を南京で受け、畑元帥との対話を通じて、自分の南京左遷の意味、東條の真意、そして戊辰以来の「敗者の忠義」の血脈に位置づけられる自身の闘いの意義を再評価する転機を得る。


加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年)

 ※既出。外務省・外相秘書官。本話前書きで、戦後の松谷の追想を伝える役回りで登場。本話本文には登場しない。


松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)

 ※既出。内大臣秘書官長。本話後書きで、畑元帥の人物評と、自身の祖父・松平春嶽が同じく戊辰の役で「賊軍」的立場にあったことを補足する役回りで登場。本話本文には登場しない。


松平春嶽(まつだいら・しゅんがく、1828年〜1890年)

 ※既出。幕末の福井藩主。松平康昌の祖父。本話後書きで、徳川慶喜とともに幕末に和議を模索した立場が言及される。


東條英機(とうじょう・ひでき、1884年〜1948年)

 ※前話既出。本話では畑元帥の口から、また松谷の心の中の語りかけから、間接的に登場。本話で初めて、松谷が東條に「ありがとう」と告げる転機が訪れる。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 予備役海軍大将、元首相(昭和十五年一月〜七月)。本作既出。本話では、畑元帥の昭和十五年の単独辞任により自身の内閣を倒された当事者として言及される。しかし畑の動きの裏事情をよく理解しており、戦後の東京裁判では進んで畑の弁護証人として出廷したという、自身もまた誠実な海軍長老。


閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう、1865年〜1945年)

 皇族、元帥陸軍大将。明治・大正・昭和の三代にわたり陸軍に重きをなした皇族軍人。本話では、米内内閣倒閣時に畑陸相へ直接ご辞職を勧告された場面の背景として言及。


小磯国昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年、当時64歳)

 予備役陸軍大将。本話直後、東條の後を受けて総理大臣に就任する人物。重臣会議で寺内元帥との一騎打ちとなり、米内大将の「政治性は小磯が優れている」との発言を受けて平沼騏一郎が小磯支持に転じ、組閣の大命を拝した。戦後、A級戦犯として終身刑、巣鴨で病死。


中野正剛(なかの・せいごう、1886年〜1943年)

 代議士、東方会総裁。昭和十八年正月、新聞紙上で東條を批判する社説を執筆し、憲兵に拘束される。釈放後の十月二十七日、自宅で割腹自決。本話では、畑元帥が「言論を理由に憲兵に拘束される危険」の例として松谷に警告する場面で言及される。


 山県有朋・桂太郎・寺内正毅

 いずれも明治・大正期に陸軍中枢を握った長州閥の代表的軍人政治家。本話では、畑元帥が「会津の血を引く者には出世の道に厚き壁があった」と語る際の長州閥の象徴として言及される。


■ 用語集


戊辰戦争ぼしんせんそう

 慶応四年(一八六八年)から明治二年(一八六九年)にかけて、薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)を中心とする「官軍」と、旧幕府・奥羽越列藩同盟・函館共和国などの「賊軍」との間で戦われた内戦。会津若松城下の戦い(慶応四年八〜九月)が悲劇の象徴。


白虎隊びゃっこたい

 会津藩の少年兵組織。十六〜十七歳の藩士子弟で構成された士中二番隊の十九名は、慶応四年八月二十三日、戊辰の役・会津若松城下の戦いにて、飯盛山から燃え上がる城下の煙を「落城」と誤認し、士道を貫いて自刃。一名のみが生還して悲劇を伝えた。本話では、畑元帥の父の従弟・西川勝太郎が、その白虎隊士の一人として登場。


飯盛山いいもりやま

 福島県会津若松市東郊の山。白虎隊士中二番隊十九名の自刃の地として知られ、現在も白虎隊の墓所として参拝者を集める。本話では、畑元帥の言葉の中で「敗れた側の忠義」の象徴として登場。


南朝・畑時能なんちょう・はた・ときよし

 南北朝時代(一三三六〜一三九二)、後醍醐天皇方の南朝と、足利尊氏が擁立した北朝とが約六十年にわたって対立したとき、畑時能は新田義貞の家臣として南朝方に属し、越前で敗死。後世「南朝の忠臣」として顕彰される。本話では、畑元帥が「父祖は鎌倉以来、敗者の側に立ち続けた血」と語る際の遠祖として登場。


賊軍ぞくぐん

 官軍(=天皇方を称する側)に対して、これに刃向かったと見なされる勢力。明治政府の歴史観では、戊辰の役の旧幕府方・奥羽越列藩同盟側を指す呼称として用いられた。本話では、畑元帥が「賊軍と呼ばれた側にも忠義があった」と語ることで、本作主題の「忠節の多形性」を歴史的に深化させる。


長州閥ちょうしゅうばつ

 明治政府および明治・大正期の陸軍を支配した、旧長州藩出身者を中心とする政治・軍事派閥。山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一などが代表的人物。陸軍では昭和初期まで長州閥が中枢を占め、それ以外の出身者(とくに旧幕府方の出身者)は傍流に置かれる傾向があった。


支那派遣軍しなはけんぐん

 ※前話既出。中国大陸に駐留した日本陸軍の総軍。総司令部は南京。本話時点(昭和十九年七月)では、畑俊六元帥が総司令官。


元帥府げんすいふ

 天皇の軍事上の最高顧問機関。元帥は終身称号で、陸海軍大将の中から特に功績ある者に対し、天皇から「元帥」の称号が授けられた。


紫金山しきんざん

 南京市東郊の山。中山陵(孫文の墓所)・明孝陵(明の太祖朱元璋の墓所)などが在る景勝地。支那派遣軍総司令部のあった南京の象徴的風景の一つ。本話で松谷の心象風景として登場。


長江ちょうこう

 揚子江。アジア最長の河川。南京市の西を流れる。本話では、雷鳴と夕立の予兆の舞台として登場。


軍政担当参謀ぐんせいたんとうさんぼう

 占領地の行政・治安・物資調達・現地住民との折衝などを担う参謀職。本話時点での松谷誠の名目上の職務。戦争指導(終戦工作)とは無縁の事務職であり、東條による「懲罰人事」の典型例として理解されている。


御前言上ごぜんごんじょう

 天皇に対し、臣下が直接事実や意見を申し上げること。畑元帥は昭和二十年八月十四日の御前言上で「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に申し上げ、ポツダム宣言受諾の決定的契機の一つを作った。本話と直接の関係はないが、畑元帥の人物像を理解する上で重要なエピソード。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】


・昭和十九年七月十八日に東條内閣が総辞職したこと。松谷誠が同年七月三日付で支那派遣軍参謀(軍政担当)へ転出し、南京の総司令部で総辞職の報に接したこと。松谷が東條に「勝敗の山は見えた。遺憾ながらわが方の負けである」と直言したことが左遷の因であったこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。


・畑俊六元帥が当時の支那派遣軍総司令官であったこと。父・畑能賢が旧会津藩士で戊辰戦争を戦い、その従弟の西川勝太郎が白虎隊士として飯盛山で自刃したこと。畑家が南北朝期の武将・畑時能を遠祖と伝えること(『忠鑑畑元帥』ほか)。


・昭和十五年、米内光政内閣の陸相であった畑が、陸軍中堅層の強硬な意見具申と閑院宮参謀総長の勧告を受けて単独辞任し、結果として米内内閣が総辞職に追い込まれたこと。戦後の東京裁判で米内が畑の弁護証人として出廷し、徹底的にかばったこと(阿川弘之『米内光政』)。


・中野正剛代議士が昭和十八年に東條批判の言論を理由に憲兵に拘束され、釈放後に自決したこと。


・畑元帥が昭和二十年八月十四日の御前言上で「担任正面の防禦については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなし」と率直に申し上げたこと(本話の後書き・用語集で言及。伊藤隆・照沼康孝編『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』)。


【創作部分】


・総辞職当日の夜、畑元帥が松谷を執務室に招き、二人だけで語り合ったという場面そのものは、両者がこの時期に南京の総司令部で総司令官と参謀の関係にあったという史実を踏まえた創作です。「賊軍論」をめぐる対話の内容、松谷の左遷を「東條による庇護でもあったかも知れぬ」とする畑の解釈、電文を受け取る場面の情景、松谷の心中の独白は、いずれも創作です。


・前書きの、戦後に加瀬俊一が松谷から追想を聞いたという枠組み、および後書きの松平康昌の語り(祖父・松平春嶽と「賊軍」の重ね合わせ)は、両者の実際の経歴を踏まえた創作です。


■ 参考文献


松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


伊藤隆・照沼康孝編『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年


鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年


山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮文庫、2013年


阿川弘之『米内光政』新潮社、1978年


梅谷芳光編『忠鑑畑元帥』国風会本部、1964年

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ