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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第7章 東條内閣倒閣運動(昭和19(1944)年6月下旬~)

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第65話「東條おろし(1/5)陸軍編」

【前書き】(橋本正勝より)


 橋本正勝、陸軍少佐である。


 わたくしは参謀本部戦争指導班に在った。あの昭和十九年七月の一カ月を、わたくしは終生忘れぬ。


 課長殿を羽田の飛行場にお見送りし、市ヶ谷へ戻ったあの朝、廊下に響く革靴の音はいつもと変わらなかった。だが戦争指導班の部屋の戸を開けた途端、空気の重さがまるで違っていた。


 杉山閣下が参謀総長の座を退かれ、東條閣下が御自身の手でその座を兼ねられた春から、班員一同は息を潜めて生きてきた。盾を失った種子は土へ深く埋もれねば、ただ枯れる。


 課長殿は、その種子であった。そしてその種子はいま、支那大陸の蒼穹そうきゅうの下へ運ばれていく。


 だが土の中の種子は、それでも根を伸ばす。


 あの七月、市ヶ谷の内側で何が起こったか。陸軍の内から、なぜ東條閣下の城が音もなく崩れていったか。それを語り残すのは、課長殿を欠いた市ヶ谷に踏み留まったわたくしの責務である。



【本文】


 昭和十九年(一九四四年)七月三日、月曜。


 梅雨明け前の湿った重い空気が、市ヶ谷台の廊下に淀んでいた。


 俺――橋本正勝――が戦争指導班の部屋へ入ると、空気が止まっていた。


 今朝、辞令が下りた。課長殿――松谷誠大佐が、支那派遣軍参謀へ転出される。戦争終末期の、この時にである。


 六月二十九日、課長殿は市ヶ谷の大臣室で東條閣下に「わが方の負けである」と直言された。その四日後の、これが答えだった。


 南京への出発は、七月八日の朝と決まったという。だが課長殿は今朝もいつもどおり班室に出てこられ、机の上を片づけながら、種村大佐に引き継ぎの段取りを淡々と伝えておられた。


 課長殿の後任は、種村佐孝たねむら・すえたか大佐――同じ七月三日付の発令だった。


 種村大佐は、もともと作戦課に同調する強硬な主戦論者だった。昨年、課長殿が早期講和の研究を始められた頃には、真っ向から反対しておられた。課長殿は種村大佐をソ連への伝書使(でんしょし=公文書を運ぶ使者)に出し、その留守の隙に講和案を仕上げられた。そんな逸話さえ残るほど、二人は当初、水と油だった。


 その種村大佐が、いまや課長殿に深く頷く側に回っておられる。戦局が、人を変えるのだ。


 俺は機密戦争日誌に筆を取った。班員がリレー式に書き継ぐ、この班の公式の記録である。


「戦争終末期ニ於ケル戦争指導者トシテ今後ノ活躍ヲ期待シアリタルニ返スガエスモ残念ナリ、然レトモ後任ハ老練ナル種村大佐ナルヲ以テ茲ニ更ニ決意ヲ新ニシテ事態推移ヲ冷静ニ達観シテ、難関克服ニ邁進シ以テ二十班ノ使命ヲ完ウセントス、今後二十班ノ使命ハ沈勇以テ上司ノ断行ヲ補佐スルニ在リ」


 書き終えて、俺は息を吐いた。


 課長殿が八日に発たれれば、この戦争指導班は種村大佐と俺の、たった二人になる。広大な市ヶ谷台の片隅で、二人きりで帝国陸軍の敗戦への筋道を描く。そういう日々が、始まろうとしていた。



 七月六日。


 サイパンとの連絡が、途絶えた。


 前日の電報を最後に、守備隊からの通信は完全に絶えた。


 その朝、参謀本部には二通の電文が届いていた。


 一つは、第三十一軍参謀長・井桁敬司いげた・けいじ少将が、参謀次長へ宛てて打った訣別電だった。


「将来ノ作戦ニ制空権ナキ所勝利ナシ。航空機ノ増産活躍ヲ望ミテ止マズ」


 血を吐くような、最後の戦訓だった。制空権を失えば勝利はない――前線の参謀長が、死を目前にして、なお中央へその一事を叩きつけてきたのだ。


 俺は、昨五日に島から発せられた最後の総攻撃命令のことを思った。中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将と、第四十三師団長・齋藤義次さいとう・よしつぐ中将の、連名の命令である。


 電文のひと文字ひと文字から、俺はあの島の最期の朝を、確かに思い描いた気がした。


 ――その朝、サイパンでは。



 地獄谷と呼ばれる岩の窪地に、潮の匂いと血の匂いが入り混じって淀んでいた。


 中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将は、洞窟の岩肌に背を預け、暗い天井を見上げていた。


 真珠湾を奇襲し、ミッドウェーで四隻の空母を失った、あの男である。栄光も、屈辱も、すべてはこの孤島の岩の下に行き着いた。


 昨五日、南雲は齋藤義次中将と連名で、最後の総攻撃を令していた。


「明後七日、未明より、随時、当面の敵を求めて攻撃すべし。チャランカノアに向かい進撃し、米鬼を粉砕すべし」


 その末尾に、南雲は自ら筆を添えた。


「予は切に諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ、諸士とともに玉砕す」


 弾は尽きた。水も尽きた。動ける者は銃剣を握りしめ、最後の突撃のために岩陰へ伏せている。


 南雲は、ふと故郷を思った。


 米沢の冬の、底冷えのする青い雪。竹刀を交わした幼馴染の顔。正助兄しょうすけあには、いまどこの海におられるのだろう。


 潮鳴りが、遠く米沢の風の音に似ていた。


 洞窟の奥で、参謀長の矢野英雄やの・ひでお少将が、最後の電文を打ち終えていた。聯合艦隊司令部と、大本営へ。


「我ら玉砕もって太平洋の防波堤たらん」


「長官」 矢野が、南雲のかたわらに膝をついた。「打電、終わりました」


 南雲は、静かに頷いた。


「矢野君。よく仕えてくれた。あとの兵を、頼む」


 矢野は唇を引き結び、深く一礼して、暗がりの奥へ消えていった。残った兵を、最後の突撃へ導くために。


 南雲は、ひとり立ち上がり、白みはじめた海の方へ向き直った。


 昭和十九年七月六日。南雲忠一は、齋藤義次とともに、サイパンの土に還った。


 その夜から翌暁にかけて、生き残った将兵は最後の突撃に出る。太平洋戦争で最大規模の玉砕突撃が、こうして島の闇に呑まれていった。



 その別辞が市ヶ谷の班室に届いたとき、戦争指導班は無音になった。


 俺は機密戦争日誌に筆を取った。手が震えていた。


「戦略兵団ノ玉砕ハ今回ヲ以テ始メトス、『アッツ』玉砕トハ本質的ニ趣ヲ異ニス」


 書きながら、俺は奥歯を噛んだ。守備隊のあの気魄を中央が早くに掴んで手を打っていれば、この悲境はいくらかでも食い止められたはずだ。その悔いを、俺は続けて書き殴った。


 窓の外で、蝉の声が戻ってきた。


 課長殿は、引き継ぎの挨拶回りで、この日は朝から席を外しておられた。班室には、種村大佐と俺だけだった。


 部屋の隅で、種村大佐が煙草をいつけた。煙が薄く天井へ立ち上る。


「橋本。課長殿が六月二十九日に、市ヶ谷の大臣室で東條閣下へ申し上げられた言葉を、覚えておるか」


「『今や戦争の勝敗の山は見えた。遺憾ながら、わが方の負けである』――忘れるはずがありません」


「あの言葉が、現実になった。たったの七日だ」


 種村大佐の眼は、煙草の煙の向こうで潤んでいた。かつてあれほど課長殿の早期講和論に反発しておられた、あの種村大佐がである。


 俺は頷くことしかできなかった。



 七月八日、午前六時。羽田飛行場。


 夏の朝の光が、滑走路の上で揺らめいていた。梅雨は、もうほとんど明けていた。


 駐機場に立つ見送りは、俺ひとりだった。


 重光大臣も、加瀬さんも、松平閣下も来られない。皆それぞれの場所に、それぞれの戦いがある。憲兵の目は、この飛行場にも及んでいよう。だから、俺ひとり。それでよかった。


 南京・大校場行きの陸軍輸送機を前に、課長殿は俺に向き直られた。


「橋本。班長は、今日から種村だ。お前は、種村をよく支えてくれ」


「承知しました」


 課長殿は軍服の内ポケットに手を入れ、一挺の拳銃を取り出して、俺に差し出された。


 秦次長が直訴の前に「命を狙われるかもしれぬから持て」と課長殿に持たせた、あの拳銃だった。


「これを、お前に返す」


「課長、それは――」


「もう要らぬ。これを持つということは、命を懸けて、超法規の覚悟で和平に走る、ということだ。俺はいったん、その場所から退く。次にこれが要る時が来るかどうかは、わからぬ。来ないことを、願う」


 俺は両手で受け取った。掌に、その鉄の重みがずしりと沈んだ。


「市ヶ谷台のことを、頼む。あの罫紙を、種村と二人で守ってくれ。時節が変われば、必ず日の目を見る」


「お預かりしたもの、命に代えても」


「大げさだ」


 課長殿は、わずかに笑われた。


「課長。どうか、ご無事で。そして、いつか、必ず東京へ」


「うむ。戻る。必ず、戻る」


 課長殿はタラップを一段ずつ登り、その上で一度だけ振り返られた。俺は敬礼の姿勢のまま、見送った。


 プロペラが回り、輸送機は夏の朝の空へ舞い上がっていった。機影が南の雲へ小さく消えるまで、俺は掌の拳銃を握りしめて立っていた。



 市ヶ谷へ戻り、戦争指導班の部屋の戸を開けた。


 課長殿の机は、もう空だった。引出しには書類の一枚も残っていない。ペンも印鑑も消えていた。


 課長殿が終戦に関する書類を極力作らず、連絡を口頭で済ませてこられた理由を、俺はこの空の机の前で改めて骨身に染みて理解した。紙の上に何か残れば、それは憲兵に直結する。残された者にも累が及ぶ。空であること。それが、課長殿の最後の庇護ひごだった。


 種村大佐が、自席で日誌に向かっておられた。その一行を、俺は横から見た。


「松谷大佐、本日出発赴任セラル」


 たった一行だった。種村大佐の筆も、しばらく動かなかった。


 こうして戦争指導班は、種村大佐と俺の二人だけになった。



 七月十一日、午後二時。


 俺は麹町の別館で、酒井鎬次さかい・こうじ中将にお会いしていた。課長殿が南京へ発たれて、まだ三日。課長殿の師であられた酒井閣下に市ヶ谷の様子をお伝えする、最後の機会のつもりだった。


 ところが酒井閣下は、扉の前で俺を止められた。


「橋本君。今しがた、召集を解除された」


 閣下の眼鏡の奥の眼が、暗く底光りしていた。


 召集解除――それは予備役の将官にとって、参謀本部からの追放を意味する。課長殿の左遷の余波が、軍事研究会の中心であられる酒井閣下にまで及んだのだ。理由は、はっきりとは告げられなかったという。


「閣下――」


「橋本君、よい。わしはこれで市ヶ谷を去る。だが君は残れ。種子は土の中に在らねば、芽吹かぬ」


 俺は敬礼することしかできなかった。


 帰り道、市ヶ谷の坂を上りながら、俺はつくづく思った。課長殿は左遷、酒井閣下は召集解除。陸軍中央から、まともに敗北を口にする者が、一人また一人と消えていく。


 市ヶ谷へ戻ると、種村大佐が自席で何かを書きつけておられた。公式の機密戦争日誌ではない。大佐がひそかに付けておられる、別の手帳だった。


「酒井中将のことだ」


 大佐は手を止めずに言われた。


「公の日誌には、書けぬ。書けば、また誰かに累が及ぶ。だが、書き残しておかねばならぬこともある」


 俺は、その横顔を見ていた。かつて課長殿の講和論に最も強く反発したこの人が、いまは追放された酒井閣下のために、ひそかに筆を走らせている。


 大佐の手帳には、こう記されていた。


「酒井鎬次中将、本日召集を解除せらる。松谷大佐の転出と関係がある模様だが、その理由ははっきりしない」



 七月十三日、午後一時すぎ。


 俺は参謀本部の廊下で、第二部の情報将校から囁き声で一報を受けた。


「橋本少佐。今日の午後一時、木戸内大臣が東條閣下と会われ、三つの条件を突きつけられたそうです。参謀総長の兼任を解くこと、嶋田海相を更迭すること、そして重臣を内閣に抱き込むこと。この三つだと」


 俺はしばし、廊下の壁にもたれた。市ヶ谷の窓硝子の向こうで、夏の雲がゆっくり流れていた。


 ――木戸閣下が、ついにお動きになった。


 課長殿の左遷以来、戦争指導班に残った俺たちは、東條閣下の権力の前でただうつむいて耐えるしかなかった。酒井閣下のような外部の支柱も、次々と斬り捨てられていった。


 だが――。


 市ヶ谷の外で、宮中で、重臣たちの間で、海軍の長老方の懐で、誰かが確実に、東條閣下を絞り上げにかかっておられる。


 課長殿が左遷されたのは、無駄ではなかった。課長殿の直言が東京中の誰の耳に届き、誰の覚悟を固めさせたか。それはもはや、課長殿御本人ですら辿りようがあるまい。


 その晩、俺は戦争指導班の自席で、機密戦争日誌に一文だけ書き加えた。


「内大臣ノ動キアリ。情勢、急変ノ兆シ」


 筆を置いた瞬間、種村大佐が後ろから軽く俺の肩を叩かれた。


「橋本。お前の筆、もう震えておらんな。課長殿が遺された日誌に、相応ふさわしい筆だ」


 俺は振り向かなかった。涙を見られたくなかった。



 七月十五日、夕刻。


 俺は田中敬二たなか・けいじ中佐と、市ヶ谷の食堂で湯漬けを掻き込んでいた。茶碗の縁に汗が伝う。


 田中さんは、かつて戦争指導班で机を並べた先輩だ。昨年秋の組織改編で第二部第四班――情報部へ移された。作戦課と戦争指導課の確執を背景に、第二部長の有末ありすえ少将らが仕組んだ、念の入った人事だったと聞く。だが軍中央の裏の動きを掴むには、いまや田中さんは誰よりも近い場所にいる。


 田中中佐が声を落とした。


「動員課の津野田少佐が、妙な動きをしておるらしい。皇宮警察の柔道師範、牛島辰熊うしじま・たつくまと再三会っておるそうだ。『大東亜戦争現戦局に対する観察』という献策書をまとめ、三笠宮殿下のもとへ上げたという」


 俺は箸を止めた。


 津野田知重つのだ・ともしげ少佐――陸士四十期。支那派遣軍から中央へ上がってきたばかりの、動員課の若い俊英だ。


「献策書、と申しますと」


「内閣更迭――つまり倒閣だ。それも、ただの意見書ではない。末尾に、こう書き加えてあるらしい。『非常手段。万止むを得ざる時には、東條を斬る』と」


 田中中佐の声は、ほとんど囁きだった。


「習志野で研究していた、対戦車用の青酸ガス入り手榴弾を使う。爆発すれば、周囲五十メートルの生き物が死に絶えるという代物だ。それを、東條閣下のオープンカーへ投げ込む算段らしい」


 俺は湯飲みを置いた。湯気がゆらりと立ち上る。


「田中さん、それは――」


 田中中佐は碗を見つめたまま続けた。


「鶴岡の石原いしわら閣下、狛江の小畑おばた閣下――反東條の御老人方も賛同しておられるらしい。石原閣下は献策書の余白に、赤鉛筆で『斬るに賛成』と書き加えられたとか。『東條は牛か馬のような男だ。屠場とばに連れてゆかねば退かん』とまで言われたという。小畑閣下も、『直接行動以外にはない』と」


 俺は、しばし何も言えなかった。


 課長殿が命がけで東條閣下に直言された。けれどその直言は、左遷という形で握り潰された。ならば次は、言葉ではない。


 やいばだ。


 陸軍中枢の若い将校が、それを本気で動かそうとしている。その事実を、俺は市ヶ谷の食堂の片隅で、湯気越しに突きつけられた。



 七月十八日、午前。


 その朝、東條内閣の総辞職が、市ヶ谷に伝わった。


 戦争指導班の部屋へ、種村大佐が駆け込んでこられた。汗だくだった。


「橋本! 東條閣下が、内閣をなげうたれた!」


 俺は思わず椅子から立ち上がった。


「総辞職、ですか」


「昨日、岸国務相が辞任を拒んだ。重臣が入閣せぬなら辞表は出さぬ、とな。今度はその重臣の米内大将が、入閣を断られた。現役に復し海相となるのでなければ受けぬ、と。今朝の閣議で、総辞職が決まった。万策尽きて総辞職を決意した――東條閣下御自身の言葉だ」


 俺はしばし、窓の外を見た。


 市ヶ谷台のもりは、夏の盛りの蒼を空へ向けてしっとりと湛えている。蝉の声はいつもと変わらない。


 だがこの瞬間、俺の胸の内では、課長殿の左遷以来ずっと氷塊のようにっていた何かが、ゆっくり溶けていく音がした。


「種村課長、今日は奇妙な日です。昭和十五年の今日、七月十八日――東條閣下が陸相に決まり、夜の飛行機で上京された日だと聞きます。ちょうど四年です」


 種村大佐は、しばらく黙っておられた。


「四年か。長い四年だったな」


 その日、もう一つ、俺の胸を熱くする出来事があった。


 昼すぎ、班室の戸が開いて、田中敬二中佐が入ってきた。


「橋本。今日付で、戦争指導班へ戻された」


 俺は言葉を失った。


 昨年秋、情報部へ追いやられた田中さんが、東條閣下の倒れたまさにその日に、班へ帰ってきたのだ。


 課長殿が去り、酒井閣下が消え、種村大佐と二人きりになった、あのがらんとした班室。そこへ、散らされた同志が一人、戻ってくる。


 種村大佐が立ち上がり、田中さんの手を握られた。


「待っておったぞ」


 田中さんは、ただ深く頷いた。



 その日の夕、大本営はサイパンの戦況を発表し、総理も談話を出した。けれど俺の胸に残ったのは、機密戦争日誌に書きつけられた、こんな一文だった。


「玉砕セル将兵ニ報ユル唯一ノ道ハ、統帥部ラシキ統帥部トナリ、速ニ滅敵ノ戦策ヲ確立シ『サイパン』放棄ヲシテ意義アラシムル道アルノミ。国民ノ怒リニ対シ、統帥部ノ責任如何」


 東條閣下の城が、ついに一つ崩れた。ただ一つ、である。だが間違いなく、一つ、である。


 それを崩したのは、誰か一人の刃ではなかった。


 翌十九日、奇怪な報せが二つ、相次いで市ヶ谷を駆けめぐった。


 一つは、局長会報での富永次官の言葉だ。次官は今度の政変を「倒閣陰謀」と呼び、岸国務相の背反と重臣層の反感が結んだ巧妙な策謀だと断じたという。長年あれほど国を縛り上げてきた内閣がようやく倒れたというのに、軍の上層はそれを「陰謀」と呼ぶ。倒れて当然のものが倒れただけなのに、である。


 もう一つは、津野田少佐の逮捕だ。中国への出張から急ぎ呼び戻された津野田少佐は、東條閣下の退陣を知らぬまま帰京し、渋谷駅の近くで四方諒二しかた・りょうじ東京憲兵隊長に捕らえられたという。三笠宮殿下は、皇太后陛下の働きかけで不問になられたと後に聞いた。


 刃は、ついに振るわれなかった。城は刃より先に、まつりごとの力で崩れたのだ。


 俺は、内ポケットに手を当てた。課長殿が羽田で俺に返された、あの拳銃の硬さがそこにあった。これが要る日は、まだ来ていない。来ないことを、俺もまた願った。


 その夕、俺は種村大佐、田中中佐と、市ヶ谷の食堂の片隅で湯飲みを傾けた。乾いた茶だった。


「課長。南京の松谷課長殿に、お伝えしたいものです。市ヶ谷の内側でも、土の中の根は生きていた、と」


 種村大佐は湯飲みを見つめたまま、深く深く頷かれた。かつて課長殿に最も強く逆らった、この人がである。


 田中中佐も、無言で湯飲みを掲げた。


 窓の外で、夕立が来ようとしていた。湿った風が、市ヶ谷台の杜を駆け抜けていく。



【後書き】(松平康昌より)


 わたくしは松平康昌と申します。あの七月、宮中で密かに連絡を取り合っていた者の一人として、当時を振り返ってみたいと思います。


 陸軍の内側に、橋本少佐のような、課長殿(松谷大佐)の遺志を絶やすまいと踏み留まった人々がいたことを、当時のわたくしは十分には知りませんでした。


 しかし振り返れば、東條閣下の城が崩れたあの瞬間、宮中・重臣・海軍・外務、そして陸軍内部の早期講和派――そのいずれもが、たとえ互いを知らずとも、同じ一日を待ち望んでいたのです。宮中でもまた、高松宮殿下や近衛公らが、人知れず同じ流れを手繰り寄せておられました。


 あの七月、サイパンに斃れた将官の中に、海軍のひとりの少将がおりました。のちにわたくしが、陸の松谷大佐とお引き合わせすることになる海軍の智将と、兵学校の同期であった人です。その智将が、なぜ自らの命を懸けて戦を終わらせる側に立ったのか――その答えの一端は、あの島の土の中にもあったのだと、いまのわたくしには思えるのです。


 戦争を終わらせるとは、誰か一人の英雄が刀を抜くことではありません。土の中で、互いを知らぬ多くの根が密かに芽を準備していること。橋本少佐のあの七月は、まさにその「土の中の根」の、ひそやかな闘いの記録です。


【人物紹介・用語集(初学者向け)】


 本話の語り手・橋本正勝が「課長殿」と呼ぶのは、本作の主人公・松谷誠大佐(陸士三十五期、当時四十一歳)のことです。松谷は早期講和を追い求め、昭和十九年六月に東條英機へ「わが方の負けである」と直言した結果、七月三日付で支那派遣軍参謀へ転出(事実上の左遷)となりました。後書きの語り手・松平康昌(内大臣秘書官長、松平春嶽の孫)は、木戸幸一内大臣の補佐役として宮中の連絡調整を担い、のちに松谷・加瀬俊一・高木惣吉と「終戦四人組」を結ぶ宮中側の人物です。


■ 本話で重要な役割を担う人物


橋本正勝(はしもと・まさかつ、生没年不詳、当時三十代)

 陸軍少佐。陸軍士官学校四十一期前後。参謀本部戦争指導班(第二十班)員。松谷誠大佐の最も忠実な実務担当の部下で、講和案の起草を担った。本話では七月八日、羽田に松谷をただ一人見送り、松谷が秦次長より託されていた拳銃を返される(第六十四話)。松谷の左遷後も班に踏み留まり、種村大佐とともにその灯を消さなかった。陸軍中枢が東條内閣総辞職に至るまでの日々を見届ける、市ヶ谷内部の語り部である。


種村佐孝(たねむら・すえたか、一九〇二〜一九六六、当時四十二歳)

 陸軍大佐。陸士三十七期。「梅津の懐刀」とも呼ばれた実務派幕僚。もとは作戦課に同調する強硬な主戦論者で、松谷の早期講和論に強く反対していた。昭和十九年二月から三月にかけてソ連へ出張に出されている隙に、松谷は講和案を仕上げたという逸話が残る。しかし戦局の悪化とともに考えを変え、最終的には敗北の現実を受け入れていった。昭和十九年三月一日付で大佐に進級し、松谷が支那派遣軍へ転出した七月三日付で、その後任として戦争指導課長(=第二十班長)に就任。戦後、種村佐孝編『大本営機密日誌』(芙蓉書房、一九五二)を公刊し、参謀本部戦争指導班の内側の真実を世に伝えた。


田中敬二(たなか・けいじ、生没年不詳、当時三十代後半)

 陸軍中佐。陸士三十九期。かつて松谷のもとで戦争指導課(班)に在籍した実務型の将校。昭和十八年十月十五日の組織改編で第二部第四班(情報部)へ転出した。これは第二部長・有末精三少将と額田坦少将の「合作」による念の入った人事だったと、当時の戦争指導班内では受け止められていた。情報部にあって軍中央の裏の動きに通じ、本話では橋本へ津野田少佐の不穏な計画を伝える。そして東條内閣が総辞職した昭和十九年七月十八日、戦争指導班の班員として復帰する。


津野田知重(つのだ・ともしげ、一九〇九〜一九七三、当時三十五歳)

 陸軍少佐。陸士四十期。参謀本部動員課所属。支那派遣軍から中央に転任後、戦局の絶望的な実態を知り、東條暗殺計画に深く関与した。皇宮警察柔道師範の牛島辰熊と組み、青酸ガス入りの対戦車手榴弾による東條襲撃を計画。三笠宮崇仁親王に献策書「大東亜戦争現戦局に対する観察」を上げたが、皇太后の叱責を受けた三笠宮の告白によって計画が発覚。東條内閣総辞職の翌日、七月十九日、出張先の中国から呼び戻された帰途、渋谷駅の近くで四方諒二東京憲兵隊長に逮捕された。戦後出獄し、実業界へ進む。


南雲忠一(なぐも・ちゅういち、一八八七〜一九四四、当時五十七歳)

 海軍中将。海兵三十六期。山形県米沢の出身。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦で機動部隊を率いた、日本海軍を代表する提督。本話の時点では中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島の防衛にあたり、昭和十九年七月六日、第四十三師団長・齋藤義次中将とともに自決して果てた。本作の高木弧においては、米沢の幼馴染である下村正助中将との深い絆を軸に描かれてきた人物で、その最期がここで描かれる。


齋藤義次(さいとう・よしつぐ、一八九〇〜一九四四、当時五十四歳)

 陸軍中将。陸士二十四期。第四十三師団長としてサイパン島の地上防衛を指揮した。昭和十九年七月五日、南雲中将と連名で最後の総攻撃を命じ、翌六日、南雲とともに自決した。


矢野英雄(やの・ひでお、〜一九四四)

 海軍少将。海兵四十三期。中部太平洋方面艦隊参謀長として南雲忠一中将を補佐し、サイパン島の防衛にあたった。最後の別辞「我ら玉砕もって太平洋の防波堤たらん」を打電させ、昭和十九年七月、島に斃れた。本作の海の同志・高木惣吉少将の兵学校同期にあたり、高木が命を懸けて終戦工作に身を投じる動機の一つともなる人物――その縁は、のちの高木弧で描かれる。


井桁敬司(いげた・けいじ、一八九五〜一九四四、当時四十九歳)

 陸軍少将。陸士二十八期。サイパンを管轄する第三十一軍の参謀長。玉砕を前に、参謀次長へ宛てて「制空権なき所、勝利なし」と航空兵力の貧弱を痛烈に訴える訣別電を残し、戦死した。


酒井鎬次(さかい・こうじ、一八八五〜一九四六、当時五十九歳)

 予備役陸軍中将。陸士二十期。松谷誠の師。フランスのソミュール騎兵学校に留学した戦略論の権威で、昭和十八年十一月に参謀本部付として召集され、軍事研究会で情勢判断や戦争指導上の助言を行った。参謀本部内でしか知り得ない情報を近衛文麿グループや松谷に流し、終戦工作を裏から支えた。本話の時点(七月十一日)で召集を解除され、市ヶ谷を追われる。


四方諒二(しかた・りょうじ、一八九五〜一九六一、当時四十九歳)

 陸軍大佐。陸士二十八期。東京憲兵隊長。東條英機の腹心として、反東條派の監視・脅迫・弾圧の実行責任者を務めた。中野正剛代議士の自決事件、岸信介への脅迫、津野田少佐の逮捕など、東條の「警察国家」を実働で支えた人物。戦後B級戦犯。


■ 本話に名前の挙がるその他の人物


杉山元(すぎやま・はじめ、一八八〇〜一九四五)── 陸軍大将(のち元帥)。前参謀総長で、松谷の最大の後ろ盾。昭和十九年二月に総長を東條に譲った。


後宮淳(うしろく・じゅん、一八八四〜一九七三)── 陸軍大将。参謀本部高級次長。松谷の渡支前に健康診断の便宜を図るなど、左遷される松谷へ配慮を示した。


有末精三(ありすえ・せいぞう、一八九五〜一九九二)── 陸軍中将(当時少将)。参謀本部第二部長(情報部長)。昭和十八年秋、田中中佐を戦争指導班から情報部へ移す人事を主導したとされる。


木戸幸一(きど・こういち、一八八九〜一九七七)── 内大臣。天皇を補佐する宮中の要職にあり、本話では東條内閣打倒へ動く。


嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう、一八八三〜一九七六)── 海軍大将。海相。「東條の副官」と陰口される側近で、更迭要求の標的となる。


米内光政(よない・みつまさ、一八八〇〜一九四八)── 海軍大将。元首相。東條内閣への入閣を拒み、倒閣の流れを決定づけた。のちに海相として終戦へ尽力する。


岸信介(きし・のぶすけ、一八九六〜一九八七)── 国務相(軍需次官)。閣内にあって辞任を拒み、東條の内閣改造を不可能にした。


石原莞爾(いしわら・かんじ、一八八九〜一九四九)── 予備役陸軍中将。満州事変の中心人物だが東條と激しく対立し、予備役に追われた。反東條派の精神的支柱の一人。


小畑敏四郎(おばた・としろう、一八八五〜一九四七)── 予備役陸軍中将。皇道派の重鎮で、反東條の長老の一人。


牛島辰熊(うしじま・たつくま、一九〇四〜一九八五)── 皇宮警察の柔道師範。講道館の名選手として知られ、津野田の暗殺計画に協力した。


三笠宮崇仁親王(みかさのみや・たかひとしんのう、一九一五〜二〇一六)── 昭和天皇の末弟。陸軍軍人でもあり、本話では津野田の献策書を受け取る。


高松宮宣仁親王(たかまつのみや・のぶひとしんのう、一九〇五〜一九八七)── 昭和天皇の弟宮。海軍軍人で、早くから早期講和を望んでいた。


下村正助しもむら・しょうすけ── 海軍中将。南雲忠一の米沢時代の幼馴染。本作の高木弧に登場し、南雲との絆が描かれる。本話では南雲の回想の中に「正助兄」として現れる。


■ 本話の主な用語


機密戦争日誌きみつせんそうにっし

 参謀本部戦争指導班員(種村・橋本ら)が交替で書き継いだ公式の業務日誌。昭和十四年末から終戦まで連綿と記され、班員の本音や上層部批判も交えた極めて貴重な一次史料。戦後、種村佐孝編『大本営機密日誌』(芙蓉書房、一九五二)として公刊された。


戦争指導班せんそうしどうはん/第二十班

 参謀本部に置かれた、長期国策・戦争指導の研究を担う小部隊。もとは作戦部隷下の第十五課だったが、昭和十八年十月十五日の改編で作戦部から外れ、参謀次長直轄の「第二十班」へ縮小された。その長は「戦争指導課長」とも呼ばれ、松谷が務めたのち、転出後は種村が継いだ。昭和十九年七月当時、実務を担うのは種村大佐と橋本少佐のわずか二名だった。


絶対国防圏ぜったいこくぼうけん

 昭和十八年九月三十日の御前会議で決定された、絶対に確保すべき防衛線。千島・小笠原・内南洋マリアナ・カロリン・西部ニューギニアを結ぶ線で、サイパン陥落により事実上崩壊した。


戦略兵団せんりゃくへいだん

 独立した師団規模以上の、作戦の根幹を担う大部隊。孤島の小守備隊とは規模が異なる。サイパン守備隊の玉砕は、この「戦略兵団の玉砕」としては最初の例とされ、陸軍中枢に深い衝撃を与えた。


拳銃けんじゅう

 第五十六話で秦次長が松谷に「命を狙われるかもしれぬから持て」と持たせ、第六十四話で松谷が羽田で橋本に返した一挺。中央で超法規の覚悟をもって和平に走る、その決意の象徴であり、それを手放すことは、いったんその場所から身を引くことを意味した。本話では橋本がこれを引き継いで携える。


献策書けんさくしょ

 津野田少佐が三笠宮崇仁親王に提出した、内閣更迭(=東條打倒)に関する意見書「大東亜戦争現戦局に対する観察」。事実上の暗殺計画の趣意書で、皇太后の叱責を受けた三笠宮が陸軍兵務局の将校に渡し、これが計画発覚の発端となった。


軍事研究会ぐんじけんきゅうかい

 酒井鎬次中将らが参謀本部内で営んだ、戦争指導の史的検討・国際情勢分析を担う「頭脳集団シンクタンク」。東條に好まれぬ将官が集まり、戦争指導班(実務)の理論的後援機関となっていた。酒井の召集解除により機能を停止する。


召集解除しょうしゅうかいじょ

 予備役の将官は退役後も召集により現役へ復帰できる立場にある。これが解除されると、二度と軍中央には戻れない事実上の追放処分となる。酒井鎬次への召集解除は、東條による反対派粛清の典型例。


【史実と創作について(参考文献との対応)】


◇ 史実に基づく主な事項


・松谷誠が昭和十九年六月二十九日、市ヶ谷の陸軍省大臣室で東條英機へ「今や戦争の勝敗の山は見えた。遺憾ながらわが方の負けである」と直言し、その四日後の七月三日付で支那派遣軍参謀へ転出(事実上の左遷)となったこと。後宮淳高級次長の配慮で、出発前に健康診断を受け、むしろ前向きに渡支したこと。〔松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』『私の終戦メモ』〕


・松谷の転出発令(七月三日)と出発(七月八日)、後任の種村佐孝が同じ七月三日付で戦争指導課長(第二十班長)に就いたこと。当時の班が種村・橋本の二名であったこと。種村がもとは主戦論者で、ソ連出張中に松谷が講和案を仕上げたという経緯。〔軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』/種村佐孝『大本営機密日誌』/吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』〕


・本文中の機密戦争日誌の記述(七月三日の班長交代の項、七月六日「戦略兵団ノ玉砕ハ今回ヲ以テ始メトス……」、七月八日「松谷大佐、本日出発赴任セラル」、七月十八日「玉砕セル将兵ニ報ユル唯一ノ道ハ……」)は、いずれも同日誌の原文に基づきます。〔軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』〕


・サイパン守備隊の連絡途絶(七月六日)。南雲忠一中将と齋藤義次中将が七月五日に連名で発した最後の総攻撃命令(「予ハ切ニ諸隊ノ奮戦敢闘ヲ期待シ……諸士ト共ニ玉砕ス」)。第三十一軍参謀長・井桁敬司少将が参謀次長へ宛てた訣別電「将来ノ作戦ニ制空権ナキ所勝利ナシ」。海軍幕僚が大本営・聯合艦隊へ発した別辞「我ら玉砕もって太平洋の防波堤たらん」。南雲・齋藤が七月六日に自決したこと、続く最後の総攻撃が太平洋戦争最大規模の玉砕突撃となったこと。南雲の参謀長が矢野英雄少将(海兵四十三期)で、南雲とともに島に斃れたこと、矢野が海軍の高木惣吉少将の兵学校同期であったこと。〔防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで』〕


・酒井鎬次中将の召集解除が七月十一日であったこと、ならびにそれが公式の機密戦争日誌には記載されず、種村佐孝の私的な日誌(後の『大本営機密日誌』)に「松谷大佐の転出と関係がある模様だが、その理由ははっきりしない」と書き残されたこと。〔種村佐孝『大本営機密日誌』/松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』/山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』〕


・田中敬二中佐が昭和十八年十月十五日の組織改編で戦争指導班から第二部第四班(情報部)へ転出し、それが第二部長・有末精三少将らの「念の入った」人事と班内で受け止められたこと。田中が昭和十九年七月十八日に戦争指導班へ復帰したこと。〔軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』/山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』〕


・七月十三日午後一時、木戸幸一内大臣が東條へ「専任総長の設置・嶋田海相の更迭・重臣の入閣」を求めたこと。岸信介の辞任拒否(七月十七日)と米内光政の入閣拒否を経て、東條が「万策尽き総辞職を決意」し、七月十八日に総辞職したこと。七月十八日が東條の陸相就任から満四年にあたったこと。七月十九日の局長会報で富永次官が政変を「倒閣陰謀」と断じたこと。〔鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』/軍事史学会編『機密戦争日誌 下』〕


・津野田知重少佐と牛島辰熊らによる東條暗殺計画(青酸ガス入り対戦車手榴弾を用い、宮城外苑でオープンカーを襲う構想)、献策書「大東亜戦争現戦局に対する観察」と三笠宮への提出、石原莞爾が余白に「斬るに賛成」と記し「屠場に連れてゆかねば退かん」と評したこと、小畑敏四郎の「直接行動以外にはない」との同調、計画の発覚と七月十九日の津野田逮捕、三笠宮が皇太后の働きかけで不問となったこと。〔吉松安弘『東條英機暗殺の夏』/川越重男『救国・聖断の史』〕


創作フィクション部分


・語り手・橋本正勝の一人称による描写、心情、所感はすべて創作です。


・七月六日のサイパンの場面(地獄谷の洞窟、南雲忠一の故郷・米沢の回想、幼馴染「正助兄」への思い、自決に至る心象)は、語り手・橋本が残された電文と後の伝聞から思い描いた像として描いた創作です。南雲・齋藤の自決と最後の総攻撃命令、井桁参謀長の訣別電、海軍幕僚の別辞は史実に基づきますが、洞窟内の情景や南雲の内面は創作です。なお南雲と下村正助の絆は、本作高木弧で描いてきた設定に基づきます。


・七月八日の羽田での見送り(見送りは橋本ひとり、松谷が秦次長より託された拳銃を橋本に返す場面)は、第六十四話の設定を橋本の視点から描いたものです。松谷が羽田から軍用機で南京へ発ったこと、種村が市ヶ谷で日誌に出発を記したことは史実に基づきますが、拳銃の返却は第五十六話の経緯を受けた創作で、史実に記録はありません。


・橋本が酒井中将を訪ねる場面、田中中佐から津野田の動きを聞く場面、田中の班復帰を喜ぶ場面、種村大佐との会話などの「場面設定」は、史実の出来事を物語として再構成した創作です。市ヶ谷の情景(廊下の革靴の音、食堂の湯漬け、蝉の声、夕立など五感の描写)や、登場人物の表情・しぐさも創作です。


・本文中に引用した機密戦争日誌・種村の私的日誌・松谷の発言・サイパンの各電文は、いずれも上記史料の記述に基づきます(漢文調の日誌記述は原文の語調を生かしています)。ただし、それらを書き記す前後の状況は創作です。


・七月十三日の日誌の一文「内大臣ノ動キアリ……」は、当時の文体を模した創作的記述です。


【参考文献】


・松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、一九八〇年

・松谷誠『私の終戦メモ』松谷誠、一九七三年

・種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、一九五二年

・軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』錦正社、二〇〇八年

・鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、二〇一一年

・山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、二〇一三年

・吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』NHK出版、二〇一三年

・吉松安弘『東條英機暗殺の夏 上・下』新潮社、一九八四年

・川越重男『救国・聖断の史』人吉中央出版社、二〇〇三年

・防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで』朝雲新聞社、一九六七年

・高松宮宣仁親王『高松宮日記 第七巻』中央公論社、一九九七年



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