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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第6章 東條直訴と左遷(昭和19(1944)年6月22日~)

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第62話「送別会――さらば盟友たちよ」


◆ 前書き 加瀬 俊一(かせ としかず、外務省秘書官)


 昭和十九年七月四日の夜のことを、僕は戦後、幾度となく思い返してきた。


 築地の小さな料亭。その名を増田といった。薄暗い離れに、行燈の灯がひとつ。その下に、僕と重光大臣、松谷さんがいた。


 卓の上には、徳利と猪口、慎ましい料理。だが僕たちの胸の中には、あの離れの広さなど比べものにならぬほど深い覚悟が満ちていた。


 あの夜、僕たちは、もう一つの仕掛けを用意していた。松谷さんを驚かせ、励ますための、ささやかな仕掛けを。


 第六十二話。中国へ発つ盟友を、僕たちがどう送り出したか。灯火管制の闇の中で、確かな光を灯したひと晩の話だ。



【本文】


一 築地の離れ


 昭和十九年七月四日、午後七時。俺は築地の小さな料亭の門をくぐった。増田という店だった。軍服に勲章をつけた、正装だった。


 黒塗りの板塀の奥に、灯火管制下の朱色の提灯がひとつだけ灯っていた。年配の女将が俺を迎え、奥の離れへ案内した。


 廊下を行きながら、女将が和やかに言った。


「お客さま。陸軍の方は珍しゅうございます」


「ほう。珍しいか」


「ええ。うちは海軍さんが多うございましてね。それに大学の先生方。難しいお話を、夜遅くまでよくなさっておいでですよ」


 俺は、足を止めかけた。


(海軍と、大学の先生。この店で夜ごと、難しい話を……)


 陸軍の俺の知らぬところで、海軍の誰かが学者を集めて何かを論じている。それが誰なのか、俺は知らない。だが、その気配だけが、廊下の畳の匂いに混じって伝わってきた。


「ここは、そういう店か」


「はい。このご時世、ここは、安心でございますよ」


 女将はそう言って、奥の障子の前でひざをついた。


 離れの障子を開けると、二人が待っていた。重光葵外務大臣。そして加瀬俊一外相秘書官。卓の前に座り、徳利と猪口、わずかな料理が慎ましく並んでいた。


「松谷さん」


 加瀬さんの声は、深かった。


「ようこそ」


 俺は深く敬礼した。


「重光大臣、加瀬さん。本日はお招きを賜り、ありがとうございます」


「堅苦しい挨拶は無用だ」


 重光大臣は、深く頷いた。


「松谷大佐。加瀬君とわたしで、この席を企てた。外務省で会えば人目に立つ。それで、こちらにお招きした」


「いい店です。先ほど女将が、海軍の人々がよく使う店だと申していました」


 俺がそう言うと、重光大臣と加瀬さんはちらと目を交わした。加瀬さんが、わずかに微笑んだ。


「ええ。この店を選んだのには、わけがあります。それは追い追い」


 加瀬さんは、それ以上は言わなかった。そして口を開いた。


「松谷さん。別れの宴と言っても、しめやかなものではありません。我々の結束を、誓い合う席です」


「結束」


「松谷さんが中国へ発たれても、我々は離れぬ。それをお伝えするための、ささやかな酒席です」


 俺は息を呑んだ。


 灯火管制のため、離れは行燈の灯がひとつだけ、卓の上を照らしていた。その薄暗い灯の下で、重光大臣と加瀬さんの厚意が、俺の胸を深く撫でた。


「ありがとうございます」


 俺は深く頭を下げた。


二 唯一の真の男


「ところで、いつ南京へ発たれる」


「七月八日の朝、羽田飛行場発、南京へ向かいます」


「飛行機で」


「陸軍省の手配で、羽田から軍用機が出ます」


 重光大臣は、深く頷いた。


「貴公は、陸軍の空気の中にあって、真に国家の将来を案じておった唯一の真の男だ」


 俺は息を呑んだ。


(唯一の真の男、か)


 陸軍の中で負けを口にした俺を、唯一の真の男と呼んでくれる人がいる。その一言が、胸の奥に染みた。


「ありがとうございます」


「中央へは、必ずお呼び戻しする」


「感謝します」


 女将が徳利を持って入ってきた。俺たち三人は、無言で酒を酌み交わした。



三 もうひとりの客


 その時。離れの障子の外で、女将の声が響いた。


「あの、もうおひと方、ご到着でございますが……」


 俺は目を上げた。重光大臣と加瀬さんは、互いに目を交わし、わずかに微笑んだ。女将が障子を開けた。


 そこに立っていたのは――松平康昌内大臣秘書官長だった。


 いつもの温容な顔。だがその目の奥に、深い覚悟の色が宿っていた。


「松平閣下……!」


 俺は思わず、立ち上がった。


「松谷君。お邪魔しますよ」


 松平閣下は深く頷き、ゆっくりと離れに上がった。重光大臣が、わずかに微笑んだ。


「松谷大佐。これが、加瀬君とわたしの、ささやかな仕掛けだ」


「と、言いますと」


「松平秘書官長は、宮中のお立場上、こうした席に堂々と来られるのは難しい。だが、貴公の旅立ちに顔を出さぬわけにはいかぬ、と仰せでな」


 加瀬さんが続けた。


「松平閣下ご自身が、こうして足を運んでくださった。松谷さんへの、別れと励ましのために」


(松平閣下、あなたご自身が来てくださるとは。宮中の方が、夜分、築地の料亭まで足を運ばれる。その重みを、俺はいま噛みしめている)


 松平閣下は俺の隣に静かに腰を下ろし、離れの中をぐるりと見回して、目を細めた。


「いい店でしょう。この増田を選んだのは、わたしです」


「閣下が」


「ええ。どこか人目を気にせず話せる店はないか――そう、ある人に尋ねたのです。すると、それなら築地に、海軍の者や学者がよく使う口の堅い店がある、と教えてくれました」


「その、ある人とは……」


 松平閣下は、わずかに微笑んだだけで、答えなかった。


「いずれ、お引き合わせします。きっと貴方とも気が合う。今宵は、その人の見立てた座敷で貴方を送りたかった」


(ある人……。海軍の者や学者が使う店を知る、ある人)


 俺の胸に、先ほどの女将の言葉がよみがえった。海軍さんと、大学の先生方。この座敷を松平閣下に教えたのは、その海軍の人々と深く関わる誰かなのだ。だが、それが誰なのか、俺はやはり知らなかった。


「松谷君。貴方が中国へ発たれても、我々の絆は絶ちません」


「閣下……」


「貴方が陸軍中央を離れるのは、我々にとって、確かに痛手です」


「だが、それは終わりではない」


 松平閣下の目が、深く俺を見つめた。


「貴方が中央を離れることで、陸軍の枷から解き放たれる。南京の畑元帥のお膝下で、自由に物事を考える時間を持たれる。そしていずれ中央へ戻られる時――貴方はもう、独りの男ではない」


「我々の、中核になられる」


 俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、松平閣下」


四 海の同志


 松平閣下は、卓の上にひとつの封筒を置いた。


「南京へ、お持ちなさい」


 俺は封筒を受け取った。


「閣下、これは……」


「我々の連絡の手立てです。貴方と加瀬殿と、わたし。三人が離れていても、糸を切らさぬための」


 松平閣下の目に、深い色が宿った。


「松谷君。我々の和平の輪は、この三人だけでは足りぬ。陸と、外務と、宮中。あと一つ、欠けているものがある」


「と、言いますと」


「海軍です」


 俺は息を呑んだ。


「海軍にも、和平を真剣に志す中核の人物がいる。米内大将、岡田大将に連なる知恵者だ。いまはまだ、その名を口にする時ではない。だが――」


 松平閣下の声は静かだが、確信に満ちていた。


「貴方が中央へ戻られる頃、わたしが必ず、その人と貴方を繋ぐ。その時、我々の輪は四つになる。陸、海、外務、宮中。四方から聖断への道を支える輪が完成する」


(海軍の、中核の人物……)


 俺は、まだ見ぬその人の顔を胸に思い描こうとした。だが、像を結ばなかった。名も顔も知らぬ。ただ、松平閣下がそこまで言うのなら、確かな人物なのだろう。


「その人に、いつか会える日が来るのですね」


「来ます。必ず」


 松平閣下は、深く頷いた。


「その日まで、貴方は南京で、力を蓄えておかれよ」


五 空の猪口


 重光大臣が徳利を取った。俺たちの猪口に、ゆっくりと酒を注いだ。


 だが、卓には猪口が四つあった。そして、一つだけ、空のまま残されていた。


「ここに、空の猪口が一つある」


 重光大臣の声は低く、しかし強かった。


「いまだ四人目――海軍の同志は、ここにおらぬ。名も、まだ我々の口には上らぬ。だが、いずれ我々の輪に加わる人だ」


「ならば、わしが、その人の代わりに音頭を取ろう」


 重光大臣は、空の猪口を自分の前に引き寄せた。


「まだ見ぬ海の同志の分として、わしがこの猪口を取る。いつの日か、本当にその人と酒を酌み交わす日まで、わしが代わりに結束の証として預かる」


 俺は深く頭を下げた。


(重光閣下、あなたのお心遣いは骨身に染みます。まだ顔も知らぬ海の向こうの同志のために、ご自分がその代わりとなって乾杯される。これほどの結束の誓いは、ない)


「では、改めて」


 重光大臣は、自分の猪口と、海の同志の代わりの空の猪口とを両手に取った。


「松谷大佐の無事の旅立ちと、我々の結束を誓おう」


 俺たちは猪口を、行燈の灯の下でゆっくりと合わせた。俺の猪口。加瀬さんの猪口。松平閣下の猪口。そして、重光大臣が両手に取った、ご自身の猪口と海の同志の代わりの猪口。


 チリン、と磁器の音が、薄暗い離れにわずかに響いた。


「我々の絆は、たとえ離れても、絶たぬ」


 加瀬さんが、低く声を発した。


「中国の地から、書簡をお送りください」


 松平閣下が、続けた。


「梅雨は明けたか、とお書きくだされば、戦況を知らせてくださっていると察します。夏は来たか、とお書きくだされば、和平の機が近いとお察しください」


「確かに」


「松谷君。生きて、お戻りください」


「ありがとうございます」


 俺は三人の顔を、ひとりずつ見つめた。重光大臣の深い目。加瀬さんの優しい微笑み。松平閣下の温容な顔。その三人の顔を、生涯忘れぬと心に誓った。


(俺は、独りではない。中国に発っても、独りではない。東京で、三人の同志が、いつも俺と共にある。そしていずれ、四人目の同志が海から加わってくれる。我々の絆は、いま、ここに種を撒いた)


 行燈の灯が、わずかに揺れた。三人の影が、薄暗い壁の上でわずかに重なり合った。その傍らに、まだ顔のない影が添えられているように、俺には感じられた。


 窓の外の灯火管制の闇とは対照的に、俺たちの胸の中には、確かな光が灯っていた。


六 殿下が、会いたいと


 しばしの後、松平閣下が、しみじみと口を開いた。


「松谷君。もう一つ、お伝えしておきたいことがあります」


「先日、わたしは高松宮宣仁親王殿下にお目通りした」


「ほう」


「殿下は皇族でありながら、和平を願うお方のお一人だ。わたしは内大臣府の務めの上、しばしば殿下にお目通りを賜っている」


 俺は深く頷いた。


(松平閣下が殿下に頻繁にお目通りなさるのは、宮中のお立場上、当然のことだ。だが、その先にある話は何か)


 松平閣下は続けた。


「先日のお目通りの際、わたしは、貴方のことを殿下にお話し申し上げた」


 俺は息を呑んだ。


(皇族の殿下に、俺のことを……)


「貴方が参謀本部戦争指導班長として、東條閣下に直訴し、左遷されること。その覚悟と、第一案の起案のこと。そして、南京の畑元帥のお膝下へ戻られること」


「殿下は深くお聞きくださった。そして、こう仰せになった」


 松平閣下の声が、わずかに震えた。


「松谷大佐に、ぜひ会ってみたい。出発の前に、時間があれば招きたい――と」


 俺は、目を見開いた。


(皇族の方が、俺に会ってみたいと仰せになった。これは……ありえぬことだ)


「松平閣下、それは……」


 声が、わずかに震えた。


「皇族の方にお目通りを賜るとは、身に余る光栄です」


 松平閣下は、深く頷いた。


「貴方が南京へ発たれる前日の七日、朝のうちに、殿下のもとへ伺っていただくようお手配しました。殿下は、いま海軍の軍令部におられる。そのお部屋で、お目にかかれるように、と」


 俺は深く頭を下げた。


(松平閣下、あなたは、皇族の殿下に俺を引き合わせてくださった。これは、相当な信頼がなければ決してできぬことだ。皇族のご一員に一介の陸軍大佐を引き合わせるとは、その大佐の覚悟と志を、あなたご自身が保証してくださるということだ)


 松平閣下は、わずかに目を細めた。


「殿下にお目通りなさる時、心を尽くしてお伝えなさい。陸軍部内の、終戦工作の現状を」


「殿下は、海軍の和平派とも近く、皇族のご一員だ。貴方が中央を離れた後、海軍と宮中を結ぶ要となるお方だ。貴方の話を、殿下は必ず深く受け止めてくださる」


 俺は深く頭を下げた。


「松平閣下、本当に……ありがとうございます」


 声は、もう、震えを抑えられなかった。


七 灯火管制の街


 夜は更けていった。行燈の灯の下で、俺たちは酒を酌み交わし続けた。多くを語る必要はなかった。


 南京への赴任は、四日後の七月八日。その前日には、高松宮殿下とのお目通りが待っている。我々の結束は、いま、ここに誓い合われた。四人目の海の同志とは、まだ顔を合わせていない。だが、その日が必ず来る。


 行燈の灯が、ふと、わずかに揺らいだ。どこからか、風が入り込んだようだった。


 松平閣下が、ふと顔を上げた。


「もう夜分も更けました。松谷君、ご自愛なさい」


 俺は深く頭を下げた。


「閣下、加瀬さん、重光大臣。本日のご厚意、生涯忘れません」


 料亭の門前で、俺たちはひとりずつ別れの礼をした。夜風が、築地の街並みをわずかに撫でていた。灯火管制の闇の中で、足音だけがぽつりぽつりと響いた。


 俺は闇の中を歩きながら、もう一度、空の猪口のことを思った。あの猪口に、いつか、まだ見ぬ海の同志が酒を満たす日が来る。その日まで、俺は南京で生き延びねばならぬ。



◆ 後書き 松平 康昌(内大臣秘書官長)


 あの夜の猪口の音を、わたくしは戦後もしばしば思い出します。


 重光大臣が、まだ顔も知らぬ海の同志のために、ご自分の猪口とお代わりの猪口を両手に取って乾杯された。あれほど深い心遣いに、わたくしは生涯のうち幾度も、出会ったことがございません。


 空の猪口は、不在の人のための席でした。けれど、その不在の人は、いずれ確かに、わたくしどもの卓に加わる人でありました。あのとき、まだその名を松谷君には告げませんでした。海軍のあの人と松谷君を引き合わせられる日まで、あえて伏せておいたのです。


 いま思えば、不思議な巡り合わせでした。あの夜、松谷君が酒を酌んだ築地の増田――あの口の堅い座敷をわたくしに教えてくれたのも、その海軍のあの人だったのです。密談に向く店はないか、と尋ねたわたくしに、あの人が、海軍の者や学者がよく使う店がある、と教えてくれました。松谷君は、まだ顔も知らぬその人の見立てた座敷で、別れの杯を交わしていた。すれ違いながら、ほんの一枚の障子の向こうほどの近さまで、二人はもう来ていたのです。


 あの夜の誓いが本当に実を結ぶのは、半年後の昭和二十年一月。松谷君がようやく中央復帰を果たし、海軍のあの人と初めて顔を合わせる日まで、待たねばなりませんでした。


 そして松谷君が南京へ発つ前日の、七月七日。もう一つの大切な対面が待っていました。高松宮宣仁親王殿下とのお目通りです。殿下は当時、海軍の軍令部に勤めておられた。皇族でありながら、海軍の軍人として、戦の実情を誰よりもご存じのお方でした。一介の陸軍大佐がその御前に進むのは、松谷君の生涯で初めてのことでした。


 軍服に勲章をつけた最高の正装のまま、松谷君は殿下の御前に進みました。そして翌八日、かつての部下たちに見送られ、南京へ発っていった。その二日のことは、また別の話でございます。


【執筆者補記】


 ■ 史実と創作の区別


 【史実に基づく部分】


 松谷誠が、昭和十九年七月三日付の支那派遣軍参謀への発令に伴い、七月四日に重光葵外務大臣・加瀬俊一秘書官・松平康昌内大臣秘書官長に離別の挨拶をしたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。


 松谷が、別れの挨拶を、勲章をつけた正装で行ったこと(加瀬俊一の回想)。



 松谷が七月八日に南京へ向け出発したこと(『機密戦争日誌』)。


 重光葵・加瀬俊一・松平康昌が、いずれも早期和平を志す中核であり、のちに高木惣吉を加えた連携(いわゆる終戦四人組)に連なっていくこと。ただし松谷と高木が実際に会うのは翌昭和二十年一月で、松平の斡旋によること。松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、加瀬俊一『加瀬俊一回想録下』


 【創作部分】


 築地の料亭・増田の離れという場所、行燈・徳利・猪口の情景、登場人物の所作や台詞の細部は創作です。松谷が四日に三人へ挨拶したことは史実ですが、四人が一堂に会する送別の宴が増田で開かれたという記録はありません。高木惣吉が矢部貞治ら学者・民間有識者を集めて料亭で会合いわゆるブレーントラストを重ねていたことは史実ですが、その拠点を築地の増田と特定し、本話の松谷の送別の席に充てたのは創作です。女将が海軍の客や大学の先生を語る場面、松平が高木からこの店を教わったとする経緯も創作で、史実において高木・松平が増田を介して結びついた事実を示す史料はありません。


 松平康昌が宮中の立場をおして料亭に駆けつける、という『仕掛け』は創作です。


 重光が空の猪口を海軍の同志の代わりに取って乾杯する、という演出は創作です。本話では、史実(高木との初対面は翌年一月)に配慮し、この席では高木惣吉の名を出さず、『まだ見ぬ海軍の中核の人物』として象徴的に示すに留めました。四人目を高木と名指しするのは、初対面の場面(昭和二十年一月)まで温存しています。


 松平が松谷に手渡す『連絡の手立て(封筒)』、および暗号(梅雨は明けたか=戦況/夏は来たか=和平の機)は創作です。和平派が地名・季節・人物名に暗号を仕込んで連絡を取り合っていたこと自体は、当時の実態に即した演出です。


 高松宮宣仁親王が松谷に会うことを望み、松平が出発前日(七月七日)の目通りを手配する、という展開は創作です。松谷が七月七日に高松宮と面会したこと自体は史実で、『高松宮日記』七月七日の項に『一〇〇〇松谷大佐』『松谷大佐ニキク(戦争終末ニ対スル工作ガドウナツテヰルカ)』とあります。ただし、この面会を松平が斡旋したという記録はなく、本作の創作です。松平が職務上しばしば高松宮に接していたこと、当時陸軍軍人が高松宮と会うのは珍しく予定として組まれていたことから、松平の差配と推定して描きました。なお面会の場所は、高松宮が当日朝に軍令部へ出勤していること、高輪の宮邸へ一度戻るのは考えにくいことから、軍令部の高松宮専用の部屋と推定しました(次話で描きます)。


【人物紹介】


 ■ 重光 葵(しげみつ まもる、1887-1957)


 外務大臣(本話時、東條内閣)。大分県出身、東京帝大法学部卒。昭和七年の上海天長節爆弾事件で右脚を失う。駐ソ・駐英・駐華の大使を歴任し、昭和十八年四月に東條内閣の外相に就任、小磯・鈴木両内閣でも留任。本話では、築地の料亭・増田の離れで松谷との別れを果たし、『唯一の真の男』と讃える。畑元帥への伝言『重光が、後日、必ず和平の機を作る』を松谷に託し、まだ見ぬ海軍の同志のために空の猪口を取って乾杯する。戦後、東京湾の戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署名。A級戦犯として禁錮七年、のち仮釈放。のちに鳩山内閣の副総理兼外相として、日本の国連加盟を実現させた。


 ■ 加瀬 俊一(かせ としかず、1903-2004)


 外務省欧亜局第一課長兼外相秘書官(本話時)。本話の前書きの語り手。重光大臣と並んで料亭の離れで松谷との別れを共にし、松平を呼ぶ『仕掛け』を企てる。富山県出身、英米通の俊敏な外交官で、松谷の盟友。のち初代国連大使。


 ■ 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893-1957)


 侯爵、内大臣秘書官長(本話時)。本話の後書きの語り手。松平春嶽の孫。本話では、宮中の立場をおして料亭の離れに駆けつける友情の人として描かれる。松谷に連絡の手立てを託し、海軍の同志との将来の連携を示唆し、さらに高松宮殿下との目通りを準備する。木戸内大臣の女房役として、のちの四人組の連携の要となる。


 ■ 畑 俊六(はた しゅんろく、1879-1962)


 陸軍元帥、支那派遣軍総司令官。本話では言及のみ。松谷が赴任する南京の総司令官で、かつて松谷を幕僚として重用した。重光が駐華大使の頃に連携した相手でもあり、重光が『重光が必ず和平の機を作る』との伝言を、松谷を通じて畑に託す。


 ■ 高松宮 宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905-1987)


 皇族、海軍大佐(本話時、軍令部作戦課に在勤)。大正天皇第三皇子、昭和天皇の弟宮。海軍兵学校五十二期。皇族でありながら、海軍の軍人として作戦の実情に通じ、早期和平を願う立場にあった。本話では言及のみで、松谷が南京へ発つ前日(七月七日)に軍令部で対面することが予告される。


【用語集】


 ■ 空の猪口からのちょこ


 本話の眼目となる演出。築地の料亭・増田の離れで、松谷・重光・加瀬・松平の四人が結束を誓う席に、もう一つ、空の猪口が置かれる。まだ顔を合わせていない海軍の同志のための席であり、重光がその代わりに猪口を取って乾杯する。四人目が誰であるかは、本話ではあえて伏せられている。


 ■ 築地・増田つきじ・ますだ


 本話の舞台となる、築地の料亭。戦時下、和平派は外務省の執務室で公然と会えば、東京憲兵隊長・四方諒二の手の者にただちに報告される恐れがあったため、人目を避けて、口の堅いこの店の離れに集まった、という設定。海軍の高木惣吉が学者や民間有識者を集めて会合を重ねた拠点として本作で設定した店で、松谷の送別の席を高木と縁の深い場所に置くことで、まだ顔を合わせぬ二人の近さとすれ違いを描いている。


 ■ 勲章をつけた正装くんしょうをつけたせいそう


 加瀬俊一の回想に記された、七月四日の松谷の出で立ち。離別の挨拶を、敗北者としてではなく、武人としての出発の姿で行ったことを示す、本話の象徴的な描写。


 ■ 暗号通信あんごうつうしん


 戦時下の和平派が、憲兵の検閲を避けるために用いた、暗号化された連絡。本話で松平が示す『梅雨は明けたか』(戦況のこと)、『夏は来たか』(和平の機のこと)は本作の創作的演出だが、和平派が地名・季節・人物名などに暗号を仕込んで連絡を取り合っていたこと自体は、当時の実態に即している。


例えば加瀬俊一は、1945年8月、疎開先の軽井沢にいる妻・壽満子との間で、国家の最高機密を伝えるための電報用の隠語を用いていた。 当時の電報は厳しい検閲の対象となっていたため、家族間の私信を装って重大な政治的決定を伝達していた。

「検閲がきびしくなって、平文電報を打ちにくくなったので、俊ちゃま(注:加瀬俊一のこと)と隠語を作った。①軽井沢に異変がおこったときは『乃木戦死ス』、②近衛特使の訪ソ決定の際は『縁談キマッタ』などである。」(加瀬俊一『慕情やみがたく』より抜粋)


 ■ 灯火管制とうかかんせい


 空襲を避けるため、夜間の灯火を遮蔽する戦時下の措置。本話で料亭の窓が遮蔽され、行燈の灯がひとつだけ離れの中を照らしているのは、この灯火管制下の状況による。


【参考文献】


 ■ 一次史料・回想録


 松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


 重光葵『昭和の動乱』中央公論社、1952年


 種村佐孝『大本営機密日誌』ダイヤモンド社、1952年


 高木惣吉『高木惣吉 日記と情報下』みすず書房、2000年


 加瀬俊一『慕情やみがたく』文化出版局、1983年


 加瀬俊一『加瀬俊一回想録下』山手書房、1983年


■ 二次史料・研究


 山本智之『主戦か講和か――帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年


 吉見直人『終戦史――なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年


(注)本話の会話・心理・情景は当方の創作です。松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』ほかの史料に残る事実の趣旨は保持しつつ、本作の文体に直しました。四人目の海軍の同志を本話で名指ししないのは、史実(初対面は翌年一月)への配慮による構成です。



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