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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第7章 東條内閣倒閣運動(昭和19(1944)年6月下旬~)

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第70話「東條おろし(6/6)東條英機編」

【前書き】(東條英機より)


 俺は東條英機。


 昭和十九年七月十八日、俺は内閣を投げ出した。首相、陸相、軍需相、そして参謀総長――一身に背負ったすべてを、一日で手放した。


 戦場で敗れたのではない。宮中の、あの静かな一角で誰の刃も浴びずに敗れた。


 なぜ、こうなったのか。


 その夜、俺は官邸の机に向かい、ひとり来し方を振り返った。父のこと。永田さんのこと。あの開戦の日のこと。そしてこの十八日のこと。


 俺の生涯が、何であったのか。語ろう。誰に弁解するためでもない。ただ是非の論議は後世の史家に委ねるために。



【本文】


 七月十八日、夜。


 総辞職を終えた官邸は静まり返っていた。窓の外は灯火管制の闇である。


 俺は机の上の二冊の手帳を手に取った。一冊は日々の予定。もう一冊は、お上と嶋田君との会話の記録だ。毎週末、俺はこれを一字一句、整理してきた。報告に嘘があってはならぬ。お上に嘘をついてはならぬ。それが俺の務めだった。


 手帳を繰るうち、俺の指が、ふと止まった。


 父上。


 父・東條英教。陸軍大学校一期の首席。戦術の権威と謳われた、生粋の軍人だった。


 だが机上の兵学にどれほど秀でても、実戦は別物だった。日露の役で、父は人の統率に躓いた。そして長州の寺内に疎まれ、朝鮮へ追われ、軍を去った。


 幼い俺は父の背に滲む無念を見て育った。


「英機。よいか」


 父はよくそう言って俺を膝の前に座らせた。


「軍人は、能で計られねばならぬ。出が長州か否かで決まる軍は、必ず腐る。父はそれで無念を呑んだ」


「はい、父上」


 幼い俺は、わけもわからぬまま、ただ深く頷いた。


 俺は長州を憎んだ。蛇蝎のごとく憎んだ。十四歳で陸軍幼年学校に入り、それから四十五年、軍以外の世界を俺は知らぬ。軍人とは、選ばれた者だ。二十四時間、身体を天子様にあずけた者だ。俺はそう信じて生きてきた。


 いま思えば、それが俺の世界のすべてであり、俺の限界でもあったのだろう。



 父の無念を、形にしてくれた人がいた。永田鉄山さんである。


 大正の末、ドイツのバーデンバーデン。湯の町の宿に俺たちは集まった。永田さん、岡村、小畑、そして俺。長州の世を終わらせ、陸軍を能で動く軍に変える。そう誓い合った。


「東條」


 永田さんは静かな人だった。だがその眼の奥には、燃えるものがあった。


「これからの戦は、国の力のすべてを注ぐ総力戦だ。鉄砲を担ぐだけの軍人では、もう務まらん。政治も経済も、わかる軍人を育てねばならん」


「永田さんについて行きます」


 俺は迷わずそう答えた。あの人の頭脳に、あの人の構想に、俺はただ惚れ込んでいた。


「東條。お前は、頭の切れる男ではない」


 永田さんは笑って言った。


「だが誰よりも勤勉だ。その勤勉さが、いつかお前を頂へ運ぶだろう。ゆめゆめ、それを驕りに変えるな」


「肝に銘じます」


 いま思えば、俺はその戒めを、守れなかったのかもしれぬ。


 俺の座右の銘は、努力即権威。報告は一つ残らずメモにとり、夜にはきちんと整理して頭に叩き込む。怠けることを俺は己に許さなかった。永田さんのように頭が切れぬのなら、人の倍働くしかない。


 だがその永田さんを、俺は失った。


 昭和十年の夏、陸軍省の一室で、永田さんは斬られた。相沢という中佐の白刃に。皇道派の逆恨みだった。


 その頃、俺は九州久留米の旅団長だった。中央を遠く離れ、燻っていた時期だ。


 報せを聞いたとき、俺は声も出なかった。あの頭脳が、あの構想が、一人の狂信者の刀で永久に失われた。しかも俺は、東京にいてやることすらできなかった。


 永田さんの遺志は、俺が継ぐ。久留米の官舎で、俺はひとり、そう誓った。


 翌年の二月、皇道派の青年将校が雪の帝都で兵を挙げた。お上の重臣たちが、血祭りにあげられた。お上は激しくお怒りになった。乱は鎮められ、皇道派は一掃された。


 こうして俺たち統制派が、陸軍を握った。永田さんの遺志を継ぐ。それが俺の務めとなった。



 昭和十六年、十月。組閣の大命が、俺に下った。


 夢にも思わぬことだった。だがお上は、御前で、こう仰せになった。


「九月六日の決定に、とらわれてはならぬ。白紙に還して、国策をもう一度検討せよ」


 白紙還元。俺は震えた。お上はなお和平に望みを繋いでおられる。ならば、その御心のままに俺は全力を尽くす。陸相を兼ね、内相を兼ねたのも、開戦に逸る陸軍を抑え、国内の混乱を俺自身の手で押さえるためだった。


 だが米国は撤兵を求めてきた。支那からの、全面撤兵を。


「総理。撤兵問題だけは、譲れません」


 近衛公との連絡会議で、俺は声を荒らげた。


「撤兵は、陸軍の生命線です。一度米国に屈すれば、彼らは際限なく驕り、要求を重ねてくる。支那事変で斃れた将兵の血は、どうなります」


「しかし東條君、戦は、勝てるのかね」


 近衛公の声はいつも弱々しかった。決断から逃げる人だった。


「人間、たまには、清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要であります」


「……東條君は、強い人だね」


 近衛公は力なく笑った。


 俺は強いのではない。逃げ場がなかっただけだ。


 俺はそう言い切った。


 十一月二十六日、米国は、ハル・ノートを突きつけてきた。支那からも仏印からもすべて出て行け。三国同盟も無きものとせよ。これまでの日本を根こそぎ否定する最後通牒だった。


 もはや座して死を待つわけにはいかなかった。石油を断たれ、国力が萎えていくジリ貧の中で、戦わずに滅びるか。それとも国運を賭けて起つか。


 俺は起つことを選んだ。ドイツが英国を屈服させれば、孤立した米国は、必ず戦意を失う。そう信じて。


 いま思えば、それは他人の力を当てにした、甘い見通しだった。



 緒戦は勝った。真珠湾、マレー沖、シンガポール。南方の資源地帯を瞬く間に手にした。国民は沸き、俺の声望も上がった。


 だが長くは続かなかった。


 昭和十七年六月、ミッドウェー。海軍は虎の子の空母四隻を一日で失った。そこからは坂を転げ落ちるようだった。ガダルカナル。アッツ。タラワ。クェゼリン。島々が次々と玉砕の報せに変わっていった。


 俺は秘書官たちを前に、よく語った。炉端の火を囲んで。


「総理。敵の物量は、日に日に増しております。このまま、戦い抜けましょうか」


 若い秘書官がおずおずと尋ねた。


「味方が苦しい時は、敵もまた、苦しいのだ」


 俺は己に言い聞かせるように答えた。


「味方の困難は、過大に見えるもの。苦しくて四分六分だと思う時は、実は五分五分。五分五分だと思う時は、実は六分四分なのだ。戦は最後まで頑張った方が勝つ」


「しかし……」


「勝敗の決は、最後の五分間にある。己れに勝ち得ずして、敵に勝ち得ず。あと五分の辛抱だ。落ち着いて、辛抱強くやれ」


 俺は本気でそう信じていた。技術や物量では測れぬものが、戦にはある。大和魂だ。魂で敵にぶつかってゆけば、享楽に慣れた米国人など必ず音を上げる。


 だが島は減り続けた。



 昭和十九年二月、俺は、参謀総長を兼ねた。


 統帥権の独立――それが俺の前に立ちはだかる見えぬ壁だった。首相であり陸相である俺でさえ、軍の作戦には口を出せなかった。政治と戦争指導がばらばらに動く。国力のやりくりが立ちゆかなくなる。


 その壁を、俺は力ずくで越えた。杉山を退け、自ら総長の座に就いた。国務と統帥を一つの手に握る。これしかない、と思った。


「嶋田君。海軍も、同じくしてくれ。海相と軍令部総長を兼ねるのだ」


「承知しました」


 嶋田君は俺に従った。あの男はいつも、俺に従った。その二人が、後に揃って批判の的になろうとは。


 だが世間は、これを「東條幕府」と呼んだ。お上の軍を私物化する独裁者だ、と。


 病の床にあられた秩父宮殿下からも、三度、御下問が届いた。総理が総長を兼ねる形は戦争指導上、理想のものか、と。


 俺は書面でお答えした。


「異例の御処置でありますから、異論のあるのは当然であります。しかし、その是非の論議は後世の史家にお委せ下さい。国家成立の本義にもとるようなことは東條自身の気持の許さぬところであります。臣節を尽すにおいて不十分の点あらば、御前において割腹してお詫び申し上げます」


 割腹。本心だった。俺はそれほどの覚悟で、すべてを背負った。


 だが――いま、敗れてみて、わかる。


 あの兼任こそが俺の墓穴だった。統帥権独立の盾は、もともと軍が政治家を黙らせるための盾だった。その盾を、俺自身が壊した。総理が総長を兼ねたその日から、重臣も議会も、堂々と俺を撃てるようになった。総理の戦争指導が悪い、と。


 俺は自分の城を高く築いたつもりで、その実、自分の手で堀を埋めていたのだ。



 昭和十九年六月、サイパン。


 絶対国防圏の、要だった。ここを抜かれれば、本土が敵の爆撃機の翼の下に入る。


 俺はお上に上奏した。守備隊が、木の根を齧り、カタツムリを食って戦っている惨状を。


 お上は深く、お顔を曇らせられた。


「もはや救い出す術もないとすれば――島に残る多くの同胞、戦に関わりなき民の運命は、いったい、どうなるのか」


 俺は申し上げられなかった。だが申し上げねばならなかった。


「まことに、遺憾ながら……大本営として、もはや打つ手はありません。現地司令官に、一任と決しております」


 お上は何も仰らなかった。その沈黙が、俺の胸を、抉った。


 俺はいま、サイパン確保を望まれるお上の御心に背こうとしている。これは赤誠を裏切ることだ。断じて許されぬことだ――。


 だが俺は敗北とは受け取らなかった。受け取れなかった。


 サイパンは、天の啓示だ。まだ本気にならぬか、まだ真剣にならぬか――天が日本人にそう問うておられるのだ。日本人は最後の場面に追いつめられた時、必ずなにくそと驚異の力を出す。俺はそう信じて疑わなかった。


 とはいえ、人の心は、揺れる。


 ある日の昼餉、俺は秘書官の赤松たちにふと漏らした。


「俺も、これまで誠心誠意やってきたが……これをさばいてゆく自信は、もうない。辞めようと思うのだ。あとは皇族の御出馬を願うのがよかろう。東久邇宮殿下にお願いすることになるかもしれん」


「総理。どうか、お気を確かに」


 赤松が案じるように言った。


 弱音だった。だがそれも、一時のことだった。


 重臣どもが、海軍の連中が、俺を引きずり降ろそうと動いている。そう知った途端、俺の中で何かが燃え上がった。


「一億の民を、俺は、なるべく抱擁するようにしてきた」


 俺は幕僚を集めて、言い放った。


「これからも、そうする。だが足並みを乱す者は、断固、処置する」



 七月はじめの日曜。世田谷用賀の私邸に、俺は家族と集まった。


 夕餉の席で、娘たちが訊いてきた。


「お父さん。蛍の光は敵国の歌だから、卒業式でも歌ってはいけなくなったそうですけど、どうしていけないの」


「蛍の光なんぞ、もう日本の歌になっているのになあ」


 俺は嘆いて見せた。だが日本人の魂で勝つと国民に説く俺が、敵国の歌に妥協するわけにはいかなかった。


 食後、日本間二階の広縁で、勝子に頭を刈らせた。バリカンの音だけが響く。


 刈り終えると、勝子は落ちた髪を丁寧に集め、半紙に包んで鏡台の引出しにしまった。


「軍人は御奉公のため、いつ死ぬかわかりませんから。武人の妻のたしなみとして、遺髪は常にとっておきませんと」


 暗殺の噂は俺の耳にも届いていた。勝子は多くを言わず、ただ毎度、髪を包んだ。


 俺にも、家がある。それを思える日が、まだあった。



 七月。倒閣の風は、もう、隠しようもなかった。


 だが敵は見えていた。


「倒閣者ども――もうろくした重臣どもや、議会の腰抜けどもが、東條内閣を倒して、あとをどうしようというのですか! 総辞職など、とんでもないことです」


 軍務局長の佐藤賢了は、俺の前でそう息巻いた。


「そのとおりだ。あの連中に、この態勢を挽回できる内閣など作れるはずがない」


 六月の末には、海軍の長老、岡田啓介を官邸に呼びつけて、面と向かって釘を刺してもいた。


「貴方がいろいろ動いておられると聞いている。私は甚だ遺憾に思う。陛下や宮殿下までを煩わせるなど、不穏当ではありませんか」


 近衛。岡田。平沼。そして木戸。倒閣の本丸は、あの大物どもだ。俺はそう信じて疑わなかった。


 手足の小物なら、とうに摘んである。


 六月の末、市ヶ谷の大臣室で、俺に向かって「わが方の負けである」と言い放った大佐がいた。戦争指導の班長だったか。前線も知らぬ机の上の悲観論だ。俺はその場で叱りつけ、南京へ飛ばした。名は――松谷、といったか。


 海軍では、岡田の家に出入りする教育局の少将がいると聞いた。沢本次官に注意させておいた。あれは岡田の使い走りにすぎん。


 木戸の側近の、松平とかいう秘書官長には、憲兵の尾行と盗聴をつけてある。赤松は、引っ張るほどの相手ではありませんと笑っていた。


 外務の若い秘書官など、名も知らぬ。眼中になかった。


 敵は重臣ども。手足さえ抑えれば、本丸は孤立する。俺の見立ては、そのはずだった。


 俺は内閣を改造し、難局を乗り切ろうとした。木戸内府に協力を求めた。だが木戸は逆に、三つの条件を俺に突きつけてきた。


 第一、総長の兼任を解き、統帥を分けること。第二、嶋田君を海相から更迭すること。第三、重臣を抱え込み、挙国一致の態勢を作ること。


 しかも木戸は、これがお上の御内意だと匂わせた。


 俺はお上に、直接、確かめに参内した。


 お上はこう仰せになった。


「統帥の確立は、この際、行わねば大事に至る虞れがある。考慮せよ。嶋田の件は、そなたは部下の批判と言うが、伏見元帥宮が動かれた事実もあるではないか。重臣の処遇は、前の二つに比べれば、問題ではないと思う」


 俺は頭を垂れたまま、動けなかった。


 お上の御信任は、もはや俺の上には、ない――。


 その事実が、氷の刃のように俺の胸を貫いた。内奏癖とからかわれるほど、俺はお上の御意向に心を砕いてきた。お上に満足していただくこと。それだけが、俺の施策の根本だった。そのお上が、いま俺から離れていかれる。


 それでも俺は退かなかった。退けば、どうなる。和平を唱える者どもが、実権を握る。イタリアのバドリオの二の舞だ。ムッソリーニを追放し、敵に降ったあの政権の。日本は、即敗れる。


 俺は嶋田君に言った。


「ここで政権を譲り渡せば、大きな政変が混乱を呼ぶ。バドリオ政権の出現に手を貸す結果になる。一歩誤れば、即敗戦だ。俺は内閣を補強し、統帥部を改革し、あくまで難局を担う。聖戦完遂に邁進する」


 改造のため、俺は岸君に辞表を求めた。閣僚の枠を空けねばならなかった。


「岸君。すまんが、辞めてくれ」


 だが岸は応じなかった。


「総理。あなたは、あの時私を叱った。陛下に対し全力で奉公すべきなのに、途中で逃げ出すとは何事か、と。今になって辞めろとは理解できません。私は陛下のご信任を失ったわけではない。辞めるわけには参りません」


 俺の言葉を、俺の言葉で撥ね返された。首相といえども、閣僚の首を勝手にはすげ替えられぬ。閣内は割れた。


 海軍の重石にと頼んだ米内も、俺を峻拒した。重臣たちは一人として、入閣を承知しなかった。


 憲兵には動かせていた。四方に倒閣派の監視を命じてあった。それでも――俺の城は、音もなく崩れていった。



 七月十七日の夜。平沼邸に集まった重臣どもが、俺の内閣に不信任を突きつけた。一部の改造などでは駄目だ、と。


 もう改造の道は、断たれた。


 その夜更け、星野書記官長が、俺に進言した。


「総理。今は、非常時中の非常時です。陛下がいかなる御気持であられるか、直接うかがって事を決すべきでしょう。辞職の手続きをとる前に、総理の御決心を申し上げ、陛下のお考えを叩かれるのがよいかと」


「……それより、ほかはなかろう」


 俺は頷いた。


 心の底に、一つの望みが灯っていた。大命再降下である。お上が、もう一度内閣を組織し戦争を完遂せよ、と仰せになれば。その一言で、すべては逆転する。俺は五分五分と踏んでいた。


 あれほど忠誠を尽くしてきた天子様が、苦境に立つ俺を、冷たく見捨てられるはずがない――。


 七月十八日、朝。俺は参内した。


 お上の御前で、俺は総辞職の決意を申し上げた。諸般の実情にかんがみ、辞職をお許し願いたい、と。


 お上はしばし思案するご様子だった。


 そしてひとことだけ、仰せになった。


「そうか」


 それきりだった。


 俺は次の御言葉を待った。続けよ、と。戦争を完遂せよ、と。その一言を待った。


 だがお上は何も仰らなかった。


 俺はすべてを悟った。


 閣議で総辞職を告げると、作戦部長の真田が血相を変えて詰め寄ってきた。


「この非常時に、内閣が総辞職とは何事ですか! 死を賭して戦う第一線の将兵に、申し訳が立ちますか!」


 俺は力を込めて、答えた。


「その通りだ。やれるものなら、やってもらおう」


 権力への未練が、口を衝いて出た。我ながら、見苦しかった。


 午前十一時二十五分、俺はお上に辞表を捧げた。東條内閣は倒れた。


「総理……」


 赤松が声を詰まらせた。


 俺は何も言わなかった。言うべき言葉が、見つからなかった。



 そしていま。


 灯火管制の闇の中で、俺はひとり、机に向かっている。


 残務を整理しながら、つくづく思う。


 辞める時期が間違っていたのだ。嶋田君に辞めてもらった、あの時に共に総辞職すべきだった。下り坂になった事態を、なんとかもう一度盛り返し、お上に御安心いただきたいと――そう思い過ぎていたのが、間違いだったようだ。


 重臣どもは許せぬ。サイパンを失ったくらいで、うろたえおって。国家の重臣ともあろう者が、沈着さを失い、俺を全面的に排斥した。あの陰謀がなければ。


 だが――それでも俺は、信じている。


 開戦は誤りではなかった。あの時、日本にあれより外の道はなかった。理不尽な要求に追いつめられた以上、成算が不確かでも、国運を賭けて戦う。それが国を背負う者の務めだった。


 誤ったとすれば、その後の戦の指導だ。海軍の実力を俺は見誤った。緒戦の後、海軍に引きずられた。


 俺は手帳を、そっと閉じた。


 窓の外の闇は深い。だがその闇のどこか遠くで――俺の知らぬ者たちが、すでに次の手を打ち始めていることを、この時の俺はまだ知らなかった。



【後書き】(松谷誠より)


 俺は松谷誠。陸軍大佐。あの夏、俺は南京にいた。


 東條総理に「わが方の負けである」と直言し、その十日後、市ヶ谷を追われた身だ。


 南京の蒸し暑い官舎で、俺は東條内閣総辞職の報せを受けた。


 俺を飛ばした男が倒れた。だが胸に湧いたのは、勝利の感慨ではなかった。


 あの人は勤勉だった。誰よりも働いた。お上への忠誠は、誰にも負けなかった。ただ――軍という一つの世界の論理でしか世界を見ることができなかった。その純粋さが、そのままあの人の限界だった。強すぎる権力を握り、その重みに一人で押し潰された。気の毒な人だ、とさえ俺は思う。


 だが東條内閣が倒れただけでは、何も終わらない。後継は、小磯国昭大将。陸軍だ。戦争は続く。本土への爆撃が、これから始まる。


 倒すことは、容易い。難しいのは、その後だ。いかにして、この戦争を終わらせるか。国体を護持したまま、一人でも多くの同胞を生かして、この泥沼からどう抜け出すか。


 その戦いはまだ始まってもいない。


 昭和十九年七月のこの時、俺たちは、まだばらばらだった。陸の俺、海の高木、外務の加瀬、宮中の松平。互いの顔も知らぬまま、それぞれの崖を登っていた。


 だが半年後。昭和二十年の一月、俺たちはついに一つになる。「四人組」が結ばれる。


 そしてあの長い道の果てに、一つの聖断が待っている。


 俺たちの本当の戦いは、ここから始まるのだ。


■ 人物紹介


「東條おろし」六部作の最終話。これまで陸軍(橋本)・外務省(加瀬)・海軍(高木)・宮中(松平)という、東條を包囲する側の視点で描いてきた昭和十九年七月の倒閣劇を、最終話では、倒される当人・東條英機の一人称で、その生涯にまで遡って描く。後書きの語り手は、物語全体の主人公・松谷誠。四者が「終戦四人組」として一つになるのは、半年後の昭和二十年一月である。


【本話で重要な役割を担う人物】


東條英機(とうじょう・ひでき、1884年〜1948年、当時59〜60歳)

 本話の語り手。陸軍大将。内閣総理大臣・陸軍大臣・軍需大臣・参謀総長を兼任した、当時の最高権力者。父の無念と長州閥への怨念を背負い、永田鉄山に私淑して統制派の巨頭となる。「努力即権威」を信条とする勤勉さと、大和魂を絶対視する精神主義をあわせ持つ。サイパン陥落後、内閣改造による延命を図るが、木戸の三条件と天皇の御言葉によって信任を失い、岸の辞職拒否・重臣会議の不信任に挟まれて、七月十八日に総辞職する。戦後、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け、昭和二十三年十二月に処刑された。その前夜、三日後に父・英教の命日が来ることを口にし、「父の命日や、呼ぶ声近し、暮るる秋」と詠んだ。これが最後の句となった。


松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年、当時41歳)

 本話の後書きの語り手。物語の主人公。陸軍大佐。早くから日本の敗北を見据え、東條に「わが方の負けである」と直言して、七月三日付で支那派遣軍参謀へ転出(事実上の左遷)となった。本話の七月は南京にあり、のち陸相秘書官・総理秘書官として中央に復帰して、四人組の陸軍側を担う。


【本話に名前の挙がるその他の人物】


東條英教(とうじょう・ひでのり、1855年〜1913年)

 東條英機の父。陸軍大学校一期首席卒業の俊才で陸軍中将に進み「戦術の権威」と呼ばれたが、実戦・統率に躓き、長州閥に疎まれて不遇のうちに軍を去った。


永田鉄山(ながた・てつざん、1884年〜1935年)

 陸軍中将(死後)。統制派の総帥と仰がれた軍政の俊才。東條が私淑した。昭和十年、相沢三郎中佐に斬殺された。


嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう、1883年〜1976年)

 海軍大将、海相兼軍令部総長。東條と二人三脚で批判を浴び、三条件によって更迭された。


岸信介(きし・のぶすけ、1896年〜1987年)

 国務相兼軍需次官。倒閣派と気脈を通じ、東條の辞職要求を拒んで閣内不一致を決定づけた。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 予備役海軍大将・元首相。東條からの入閣要請を峻拒した。後継の小磯内閣で海相として復帰する。


木戸幸一(きど・こういち、1889年〜1977年)

 内大臣。三条件を突きつけ、重臣の総意を背に東條を退陣へ導いた。


秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう、1902年〜1953年)

 天皇の弟宮。療養中、東條の参謀総長兼任を「東條幕府」と憂慮し、三度の御下問を寄せた。


星野直樹(ほしの・なおき、1892年〜1978年)

 内閣書記官長。総辞職前夜、天皇の意向を直接うかがうべしと進言した。


真田穣一郎(さなだ・じょういちろう、1897年〜1957年)

 陸軍少将、参謀本部作戦部長。総辞職の閣議で東條に激しく詰め寄った。


杉山元(すぎやま・はじめ、1880年〜1945年)

 陸軍元帥。東條に参謀総長の座を譲った。


小磯国昭(こいそ・くにあき、1880年〜1950年)

 陸軍大将。東條の後継として組閣する。


近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年〜1945年)

 公爵・元首相。開戦前、撤兵問題で東條と衝突した。


四方諒二(しかた・りょうじ、1895年〜1961年)

 陸軍大佐、東京憲兵隊長。東條の腹心で、反対派の監視・弾圧にあたった。


赤松貞雄(あかまつ・さだお、1900年〜1982年)

 陸軍大佐、東條首相の秘書官。最後まで東條に仕えた側近。


佐藤賢了(さとう・けんりょう、1895年〜1975年)

 陸軍少将、陸軍省軍務局長。東條の腹心の強硬派。


岡田啓介(おかだ・けいすけ、1868年〜1952年)

 予備役海軍大将・元首相。重臣。海軍反東條派の後ろ盾として倒閣を主導した。


沢本頼雄(さわもと・よりお、1886年〜1965年)

 海軍中将、海軍次官。東條・嶋田の意を受け、高木惣吉に岡田邸への出入りを注意した。


東條勝子(とうじょう・かつこ、1890年〜1982年)

 東條英機の妻。夫の散髪と遺髪の保管を続けた。


■ 用語集


統帥権の独立とうすいけんのどくりつ

 軍の作戦・用兵(統帥)は天皇に直属し、内閣(国務)の関与を受けないとする、明治憲法下の原則。首相であっても軍の作戦に口を出せず、政治と戦争指導の不一致を生む原因となった。東條はこの壁を越えるため参謀総長を兼任したが、軍みずからこの「盾」を壊したことで、かえって政治家の批判を招いた。


兼任・東條幕府けんにん・とうじょうばくふ

 東條が首相・陸相・軍需相・参謀総長を一身に兼ねたこと。国務と統帥の一体化を図ったものだが、権力の一極集中が「天皇の軍を私する独裁(幕府)」と見なされ、各方面の反発を招いた。


統制派・皇道派とうせいは・こうどうは

 昭和初期に陸軍を二分した派閥。統制派(永田鉄山・東條ら)は合法的な総力戦体制づくりを、皇道派(荒木・真崎ら)は天皇親政の「昭和維新」を志向した。二・二六事件で皇道派が一掃され、統制派が主導権を握った。


白紙還元はくしかんげん

 昭和十六年十月、組閣にあたり昭和天皇が東條に与えた指示。それまでの開戦方針(九月六日の御前会議決定)に縛られず、白紙に戻して国策を再検討せよ、という御意向で、なお和平の可能性を探ろうとするものだった。


 ハル・ノート

 昭和十六年十一月二十六日に米国が日本に手交した交渉文書。中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の事実上の否認などを求める峻烈な内容で、日本側はこれを最後通牒と受け取り、開戦を決意した。


ジリじりひん

 石油などの全面禁輸により、戦わずして国力が枯渇し、緩やかに衰弱していく状態。東條が開戦を決意した最大の論理は、この「ジリ貧」を避けるには武力で現状を打破するほかない、というものだった。


絶対国防圏ぜったいこくぼうけん

 昭和十八年に設定された、日本が確保すべき最終防衛線。サイパンを含むマリアナ諸島はその要であり、その陥落は本土空襲の開始と戦局の決定的悪化を意味した。


大命再降下たいめいさいこうか

 いったん総辞職した首相に、天皇が再び組閣を命じること。東條は、総辞職を内奏すれば天皇から慰留と再降下があると期待したが、天皇は「そうか」の一言で、これに応じなかった。


バドリオ政権バドリオせいけん

 ムッソリーニを失脚させ、連合国に降伏したイタリアの政権。東條は、自分が退けば和平派が実権を握り「日本版バドリオ政権」となって即敗戦に至る、という強迫観念から、退陣を拒んだ。


■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】


・東條英機の生い立ち。父・東條英教が陸軍大学校一期の首席卒業で「戦術の権威」と呼ばれた軍人でありながら、日露戦争で実戦・統率に躓き、長州閥の寺内正毅に疎まれて朝鮮へ左遷され、軍を去ったこと。英機が長州閥を「蛇蝎の如く」憎んだこと、十四歳で陸軍幼年学校に入り四十五年間軍以外の社会を知らずに育ち、「軍人は二十四時間、身体を天子様にあずけている」と語る強い選民意識をもっていたことは、史実です。〔重光葵『重光葵手記』、吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上』〕


・東條が大正期のバーデンバーデンの密約(永田鉄山・岡村寧次・小畑敏四郎と長州閥打倒を誓った)を経て永田鉄山に私淑し、統制派の一員となったこと、永田が昭和十年に相沢三郎中佐に斬殺されたこと、二・二六事件で皇道派が一掃され統制派が陸軍の主導権を握ったこと、東條が「努力即権威」を座右の銘とし、報告を細かにメモして週末に整理する勤勉な人物であったことは、史実です。〔矢部貞治『近衛文麿』、阿川弘之『山本五十六』、吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上』、戸髙一成編『証言録 海軍反省会』〕


・相沢事件の当時、東條が中央の要職を離れ、九州久留米の歩兵第二十四旅団長として失意の時期にあったことは、史実です。事件の報に接した際の東條の言動そのものは記録に残っておらず、久留米の官舎での誓いの場面は、この状況を踏まえた創作です。〔重光葵『重光葵手記』〕


・昭和十六年十月の組閣時、天皇から「九月六日の御前会議決定にとらわれず白紙に還って国策を再検討せよ」との指示(白紙還元)を受けたこと、東條が陸相・内相を兼任して開戦に逸る陸軍と国内の混乱を抑えようとしたこと、日米交渉で中国撤兵に「陸軍の生命線」として強硬に反対し、近衛文麿に「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったこと、ハル・ノートを最後通牒と受け取り、「ジリ貧」回避とドイツの勝利に依存した終末構想のもとに開戦を決意したことは、史実です。本作中の東條の台詞は、原典の言い回しを現代文に整えたものです。〔矢部貞治『近衛文麿』、加瀬俊一『ミズリー号への道程』、鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』〕


・ミッドウェー海戦以後の劣勢の中でも、東條が極端な精神主義を信奉し、「味方の苦しい時は敵もまた苦しい」「勝敗の決は最後の五分間に在り」と説き、サイパン陥落を「天の啓示」と解釈して戦争継続に固執したことは、史実です。台詞は原典の言い回しを現代文に整えました。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上』、松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』〕


・昭和十九年二月、東條が杉山元を退けて参謀総長を兼任し、国務と統帥の一体化を図ったこと、これが「東條幕府」と批判され、療養中の秩父宮雍仁親王から三度にわたり御下問が寄せられたこと、東條が「是非の論議は後世史家に委せたい」「臣節を尽すに不十分の点あらば御前において割腹してお詫び申し上げる」と書面で答えたことは、史実です。また、軍みずから統帥権独立の伝統を破ったことで、かえって重臣や議会が公然と東條を批判できるようになり、倒閣の道を開いたという逆説的評価は、政治史研究(鈴木多聞)の指摘によります。〔種村佐孝『大本営機密日誌』、鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』、阿川弘之『米内光政』、寺崎英成ほか編『昭和天皇独白録』〕


・サイパン陥落前後、東條が守備隊の惨状(木の根・カタツムリ)を上奏し、天皇が島の在留同胞・民間人の運命を案じられたのに対し、東條が「大本営として処置はなく、現地司令官に一任」と奉答したこと、東條が一時「もう辞めようと思う」「東久邇宮殿下にお願いする」と辞意を漏らしながら、倒閣運動を知ると強気に転じ「足並を乱すものは断固処置する」と宣言したことは、史実です。天皇の御言葉は原典を現代文に整えました。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上・下』、山本智之『主戦か講和か』〕


・東條の家庭人としての一面。世田谷用賀の私邸や公邸での家族との団欒、娘たちが「蛍の光は敵国の歌だから歌ってはいけなくなった」と尋ね、東條が「蛍の光なんかは、もう日本の歌になっているのになあ」と嘆いて見せたこと、妻・勝子が散髪のたびに切った髪を半紙に包み「武人の妻のたしなみ」として遺髪を保管していたことは、史実です。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上・下』〕


・東條陣営の「敵」の認識。佐藤賢了軍務局長が「もうろく重臣ども」と倒閣派を罵倒して東條を叱咤したこと、東條が六月二十七日に岡田啓介を官邸に呼び「貴方がいろいろ動いて居られると聞いて居るが、私はそれを甚だ遺憾に思っています」と直接威圧したことは、史実です。台詞は原典の言い回しを現代文に整えました。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』〕


・東條陣営が倒閣の「本丸」を重臣・内大臣ら大物と見なし、四人組を個別の「手足」として過小評価していたこと。松谷誠の左遷が「外部への積極的活動が上司の忌諱に触れた」ためと受け止められたこと(種村佐孝の記録)、沢本頼雄海軍次官が高木惣吉に岡田邸への出入りを注意したこと、松平康昌が憲兵の尾行・電話盗聴の対象とされながら、赤松貞雄秘書官が「まさかあんたを引っ張りませんよ」と応じたこと(松平自身の回想)、加瀬俊一が東條の直接の敵視の外にあったことは、いずれも史実です。本文の「松谷、といったか」「教育局の少将」「松平とかいう秘書官長」「名も知らぬ」という東條の認識の濃淡は、これらの史実を踏まえた創作です。〔種村佐孝『大本営機密日誌』、吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上・下』〕


・倒閣の経緯。七月十三日に木戸幸一内大臣が三条件(総長兼任の分離、嶋田海相の更迭、重臣の抱擁)を突きつけ、東條が天皇に拝謁して御意向を確認したところ、天皇が三条件を支持する御言葉を述べて東條が信任喪失を悟ったこと、東條が「バドリオ政権の出現」を恐れて退陣を拒んだこと、岸信介国務相が辞職を拒否して「陛下のご信任を失ったわけではないから辞めるわけには参りません」と反論し閣内不一致となったこと、米内光政と重臣たちが入閣を拒否したこと、七月十七日夜の重臣会議が内閣不信任を決議したことは、いずれも史実です。台詞は原典の言い回しを現代文に整えました。〔鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』、吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』、木戸幸一『木戸幸一日記』〕


・七月十八日朝、東條が総辞職の決意を内奏する拝謁で大命再降下を期待したこと(星野直樹書記官長の進言を受けた)、しかし天皇は「そうか」の一言で慰留せず、閣議で真田穣一郎作戦部長が「総辞職とは何事ですか」と詰め寄ると東條が「その通りだ。やれるものなら、やってもらおう」と答えたこと、午前十一時二十五分に辞表を捧呈して内閣が総辞職したことは、史実です。退陣後、東條が「辞める時期が間違っていた。嶋田君に辞めてもらった時に総辞職すべきだった」と述懐し、なお重臣への怨念を抱きつつ「開戦は誤りではなかった、緒戦後に海軍に引きずられたことが反省点だ」と語ったことも、史実です。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』、高木惣吉『高木海軍少将覚え書』、種村佐孝『大本営機密日誌』、寺崎英成ほか編『昭和天皇独白録』〕


・東條が憲兵(東京憲兵隊長・四方諒二)を重用して反対派を監視・弾圧したこと、天皇への忠誠が「内奏癖」と評されるほど緻密な上奏に表れた一方、宮中側近を排して天皇を自らの内に取り込もうとする独善的な側面をもっていたことは、史実です。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上・下』、山本智之『主戦か講和か』〕


・人物紹介に記した処刑前夜の句「父の命日や、呼ぶ声近し、暮るる秋」は、史実です。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』〕


・後継が小磯国昭大将であったこと、松谷誠が東條に直言して支那派遣軍へ転出(七月三日付)し、南京で総辞職の報に接したこと、四者(松谷・高木・加瀬・松平)が「四人組」として一つになるのが翌昭和二十年一月であることは、史実です。〔松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』〕


【創作部分】


・本話は、右に挙げた史実を骨格として、これを東條英機の一人称による回想に組み立てたものです。総辞職の夜に官邸で二冊の手帳を繰りながら半生を回顧する、という枠組み、灯火管制の闇や手帳の感触などの情景、東條の心理の細部、独白は、すべて創作です。


・父・英教との会話、永田鉄山との会話は、両者の関係という史実を踏まえた創作です。天皇の御言葉、秩父宮への返答、近衛・岸・嶋田・星野・真田らとのやり取りは、原典(漢文調を含む)に残る文言を現代文に整えて再現し、その状況や心情の描写は記録をもとに再構成したものです。


・本作では、東條を一面的な悪役としてではなく、父の無念を背負い、軍という閉鎖した世界の論理でしか世界を捉えられなかった人物として描いています。客観的な評価(「悪に滅びず、愚に滅ぶ」という石原莞爾の評や、自ら統帥権の盾を壊したという逆説など)は、東條自身が気づかぬ皮肉として、本人の回想の中に織り込みました。


・後書きの松谷誠による東條評と「四人組」「聖断」への展望は、史実(松谷の回想録および終戦の経緯)を踏まえた、次の弧への橋渡しとしての叙述です。


■ 参考文献


吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上』新潮社、1984年


吉松安弘『東條英機暗殺の夏 下』新潮社、1984年


矢部貞治『近衛文麿』読売新聞社、1976年


鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年


松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、1979年


伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』中央公論社、1986年


木戸日記研究会編『木戸幸一日記 下巻』東京大学出版会、1966年


高木惣吉『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社、1979年


山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮文庫、2013年


加瀬俊一『ミズリー号への道程』文藝春秋新社、1951年


阿川弘之『米内光政』新潮社、1978年


阿川弘之『山本五十六』新潮社、1965年


寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編『昭和天皇独白録』文藝春秋、1991年


戸髙一成編『証言録 海軍反省会』PHP研究所、2009年



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