表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第6章 東條直訴と左遷(昭和19(1944)年6月22日~)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/69

第60話「後宮参謀次長の説得――陸士同期の桜」

◆ 前書き 後宮 淳(うしろく じゅん、陸軍大将・参謀本部高級次長)


 わしは後宮淳。参謀本部の高級次長を務めた身だ。


 戦後、松谷君の左遷について語られるとき、わしの名はしばしば、温情の人として扱われた。だがそれは、買い被りだ。わしは特別なことは何もしておらん。


 ただ、四年前の南京を思い出していただけだ。長江の畔、総司令部の窓辺で、わしはひとりの参謀の青年に目を細めていた。


 松谷誠少佐。頭が切れ、物事を冷静に見る。わしには珍しいほどの、英米通の若者だった。


 その青年が四年後、わしの上司である東條に直訴して、危うく激戦地へ放り出されかけた。わしには、それが見過ごせなかった。


 三日のあいだ、わしは東條と論じた。陸士同期の縁を頼りに、頭も下げた。


 そしてわしの胸の奥には、もうひとりの将軍の顔があった。


 第六十話。ひとりの幕僚の運命をめぐる、陸士同期の二人の大将の、机を挟んだ三日間の話だ。



【本文】


一 呼び出し


 昭和十九年六月二十九日の昼前。松谷君が大臣室を退出した、その直後だった。


 東條閣下の秘書官、赤松貞雄大佐が、わしの部屋を訪ねてきた。


「後宮閣下。総理閣下より、お話があるとのことです」


「うむ。何の話だ」


 赤松大佐はわずかに目を伏せ、低く言った。


「松谷誠大佐の処遇について」


 わしはしばし黙った。


(来たか)


 松谷君が今朝、東條に直訴したことは、すでにわしの耳にも入っていた。敗戦必至、妥協和平を策すべし――そう申し上げたという。


 あの東條が、それを黙って聞いて済ますはずがない。


「処遇の中身は」


 赤松大佐はまた、目を伏せた。


「南方の、いずれかの第一線への転出と」


 わしは息を呑んだ。


(塚本と、同じか)


 塚本清彦少佐。十一日前、東條に直訴してサイパンへ送られた男だ。いまごろ、あの島で死闘の中にいるだろう。


 東條は、松谷君を、同じ目に遭わせようとしている。


「赤松、わかった。すぐ参る」


 わしは立ち上がり、軍服の襟を正した。


(東條。いまからわしは、お前の前で頭を下げることになる。南京で、わしが使った参謀の命乞いをな)


二 六月二十九日・第一回


 大臣室の扉を叩いた。


「後宮、参ったか」


 東條の声は、いつもより低かった。


 わしは扉を開け、室に入った。机の向こうの東條は、顔色が悪かった。頬がこけ、目の下の隈が深い。だが目の奥には、燃えるような火が宿っていた。


 わしは机の前に立った。


 形のうえでは、参謀総長と参謀次長。上司と部下だ。だが二人きりのときは、わしは東條をこう呼んだ。東條も、わしを後宮と呼んだ。陸士十七期、同期の縁だ。貴様と俺とは同期の桜、というやつだ。


「東條。松谷誠の件か」


 東條は、机の上で両手を組んだ。


「今朝、あの男がここへ来た。わしの御前で、わが方の負けだと抜かしおった。妥協和平を策すべし、とな」


「聞いた」


「あの男を、第一線へ出す。塚本と同じだ」


 わしは息を呑んだ。やはり、そう来たか。


「塚本は、十一日前にサイパンへ送った。わしの御前で敗北を口にした者は捨ておけぬ。松谷も、同じ罪状である」


「東條。それは、待て」


 わしは声を抑えて言った。


「松谷を激戦地に出すのは、いかがなものか。あの男は、戦争指導班長だ」


「だからこそだ。指導の中枢にある者が負けを口にすれば、軍全体に響く」


「いや、逆だ。戦争指導班長である以上、戦争終結のあらゆる可能性を研究するのは、ある意味で当然ではないか」


 東條の眉が、わずかに動いた。


「その結論が間違っていようとも、だ。気に入らぬなら、班長の職を解けば足りる。それを、懲罰として国外の死地に放り出すような真似は――他への影響もある。いかがなものか」


 東條は、目を伏せた。机の上の一枚の紙に、視線を落とした。憲兵隊の、内偵報告書のようだった。


「松谷は、前夜、宮中の松平を訪ねておる。宮中と通じて、わしの足を引く気だ」


「戦況を伝えたのだろう。それも、戦争指導班長の務めのうちだ」


 わしは引かなかった。だが今日のところは、東條の腹を確かめるのが先だ。ここで真っ向からぶつかっても、この男は意地になるだけだ。


「東條。この件、わしにしばし考えさせてくれ。処遇は明日、また論じよう」


 東條はしばし黙った。


「……よかろう。明日だ」


 わしは頭を下げ、退出した。第一日は、それで終わった。東條の腹は、固い。だが、付け入る隙がないわけではない。わしは、そう見た。


三 六月三十日・第二回


 翌、六月三十日の午後。わしは改めて、大臣室で東條と向き合った。


 一夜、わしは考えた。東條の腹は、綱紀だ。総長の御前で負けを口にした者を、易々と古巣へ逃がせば示しがつかぬ――それが、あの男の理屈だ。ならば、こちらは別の筋で攻めるしかない。


「東條。昨日の続きだ。松谷を、激戦地に送ってはならん」


 東條はわずかに目を細めた。


「後宮。貴公は、まだ言うか」


「言う。あの男を、塚本のような目に遭わせてはならん」


「ほう」


 東條の声に、苛立ちが滲んだ。


「綱紀の問題だ、と昨日も申した。総長の御前で負けを口にする幕僚を咎めずに済ませてみろ。第二、第三の松谷が出る」


「咎めるなと言うておらん。職を解けば足りる、と申しておる。研究するのが職務の者を、研究したという理由で死地へ送るのは筋が通らん」


 わしは、声を強めた。


「東條。あの男を、古巣へ戻せ。支那派遣軍の参謀にだ。南京なら、あの男の働き場所もある」


「支那派遣軍、だと」


「ちょうど、辻政信が支那から他へ移ることになっておる。その後任に、松谷を充てればよい。もっともらしい理由も立つ」


 東條は目を伏せた。長い沈黙だった。


「後宮。古巣へ戻すなど、甘い。あの男は、第一線だ」


「東條――」


「この話は、平行線だな」


「うむ。明日、また論じよう」


 わしは頭を下げ、退出した。第二日も、譲り合わなかった。だが、引くわけにはいかぬ。明日は、あの手を使う。本当は、使いたくない手を。


四 七月一日・畑の名


 七月一日の午後。わしは三たび、大臣室を訪ねた。東條の顔色は、昨日よりさらに悪い。


「東條。昨日の件、考えてくれたか」


「考えた。だが、わしの腹は変わらん。あの男は、第一線へ出す」


「東條――」


「後宮。これは綱紀の問題だ。総長の御前で負けを口にする幕僚を、易々と古巣へ逃がしてみろ。第二、第三の松谷が出る」


 東條の声は、頑なだった。サイパンの重圧で、いよいよ追い詰められているのが、わしにもわかった。追い詰められた人間ほど、譲らぬ。


 わしは深く息を吸った。本当は、この手は使いたくなかった。だが、ほかに東條を動かす道がない。


「東條。一つ申しておく。松谷誠という男を、誰がどう使ってきたか」


「何が言いたい」


「あの男は、畑元帥閣下の、幕僚だった」


 東條の目が、わずかに見開かれた。


(動いたな)


 畑俊六元帥。支那派遣軍総司令官。わしらの陸士五期上、杉山元元帥のご同期だ。そして、ひと月前――六月二日に元帥府に列せられたばかりの、陸軍の重鎮。


 何より、東條の前の陸軍大臣、その人だ。東條は陸軍大将。畑元帥閣下は、その一段上におられる。陸軍に元帥は、数えるほどしかおらん。その一人が、松谷を可愛がっておられた。


 そして、これは東條も知らぬことだが――畑元帥閣下が支那派遣軍総司令官であった頃、わし自身も、その下で総参謀長を務めていた。松谷を幕僚として使ったのは畑元帥閣下であり、その総参謀長であった、わしだ。


「畑元帥閣下は、支那派遣軍総司令官として、松谷を直々に幕僚として使ってこられた。わしも、その下で総参謀長として、あの男を使った。それも、ただ使ったのではない」


 わしは、机の上に両手を組んだ。


「昭和十六年七月、関特演のときだ。陸軍中央が、独ソ戦に乗じて対ソ戦を起こそうと、満州に兵を集めた。あのとき、まず日中の戦を片づけるのが先だ、対ソ戦は止めよ――そう具申する使者として、畑元帥閣下は松谷を東京へ急派された。わしは総参謀長として、そのそばで一部始終を見ておった」


 東條の眉が動いた。


「その秋には、対米英戦に反対する具申のためにも、松谷を上京させた。これも、畑元帥閣下と、総参謀長たるわしの、二人の推挙によるものだ。畑元帥閣下は――いや、わしも、あの男を、戦を止める使者として最も信頼しておった」


 言いながら、わしは思い出していた。あのころ、わし自身、日米の戦は避けねばならぬと考えていた。米国が言う中国からの撤兵という条件さえ、この際呑んでも大した問題ではない――そう意見を述べたこともある。陸軍中央には、一顧だにされなかったがな。


 松谷を使者に立てたのは、あの男が、わしらの考えを正しく伝えられる数少ない幕僚だったからだ。


 東條は目を机の上に落とした。しばし、黙った。


「東條。畑元帥閣下の愛弟子を、南方の島へ送って玉砕させれば――元帥が、何と思われるか」


「……」


「畑元帥閣下は、陛下のご信任も厚い。元帥ともなれば、内閣を通さず、じかに陛下へ上奏することもできる。いずれ宮中にも、お声が届くであろう」


 東條は深く息を吐いた。


「後宮。貴公は、わしを脅すのか」


「いや。事実を申しておる」


 わしは低く返した。


「貴公の懲罰の精度を、高めようとしておるだけだ。元帥の愛弟子に手をかけて、火の粉が貴公に降りかからぬよう、な」


五 なお、平行線


 部屋に長い沈黙が落ちた。


 わしは、東條の頭の中が読めた。いま、あの男の頭には、畑元帥閣下の顔があるはずだ。


 陸士五期上の大先輩。前任の陸軍大臣。陸軍内で、あれほどの格式と人望を兼ね備えた人は、ほかにおらん。東條にとっては終始、目の上のたんこぶだった。


 その畑元帥閣下の愛弟子を、玉砕の島へ送る。もし畑元帥閣下が元帥の立場でじかに陛下へ上奏すれば、東條の足元は危うくなる。


 やがて東條は、口を開いた。


「後宮。畑元帥閣下のことは、わかった。だが、第一線という線は、譲れん」


「ほう」


「支那でよい。支那でよいが、軍の最前線、敵と接する地に置け。それが、わしの最後の譲歩だ」


 わしは首を振った。


「東條。それは矛盾しておる」


「何が矛盾か」


「畑元帥閣下のお膝下に置きながら、わざわざ敵と接する地へ送れば――貴公の懲罰の意図が、あからさまになる。畑元帥閣下は、すぐに見抜かれる。それでは、火の粉を避けるどころか、自分から畑元帥閣下を怒らせにいくようなものだ」


 東條は眉をひそめた。


「松谷は、南京の総司令部に置け。辻政信の後任、政務の参謀としてだ。それなら、誰の目にも、ただの後任人事に映る」


 東條はまた黙った。


「後宮。今日も、平行線だな」


「うむ。明日、また論じよう」


 わしは頭を下げ、退出した。二日続けて、平行線だった。だが、手応えはあった。畑元帥閣下の名は、確かに東條をぐらつかせていた。


六 七月二日・折れる


 七月二日の午後。わしは四たび、大臣室を訪ねた。


 東條は、机の上で両手を組み、しばらく何も言わなかった。やがて、低く口を開いた。


「後宮。昨夜、もう一度、考えた」


「なぜ、貴公は、ここまで松谷を庇う」


「南京で、わしが使った参謀だからだ」


「それだけか」


「それだけだ」


 わしは深く頷いた。


「東條。貴公にも、貴公が南京で使った参謀が、おるだろう。その者が四年後、貴公の知らぬところで玉砕の島へ送られそうになったら――貴公は、黙っておられるか」


 東條は目を伏せた。長い、長い沈黙だった。


 やがて、ゆっくりと目を上げた。


「後宮。わかった」


 わしは息を呑んだ。


「松谷を、支那派遣軍の参謀に転出させる。辻政信の後任、南京の総司令部だ」


 わしは深く深く、頭を下げた。


「ありがとう。恩に着る」


 東條は、ふいと窓の方へ目をやった。その横顔に、わしは、ひとりの追い詰められた男の疲れの底を見た。


 あの男も、好きで譲ったのではあるまい。畑という名の重みに、譲らされたのだ。だが、譲ったことに変わりはない。松谷君は、生き延びる。


七 廊下にて


 大臣室を辞し、廊下に出た。軍靴の音が、いつもよりわずかに重く響いた。夏の光が、廊下の窓越しに白く射し込んでいた。


 わしはふと、廊下の途中で立ち止まった。


(東條)


 心の中で、もう一度、同期の名を呼んだ。


(貴公は、わしの説得を呑んだ。畑元帥閣下の名を聞いた瞬間、貴公の顔の筋肉が、わずかに引き攣ったのを、わしは確かに見た。陸軍最高位の元帥の名が、貴公をもぐらつかせたのだ)


 わしは、深く息を吐いた。


(松谷誠)


 次に、弟子の名を呼んだ。


(お前は、生き延びた。畑元帥閣下のお膝下に戻る。南京の城壁の苔の匂いと、長江の濁った流れの傍らで、お前はもう一度、戦争指導の研究を続けられる)


(東條の懲罰の手は、ここで止まった。あとは、お前自身が、どう生きるかだ)


 窓越しに、市ヶ谷台の、梅雨明け間近の空が見えた。雲は薄く、夏の光が強くなりつつあった。


 わしは襟をもう一度整え、ゆっくりと廊下を歩き出した。


八 一本の電話


 部屋に戻り、わしは机の上の電話を取った。


「医務局長、神林君を頼む」


 しばし待つと、回線の向こうから神林浩医務局長の声が聞こえた。陸軍の軍医の頂点、内科の権威だ。


「後宮閣下。いかがなさいました」


「神林君。頼みがある。近いうちに、松谷誠大佐が、貴官のところへ健康診断を受けに行く」


「松谷大佐、ですか」


「うむ。貴官は、南京駐在の頃、あの男と縁があったはずだ。軍医部長として、な」


「左様です。よく存じております」


「松谷を、これから外地へやる。外地勤務に耐える身体かどうか、貴官の目で、じっくり診てやってくれ」


 わしは、ひと呼吸おいて、続けた。


「もし――どこか一つでも、外地勤務に障りのある所が見つかれば、その旨、はっきりと所見に書いてくれ。そのときは、外地行きそのものを、見合わせる」


 回線の向こうが、しばし静かになった。


 神林君は内科の権威だ。あの男なら、わしがいま何を言っているか、わかる。


 軍医が外地勤務に耐えぬと所見を出せば、その人事は止まる。前にも、例があった。ある海軍の将官が、外地の艦隊へ出る話が、健康診断の結果で覆り、内地の勤務に変わった。医者の一筆は、参謀総長の腹より重いことがある。


 つまり、こういうことだ。松谷の身体に、わずかでも瑕があれば――わしは、それを口実に、あの男を外地へやらずに済む。激戦地はもとより、南京すら行かせずに済む。内地に留めおける。


 わしが、わざわざ神林君に頼んだのには、もう一つ訳がある。


 そんじょそこらの軍医に診させたのでは、駄目なのだ。仮に異状ありと出ても、東條ほどの権力者がその気になれば、一介の軍医の所見など、いくらでも握り潰せる。診断を出した軍医を別の任地へ飛ばすことすら、できる。それでは、せっかくの逃げ道が塞がれてしまう。


 だが、神林君は違う。陸軍省医務局長――陸軍の軍医の頂点だ。その上、内科の権威として、軍の内外に名が通っている。役職の権威と、学識の権威。その二つが、重なっておる。


 いかな東條とて、軍医の頂点であり内科の権威でもある男が、ありのままに書いた所見を易々と曲げることはできぬ。曲げれば、医務局長の面目を潰すことになり、軍医団がどう動くかわからん。あの男は、権威に弱い。元帥の名に怯むのと、同じだ。だからこそ、権威を二重に重ねた。


 東條を説き伏せて南京までは引き戻した。だが、もし神林君の診断で何か出れば、それより先、東京に留める道さえ開ける。わしは最後の最後まで、逃げ道を一つ残しておきたかった。


 それを口には出さぬ。出せば、東條への背信になる。だから、ただじっくり診てくれ、とだけ言う。


「……承知いたしました」


 神林君の声は低く、静かだった。


「外地勤務に耐えるか否か、この目で、じっくりと診させていただきます。所見は、ありのままに」


 わしは深く頷いた。あの男は、わかっている。


「神林君。恩に着る」


「閣下。お気遣い、しかと、承りました」


 わしは受話器を置いた。


(松谷君。お前の身体に、もしどこか障りがあれば、お前は東京に残る。それはそれで、一つの道だ。だが――お前のことだ。どうせ、どこも悪くないのだろう)


 わしは苦笑した。あの男の身体は頑健だ。おそらく、何も出まい。そして松谷は、何の障りもないと聞かされて、勇んで南京へ発つのだろう。それでいい。逃げ道は、使われぬまま閉じればいい。


 大事なのは、わしが、その逃げ道を用意したという一事だ。陸軍中央が、最後にあの男にしてやれることだった。


 夏の朝の光が、机の上に、ゆっくりと差し込んでいた。



◆ 後書き 後宮 淳(晩年の回想)


 松谷君は、戦後、わしのことを温情の人と書いてくれた。古巣へ帰してもらって感謝した、とな。


 だが、何度でも言う。わしは特別なことは、何もしておらん。


 ただ、四年前の南京で、わしの下で働いた青年が、玉砕の島へ送られかけた。それを、見過ごせなかった。それだけだ。


 畑元帥閣下の名を持ち出したのは、正直に言えば、苦肉の策だった。あの名がなければ、東條は決して折れなかったろう。だが、畑元帥閣下が松谷君を可愛がっておられたのは、嘘ではない。わしは、本当のことを使っただけだ。


 松谷君は、七月、南京へ発った。畑元帥閣下のお膝下で、もう一度、戦争指導の研究を続けた。そして翌年、東京に呼び戻され、終戦の工作に、その身を捧げることになる。


 あのとき、あの男を死地へやっていたら――この国の終戦は、また違うものになっていたかもしれぬ。それを思うと、わしは、あの三日間の論議だけは、間違っていなかったと、いまでも思う。


 次回。松谷君の机の上に、ついに、転任の辞令が置かれる。


 南京へ発つ前に、あの男は、最後に会っておかねばならぬ人々のもとを、巡ることになる。


【次回予告】


 昭和十九年七月三日。松谷のもとに、ついに転任の辞令が下る。支那派遣軍参謀、南京へ。


 翌四日、松谷は勲章をつけた正装で、別れの挨拶に回る。松平、重光、そして加瀬。涙で送り出そうとした盟友との、再会の約束。


 だが松谷は、すぐには発たなかった。出発は、七月八日。


 その日の朝、松谷は最後にもうひとり、訪ねる人がいた。高松宮宣仁親王。


 終戦工作のすべてを、宮にお託しして――松谷は、都を発つ。


 次回、第六十一話「都を発つ」。命を懸けて蒔いた和平の種を同志たちに託し、ひとりの幕僚が、中央を去る。


【執筆者補記】

 ■ 史実と創作の区別


 【史実に基づく部分】


 松谷誠の処遇をめぐり、参謀総長(東條)と高級次長(後宮)の間で、約三日間にわたって論議が行われたこと。後宮淳の厚意により、松谷が最前線への放逐を免れたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。


 後宮が『戦争指導班長である以上、彼が戦争終結のあらゆる可能性を研究するのは、ある意味で当然ではないか。その結論が間違っていようとも、班長の職を更迭すれば足りるのであって、懲罰的に国外追放のようなことをするのは、他への影響もあるし、いかがなものか』という趣旨で東條をいさめたこと(吉松安弘『東條英機暗殺の夏』)。


 松谷が、辻政信大佐の後任として支那派遣軍参謀(政務参謀)に転出したこと。辻政信がこの七月の異動で支那派遣軍からビルマ方面(第三十三軍)へ転じたこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』『私の終戦メモ』、『高木惣吉 日記と情報』の注記)。


 後宮淳が東條英機と陸士十七期の同期であったこと。後宮が昭和十六年七月から十七年八月まで、畑俊六大将(当時)が総司令官を務める支那派遣軍の総参謀長を務め、その下で松谷を参謀として使ったこと。後宮が開戦前に日米戦争の回避を願い、米国の求める中国撤兵の条件も呑むべきだとの意見を述べたが、陸軍中央に無視されたこと(後宮の経歴・所説)。


 畑俊六が支那派遣軍総司令官として松谷を直々に幕僚として用い、深く信頼していたこと。昭和十六年七月の関東軍特種演習に際し対ソ戦発動を阻止する使者として、また対米英戦反対の具申のために、松谷を参謀本部へ急派・上京させたこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』)。この時期、後宮が同軍の総参謀長として畑を補佐していたこと。畑が昭和十九年六月二日に元帥府に列せられたこと、東條の前任の陸軍大臣であったこと。


 後宮の高配により、松谷が神林浩陸軍省医務局長(内科の権威、松谷の支那派遣軍勤務時期の軍医部長)の健康診断を受け、身体に異状のないことを確認して再び中国に渡ったこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』『私の終戦メモ』)。


 【創作部分】


 後宮の一人称の語り、三日間の会談の日付ごとの配分、東條との具体的なやりとり、室内の情景や所作は創作です。史実が伝えるのは『約三日間の論議の末、後宮の厚意で最前線を免れ、辻政信の後任として南京へ』という結果と、後宮の発言の趣旨までで、会談の細部は残っていません。


 後宮が畑俊六の名を交渉の切り札として持ち出す、という展開は創作です。畑が松谷を重用していたことは史実ですが、後宮が畑の名や帷幄上奏をちらつかせて東條を動かした、という事実関係を示す史料はありません。あくまで、史実の要素(畑の松谷重用、後宮自身も同軍の総参謀長であったこと、畑の元帥列・前陸相という格、後宮の説得)を組み合わせた、物語上の演出です。対米英戦反対の具申の使者の起用を『畑と後宮の二人の推挙による』とした点も、両者がともに開戦回避を願っていた史実を踏まえた創作です。


 神林浩への電話のやりとり、神林が後宮の意図を察する描写は創作です。後宮が一介の軍医ではなく陸軍省医務局長(軍医の頂点・内科の権威)に頼んだのは、東條ほどの権力者でも、役職と学識の二重の権威を備えた者の所見は曲げにくい、という計算による、という解釈も創作です。健康診断が行われたこと、神林がその局長・内科の権威であったことは史実です。


 東條の内心や疲弊の描写は、サイパン放棄前後に東條が追い詰められていたという状況を踏まえた創作です。


【人物紹介】


 ■ 後宮 淳(うしろく じゅん、1884-1973)


 陸軍大将。本話の語り手。参謀本部高級次長。京都府出身、陸士十七期で東條と同期。昭和十六年七月から十七年八月まで、畑俊六大将(当時)が総司令官を務める支那派遣軍の総参謀長を務め、その下で松谷を幕僚として使った(その後も後任として南京に在勤)。開戦前には日米戦争の回避を願い、米国が求める中国撤兵の条件も呑むべきだとの意見を述べたが、陸軍中央に無視された経緯を持つ。本話では、東條との三日間のとりなしで、松谷を激戦地への放逐から救う。陸士同期の縁を頼り、畑元帥の名を切り札に、最後は東條自身の情に訴えて折れさせる。さらに神林医務局長に健診を手配する、細やかな温情を示す。


 ■ 東條 英機(とうじょう ひでき、1884-1948)


 陸軍大将。内閣総理大臣兼陸軍大臣兼軍需大臣兼参謀総長。陸士十七期で後宮と同期。本話では、当初は塚本同様に松谷を激戦地送りにしようとするが、後宮の三日間のとりなしと畑俊六の名の重みに譲り、最終的に古巣の南京へ転出させる。サイパン放棄の重圧に追い詰められた為政者として描かれる。


 ■ 畑 俊六(はた しゅんろく、1879-1962)


 陸軍元帥、支那派遣軍総司令官。本話で後宮が東條を動かす切り札として、その名が登場する(畑本人は登場しない)。会津若松出身、陸士十二期で杉山元元帥と同期、東條の五期上。昭和十九年六月二日に元帥府に列せられた、東條の前任の陸軍大臣。支那派遣軍総司令官として松谷を幕僚に用い、関特演阻止・対米英戦反対の使者として重用した。この時期、後宮淳が同軍の総参謀長として畑を補佐しており、松谷の起用も畑と後宮の連携によるものであった。のち第二総軍司令官として広島で被爆。戦後、終身刑、のち仮釈放。


 ■ 神林 浩(かんばやし ひろし、1888-1955)


 陸軍中将、陸軍省医務局長。内科の権威。本話の終盤、後宮からの一本の電話で、松谷の南京赴任前の健康診断を依頼される。松谷が支那派遣軍参謀を務めた頃(昭和十五年〜十七年頃)、同軍の軍医部長として南京に在り、その時期に松谷と縁があった旧知の仲。良識ある軍医として、後宮の意図を黙って汲む。


 ■ 辻 政信(つじ まさのぶ、1902-1968?)


 陸軍大佐。本話では言及のみ(不在)。陸士三十六期・陸大恩賜の超エリートで『作戦の神様』と称される一方、独断専行で知られた毀誉褒貶の激しい人物。本話の時点で支那派遣軍の政務参謀として南京に在ったが、対支政策の過激さが問題視され転出が決まっていた。その後任に松谷が充てられた。この異動でビルマ方面(第三十三軍)へ転じる。


 ■ 塚本 清彦(つかもと きよひこ、生年不詳-1944)


 陸軍少佐。本話では言及のみ。六月十一日ごろ東條に近衛入閣を直訴して『帰ってよし』と一喝され、六月十四日に第三十一軍参謀へ補職、グアムへ送られ、八月のグアム玉砕に殉じた。本話では、東條が当初『松谷も塚本と同じ』と最前線送りを考えた、その生々しい先例として置かれる。


 ■ 松谷 誠(まつたに せい、1903-2000)


 陸軍大佐。参謀本部戦争指導班長。本作の主人公。本話では本人は登場せず、その運命が大臣室の中で決まっていく。後宮の働きにより、最前線ではなく古巣の南京へ転出することになる。


【用語集】


 ■ 同期のどうきのさくら


 陸軍士官学校で同じ期に入校・卒業した者同士の、生涯にわたる強い人的紐帯。階級や立場が違っても、二人きりのときは『貴様』『俺』で呼び合う独特の文化があった。後宮淳と東條英機は陸士十七期の同期で、本来は後宮が下位だが、二人きりの場では遠慮なく直言し合った。本話では、この同期の縁が、松谷の運命を救う鍵となる。


 ■ 元帥げんすい


 陸海軍大将のうち、特に功績顕著な者に与えられる称号。軍人の頂点で、生涯現役の武官として扱われ、軍部内で絶対的な長老とされた。本話の畑俊六は昭和十九年六月二日に元帥府に列せられたばかりで、その格式が、東條を動かす重みとなる。


 ■ 帷幄上奏いあくじょうそう


 軍の長などが、内閣を経由せず、じかに天皇へ上奏できること。明治憲法下の制度で、参謀総長・軍令部総長のほか、元帥府に列せられた元帥もこの権を有した。本話で後宮が『元帥は、じかに陛下に上奏することもできる』と暗に告げるのは、これを踏まえている。


 ■ 政務参謀せいむさんぼう


 派遣軍の総司令部で、占領地行政や対外政策など政務に関わる事項を担当する参謀。本話の時点で支那派遣軍の政務参謀は辻政信で、その対支政策の過激さが問題視され転出が決まっていた。松谷はこの後任として南京に赴任する。


 ■ 関特演かんとくえん


 関東軍特種演習の略。昭和十六年七月、独ソ戦の勃発を受け、陸軍中央が対ソ戦を企図して満州に大兵力を集結させた動員。日中戦争の解決を優先すべきと考える畑俊六支那派遣軍総司令官は、対ソ戦発動を止める使者として松谷を参謀本部へ急派した。当時、後宮淳が同軍の総参謀長として畑のそばにあり、この動きを間近で見ていた。本話で、畑と後宮が松谷を重用した証として語られる。


【参考文献】


 ■ 一次史料・回想録


 松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


 高木惣吉『高木惣吉 日記と情報』みすず書房、2000年


 ■ 二次史料・研究


 吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社、1989年


 防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 支那事変陸軍作戦』朝雲新聞社


(注)本話の会話・心理・情景は当方の創作です。とくに後宮が畑俊六の名を交渉に用いる展開は創作です。松谷『大東亜戦争収拾の真相』ほかの史料に残る事実・発言の趣旨は保持しつつ、本作の文体に直しました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ