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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第5章 海軍少将:高木惣吉編(昭和17(1942)年6月~)

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第1章 章末解説「昭和十八年の日本――数字と暮らしで読む転換の年」


 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。作者です。


 第1章の舞台は、昭和十八年(1943年)の三月から九月まででした。松谷たちが市ヶ谷台の小さな部屋で「終わらせ方」を考え始めたこの半年間、日本という国はどんな場所だったのか。物語の外側から、少しだけ解説させてください。



■ 一、戦局――「転進」と「玉砕」の年


 この年の戦局報道には、二つの新語が登場します。


 一つは「転進」。二月、半年に及ぶ飢えと病の地獄の末にガダルカナル島から撤収した日本軍を、大本営は「撤退」と言わず「転進」と発表しました。より簡単で正確な言葉を、故意に避けたのです。皮肉なことに、大本営の内部ではこの撤収が予想に反して成功したことへの安堵が記録に残っています。


 もう一つが「玉砕」。五月二十九日、アリューシャン列島のアッツ島で守備隊約二千六百名が全滅すると、翌日の発表はこの言葉で敗北を美化しました。新聞とラジオは大々的にこれを報じ、国民の敵愾心をかき立てます。しかし加瀬俊一が戦後回想したように、一島また一島と繰り返される「無意味な人命の犠牲」に、国民が次第に嫌気を感じていくのは当然のことでした。


 その間の五月二十一日には、四月十八日に戦死していた山本五十六連合艦隊司令長官の死が、一ヶ月以上の秘匿の末にようやく公表されます。国民の驚愕と悲嘆は大きく、軍中枢はこれを「山本死して山本死せず」と戦意高揚に転化しようとしました。


 第5話で重光が松谷に語った「まだ公表されておらんが」という言葉の裏には、こうした「発表」と「実相」の乖離――本作全体を貫くテーマ――があります。


■ 二、船――国力の限界線


 第2話で野尻少佐が、第8話で松谷が繰り返し見つめた「数字」の核心は、船でした。


 島国日本では、鉄も石油も米も、すべて船で運ばれます。船が止まれば、国が止まる。ところが昭和十八年、米潜水艦の跳梁により、日本の商船は新造約百四十万トンに対して喪失約二百六十万トン。沈む量が造る量を圧倒しました。月別に見ると、八月に約五万トンだった喪失は、十二月には約十三万トンへと急増していきます。


 国民生活と軍需生産を支える民需用の船腹は、最低三百万総トンが必要とされていました。実際の数字は、開戦時で約百二十三万トン、昭和十八年十一月には約百六万トン。もともと足りないものが、さらに減っていく。しかも九月の絶対国防圏設定に伴い、陸海軍は十月にさらに約二十五万総トンを民間から取り上げました。


 多くの非軍需産業が燃料と原料を絶たれて操業停止に追い込まれ、国民の生活水準は急落します。戦争指導課が研究した「ジリ貧」、そして松谷が重光に伝えた「来年一杯」という算定は、この船の数字の上に立っていました。


■ 三、暮らし――配給二合三勺と闇の値段


 では、市井の人々はどう暮らしていたのか。


 米の配給は一人一日二合三勺、約三百四十五グラム。主食はかろうじて保たれていましたが、副食は深刻でした。当時の細川護貞の記録によれば、魚の配給は十日に一度ほど、それも小鯵や鰯がわずかに数片。野菜も似たようなものでした。百貨店に行っても多いのは人の数ばかりで、商品は姿を消していきます。


 足りないものは闇で買うしかありません。砂糖は一年で値が二倍から三倍に、靴も洋酒もみるみる高騰していきました。配給の末端を担う隣組では、公債の割り当てなどをめぐる不公平への不満もくすぶっています。そして造船用の鉄を求めて、鍋や釜、寺の鐘までが供出されていきました。


 第6話の霞町の膳が「わずかばかりの刺身と冷酒」であったのは、こういう時代だからです。


■ 四、動員――学徒出陣と女子挺身隊


 兵力と労働力の枯渇も、この年に一線を越えます。


 十月、文科系学生の徴兵猶予が停止され、いわゆる学徒出陣が始まりました。十月二十一日、雨の神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会の光景は、時代の象徴として記憶されることになります。徴兵適齢も引き下げられました。


 男たちが戦場に送られた穴を埋めたのは、女性たちです。女子挺身隊として軍需工場に動員された女性は、翌十九年二月の時点で約四十七万人。旋盤を回し、わずか数日で技術を覚えて成績を上げる女学校出の隊員たちの姿が、海軍側の記録に残されています。


■ 五、監視――「東條憲兵政治」の空気


 そして、本作の登場人物たちが命を懸けていた理由が、これです。


 東條首相は腹心を東京憲兵隊長に据え、憲兵を政治的な監視の道具として使いました。世間には恐怖を込めて「東條憲兵」という言葉が生まれます。反東條・和平の動きに対しては、小型カメラや電話盗聴器まで用いた組織的な監視が行われ、近衛文麿のような元首相でさえ門前から見張られ、車を尾行されました。


 加瀬俊一は、自分の電話が傍受されていることを知った上で行動し、重臣を訪ねる際には憲兵の眼を避けねばなりませんでした。岡田啓介元首相も、迂闊なことはできないと警戒を隠していません。和平を口にすることは「敗戦主義」であり、逮捕の危険と隣り合わせだったのです。


 第7話で松谷と加瀬が「書類は残さぬ。口頭のみ」と誓い合い、第8話の重光・松谷会談がごく少数の胸の内に封じられたのは、演出ではなく、この時代の生存術でした。


■ 六、御前会議――「決意」が対策に代わるとき


 第1章の幕切れとなった九月三十日の御前会議について、現代の研究者の評価を紹介しておきます。


 会議では、昭和二十三年末までの長期戦を前提に絶対国防圏が設定されました。しかし飛行機生産をめぐる問答では、年産一万七、八千機を翌年四万機にするという目標に対し、具体的な方法は示されず、「決意でやっている」という答弁が繰り返されます。鈴木多聞氏はこの会議を、合理的な悲観論と観念的な強硬論が入り交じり、対策が「決意」の表明に置き換えられたものと分析し、天皇の心中も穏やかでなかったはずだと指摘しています。採択文書に「概ね昭和十九年中期を目途とし」の語が入ったこと自体、統帥部が翌年春まで戦線を保つ自信を欠いていた証左だとも。


 山本智之氏は、この決定を松谷ら戦争指導課の意見が押さえつけられた結果と位置づけています。第10話で描いた「九月案の敗北」は、単なる一幕僚の挫折ではなく、日本が引き返せる最後の分岐点の一つを通り過ぎた瞬間でもあったのです。


 ――それでも、松谷は止まりませんでした。


 第2章では、敗れた男たちがそれぞれの持ち場で再起し、宮中への細い扉が開かれていきます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。



■ 参考文献(本解説)

種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、1952年

軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 上』錦正社、2008年

加瀬俊一『ミズリー号への道程』文藝春秋新社、1951年

伊藤隆・渡邊行男編『続 重光葵手記』中央公論社、1988年

細川護貞『細川日記』中央公論社、1978年

伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』みすず書房、2000年

木戸幸一『木戸幸一日記 下』東京大学出版会、1966年

岡田啓介『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1950年

矢部貞治・近衛文麿伝記編纂刊行会編『近衛文麿 上下』弘文堂、1952年

鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』東京大学出版会、2011年

山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年


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