第59話「東條英機 内閣総理大臣兼参謀総長兼陸軍大臣兼軍需大臣」
◆ 前書き 松平 康昌(まつだいら やすまさ、内大臣秘書官長)
あの日のことを、わたくしは生涯忘れません。
昭和十九年六月二十九日の朝。市ヶ谷の陸軍省大臣室で、松谷大佐が東條閣下の御前に進まれた、その朝のことです。
わたくしは千駄ヶ谷の邸で、ひとり坐っていました。時計の針を、何度も見上げました。いま、扉を叩いておられる。いま、申し上げておられる。いま、退出なさる――。
わたくしの想像は、まるでその場を見ているように鮮明でした。
ですが、わたくしは知りませんでした。同じ朝、東條閣下の机の上には、もう一枚の紙が置かれていたのです。
東京憲兵隊長、四方諒二の内偵報告書。松谷大佐が、前夜わたくしの邸を訪ねた、という一行。
その紙が、松谷大佐の運命を、決めることになりました。
第五十九話。陸軍の中枢で、たったひとりの幕僚が、最高権力者の御前で、負けという二文字を告げた朝の話でございます。
【本文】
一 行ってくる
昭和十九年六月二十九日、午前八時。
俺は市ヶ谷台、戦争指導班室の自席に坐っていた。軍服の襟を整え、軍靴を確かめ、軍刀を腰に佩いた。
内ポケットには、左に拳銃、右に二つに折った覚書「将来ノ戦争指導方針」。心臓のすぐ脇に、二つの硬い物が並んでいた。
窓の外、市ヶ谷台の朝の光は、灰色の梅雨空の下でぼんやりと滲んでいた。
扉の音がした。橋本正勝だった。顔色が青白い。昨夜から一睡もしていないのだろう。目の下に深い隈ができていた。
「課長。今朝の陛下の御様子について、内大臣府からの知らせがありました」
「陛下は、先日のサイパン放棄の御裁可以来、ほとんどお休みになっておられぬ由です」
俺は深く息を吐いた。
(陛下も、苦しんでおられる)
先日、松平閣下から聞いた、御文庫の蛍の話が、胸に浮かんだ。あの夜以来、陛下はお休みになれぬのか。
「橋本。陛下のお苦しみが、俺の具申の正しさを、保証してくださっている」
橋本は深く頷いた。
「おっしゃるとおりです」
俺は立ち上がった。
「行ってくる」
橋本が深く頭を下げた。種村も机の前に立ち、深く頭を下げた。
「ご無事のお戻りを、ここでお待ちします」
俺は扉に手をかけ、ふと振り返った。
「橋本、種村。もし俺が戻らぬようなことがあっても、戦争指導班の魂は、続けてくれ」
二人は深く頷いた。
「承知しました」
俺は扉を開けた。市ヶ谷の廊下に出た。軍靴の音が、いつもより重く響いた。
二 後宮次長の部屋
午前九時。俺は参謀本部の廊下を歩き、後宮淳高級次長の部屋の前に立った。
扉の前で、ふと深く息を吐いた。
(後宮閣下)
四年前、昭和十五年の南京を思い出した。
俺は当時、陸軍少佐。支那派遣軍総司令部参謀。南京の蒸し暑い夏。長江の濁った流れ。総司令部の窓辺に立っておられた、当時の総参謀長――後宮淳中将。
俺は南京で、この人の下で二年半働いた。穏やかな人だった。大局を語るより、現場の苦労を見守る人。配下の参謀に親情をもって接する人だった。
戦地の苦労を共にした上司と部下。その縁は、いまも俺の中に深く沈んでいる。
(俺はこれから、東條閣下に直訴に参ります。その前に、組織の筋目として、まずあなたにお伝えに参りました)
(あなたが俺を庇ってくださることは、期待しません。ただ、俺の覚悟を見届けてくださるなら――それで十分です)
俺は深く息を吸い、扉を叩いた。
「松谷です。失礼します」
「入りなさい」
扉を開けた。
三 ご反応なし
後宮閣下は、机の向こうに坐っておられた。穏やかな、しかし焦点の定まらぬ顔だった。
だが俺の顔を見た瞬間、その温和な目の奥で、何かがわずかに動いた。
(松谷君、来たか)
目が、そう言っているようだった。
「次長。戦争指導班、第三案の改訂版について、口頭で意見具申します」
「うむ。聞こう」
俺は五項目の骨子を、簡潔に述べた。
勝敗の山は見えた。わが方の負けである。ドイツ崩壊と同時に終戦を図らねばならぬ。国体護持のみを条件に。ソ連を通じた対米英外交の足がかりを作り、特派使節を派遣すべし――。
述べ終えて、俺は深く頭を下げた。
後宮閣下はしばし黙り、目を机の上の書類に落とした。
(ご反応は、ない)
俺は察した。この人が、直訴の話に踏み込むことはない。
平素この人は、俺たちにこう言っていた。今後の戦争指導は、まず戦況を好転させることにある。陸海が一体となり、強力な空軍を作って反撃を繰り返すしかない。帝国の危機は六、七月であり、全力を傾注せねばならぬ、と。
精神論に近い作戦構想だった。俺たちからすれば、もっともだが難しいことばかりだった。だが後宮閣下は、主戦派の高級次長として自分の職責を全うしておられた。
その人に、俺は敗北の二文字を申し上げた。反論されてもおかしくない。だが反論はなかった。賛同もなかった。ただ、黙っておられた。
後宮閣下は、目を上げた。
「うむ。承った」
それだけだった。
(ご反応なし、か。いや――反論なさらぬのは、賛同の印ではない。だが制止もなさらぬのは、かつての部下を、見届けてくださる印か)
「お聞きくださり、ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ、扉に向かった。手をかけたとき、背に声が追ってきた。
「松谷君」
振り返った。後宮閣下は、目をわずかに伏せていた。
「総長に、これからお目通りか」
「は。十時の御目通りを賜っています」
後宮閣下はしばし黙り、やがて深く頷いた。
「行きなさい。無理はするな。ただし、申し上げるべきことは、申し上げよ」
「承知しました」
俺は深く頭を下げ、部屋を出た。
四 最も長い百歩
午前九時三十分。俺は陸軍省へと廊下を歩いた。
参謀本部の建物から陸軍省の建物まで、わずか百歩ほど。だがその百歩が、俺の人生で最も長い百歩だった。
軍靴の音が廊下の床に響いた。すれ違う若い参謀たちが、いつもより遠くから俺を見ていた。
昨日、市ヶ谷の隅々まで噂が広がっていた。松谷戦争指導班長が、今朝、東條総長に直訴する、と。
誰の口から漏れたのか、もはや問うても仕方がない。四方諒二の手の者の耳に届くのも、時間の問題だっただろう。いや、すでに届いている、と覚悟の上だった。
陸軍省の大きな扉をくぐった。受付の若い少尉が、襟を正して敬礼した。
「松谷大佐殿。参謀総長閣下御目通り、十時のご予定です。大臣秘書官の部屋で、しばしお待ちください」
俺は秘書官の部屋へ案内された。
部屋の中は、不思議なほど静かだった。窓辺の柱時計が、コチコチと時を刻んでいた。その音だけが部屋に響いていた。
秘書官の赤松貞雄大佐が坐っていた。東條閣下の懐刀の一人だが、軍内では穏やかな良識派と知られていた。
「松谷大佐殿。総長は、ただいま別件の応接中です。しばし、お待ちを」
俺は頷き、勧められた椅子に坐った。内ポケットの拳銃と覚書の硬さが、心臓のすぐ脇でわずかに感じられた。
五 総理も、人間だ
赤松大佐はしばし黙り、窓の外を見ていた。やがて低く、俺に向き直った。
「松谷大佐殿。差し支えなければ、伺いたい。本日のご進言は、お覚悟の上ですな」
俺は深く頷いた。赤松大佐は深く息を吐いた。
「総理のご様子、昨日も今日も、いつもと違っておられる」
「と、言いますと」
「顔色が青ざめておられる。飯も、ほとんど召し上がらぬ。サイパン放棄の御裁可以来、休みもまともになさっておらぬご様子だ。閣下にも、限界があるのかもしれぬ」
俺はしばし黙った。
(東條閣下も、人間だ)
総理大臣、陸軍大臣、参謀総長、軍需大臣。四つの役を一身に背負い、勝利の貫徹をただひとりで担ってこられた。あの人の精神も肉体も、すでに限界の手前にいるのかもしれぬ。
その極限の身体に、俺は敗北の二文字を告げる。閣下の気持ちは、いかばかりか。だが職責は職責だ。俺は申し上げねばならぬ。
「赤松大佐。ご厚意、確かに承りました」
赤松大佐は深く頷いた。
「総長のお側に、私も控えています。何かあれば、すぐにお伝えください」
「ありがとうございます」
時計の針が、ゆっくりと十時に近づいた。
六 俺は、孤独ではない
午前九時五十五分。扉を叩く音がした。別件の応接が終わったらしい。軍服の若い参謀が二人、退出していった。
廊下ですれ違う際、二人は一礼して俺を見た。その眼差しに、俺は何かを察した。
(俺の直訴の噂は、もうここまで届いているのか)
襟を正し、軍刀を確かめ、内ポケットの拳銃と覚書を、もう一度確かめた。深く息を吸った。
「松谷大佐殿。参謀総長閣下、お入りくださいとのことです」
赤松大佐の声が響いた。俺は立ち上がり、扉に向かった。扉の前で、しばし立ち止まった。
(加瀬さん。松平閣下。酒井先生。杉山閣下。後宮閣下。橋本、種村)
心の中で、同志たちの名を、ひとりひとり呟いた。
(俺は、孤独ではない)
俺は深く息を吸い、扉を叩いた。
「松谷です。失礼します」
七 大臣室
扉を開けた。陸軍省、大臣室。
広い部屋だった。奥に大きな執務机。窓辺に肘掛け椅子と応接用の卓。壁に大日本帝国の地図と御真影。
その執務机の向こうに、東條英機が坐っていた。内閣総理大臣兼陸軍大臣兼軍需大臣兼参謀総長。
俺は息を呑んだ。赤松大佐の言ったとおりだった。
東條閣下の顔色は、青ざめていた。頬がこけ、目の下に深い隈ができていた。襟元に、いつもなら絶対に許さぬわずかな乱れがあった。
目の奥にあったはずの、あの鋭い眼光は、もうそこになかった。ただ深い疲労と、燻るような怒りのようなものが混ざって漂っていた。
俺は机の前に進み、深く敬礼した。
「松谷、御目通りを賜り、ありがとうございます」
東條閣下はわずかに頷いた。声はない。だが目は、俺を見ていた。その視線の重さは、変わらなかった。
俺はふと、机の上に視線を落とした。書類の束の一番上に、一枚の紙片が置かれていた。憲兵隊の内偵報告書の様式だ。逆さからは読みにくかったが、いくつかの文字が目に飛び込んできた。
松谷大佐……松平秘書官長邸……訪問せり……。
俺は息を呑んだ。
(四方諒二の報告書が、もうここにある。松平閣下の言ったとおりだ。昨夜の訪問は、すでに閣下の耳に届いている)
だが俺は、表情を変えなかった。深く頭を下げた。
「総長。ただいまより、戦争指導班、第三案の改訂版について、口頭で意見具申します」
八 わが方の負け
東條閣下は、顔をわずかに歪めた。声はない。ただ深く息を吐いた。その息に、わずかに不快が滲んでいた。
(お聞きになる気は、ないのかもしれぬ。されど、俺は申し上げる)
俺は深く息を吸い、口を開いた。
「総長」
声は震えそうだった。だが俺は、震えを抑えた。
「第一に、申し上げます」
俺は一字ずつ、ゆっくりと述べた。
「東も西も、戦争の勝敗の山は、見えました。遺憾ながら、わが方の、負けでございます」
その瞬間。東條閣下の顔が、わずかに引き攣った。目が、ほんの一瞬、見開かれた。
だが、それだけだった。声はない。叱責もない。問いもない。
ただ、実にいやな顔を、していた。
不快、という言葉では足りぬ。自分の部下が自分の御前で敗北の二文字を口にするという、ありえぬ事態に直面した人の、底の知れぬ不快だった。
俺はその表情を、しっかりと見届けた。そして、続けた。
「第二に。ドイツの崩壊は、近うございます。ドイツが崩れたとき、わが国も、終戦を図らねばなりません」
東條閣下は目を、机の上の書類に落とした。聞いていないようでもあり、深く聞いているようでもあった。
「第三に。終戦の条件は、戦況最悪の場合、国体護持のみに止めるべきです」
国体護持、という言葉を、俺は強く言った。
東條閣下の目が、再び俺の顔に向いた。深い、燃えるような目だった。
陸軍中央が振りかざしてきた国体護持を、皇室の存続だけに引き絞るのか――その目は、そう言っているようにも見えた。だが声はない。依然、黙ったままだった。
「第四に。ソ連を通じた対米英外交の、足がかりを作らねばなりません。対ソ外交を進め、和平の機を求めるのです」
東條閣下の顔が、さらに引き攣った。声はない。
「第五に。そのために、特派使節をソ連に派遣すべきです。一刻も早く、御考量を願います」
俺は五項目を、申し上げ終えた。深く頭を下げた。
部屋に、深い沈黙が落ちた。
九 沈黙
時計の針が、コチコチと時を刻んでいた。窓の外で、市ヶ谷台の梅雨の風がわずかに吹いた。
東條閣下は、黙っておられた。長い沈黙だった。
俺は頭を下げたまま、返事を待った。だが、返事はない。
俺はゆっくりと、頭を上げた。
東條閣下は目を、机の上の四方の報告書に落としていた。その紙片をしばし見つめ、それから俺の顔に視線を上げた。
目の奥に、激しい火があった。だが声はない。ただ、目だけが俺を射ていた。
(閣下。何か、お言葉を。賛成でも、反対でも、お叱りでも。何でも、ひと言を)
だが東條閣下は、声を発しなかった。ただ、実にいやな顔をしていた。
その不快の深さ。その沈黙の長さ。その目の燃え方。その三つが、俺の運命を決めることを、俺は悟った。
俺は深く頭を下げた。
「ご清聴を賜り、ありがとうございます。以上で、進言を終わります。失礼します」
声はない。
俺は深く敬礼し、ゆっくりと扉に向かった。背に、東條閣下の視線を、焼けるように感じていた。
十 扉を出る
扉に手をかけた。開ける前に、俺はふと振り返った。
東條閣下は、俺を見ていた。目が合った。長い、視線の交差だった。
その視線の中に、俺はいくつもの色を見た。不快。怒り。失望。
だが、それ以上を読み取るのは、よそう、と思った。あの人が何を考えているのか、本当のところは、誰にもわからぬ。沈黙とは、そういうものだ。
わかっているのは、一つだけだった。俺は、申し上げた。あの人は、聞いた。そして、何も言わなかった。
それで、十分だった。
(閣下。俺は参ります。閣下のご決心の行く末を、遠くからお見守りします。私怨はありません。公務で、上司と意見が違った。それだけのことです。幕僚を替えるのは、当然のことです)
俺は深く敬礼し、扉を開けた。廊下に出た。扉がゆっくりと閉じた。その音は、不思議なほど静かだった。
十一 覚書を焼く
廊下に立ち尽くした。内ポケットの拳銃と覚書の硬さが、心臓のすぐ脇でわずかに震えていた。いや、震えているのは俺自身の身体だった。
深く息を吸った。梅雨の朝の湿った空気が、肺に流れ込んだ。
(終わった。申し上げるべきことは、申し上げた。あとは、運命に任せるのみ)
廊下をゆっくりと歩き出した。軍靴の音が、いつもよりずっと遠くで響いた。
すれ違う若い参謀たちが、俺の顔を見て、驚いた表情を浮かべた。俺の顔色が、よほど青ざめていたのだろう。あるいは、もう別人のような顔をしていたのかもしれぬ。
陸軍省の門を出た。市ヶ谷の朝の光が、灰色の梅雨空の下でぼんやりと滲んでいた。だがその光の中に、俺はわずかに夏の予兆を感じた。季節は、変わろうとしていた。日本もまた、変わろうとしていた。
戦争指導班室に戻ると、橋本と種村が立ち上がった。二人の顔は青白い。長い時間、ここで俺の帰りを待っていたのだ。
「課長。ご無事で……」
橋本の声は震えていた。俺は深く頷いた。
「戻った」
「閣下のご反応は……」
「実にいやな顔をしておられた。だが、声はない。最後まで、黙っておられた」
橋本が深く息を吐いた。種村も深く息を吐いた。二人の目に、安堵と、深い不安が、同時に滲んでいた。
(これから、どうなるか)
三人の心は、その一点に集まっていた。
俺は自席に坐り、内ポケットから覚書を取り出し、卓の上に置いた。そして、ゆっくりと引き裂いた。一枚、また一枚。手元の灰皿の中で、紙片を火にくべた。炎がわずかに揺らめき、覚書は灰になった。
俺は深く頭を垂れた。
(申し上げるべきことは、申し上げた。あとは、運命に任せるのみ)
窓の外で、市ヶ谷台の梅雨の風が、わずかに吹いた。季節は、変わろうとしていた。日本もまた、変わろうとしていた。
◆ 後書き 松平 康昌(内大臣秘書官長)
六月二十九日の正午前、わたくしは赤坂の自邸の応接間で、ひとり坐っていました。
あの日のわたくしには、何もできることがなかった。ただ時計の針を見つめ、松谷大佐のご無事を祈ること。それだけでした。
午後の光が、障子越しに、ゆっくりと斜めに差し込んできました。その光の中で、わたくしは深く頭を垂れました。
松谷大佐は、ご無事でいらっしゃる。されど、これからが、本当の戦いです。東條閣下の机の上で、すでに人事の歯車が動き始めている。左遷は、避けられぬでしょう。
ただ、激戦地への放逐だけは、避けられるかもしれぬ――。わたくしは、ひとりの人に、望みをかけていました。
後宮淳大将。松谷大佐の、南京時代の総参謀長。東條閣下とは、陸士同期の間柄です。
あの方が、どう動かれるか。それは、わたくしの手の届かぬ、陸軍の中の話でした。ただ、わたくしは祈るほかなかった。市ヶ谷台の、あの古い建物のどこかで、良識が、ほんのわずかでも働いてくれることを。
【執筆者補記】
■ 史実と創作の区別
【史実に基づく部分】
昭和十九年六月二十九日、松谷誠がまず後宮淳高級次長に第三案を口頭で説明し、後宮が何の異議も示さなかったこと。次いで市ヶ谷の陸軍省大臣室で東條英機に進言したこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
敗戦必至・妥協和平を説く松谷の説明をきくうちに東條の表情が硬く不愉快なものに変わっていったこと、それがありありとわかって松谷はたいへんつらく、最後まで話すのに非常な勇気を要したこと。東條が遮ることはせず、実にいやな顔をして最後まで聞いたが、何一つ意見を言わなかったこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』)。
松谷退出後、東條がすぐに後宮を呼んで松谷の処分を相談し始めたこと。
後宮淳が昭和十六年から十七年まで支那派遣軍総参謀長として南京に在り、その時期に松谷が同軍の参謀として後宮の下で勤務していたこと。
東條が総理・陸相・軍需相・参謀総長を兼任し、サイパン放棄の重圧のもとで疲弊していたこと。直訴の三週間後の七月十八日に東條内閣が総辞職すること。
前夜の松平訪問が憲兵に把握され、内偵報告が東條に上がっていた可能性があること(憲兵による和平派・重臣の内偵は史実)。
【創作部分】
大臣室・後宮の部屋・秘書官室の情景、所作や間、登場人物の細かなやりとりは創作です。
東條の机の上に四方諒二の内偵報告書が置かれ、松谷がその文字を目にする、という描写は創作です。憲兵が和平派・重臣を内偵していたことは史実ですが、この朝この報告書が机上にあったという具体は、物語上の演出です。
赤松貞雄秘書官が直訴前に総理の様子を内々に伝える場面、橋本・種村とのやりとり、覚書を焼く描写は創作です。
松谷が東條の沈黙の中に読み取る内心は、すべて松谷の側の解釈であり創作です。本話ではこの読み取りをあえて抑制し、東條の真意は不明のままとしました。
【人物紹介】
■ 東條 英機(とうじょう ひでき、1884-1948)
陸軍大将。内閣総理大臣兼陸軍大臣兼軍需大臣兼参謀総長。本話の対峙の相手。陸士十七期。昭和十六年十月に首相に就任し対米開戦を主導、十九年二月の参謀総長兼任で内閣・陸軍・統帥を一手に握った。本話では、サイパン放棄の重圧に疲弊するなか、松谷の直訴に『実にいやな顔をして、最後まで無言』で応じる孤独な為政者として描かれる。本話の三週間後、七月十八日に総辞職。戦後、A級戦犯として死刑。
■ 松谷 誠(まつたに せい、1903-2000)
陸軍大佐。参謀本部戦争指導班長。本作の主人公。本話で、後宮次長への進言を経て、東條に直訴する。一人称は地の文で『俺』。
■ 後宮 淳(うしろく じゅん、1884-1973)
陸軍大将。本話時、参謀本部高級次長。京都府出身、陸士十七期で東條と同期。昭和十六年から十七年まで支那派遣軍総参謀長として南京に在り、松谷を参謀として使った。本話では、松谷の直訴に何の異議も示さず、ただ覚悟を見届ける。その働きは次話で本格的に描かれる。
■ 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900-1982)
陸軍大佐。東條英機首相の秘書官。陸士三十四期。東條の懐刀の一人だが、軍内では穏やかな良識派と知られた。本話では、直訴前の総理の様子を松谷に内々に伝える、軍内の良心の役回り。戦後、東京裁判で東條の助命に奔走する。
■ 橋本 正勝
陸軍少佐。本話時、参謀本部戦争指導班員。本話では、直訴に向かう松谷を見送り、その帰りを待つ同志として描かれる。
■ 種村 佐孝(たねむら さたか、1903-1966)
陸軍大佐(昭和十九年三月一日付で中佐から進級)。本話時、参謀本部戦争指導班員。『大本営機密日誌』の主要な記録者。本話でも橋本と並び、松谷の運命を見守る。のち松谷の後任として戦争指導班長を継ぐ。
■ 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893-1957)
内大臣秘書官長。本話の前書き・後書きの語り手。前夜に松谷を送り出した宮中の同志として、直訴の朝、千駄ヶ谷の邸で松谷の無事を祈る。
【用語集】
■ 陸軍省大臣室
市ヶ谷台、陸軍省の建物にある陸軍大臣の執務室。本話の時点で東條が陸相・首相・参謀総長を兼ねていたため、同じ部屋で内閣の総理事務、陸軍省の大臣事務、参謀本部の総長事務を処理していた。本話の直訴の舞台。
■ 「実にいやな顔をして、何一つ意見は言わなかった」
松谷誠の戦後の回想に明記された、本話の東條の反応。敗戦必至の進言をきくうちに東條の表情が硬く不愉快に変わり、最後まで無言で通したという。沈黙が叱責よりも雄弁に不快を語る、本作で最も重い一句の一つ。
■ 五項目進言
松谷が東條への直訴のために起草した『将来ノ戦争指導方針』の核心。勝敗の山は見えた/ドイツ崩壊と同時に終戦を図る/国体護持のみを条件とする/対ソ外交を促進する/特派使節をソ連に派遣する、の五つ。
■ 高級次長・次級次長
昭和十九年二月、東條の参謀総長兼任に伴い参謀次長が二名制となった際の役職。高級次長が名目上のナンバー2(本話時は後宮淳)、次級次長が実務上のナンバー2(本話時は秦彦三郎)。東條総長と二人の次長の三人体制で参謀本部は運営された。
■ 内偵報告書
憲兵が特定の人物の動向を秘密裏に追跡し、上司に提出する報告書。本話では、東京憲兵隊長・四方諒二の手で、松谷の前夜の松平邸訪問を記した報告書が、翌朝、東條の机の上に置かれていた、という形で描かれる。
【参考文献】
■ 一次史料・回想録
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
種村佐孝『大本営機密日誌』ダイヤモンド社、1952年
■ 二次史料・研究
吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社、1989年
吉見直人『終戦史――なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年
山本智之『主戦か講和か――帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年
(注)本話の会話・心理・情景は当方の創作です。松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』ほかの史料に残る実発言・事実は趣旨を保持しつつ、本作の文体に直しました。




