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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第6章 東條直訴と左遷(昭和19(1944)年6月22日~)

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第58話「東條直訴まで(下)――松平の覚悟」

◆ 前書き 松平 康昌(まつだいら やすまさ、内大臣秘書官長)


 あの六月二十八日の夜のことを、わたくしは生涯忘れません。


 その夜、わたくしは千駄ヶ谷の自邸で、松谷大佐をお迎えしました。


 加瀬さんから、内々の知らせはすでに届いていました。松谷大佐は近く、東條閣下に直訴される――。


 わたくしは、お止めしようとは思いませんでした。


 止めても止まらぬ人だと、わたくしは存じていた。ならば、宮中に仕える者として、わたくしにできる最後の務めを尽くそう。そう、覚悟いたしました。


 加瀬さんは、涙で松谷大佐を引き止めようとされた。涙は、情です。


 わたくしには、涙はありません。その代わりに、節度を差し出そうと思いました。


 第五十八話。情とは別の重さで、松谷大佐の背中を支えた、宮中の人間の話でございます。

【本文】


一 灯火管制の坂


 昭和十九年六月二十八日、午後七時過ぎ。


 俺は千駄ヶ谷の松平邸の門前に立った。


 灯火管制のため、邸の窓に灯りは漏れていない。玄関先の小さな常夜灯だけが、ぽつりと灯っていた。


 加瀬の涙から、二日が経っていた。


 その二日のあいだ、俺はいつもどおり市ヶ谷台に出て、いつもどおり書類を捌いた。何も変わらぬ顔で、明後日の朝を待った。


 だが懐の覚書と拳銃は、二日のあいだ、ずっと心臓の脇にあった。


 門の前で、俺はふと足を止め、ゆっくりと後ろを振り返った。


 暗闇の坂道。遠くで、犬が一声、低く吠えた。


(影は、ないか)


 俺は思った。だが、断言はできぬ。それが灯火管制の街の不気味さだった。


 憲兵は灯りを背負わぬ。闇に溶ける。いまも俺の背の先のどこかに、四方諒二の手の者の目が、潜んでいるかもしれぬ。


 加瀬の言ったとおりだ。松平閣下の邸とて、例外ではあるまい。


 だが、俺はもう振り返らぬ。


 松平邸の門を、叩いた。


二 奥の書斎


 門番に名を告げると、すぐに通された。


 応接間に入ると、松平康昌はすでに坐っていた。卓の上に、白磁の茶碗が二つ。茶の湯気が、わずかに立ち昇っていた。


 松平は俺の顔を見ると、軽く頷いた。いつもの、穏やかな顔だ。だがその目の奥に、加瀬と同じ、深い心配の色があった。


「松谷大佐。よくお越しくださいました」


 声は柔らかい。


 俺が内密の話だと告げると、松平は静かに立ち上がった。


「では、こちらへ」


 通されたのは、奥の書斎だった。応接間より狭く、本棚に囲まれた、ひと一人がやっと坐れるほどの小部屋だ。


 松平は襖を閉め、声を少し落とした。


「うちの応接間は、どうも壁に耳があるようでしてね」


 松平は淡く笑った。盗聴を警戒している、という意味だった。


 宮中の結節点ともなれば、その邸の壁にも、四方の手が伸びているのだろう。


「ご無礼をお許しください。ここなら、声は漏れません」


 俺は深く頭を下げ、狭い書斎で松平と向き合った。


三 焼いてください


「マリアナの戦況、お耳に届いていますか」


 松平は深く頷いた。


「加瀬さんから、おおよそは。ただ、正確な数字までは存じません」


 俺は懐から、もう一通の覚書を取り出した。


 覚書「将来ノ戦争指導方針」とは別の、生の数字を記したものだ。マリアナ沖の戦果と損害、サイパン守備隊の状況、本日午前の合同研究の決定――。


 大本営がいまだ公表せぬ、ありのままの事実だった。


 国民にはサイパンの危機すら知らされていない。その公表は、後の七月十八日まで伏せられることになる。だが宮中の側は、いまこそ正確に知らねばならぬ。


 俺はそれを、軍の機密と知りつつ、宮中に渡そうとしていた。


「閣下。これは、お読みになったら、ご自分の手で焼いてください」


 松平は深く頷いた。


「承知しました」


 松平は覚書を、ゆっくりと、一文字ずつ読んだ。狭い書斎に、紙のめくれる音だけが響いた。


 読み終えると、松平は深く息を吐き、卓の上に覚書を置いた。そして俺に目を向けた。


「松谷大佐。これは、陛下のお耳に入れねばなりません」


「お願いします」


「木戸閣下を通じて、しかるべき折に、お伝えする道を探りましょう」


 松平はしばし黙った。茶碗の茶は、いつのまにか冷めていた。


四 陛下のお苦しみ


 松平は冷めた茶をひと口飲み、低く言った。


「松谷大佐。陛下が、いま、お苦しみになっておられる」


 俺は目を上げた。


「先日の二十五日、サイパン放棄の上奏がありました。陛下はそれを、すぐにはお認めにならなかった」


「異例のことに、元帥府にお諮りになった。元帥がたが皆、統帥部の上奏を支持するなか、陛下はただ一言、外に発言はないか、と仰せになった」


 松平の声が、わずかに沈んだ。


「奪回の策はないのか。陛下は、それを暗にお求めになったのです。だが、元帥府も統帥部の案を支持した。陛下は、ご自分の意に反して、放棄の上奏を、お認めになるほかなかった」


 俺は深く頷いた。


 その日、市ヶ谷台でも、サイパン奪回の断念は決まっていた。だが、陛下がそこまで踏みとどまろうとされていたとは、知らなかった。


「その夜、陛下は皇居のなかで、おひとり、蛍を御覧になっていたそうです」


 松平は窓の方へ、目をやった。灯火管制の闇が、カーテンの向こうにあった。


「国の行く末を思うお苦しみは、もう、片時も陛下の頭を離れぬご様子だと聞きます。生物学のご研究も、日々の散歩も、おやめになろうかと、木戸閣下にご相談になったとか」


「……陛下が、そこまで」


「陛下は、お独りなのです。心をうち明けて話せる相手が、おひとりもおられぬ」


 松平は俺に、まっすぐ目を向けた。


「その陛下のお苦しみを終わらせるために、貴方は明後日の朝、東條閣下の御前へ進まれる」


 俺は深く頭を下げた。


「そのつもりです」


五 止めぬ覚悟


 松平は、ゆっくりと口を開いた。


「松谷大佐。わたくしは、貴方のご決心を、お止めしません」


 俺は目を見開いた。


「その代わり、一つだけ申し上げたい」


「うかがいます」


 松平は深く息を吸った。


「もし左遷されても、貴方は、終戦の同志でありつづけます」


「閣下――」


「左遷の地から、必ず、文を寄こしてください。我々は、貴方との連絡を絶ちません。いずれ必ず、中央へお呼び戻しする」


 俺は深く頭を下げた。


(加瀬さんと、同じ言葉だ)


 俺は心の中で噛みしめた。申し合わせたわけでもあるまい。申し合わせるまでもなく、同じ決意だったのだ。


「ありがとうございます、閣下」


「松谷大佐。生きて、お戻りください」


 声は低く、しかし強かった。


六 憲兵の見張り


 ふと、松平の顔がわずかに曇った。


「松谷大佐。もう一つ、お伝えしておかねばなりません」


「憲兵の目が、この邸にも向いています」


 俺は息を呑んだ。


「貴方が今宵わたくしを訪ねたことは、すでに東條閣下のお耳に届くかもしれぬ。されど、それも致し方ない。わたくしも覚悟の上で、貴方をお迎えしています」


 松平は静かに微笑んだ。その微笑に、宮中で長く生きてきた人の、達観の色があった。


「明後日の朝、貴方が御前で直訴される頃には、四方諒二の報告書も、東條閣下の机の上に並んでいるでしょう」


 俺は深く頷いた。


「覚悟の上です」


「閣下。ご自身の身にも、累が及ぶかもしれません」


「存じています」


 松平は淡く微笑んだ。


「されど、わたくしは内大臣秘書官長です。わたくしの主は木戸閣下、その先には、陛下がいらっしゃる」


 声は低く、揺るぎなかった。


「陛下が、いま、お苦しみになっておられる。その苦しみを終わらせるために、わたくしは宮中の人間として、貴方の背中を、最後まで支えます」


「ありがとうございます」


「では、行ってらっしゃい」


 松平は両手を膝の上で、静かに組んだ。


「日本のために」


七 情と節度


 俺は深く敬礼し、松平邸を辞した。午後九時を回っていた。


 赤坂の坂道を、ひとり歩いた。夜空には雲が低く垂れ、月は見えない。灯火管制の街は、墨を流したように暗かった。


 遠くで、犬が一声、低く吠えた。


 軍服の内ポケットの拳銃が、いつもより重く感じられた。その隣に、折りたたんだ覚書がある。


 明後日の朝、市ヶ谷で、東條閣下の御前で、その骨子を口頭で申し上げる。


(松平閣下)


 俺は心の中で呟いた。


 あの人は、加瀬と違って、涙を見せなかった。だが、最後の日本のために、という一言――あれは、加瀬の涙と、同じ重さの言葉だった。


 加瀬は、俺を情で支えてくれた。松平は、俺を節度で支えてくれた。


 情と、節度。二人の同志の力で、俺の背中は、いま、まっすぐに伸びていた。


八 告げなかった師


 俺はふと、道の脇の電柱に背を預け、夜空を仰いだ。暗い雲の合間に、星が一つ、ぽつりと光っていた。


(酒井先生)


 俺は心の中で呟いた。恩師、酒井鎬次予備役中将。


 俺は今夜のことを、酒井先生には伝えていない。いや、伝えてはならぬ、と判断していた。


 酒井先生は近衛公とも親しく、近衛邸への出入りもある。四方の目は、その近衛邸を厳しく見張っている。俺の直訴の件が酒井先生を通じて漏れれば、先生の身に害が及ぶかもしれぬ。


 だから、伝えなかった。


 酒井先生もまた、日頃から国内政治の話を、俺との会話では一切避けておられた。それは、俺が陸軍に疑われぬよう配慮された、師の親情だった。


 俺たちは、互いの動きを互いに知らぬまま、それぞれの場所で、それぞれの戦いを戦っていた。だが俺は知っていた。酒井先生もまた、別の場所で、同じ戦いを戦っておられることを。


(先生、お許しください。明後日、俺は参ります。事前のお知らせはせず、参ります。これも、先生のお身を案ずればこそです)


 星はやがて、また雲に隠れた。


 俺は電柱から背を離し、ふたたび暗い坂を下りはじめた。


 明後日の朝。


 俺は、東條英機の御前に立つ。



◆ 後書き 加瀬 俊一(かせ としかず、外務省・外相秘書官)


 六月二十八日の夜更け、僕は外務省の自室で、松平閣下からの電話を待っていた。


 午後十時を回った頃、電話が鳴った。


「加瀬さん。松平です」


「松平閣下」


「松谷大佐が、たったいま、わたくしの邸を辞されました。明後日、決行のご決意は、ますます固い」


 僕は深く頷いた。受話器の向こうの松平閣下の声は、いつもより少しだけ低かった。


「加瀬さん。貴方の涙と、わたくしの節度。どちらも、あの人の背中を支えるには、足りぬのかもしれません」


「閣下――」


「あの人は、もうご自分の腹の底で、決めておられる。ならば我々にできるのは、ただ一つ。あの人が左遷されたあと、その地から必ず、中央へお呼び戻しすることです」


 僕は深く頷いた。


「承知しました、閣下」


 電話が切れたあと、僕はしばらく、暗い窓の方を見ていた。


 松谷さんは、いまも憲兵の影の中を歩いている。明後日の朝には、四方諒二の報告書が、東條閣下の机の上に置かれるだろう。


 その網の中を、松谷さんがどう歩み、市ヶ谷台へ戻るのか。次回、いよいよ、運命の朝が来る。


【次回予告】


 昭和十九年六月二十九日、朝。


 ついに、その日が来た。


 松谷はまず、後宮淳高級次長の部屋を訪ねる。南京で苦労を共にした、かつての総参謀長。


 その足で、市ヶ谷の陸軍省大臣室へ。机の上には、すでに憲兵の内偵報告書が置かれている。


 そして松谷は、抗戦一色の最高権力者の前で、ついに敗北の一語を放つ。


 東も西も、戦争の勝敗の山は見えました。遺憾ながら、わが方の負けです――。


 東條は、実にいやな顔をして、最後まで何も言わない。その沈黙こそが、松谷の運命を決める。


 次回、第五十九話「東條英機」。表の道を選んだ男と、敗北を頭に入れられぬ独裁者の、たった一度の対峙。


【執筆者補記】


 ■ 史実と創作の区別


 【史実に基づく部分】


 昭和十九年六月二十八日夜、松谷誠が松平康昌内大臣秘書官長を私邸に訪ね、マリアナ失陥の戦局を伝えたこと(大本営の公表は七月十八日であった)。翌日の東條への直訴の決意と内容を、宮中の側に打ち明けたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。


 松平康昌が松平春嶽の孫で、温容で頭脳明晰な品格を備え、木戸幸一内大臣の『女房役』として天皇・皇族・重臣・閣僚・陸海軍首脳らとの広範な連絡調整にあたったこと。戦後の天皇の戦争責任免除と皇室存続の陰の功労者であったこと。岡田啓介と同郷(越前福井)で気心が通じていたこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』、岡田啓介の手記)。


 六月二十五日、東條・嶋田によるサイパン放棄の上奏に対し、昭和天皇が即座に裁可せず元帥府に諮詢し、『外に発言はないか』と暗に奪回論を求めたが、元帥府も統帥部の上奏を支持したため、やむなく放棄を裁可したこと。その夜、皇居内で蛍を眺めて気持ちを紛らわせたこと(鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』)。


 この時期、昭和天皇がサイパン放棄以来敗戦を覚悟して国の行く末に煩悶し、生物学の研究や散歩をやめようかと木戸に相談したこと、心をうち明けて話せる相手がなく孤独であったこと(吉松安弘『東條英機暗殺の夏』)。


 四方諒二が東京憲兵隊長として東條の腹心であり、和平派・重臣の邸宅周辺に見張りが置かれ内偵が行われていたこと。松谷が直訴を六月二十九日に控えていたこと。


 松谷が恩師・酒井鎬次予備役中将に直訴の件を事前に伝えなかったこと。戦後、松谷が『中将とあらかじめ連絡をした覚えもない』と述べ、酒井も『連絡したことはない』と答えたこと(松谷『大東亜戦争収拾の真相』)。


 【創作部分】


 松平邸の奥の書斎での密談、盗聴を警戒する所作、室内の情景、所作や間、両者の細かなやりとりは創作です。『壁に耳があるようだ』という趣旨は、当時こうした盗聴警戒があったことを踏まえた演出で、特定の史料の文言を引き写したものではありません。


 覚書を『焼いてください』と託す描写、松平が『情』に対して『節度』で松谷を支えるという対比、『日本のために』という結びの一句の演出は創作です。


 昭和天皇の御様子(元帥府での御下問、蛍、御煩悶)は史実に基づきますが、それを松平が松谷に語る、という本話の場面構成は創作です。蛍の逸話には六月二十五日夜とする史料と七月七日夜とする読み物があり、本話では六月二十五日夜の説を採りました。


 松平が酒井鎬次に言及する帰路の内省は、松谷が酒井に事前連絡しなかったという史実を踏まえた創作です。


 なお、木戸幸一が松谷の左遷に際して庇おうとした、という展開は、史料的裏付けがないため本話では描いていません。松谷が最前線ではなく支那派遣軍(南京)への転出で済んだのは、秦彦三郎・後宮淳ら参謀本部内の上官の配慮によるとする見方が一般的です。


 松平康昌の経歴のうち『英仏留学』『西園寺公望の推薦による宮中入り』は、今回の史料では明確な裏付けが確認できなかったため、本話および人物紹介では断定を避けました(宮中入りは近衛・木戸の推挙によるとする記録があります)。


【人物紹介】


 ■ 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893-1957)


 侯爵、内大臣秘書官長。本話の中心人物。幕末の名君・松平春嶽(越前福井藩主、四賢侯の一人)の孫。温容で頭脳明晰な品格を備え、木戸幸一内大臣の『女房役』として、天皇・皇族・重臣・閣僚・陸海軍首脳らの広範な連絡調整を担った、宮中の終戦工作の結節点。本話では、加瀬の『涙(情)』と対をなす『節度』で松谷を支える、宮中の良心として描かれる。戦後も天皇の戦争責任免除と皇室存続のために陰で尽力し、その心労が寿命を縮めたともいわれる。


 ■ 松谷 誠(まつたに せい、1903-2000)


 陸軍大佐。参謀本部戦争指導班長。本作の主人公。本話では、直訴の前夜、宮中の松平を訪ね、軍の機密を破ってマリアナ失陥の真相を宮中に託す。一人称は地の文で『俺』。


 ■ 木戸 幸一(きど こういち、1889-1977)


 内大臣。本話では言及のみ。木戸孝允の孫で、昭和天皇の最も近い側近の一人。松平はその『女房役』として補佐した。翌年八月の聖断における最重要人物の一人。


 ■ 酒井 鎬次(さかい こうじ、1885-1946)


 予備役陸軍中将。本話では名のみ登場。陸士で東條英機と同期だが思想的に対立。近衛文麿の軍事ブレーン。本話で松谷は、酒井の身を案じて直訴の件を事前に伝えない。これは戦後の両者の証言(互いに事前連絡はなかった)を踏まえた描写。


 ■ 四方 諒二(しかた りょうじ、1895-没年不詳)


 陸軍大佐。本話時、東京憲兵隊長。東條の腹心として東京憲兵隊を私兵のように使い、政界・宮中・軍中央・言論界の反対派を監視・弾圧した。本話では、松平邸の見張りと盗聴警戒という形で、姿を見せぬまま影として登場する。


 ■ 近衛 文麿(このえ ふみまろ、1891-1945)


 元総理大臣、五摂家筆頭の公爵。本話では言及のみ。重臣の一人として終戦工作の中核を担う。本話では、その邸宅前に憲兵の見張りが置かれている人物として、間接的に登場する。


 ■ 加瀬 俊一(かせ としかず、1903-2004)


 外務省・外相秘書官。本話の後書きの語り手。前話で松谷を涙で引き止めた盟友。本話では松平からの電話を受け、左遷後の松谷を中央へ呼び戻す決意を確かめ合う。


【用語集】


 ■ 内大臣秘書官長ないだいじんひしょかんちょう


 内大臣を補佐する役職。内大臣は天皇の常侍輔弼の任にあり、宮中の政務の要。松平康昌はこの秘書官長として木戸内大臣を支え、宮中と政界・軍部・重臣をつなぐ連絡調整の中枢を担った。本話で松谷が宮中に戦局を伝える窓口となるのは、この職ゆえ。


 ■ 元帥府げんすいふ


 天皇の最高軍事顧問にあたる元帥たちの府。本話で言及される六月二十五日、昭和天皇はサイパン放棄の上奏を即座に裁可せず、異例にも元帥府に諮詢して『外に発言はないか』と奪回論を暗に求めたが、元帥府も統帥部の上奏を支持したため、やむなく放棄を裁可した。


 ■ 「外に発言はないか」(ほかにはつげんはないか)


 六月二十五日の元帥府会議で、昭和天皇がサイパン放棄の上奏に対し発した御下問。統帥部の決定に反してでも奪回の道を求めようとされた、天皇のぎりぎりの抵抗とされる。本話で松平が『陛下のお苦しみ』を語る場面の核心。


 ■ 「日本のために」(にほんのために)


 松平康昌が松谷を見送る際に発した、最後の一言。加瀬の『涙』と対をなす、松平の『節度』を象徴する句。涙を見せぬ宮中の人間が、ただ一語に万感を込めて同志を送り出す。


 ■ 憲兵の見張りけんぺいのみはりじょ


 東京憲兵隊長・四方諒二の手の者が、東條政権の反対派とされる人物の邸宅前に置いた監視拠点。岡田啓介・近衛文麿・米内光政・松平康昌らの邸宅前に置かれたとされる。本話では松平邸前にもあり、松谷の訪問が内偵される懸念として描かれる。


 ■ 灯火管制とうかかんせい


 空襲を避けるため、夜間の灯火を遮蔽する戦時下の措置。本話の千駄ヶ谷・赤坂の暗い坂道の描写が、これを反映している。墨を流したような闇は、憲兵が紛れて尾行するのを容易にする一方、松谷の孤独な決意の道行きを際立たせる。


【参考文献】


 ■ 一次史料・回想録


 松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年


 岡田啓介『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1950年


 木戸幸一『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年


 ■ 二次史料・研究


 鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』東京大学出版会、2011年


 吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社、1989年


 矢部貞治『近衛文麿』読売新聞社、1976年


(注)本話の会話・心理・情景は当方の創作です。昭和天皇の御様子(元帥府での御下問・蛍・御煩悶)や松平の人物像は史料に基づきますが、それを松平が語るという場面構成は創作です。史料に残る実発言は趣旨を保持しつつ、本作の文体に直しました。



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