第57話「東條直訴まで(中)――加瀬の涙」
◆ 前書き 加瀬 俊一(かせ としかず、外務省・外相秘書官)
僕は戦後の長い人生で、幾度となく、あの六月二十六日の夜を思い返してきた。
外務省の自室。卓を挟んだ向こうに、松谷さんが坐っていた。
仕立てのよくない軍服。だがその目の奥には、もう迷いがなかった。
僕は止めようとした。涙を流して、止めようとした。だがあの人は、止まらなかった。
直言せぬのは、良心にそむく――。
その一句を、松谷さんは静かに、しかし強く言った。僕の言葉も、僕の涙も、その一句の前では何の意味もなかった。
第五十七話。決死の前夜、外務省の小部屋で交わされた、二人の同志の最後の懇談の話だ。
【本文】
一 五項目
昭和十九年六月二十六日、午後三時。
俺は市ヶ谷台の自席で、机の上の覚書をじっと見つめていた。
表題は、こう書いてある。
――将来ノ戦争指導方針。
わずか三枚の和紙に墨で書きつけた覚書だ。ここ数日、夜更けに自宅で書き直し、書き直し、ようやく決定稿になった。
骨子はこうだ。
一、東も西も、戦争の勝敗の山は見えた。
二、ドイツの崩壊は近く、わが国も終戦を図らねばならぬ。
三、戦況最悪の場合は、国体護持のみを条件とする。
四、対ソ外交を進め、ソ連を通じた対米英外交の足がかりを作る。
五、特派使節を、ソ連に派遣する。
その五項目だけで、すべては足りた。
三日後の六月二十九日の朝。赤松大佐が繰り合わせてくれた、その日だ。
俺はまず後宮淳高級次長を訪ねる。その足で、市ヶ谷の陸軍省大臣室を訪ね、東條英機参謀総長その人に直訴する。
俺は覚書を二つに折り、封筒に入れた。軍服の内ポケットの、拳銃と反対側にしまった。
心臓のすぐ脇に、覚書と拳銃が並んだ。一方は言葉、一方は鉄だ。だがどちらも、官の筋を通して持つものだった。
(行く)
俺は心の中でひとり呟いた。
二 青ざめた総理
午後四時。扉を叩く音がした。
「課長。東條閣下の秘書官から、使者です」
若い参謀の声だった。
「通せ」
扉が開き、軍服の若い大尉が入ってきた。深く敬礼した。
「松谷大佐殿。先日お取り次ぎした二十九日午前十時の御目通り、変わりなく相整いました」
「承知した」
大尉は伝言を続けた。
「ただ、秘書官から、内々のお伝言があります」
「この一両日、総理の顔色はこの世の人とは思えぬほど青ざめ、意気消沈のありさまである。御進言は慎重に願いたい、と」
俺は深く頭を下げた。
「秘書官のご厚意、確かに承った」
大尉は再び敬礼し、退出した。扉が閉じたあと、俺は深く息を吐いた。
(東條閣下も、限界に近いか)
俺は思った。
マリアナ沖の壊滅を見て、サイパン上陸を見て、先日の合同研究の決定を聞いた。あの人の血の気が失せているのは、当然だろう。
だがその極度の疲労のただ中にいる人の前で、俺は三日後、敗北の現実を申し上げる。そのとき東條閣下がどう出るか。もはや想像するのも空しかった。
三 外務省の小部屋
午後四時半。俺は外務省の門をくぐった。
受付で松谷だと告げると、若い書記官が顔色を変えた。
ここ数日、加瀬さんと俺の連絡の頻度が急に増えていた。外務省の内にも、何かただならぬ気配が漂っているのを、彼らは感じていたのだろう。
「加瀬秘書官がお待ちです」
書記官は声を低めて、二階の奥の小部屋へ俺を案内した。
扉を叩いた。
「松谷です」
扉が内側から開いた。加瀬俊一が立っていた。
いつもの仕立てのよい背広。だがその顔色は青白かった。
「松谷さん。お待ちしていました。どうぞ」
俺は部屋に入った。
小さな応接室だった。窓は灯火管制の厚いカーテンで覆われ、部屋の中は薄暗い。
卓を挟んで、加瀬は俺の向かいに坐った。卓の上には紅茶が二杯、湯気を立てていた。甘い舶来の香りがした。
「松谷さん。お顔を拝見しただけで、察しましたよ」
加瀬の声は低かった。
「決行されるおつもりですね」
俺は深く頷いた。
「三日後の二十九日、陸軍省大臣室です。たったいま、その念押しの伝言がありました」
加瀬は息を呑んだ。
四 文書では渡さぬ
俺は軍服の内ポケットから覚書を取り出し、卓の上に置いた。
「加瀬さん。これを読んでください」
加瀬はゆっくりと封筒を開け、和紙を取り出した。三枚の覚書を一枚ずつ丁寧に読んだ。部屋に、紙のめくれる音だけが響いた。
最後の頁を読み終えると、加瀬は深く息を吐いた。そして俺の目を、じっと見つめた。
「松谷さん。これを、東條閣下に渡すおつもりですか」
「いえ」
俺は短く答えた。
「文書では渡しません。口頭で進言します」
「なぜ」
「秦次長から、絶対に外部に出すなと厳命されています。文書として残せば、戦争指導班の全員が処分されかねない。俺ひとりの責任で、口頭で申し上げます」
加瀬はしばし黙った。窓の外で夕の風がカーテンを揺らし、紅茶の香りがわずかに立ち昇った。
加瀬はゆっくりと口を開いた。
「松谷さん。日本が和平を回復すべき時は、もう来ている。それは僕も同感です」
「政府がなぜ明確な和平の計画を持っていないのか、理解に苦しむ。そのご指摘も、骨身に染みます」
加瀬の声には、深い同意があった。
「されど、松谷さん」
加瀬はわずかに声を強めた。
「直訴は、賢明ではありません」
五 見解の相違
「東條閣下は、敗北をお認めになる方ではない」
「存じています」
「いえ、貴方はご存じない」
加瀬はもう一度、繰り返した。
「僕は以前、雑誌に、ドイツの敗北を予言する趣旨の文章を寄稿しました」
「その直後、東條閣下から呼び出しがあった。陸軍省の応接間で、激しく面詰されました」
加瀬は紅茶のカップを取り、ひと口、口に含んだ。だが味を感じていないような、機械的な所作だった。
「閣下はこう言った。同盟国の敗北を予言するのは、不謹慎だ、と」
「僕はこう申し上げた。総理は、ドイツがいつまでも抗戦できるとお考えですか、と」
「東條閣下は、こう吐き捨てた。見解の相違だ、と」
加瀬は深く息を吐いた。
「松谷さん。あの方は、敗北という言葉を頭の中に入れることができない方なのです。入れぬのではない。入れることが、できぬ。そういう構造の頭脳の方なのです」
俺は深く頷いた。
「存じています」
「あなたが御前で、その五項目を申し上げたら」
「閣下は、激怒します」
「間違いなく、そうなるでしょうな」
「投獄されるかもしれません」
「覚悟の上です」
「あるいは、それ以上の処置をなさるかもしれない」
俺は加瀬の目を、じっと見つめた。その奥に、初めて見るほどの強い光があった。
(加瀬さん。貴方は本当に、案じてくださっているのだ)
六 一生の友
しばし、二人の間に沈黙が落ちた。卓の上の紅茶が、ゆっくりと冷めていった。
やがて加瀬が、低く口を開いた。
「松谷さん。もう一つ、どうしても言いたいことがあります」
その声は、いつもの透き通った加瀬の声ではなかった。底から絞り出すような声だった。
「貴方が、いなくなるのは、いやだ」
俺は息を呑んだ。
(加瀬さん)
「去年の四月、重光大臣のお供で、あなたと初めて会った日のことを、いまも覚えています」
加瀬の目が、わずかに潤んでいた。
「あの夕暮れの、外務省の応接間。あなたが僕に、陸軍中央にも戦況の真相を見つめている者がいる、と伝えてくれた、あの瞬間」
「僕は生まれて初めて、軍服を着た人を、心から信じることができた」
「加瀬さん……」
「あれから一年余り。陸軍と外務省という、本来交わらぬ二つの組織の中で、貴方と僕は共に走り、共に怒り、共に黙ってきた」
加瀬の声が、ふと震えた。
「あなたはもう、僕にとって、単なる陸軍中央の連絡相手ではない」
俺は、目を上げることができなかった。
「外務省の同僚にも言えぬ本音を、僕は松谷さんにだけ、話してきた」
加瀬は、ひと息ついた。
「松谷さんは、僕の、一生の友です」
その声は低く、しかし切なく震えた。俺は、息ができなかった。
「敗戦のその先で、新しい日本を作り直すとき、貴方が僕の隣にいてくれること。それを僕は、生きる支えにしていました」
俺は目を伏せた。
「あなたが最前線へ送られれば」
加瀬の声が、つまった。
「貴方は、戦死なさるかもしれない」
その一句を、加瀬はようやく絞り出した。
「いまの戦況で最前線へ送られれば、生きて戻る見込みは極めて低い。それは、貴方が僕以上によくご存じでしょう」
「は……」
「松谷さん。僕は、貴方を失いたくない。同志として、ではない。連絡相手として、でもない」
加瀬の声は、もはや震えていた。
「ひとりの友として、僕は、あなたを失いたくない」
加瀬の目から、ついに一筋の涙がこぼれた。その涙が頬を伝い、背広の襟元に、わずかに滲んだ。
俺は目を伏せ、卓の上に組んだ自分の手を見つめた。その指先が、わずかに震えていた。
(加瀬さん。貴方の気持ちは、痛いほど胸に届きます)
(されど――)
七 直言せぬのは
俺はゆっくりと目を上げた。
「加瀬さん。貴方のご厚意は、骨の髄まで感じています」
俺は深く頭を下げた。
「真田部長と秦次長からも、同じご厚意を頂きました。時機を待て、生きて帰ってこい、と」
「では、なぜ……」
「されど、加瀬さん」
俺は顔を上げた。
「いま、この時、誰かが東條閣下の御前で、敗北を申し上げねばなりません」
「松谷さん」
「申し上げる者がいなければ、閣下の耳には永遠に敗北の二文字が届かない。届かぬまま、わが国は本当に滅びます」
加瀬は深く息を吐いた。
「直言せぬのは、良心にそむきます」
俺は低く、しかし強く言った。
「加瀬さん。これは、戦争指導班長たる俺の職責です」
加瀬はしばし黙った。部屋の隅の柱時計が、コチコチと時を刻んでいた。その音だけが、二人の間に流れた。
やがて加瀬はゆっくりと目を上げた。その目に、涙が溜まっていた。
八 外交官の涙
「松谷さん。本当に、お止めにならぬのですね」
声は低く、震えていた。
「申し訳ない」
加瀬は深く頷いた。その頬を、涙が一筋伝った。
加瀬俊一という男は、外務省きっての俊敏な秘書官だ。英国帰りの、洗練された外交エリート。いつもユーモアと機知に富み、深刻な場面でも軽く受け流す、その軽妙さが身上だった。
その加瀬が、いま俺の前で涙を流している。
(加瀬さん――)
俺は目を伏せた。自分の目にも、何かが滲んでくるのを感じた。
「松谷さん。もし、もし戻ってこられたら」
加瀬は袖口で涙を拭った。
「最前線から生きて戻られたら、我々は必ず貴方を中央へ呼び戻します。重光大臣の力を借りて、必ず」
「ありがとう」
「だから、どうか、生きて戻ってください」
俺は深く頭を下げた。
「約束しよう」
言葉は短かった。だがその一語に、俺のすべてを込めた。
九 憲兵の影
加瀬は袖口で、もう一度涙を拭った。そしてゆっくりと立ち上がった。
「松谷さん。直訴の前に、もうお一方、訪ねるおつもりでは」
「松平閣下ですね」
俺は深く頷いた。
「近いうちに、千駄ヶ谷へ。マリアナ失陥の真相をお伝えし、直訴の覚悟も、それとなく」
加瀬はわずかに眉を寄せた。
「松谷さん。そのときは、くれぐれもお気をつけください」
「最近、岡田大将や近衛公の御邸の前に、憲兵の見張り所ができています」
俺は息を呑んだ。
「四方諒二大佐の手の者です。東京憲兵隊長。東條閣下のご懐刀だ」
加瀬の声は静かだった。
「松平閣下の御邸とて、例外ではないでしょう。ご訪問が内偵される見込みは、十分にあります」
俺はしばし黙った。
(四方か)
その名は、俺もよく知っていた。関東軍時代からの東條閣下の腹心。反対派を弾圧する東條政治の、汚れ役の最たる男だ。いまは東京憲兵隊長として、政界も宮中も軍中央も、すべてを監視している。
「松谷さん。覚悟の上で、参られますか」
「参ります」
俺は短く答えた。
「憲兵の目が向いていようと、いまいと、俺の行くべき道は変わりません」
加瀬は深く頷いた。もはや言葉はなかった。
俺たちは互いに深く頭を下げ、扉に向かった。扉の前で加瀬は、もう一度俺の肩に手を置いた。
「松谷さん。どうか、ご無事で」
俺は深く頭を下げ、扉を出た。
外務省の廊下を歩きながら、俺は一度も振り返らなかった。振り返れば足が止まる、と思った。
◆ 後書き 松谷 誠(戦後の回想)
あの六月二十六日の午後、外務省二階の小部屋で、加瀬が紅茶のカップを抱えて、俺に涙を見せた。
あの紅茶の湯気の匂いと、灯火管制のカーテンの暗さを、俺は戦後もしばしば思い出す。
加瀬は俊敏な外交官だった。冷静、客観、機知。如才ない弁舌で、誰もを魅了する若い秘書官だった。
そのあの男が、俺の目の前で、涙を流した。
俺はあの涙を、生涯忘れない。
あの涙は、俺ひとりへの友情の涙ではなかった。あれは、四人組――いや、まだその名すら持たなかった俺たち和平派の同志全員の絆を、俺の肩に乗せてくれた涙だった。
次回、俺は外務省を出て、千駄ヶ谷の松平閣下の邸を訪ねる。
加瀬の涙とは、また別の重さで、俺の背中を支えてくれた、もうひとりの同志の話だ。
【次回予告】
加瀬の涙から、二日。
昭和十九年六月二十八日の夜。直訴の前夜、松谷は千駄ヶ谷の松平康昌邸へ向かう。
内大臣秘書官長・松平康昌。宮中につながる、もうひとりの同志。だが、その邸の前にも、すでに憲兵の見張り所が置かれている。
松谷は軍の機密を破り、大本営がまだ伏せているマリアナ失陥の真相を、宮中の側に託す。明朝の直訴の覚悟も、それとなく。
加瀬は涙で、松谷を引き止めようとした。では、松平は何をもって、この男を送り出すのか。
次回、第五十八話「東條直訴前夜――松平の覚悟」。情と、節度。二人の同志の支え方の違いが、明らかになる。
【執筆者補記】
■ 史実と創作の区別
【史実に基づく部分】
昭和十九年六月末、松谷誠が加瀬俊一を訪ね、『将来ノ戦争指導方針』と題する覚書を手渡し、和平回復の時機がすでに来ているのに政府が明確な和平計画を持たぬことへの疑問を語り、東條に会って直接議論したいと打ち明けたこと(加瀬俊一『ミズリー号への道程』『加瀬俊一回想録』)。
覚書の骨子(勝敗の山は見えた/ドイツ崩壊と同時に終戦を図る/国体護持のみを条件とする/対ソ外交を促進しソ連を通じた対米英外交の足がかりを作る/特派使節をソ連に派遣する)。
加瀬がこれを強く制止し、『それは賢明でない。東條は憤怒し、忌諱にふれて投獄されるかもしれない。彼の協力を最も必要とするこの時期に、その協力を失うことはできぬ』と自重を求めたこと。それでも松谷が『直言せぬのは良心にそむく』として直訴を決行したこと(加瀬『ミズリー号への道程』)。
加瀬がかつて雑誌にドイツ敗北を予言する趣旨の文章を寄稿して東條に面詰され、『総理はドイツがいつまでも抗戦できるとお考えですか』と問うたのに対し、東條が『見解の相違だ』と吐き捨てたこと。
東條の秘書官が、この一両日の総理の顔色が『この世の人とは思えぬほど青ざめ』ていると伝えたとされること。直訴の面会が六月二十九日午前に設定されたこと。
四方諒二が東京憲兵隊長として東條の腹心であり、岡田啓介・近衛文麿・米内光政・松平康昌ら和平派・重臣の邸宅周辺に憲兵の見張りが置かれ、内偵が行われていたこと。
加瀬が松谷を『極度に恐れられていた東條に面と向かって、これほど直言する人物は珍しかった』『その賞賛すべき勇気と性格を物語る』と高く評価し、松谷の中央追放を『重光と私にとっては打撃だった』と記したこと(加瀬の回想)。
【創作部分】
本場面が外務省二階の小部屋で、紅茶を挟んで行われたという情景、室内の薄暗さ、所作や間、両者の細かなやりとりは創作です。
加瀬が涙を流すという描写は創作です。史料には加瀬が涙したという直接の記述はありませんが、自重を促したにもかかわらず松谷が直訴を決行し、勲章を佩用した正装で前線赴任の挨拶に訪れた姿を見た加瀬が、同志を死地に送るに等しい悲痛な思いを抱いたことは、彼が残した最大限の賛辞から十分に読み取れます。本作はこれを涙という形で演出しました。
『一生の友』『戦後の日本を共に見届けたい』という加瀬の長台詞は、二人の関係の深さを描くための創作です。覚書を心臓の脇に拳銃と並べてしまう描写、『一方は言葉、一方は鉄』という対比も創作で、第55話の高木の私物拳銃・第56話の松谷の官給品拳銃の対照に連なる演出です。
昭和十八年四月の初対面の回想の細部(夕暮れの応接間でのやりとり)は、史実(重光外相就任時に松谷と加瀬が知り合ったこと)を踏まえた創作です。
【人物紹介】
■ 加瀬 俊一(かせ としかず、1903-2004)
外務省・外相秘書官。本話の中心人物。富山県の出。東京商科大学(現・一橋大学)在学中に外交官試験に合格し、中退して入省した英米通の俊才。重光葵外相の懐刀。本話では、松谷の直訴に涙を流して制止する姿で描かれる。普段は機知と如才なさを身上とするが、その仮面の下にある松谷への深い友情を吐露する。のちに四人組の一人として終戦工作に奔走し、戦後は初代国連大使を務める。
■ 松谷 誠(まつたに せい、1903-2000)
陸軍大佐。参謀本部戦争指導班長。本作の主人公。本話では、上官と盟友の制止を振り切り、東條への直訴の覚悟を固める。一人称は地の文で『俺』。
■ 四方 諒二(しかた りょうじ、1895-没年不詳)
陸軍大佐。本話時、東京憲兵隊長。東條英機の腹心の一人として東京憲兵隊を私兵のように使い、政界・宮中・軍中央の反対派を弾圧した。本話では、岡田大将・近衛公邸の前に憲兵の見張り所を置き、松谷の松平訪問を内偵する『東條政治の汚れ役』として、影として登場する。
■ 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900-1982)
陸軍大佐。東條英機首相の秘書官。本話では、二十九日の御目通りが整った旨と、『総理の顔色は青ざめている、進言は慎重に』という内々の伝言を松谷に届ける役回り。和平派ではないが、軍内の良心の一つとして、間接的に松谷の身を案じる。
■ 後宮 淳(うしろく じゅん、1884-1973)
陸軍大将。本話時、参謀本部高級次長。本話では言及のみ。翌朝、松谷が最初に進言する相手で、松谷の決死の報告に何の異議も示さなかったとされる。
■ 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893-1957)
内大臣秘書官長。本話では名のみ登場。松谷が加瀬の次に訪ねる、宮中につながる同志。次話で本格的に描かれる。
■ 重光 葵(しげみつ まもる、1887-1957)
外務大臣。加瀬の上司。本話では言及のみ。加瀬が『重光大臣の力を借りて、必ず貴方を中央へ呼び戻す』と語る、和平派の中核の一人。
【用語集】
■ 将来ノ戦争指導方針
昭和十九年六月末、松谷誠が東條への直訴のために起草した覚書。骨子は五項目――勝敗の山は見えた/ドイツ崩壊と同時に終戦を図る/国体護持のみを条件とする/対ソ外交を促進しソ連を通じた対米英外交の足がかりを作る/特派使節をソ連に派遣する。本話で松谷はこれを加瀬に示し、直訴の骨子として披露する。
■ 見解の相違
加瀬が東條に面詰された際、ドイツの抗戦力をめぐる問答の末に東條が吐き捨てた一言。加瀬が東條を『敗北という言葉を頭に入れられない方』と評する根拠として、本話で語られる。
■ 直言せぬのは良心にそむく
松谷が直訴を決意するにあたっての、自分自身への確認の言葉。加瀬の制止を振り切る場面の核心で、松谷の覚悟を端的に表す。松谷の戦後の回想や加瀬の回想録に記される。
■ 東京憲兵隊長
東京府内の憲兵隊を統括する陸軍大佐職。東條政権下では四方諒二大佐がこの職に就き、首相直属の私兵として、政界・軍中央・宮中・言論界の反対派を監視・弾圧した。岡田啓介・近衛文麿・米内光政・松平康昌らの邸宅前には、いずれも憲兵の見張り所が置かれた。
■ 内偵
憲兵が特定の人物の行動を秘密裏に追跡・監視・記録すること。見張り所の設置、電話の盗聴、尾行、邸宅周辺の張り込みなどが用いられた。本話の時点で、松谷・松平・近衛・岡田・米内らが四方の手の者の内偵下にあった。
■ 灯火管制
空襲を避けるため、夜間の灯火を遮蔽する戦時下の措置。本話の外務省の応接室の、カーテンに覆われた窓の描写が、この灯火管制下の街の様子を反映している。憲兵が闇に紛れて尾行するのを容易にする要因でもあった。
【参考文献】
■ 一次史料・回想録
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
加瀬俊一『ミズリー号への道程』文藝春秋新社、1951年
加瀬俊一『加瀬俊一回想録』山手書房、1986年
■ 二次史料・研究
吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社、1989年
吉見直人『終戦史――なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年
山本智之『主戦か講和か――帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年
(注)本話の会話・心理・情景は当方の創作です。とくに加瀬が涙を流す描写は創作です。松谷・加瀬の史料に残る実発言は趣旨を保持しつつ、本作の文体に直しました。




