第52話「戦争指導刷新論(後編)――宮中へ届いた剣、闘う皇族」
◆ 前書き 矢部 貞治(やべ ていじ、東京大学名誉教授・政治学者、晩年の回想)
わたしは矢部貞治。
前回までで、わたしたちが「戦争指導刷新論」という一枚の紙を鍛え上げるまでを語った。雪の箱根で決起し、春の箱根の離れで書き、横須賀で死地へ赴く豊田大将に手渡した。
今宵はその紙が、わたしたちの手を離れてどこへ行ったかを語る。
剣は鍛えただけでは人を斬れぬ。振るう人が要る。わたしはそう言った。
その剣を握ったのは、思いがけぬ御方であった。
高松宮宣仁親王殿下。
昭和天皇の弟君であり、海軍大佐でもあられた皇族だ。
わたしたち在野の与太者が増田の座敷で酒を飲みながら書いた一枚の紙が、細川護貞さんの手を経て宮中の奥深くへ吸い込まれ、やがて殿下の口を借りて軍令部の会議室で火を噴いた。ついには兄君である天皇陛下にまで向けられた。
ペンと理屈が歴史の歯車を回す。そういうことが、本当に起こり得るのだと、わたしはこのとき初めて思い知った。
ただその裏で、海軍の巨魁・高木惣吉さんは一人、底の見えぬ孤独と疲れを抱えていた。
わたしたちが陽気に酒を飲んでいられたのは、あの人が表舞台で一人潰されかけていてくれたからだ。倒閣が近づくほどに、高木さんの背は重く沈んでいった。
昭和十九年五月から六月。一枚の紙が皇族を「闘う皇族」へと変え、ついに天皇への直訴にまで至る物語である。
【本文】
一 五月十日――剣、宮中へ消える
五月十日の夜のことだ。
わたしはその場にいなかった。後で高木さんから聞いた話である。
わたしたちが二通書き上げ、伏下大佐が複写した「戦争指導刷新論」の一通が、この日、宮中の奥へと渡った。
運んだのは細川護貞さん。近衛文麿公の女婿で高松宮殿下の情報係を務める人物であった。
高木さんが細川さんに託し、細川さんがそれを高松宮邸へ運んだ。
その晩、殿下は日記にこう書きつけられたという。
――一九〇〇、護貞。高木少将より「戦争指導刷新論」受。
夜七時。たったそれだけの記録である。
ただわたしにはその一行の重みがよく分かった。
増田の座敷で、二日酔いの炬燵の上で、横須賀の宴で。わたしたちが血と酒を注ぎ込んだあの紙が、ついに皇族の手に渡ったのだ。
後にこの話を聞いたとき、わたしは増田で天川と伏下大佐に語った。
「我々の剣は、とうとう宮中の奥へ消えていったよ」
「消えた、というのは」
天川が盃を止めた。
「もう我々の手の届かぬところへ行った、ということだ。あとはあの紙が、どなたかの手で振るわれるのを待つしかない」
伏下大佐が静かにコニャックを傾けた。
「振るうにふさわしい御方であればよいのですが」
わたしも同じことを案じていた。
せっかく鍛えた剣も握る人に覚悟がなければ抜かれもせず鞘の中で錆びる。重臣や皇族のなかには、絶望的な戦局を知りながら波風を立てるのを恐れて口をつぐむ人も多かった。
高松宮殿下とて、どういう御方か、わたしには分からなかった。
ただ後で知ることになる。
あの紙を握った殿下は、わたしたちの想像を遥かに超えて抜き身の剣を振り回す御方であった。
二 五月――殿下、変わる
五月の半ばから、高松宮殿下の御様子が変わった。
これも後に細川さんや高木さんから漏れ聞いた話を継ぎ合わせたものだ。
殿下はもともと絶望的な戦局を誰よりも早く見抜いておられた孤高の親王であった。ただ東條内閣を倒すことには慎重で、四月の初めまでは「いま東條を代えるのは作戦上考えものだ。もう少しやらせてみてはどうか」と仰っていたという。
その殿下が、五月に入って人が変わったように激しくなった。
きっかけは、わたしたちの「戦争指導刷新論」を読まれたことだ。
あの紙にわたしはこう書いた。
「必勝の信念ばかりを声高に叫んでも、客観の情勢を直視せぬそれは独りよがりの自己陶酔の念仏に過ぎぬ」。
原文――「必勝ノ信念ノミ呼号セラルルモ苛烈ナル客観情勢ノ透視ニ立タザルヲ以テ単ナル独善的自己陶酔ノ御題目ニ化シ」。
殿下はこの一節を、ご自分の日記の余白にまるで写し取るように書き留められたという。
――必勝信念をもってやれと云ふのが、宣伝の一つなり。必勝信念ありと云ふだけでは勝てぬ。
わたしが炬燵の上で書いた怒りが、皇族の筆でそのまま反復されていた。
わたしはこの話を聞いて背筋が震えた。
わたしの一行が、殿下の一行になった。
五月十四日、殿下は細川さんに激しい憤りをぶつけられたという。
あの頃、東條の不興を買った新聞記者が懲罰のように前線へ召集される事件が相次いでいた。殿下はこれを許せなかった。
「憲兵は全く困ったものだ。最近は数も増え、将校が逆に脅迫されることすらある。軍隊指揮の上からも重大な問題だ。そのうえ徴兵というものが個人に対する懲罰のように行われている。これは重大なことだ」
大元帥である天皇陛下の軍隊で、召集が国民を懲らしめる道具に使われている。皇族軍人として、殿下はこれを看過できなかった。
わたしたちの紙は、東條内閣の精神論と独善を理屈で斬るものであった。
殿下はその理屈を、ご自分の怒りと結びつけられた。
理屈に怒りが宿ると人は動く。
剣は握る人を得たのだ。
わたしの案じていた「振るうにふさわしい御方」は、思いがけぬほどの烈しさでその剣を抜こうとしておられた。
三 五月二十日――高木の弱気と、ウィスキーの夜
ところがその五月、わたしたち自身は思わぬ躓きを味わった。
五月二十日の午後三時、高木さんが増田にやってきた。
わたしと伏下大佐と天川の三人で迎えた。久しぶりに腰を据えてこれからの倒閣の段取りを詰めようというのだ。
ところが高木さんの様子がおかしかった。
いつもの鋭い知性の光がすっかり翳っていた。盃を持つ手にも力がない。
「高木さん。サイパンが危うい。絶対国防圏が破れるのは時間の問題です。いまこそ倒閣の好機ではありませんか」
わたしが切り出すと、高木さんは盃を見つめたまま低く呟いた。
「いや。決戦に臨んでいるこのときに政局を変えるのは、かえって困るのではないか」
わたしは耳を疑った。
「高木さん。それは本気で仰っているのですか」
あれほど東條を倒すと言い続けてきた人が、いまになって決戦を理由に政局変更を渋る。これまでの高木さんからは考えられぬ言葉であった。
天川が膝を乗り出した。
「高木少将、それでは話が違います。我々は何のために箱根で決起し、あの紙を書いたのですか」
「天川君の言う通りだ。決戦に勝てぬから態勢を立て直す。立て直すために東條を倒す。その順序ではなかったのですか」
伏下大佐も静かに、しかし鋭く詰め寄った。
三人で口々に追及した。
ところが高木さんは、それに正面から答えようとしなかった。本心を明かさぬまま言葉を濁し、やがて何かに耐えかねたように急に腰を上げた。
「すまん。今日はこれで失礼する」
そう言うが早いか、三人の追及を振り切るようにして、逃げるように帰っていった。
後に残されたのは、わたしたち三人と、高木さんが置いていったウィスキーの瓶が一本であった。
奥座敷に気まずい沈黙が落ちた。
「……なんだ、あれは」
天川がウィスキーの栓を乱暴に抜いた。
「我々をあれだけ焚きつけておいて、いざとなったら決戦に臨んで政局変更も困るだと。煮え切らないにもほどがある」
天川はグラスにウィスキーを注ぎぐいとあおった。
「リーダーがあの調子では、我々が尻を叩いてやらねば、いつまでたっても東條は倒れんぞ」
わたしもグラスを傾けた。高木さんの置いていったウィスキーである。皮肉なものであった。
「全くだ。あの煮え切らなさには、味気なささえ感じる」
わたしは正直、腹を立てていた。
ただグラスを重ねるうちに、その怒りはゆっくりと別のものに変わっていった。
わたしは思い出していた。四月の終わり、思想統一のためにこの座敷で会ったときの、高木さんの疲れ切った横顔を。一度この国が滅びて苦しむほうが、永遠の生命から言えばよいのかもしれぬ――そう漏らしたあの言葉を。
「……いや」
わたしはグラスを置いた。
「我々は気楽だ。この増田で酒を飲み、高木さんの愚痴をこうして肴にしていればいい。だが高木さんは違う」
天川と伏下大佐がわたしを見た。
「あの人は表舞台で、重臣相手に頭を下げ、皇族に伺候し、嶋田や東條の壁に何度も跳ね返されてきた。打てる手はすべて打って、どれも実を結ばずにいる。その重圧は、安全なこの座敷にいる我々の比ではない」
「だから弱音を吐いてもいい、と」
天川が不服そうに言った。
「いや、弱音は困る。困るが――責められもしない、ということだ」
わたしはウィスキーをもう一口含んだ。
「あの人が一人で重荷を背負って表で潰されかけているからこそ、我々は後ろで気楽に酒を飲んでいられる。あの背中が我々の防波堤なのだ」
伏下大佐が深く頷いた。
「では我々は、防波堤が崩れぬよう、後ろから支えるしかありませんな」
「そうだ。愚痴も弱音も全部受け止めて、それでも我々が理屈の杭を打ち込み続ける。高木さんが倒れぬように」
わたしは天川を見た。
「天川君。今日のことは、あまり失望したと顔に出すな。我々まで気を落とせば高木さんは本当に独りになる」
天川はしばらく黙っていたが、やがてグラスを干した。
「……分かりました。今日の憤慨は、このウィスキーで全部流します」
三人は無言でグラスを合わせた。
高木さんの置いていったウィスキーは、その夜のうちに空になった。
リーダーへの不満を肴に、わたしたちはかえって結束を固め直した。
これがわたしたち在野の流儀であった。表で潰れかけている男を、裏で酒を飲みながら、それでも見捨てずに支え続ける。
いま思えば、あの五月二十日の夜の、空になったウィスキーの瓶こそ、わたしたち四人の絆そのものであった。
四 六月――軍令部に響いた声
六月に入ると戦局は坂を転げ落ちるように悪化した。
マリアナのサイパンに敵の大軍が押し寄せた。絶対国防圏――これが破れれば本土が敵機の射程に入るという、最後の防衛線であった。
その防衛線が、いままさに破られようとしていた。
高松宮殿下の動きが、ここで一気に加速した。
わたしたちの紙が、ついに皇族の口を借りて公の場で火を噴いたのである。
六月八日、殿下は高木さんを御殿に召してこう仰せになったという。
「大臣と総長を分けるだけでは物足りぬ。いまは陸軍と海軍がよく諒解し提携して行かねば何もできぬ。それには海軍がしっかりした陣容で、海軍に課せられた重任を果たすために、その要求をはっきり示し、腹を割って交渉ができねばならぬ」
そして殿下は、わたしたちの紙の核心を、ご自分の言葉で言い切られた。
「言うべきことも言えず、求むべきことも求め得ず、ただ盲従するだけで、表面だけ安きを求めるのは、真の提携でもなく、海軍の責任を果たすゆえんでもない」
わたしは後でこの言葉を聞いて、息を呑んだ。
盲従。責任。
それはまさに、わたしが「戦争指導刷新論」に書いた言葉であった。明治以来の陸主海従、すなわち海軍が陸軍に盲従する習いを断て。海軍は政局の主導者たる主体的意志を確立せよ。小乗的な責任論を弄して自分だけ潔くあろうとし、国家の大義を忘れるな――そう書いた、あの理屈であった。
殿下はそれを完全にご自分のものにしておられた。
そして殿下はさらに踏み込まれた。
「そうした海軍の真剣な要求の結果、東條が退くことになれば、それで結構ではないか。糊塗することによる平穏は、あらゆる意味で責任を果たすゆえんではない」
四月の初めには「いま東條を代えるのは考えものだ」と仰っていた殿下が、いまや「東條が退いて結構」と言い切られた。
波風を恐れて東條を温存することこそ無責任だと。
完全な転回であった。
そしてその転回の起爆剤が、わたしたちの一枚の紙であったのだ。
さらに六月の末、殿下は海軍の作戦中枢である軍令部の会議で公然と言い放たれた。
「絶対国防線たるニューギニアからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れた以上、これまでのような大東亜共栄圏建設の理想は捨てよ。戦争の目的を、極端に言えば、いかにしてよく敗けるか、という点に置くべきものだと思う」
いかにしてよく敗けるか。
勝つためではない。よく敗けるために戦争目的を定め直せ。皇族が海軍の公式の会議でそう言い放ったのだ。
後で殿下はこう仰ったという。誰も分かった者はいなかったようだ、と。
周りの幕僚たちは、ぽかんとして殿下を見ていたらしい。共栄圏の理想を捨てよ、よく敗けることを考えよ――そんな言葉を皇族の口から聞くなど、誰も予期していなかった。
わたしはこの話を増田で聞いて、しばらく言葉が出なかった。
炬燵の上で書いたわたしの理屈が、皇族の口を借りて軍令部の会議室で炸裂していた。
「天川君、伏下大佐。我々の紙は、もう我々の手を離れて、とんでもないところで火を噴いているぞ」
天川は呆然としていた。
「皇族が軍令部で『よく敗けろ』と言われたのですか。我々の書いたあの理屈で」
「そうだ。一介の学者と主計将校の書いた紙が、皇族を動かした」
伏下大佐がコニャックを置いた。
「恐ろしいことですな。我々はとんでもないものを作ってしまった」
恐ろしい、というその言葉に、わたしは深く頷いた。
ペンと理屈は、こんなにも遠くまで届く。
五 六月十三日――兄君への直訴
そして六月十三日。
高松宮殿下は、ついに最後の一線を越えられた。
兄君である昭和天皇陛下に、直に倒閣を訴えられたのである。
これも後に細川さんや近衛公の周辺から漏れ聞いた話だ。
その夜、吹上の御文庫のホールで映画会が開かれていた。防空のために築かれた地下の広間で、太い円柱が天井を支えている。週に一度ほど、ニュースに続けて封切前の長編が映された。
その晩かかっていたのは「ベンガルの嵐」という一本であった。岡倉天心とインド独立の志士たちを描いた物語だという。昼間には皇太后さまが御見舞いに上がられ、陛下は気疲れなさっていた。映画が終わり、ようやく一息つこうと席を立たれたところであった。
その背に、共に観ておられた高松宮殿下が声を掛けられた。
「お話ししたいことがございます」
くつろいだ空気が、その一言で張り詰めた。円柱の影で、兄君と弟君が向かい合われた。
皇族が天皇に政治向きの直言をするなど本来あってはならぬことであった。ましてや現職の首相を辞めさせよと迫るなど。
ただ殿下はもはやそれを恐れなかった。
殿下は陛下に申し上げたという。
「東條内閣について、各方面でたいへん評判が悪いということを、お上はご存じありますまい。私のおります海軍でもそうです。このまま放ってはおけません。東條を辞めさせ、別の陣容で内閣をやらせてはどうかと、近衛なども考えております」
陛下はけげんなお顔をなさったという。
「高松さんは、何が言いたいのか」
殿下はひるまず続けられた。
「また戦争の実情も、個々の報告はともかく、全体の様相について、お上は正しい観点から報告を受けておられるかどうか」
そして殿下はあの言葉を兄君の前でも口にされた。
「私は現実を直視するとき、これまでのような大東亜共栄圏の夢を捨て、極端に言えば、戦争目的をいかにしてよく敗けるかという点に置くべき状況が来ることも考えておかねばならぬと思うのです」
陛下のお耳には政府の報告しか入っていないのではないか。お上は本当の戦局をご存じないのではないか。殿下はそう案じ、弟の立場で兄に諫言された。
陛下は当初これを退けようとされたという。
筋道を外れたルートから来る話は、いわば雑音というべきものだ、と。
政府の正規の報告以外の声は雑音に過ぎぬ、という意味であった。
いや、陛下のお言葉はそれにとどまらなかったと聞く。
「高松さんは、海軍のことは分かっても、天皇というものがどうあるべきかが分かっていない」
陛下は静かに、しかし揺るがぬ調子でそう仰せになったという。
「私は帝国憲法と、これまでの慣例にのっとって、天皇としての務めを果たしている。感じるままに臣下を動かす、戦国の大名や昔の皇帝とは違うのだ。だから政治のことも軍のことも、筋道を通して聞く。そこを取り違えれば国を乱す」
立憲の君主としての、重い矜持であった。だからこそ、筋道を外れた弟宮の直言を、陛下は雑音と退けようとなさった。
それでも殿下は引かれなかった。
「雑音と仰せられますが。では、お上は皇族を何とお考えでいらっしゃいますか」
陛下は静かな眼で見つめ返された。
「それなら聞くが。宮は何をするのか。何ができるのか」
一歩も引かぬ、兄弟の対峙であった。
普通であれば、皇族とて、兄君であり大元帥である天皇にそう問われれば口をつぐむほかない。
ところが殿下はひるまなかった。
鋭い眼差しで陛下を見つめ返し、こう言い放たれたという。
「お上のお考えはわかりました。しかし、雑音も大切だと思いますので、私は雑音のみ申し上げます」
私は雑音のみ申し上げます。
わたしはこの言葉を聞いたとき、全身が粟立った。
雑音と切り捨てられてもなお申し上げる。たとえ兄君に煙たがられても、国を救うために言うべきことは言う。
これが、わたしたちの一枚の紙が辿り着いた果てであった。
増田の座敷で酒を飲みながら書いた理屈が皇族を動かし、その皇族が天皇の御前で「雑音のみ申し上げます」と言い切るところまで来た。
わたしはその話を聞いて、しばらく天井を仰いでいた。
「天川君、伏下大佐」
わたしはようやく口を開いた。
「我々の剣は、宮中のいちばん奥にまで届いた。皇族の口を借りて、天皇陛下の御前で抜かれたのだ」
天川の目に涙が滲んでいた。
「我々の紙が……陛下の御前にまで」
「一枚の紙が、ここまで来た。本当に、ここまで来たんだ」
伏下大佐が静かにグラスを掲げた。
「乾杯、とは申せませんな。これはまだ途中です。ただ――確かに歴史の歯車は、動き始めました」
わたしたちはグラスを合わせた。
派手な祝杯ではなかった。むしろ厳粛な、静かな乾杯であった。
自分たちの書いた一枚の紙が、どれほど遠くまで、どれほど高いところまで届いてしまったか。その重さを噛み締める乾杯であった。
窓の外で六月の雨が静かに降っていた。
殿下はこの後、近衛公を焚きつけ海軍の急進派を背後から鼓舞し、終戦への国策転換を急がせていく。もはや単なる情報の受け手ではない。歴史を動かすキーパーソンとして能動的に動き始められた。
そして高木さんもまた、五月二十日にあれほど弱気を吐いていた人が、サイパン陥落という現実を前に再び立ち上がっていく。
夏が来る。
絶対国防圏は破れ、東條内閣は崩れていく。
ただそれはまた別の物語だ。
今宵わたしが語りたかったのは、一枚の紙が宮中へ届き、迷っておられた皇族を「闘う皇族」へと変えた、あの五月から六月までの、静かで激しい日々のことである。
◆ 後書き 矢部 貞治(晩年の回想)
いま戦後の静かな書斎で、わたしは「戦争指導刷新論」の写しを閉じる。
あの一枚の紙が辿った道を、わたしは何度も思い返す。
増田の座敷で生まれ、雪と春の箱根で鍛えられ、横須賀で死地へ赴く提督に渡され、そして細川さんの手を経て、宮中のいちばん奥へと届いた。
高松宮殿下は、もともと孤独な先覚者であられた。誰よりも早く「よい負け方」を考えておられた。ただ、具体的にどう動けばよいかは手探りであった。そこへわたしたちの紙が届き、迷いに理屈の裏付けが与えられた。
理屈に怒りが宿り、怒りが言葉になり、言葉が皇族の口を借りて軍令部に響き、ついには天皇の御前で「私は雑音のみ申し上げます」と炸裂した。
ペンと理屈が、確かに歴史の歯車を回したのだ。
ただ、わたしは忘れない。
その華々しい成果の裏で、高木さんが一人、どれほど重いものを背負っていたかを。
五月二十日、あの人が増田で弱音を吐いて逃げるように帰った夜。わたしたちは置いていかれたウィスキーをあおって憤慨した。だがあれは、憤慨というより、あの人の孤独を分かち持とうとする、不器用なやり方だったのだと、いまは思う。
表舞台で潰されかけている男がいて、裏で気楽に酒を飲む我々がいた。あの人が防波堤になってくれていたから、わたしたちは陽気でいられた。あの人が弱音を吐けたのは、わたしたちの前だけであったろう。
だからわたしたちは、あの人の愚痴も弱音も全部受け止めた。受け止めて、それでも理屈の杭を打ち込み続けた。あの人が倒れぬように。
それが、わたしたち在野の与太者にできる、ただ一つのことであった。
いまになって思う。終戦は、決して我々の手柄などではない。
たまたま客観の情勢が味方し、聖断という大きな御力を主体として、終戦の工作が実を結んだ。我々の一枚の紙は、その大きな流れに小さな一滴を加えたに過ぎぬ。
ただ、その一滴を加えるために、わたしたちは確かに命を懸けた。酒を飲み、笑い、憤慨し、泣きながら、命を懸けた。
あの日々を、わたしは生涯誇りに思う。
ところで――海軍に高木さんがいたように、陸軍にもまた、同じ志を秘めて一人静かに動いていた大佐がいた。わたしがその人の名を知るのは、もう少し後のことになる。
次回。物語はふたたび高木惣吉さんの視点に戻る。四月の終わりから五月にかけて、巨大な暗闘に一人疲れ果てた高木さんが、わたしのような在野の者の前でだけそっと弱音を吐き、そして慰められ、また立ち上がっていく――表舞台の英雄の、誰も知らない孤独と再起の物語である。
【次回予告】
第五十三話「高木惣吉、孤独の春――弱音を吐ける場所」。
ふたたび視点は海軍少将・高木惣吉に戻る。
昭和十九年四月下旬から五月。
重臣に説き、皇族に伺候し、嶋田と東條の厚い壁に何度も跳ね返される高木。打てる手はすべて打った。それでもどれ一つ実を結ばぬ。
巨大な倒閣の網を一人で背負い続けた男は、ついに底の見えぬ疲れに沈む。
「いっそ一度この国が滅びて、民族として重い苦しみを味わうほうが、永遠の生命から言えばよいのかもしれぬ」
そんな極限の弱気すら漏らす高木。
だがその弱音を吐ける場所が、あの男にはあった。
築地の料亭「増田」。在野の与太者たちの座敷。矢部貞治、伏下、天川。本流の軍人には決して見せられぬ顔を、あの自由でリベラルな連中の前でだけ、高木はそっと見せることができた。
そして五月二十日――高木は弱音を吐いて逃げるように帰る。残された三人は、高木の置いていったウィスキーをあおって憤慨し、しかしその実、リーダーの孤独を誰よりも案じていた。
表舞台の英雄が、唯一安らげた場所。弱音を吐き、慰められ、また立ち上がる、高木惣吉の孤独な春。
第五十三話、ご期待ください。
【筆者補記】
■ 史実と創作の区別
【史実に基づく部分】
5月10日夜、高木から細川護貞を経て高松宮に「戦争指導刷新論」が呈上された。高松宮日記同日条「一九〇〇護貞。高木少将ヨリ『戦争指導刷新論』受」(『高松宮日記 第七巻』)。
4月1日の高松宮の倒閣消極姿勢「いま東條を代えるのは作戦上考えもの、もう少しやらせてみては」(高木の高松宮拝謁記録)。
5月中の殿下の変化――刷新論の「必勝ノ信念ノミ呼号(中略)独善的自己陶酔ノ御題目」に呼応する日記余白の「必勝信念ありと云ふだけでは勝てぬ」、5月14日の憲兵・懲罰召集への憤り「徴兵が個人に対する懲罰のように行われている」(細川日記・高松宮日記5月補記欄)。
6月8日、高松宮が高木に語った言葉「ただ盲従を事として表面的にだけ安きを求むるのは(中略)海軍の責任を果す所以ではない」「斯様な海軍の真剣な要求の結果、東條が退るとなれば夫れで結構でないか。糊塗することによる平穏は(中略)責任を果す所以ではない」(高木海軍少将覚え書)。
刷新論原文の「陸主海従」「盲従」「主体的意志」「小乗的責任論を弄し(中略)社稷の大倫を忘るるは許すべからず」等の論理と、6月8日の殿下発言の符合。
【補説】「戦争指導刷新論」と高松宮発言の符合点
矢部・伏下・天川が起草し高木が主導した「戦争指導刷新論」(5月2日完成)の論理は、5月10日に高松宮へ呈上されて以降、宮の発言・記録に次のように精緻に再現されている。以下はいずれも一次史料(高木海軍少将覚え書・細川日記・高松宮日記)に裏付けられる符合点である。特に注目すべきは、下記の1~4については、米軍サイパン上陸の開始(1944年6月15日)により、東條内閣倒閣運動が一段と強くなる前から踏み込んだ発言をしていることである。更には、「戦争指導刷新論」が説く「一撃講和(和平)論」について理解を示すなどしていることも着目すべきではないかと考える(この時期はまだ少数派であった)。もちろん、すべてこの「戦争指導刷新論」の影響とまでは言えないが、日ごろから感じていたもやもやを論理的に整理して文章化し、更には数字的裏付けがされたこの「戦争指導刷新論」には発言の裏付け的根拠をもらったのではないかと推察する。
1. 海軍の「盲従」批判と、主体的責任の自覚(6月8日の軍令部等での発言)
【戦争指導刷新論】
原文:「而モ更ニ軍令、軍政ノ最高職権ノ兼併ヲ見タル如キソノ措置甚ダ不可解ニシテ陸海軍協力ノ名ニ於テ単ニ陸軍ニ盲従セルノ感ヲ禁ジ能ハザルナリ。(中略)今ニシテ海軍ガ政局担当者乃至主導者タラントスル主体的意志ヲ確立スルコトガ必勝ノタメノ絶対要件ナリ」
現代語訳:軍令・軍政の最高職権を兼任するような措置は甚だ不可解であり、陸海軍協力の名において単に陸軍へ盲従しているとの感を禁じ得ない。(中略)今こそ海軍が政局の主導者たる主体的意志を確立することが必勝のための絶対要件である。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月8日
出典:『高木海軍少将覚え書』および『高木惣吉 日記と情報 下』
発言:「海軍に課せられた重任を果す為に、その要求を明示し、腹を割って交渉が出来なければならぬ。言うべきことも得言わず、求むべきことも求め得ず、唯盲従を事として表面的にだけ安きを求むるのは、真の提携でもなく、また海軍の責任を果す所以ではない。斯様な海軍の真剣な要求の結果、東條が退るとなれば、それで結構でないか。糊塗することに依る平穏は、あらゆる意味で責任を果す所以ではない」
【解説】
ここで高松宮は、矢部や高木らが起草した「海軍の盲従批判」のロジックを自らの言葉として語っている。海軍が陸軍(東條内閣)に追従するだけの姿勢を厳しく断罪し、海軍自らが責任をもって政局転換(倒閣)に動くべきであるという刷新論の核心部分が、皇族軍人の決意として完全に吸収されていることがわかる。
2. 職権兼併への批判と大臣・総長の分離要求(6月8日の発言)
【戦争指導刷新論】
原文:「新局面担当者ノ重点ハ先ツ軍令軍政長官ニ置カルベシ。コノ場合両者ノ職権ヲ一人ニテ兼スルコトハ抜群ノ人傑ヲ別トシ一般ニハ不可ナリ。蓋シ戦略ト政略ニハ自ラ異ナル本領アリ。(中略)一人ノ能力ニハ自ラ限度アリ、重大職権ヲ少数者ニテ兼併スルハ大局ニ於テ独断偏狭危険ヲモ伴フ。コノ故ニ大臣ト総長トハ別個ノ人分担シツ而モ密接ニ協同スルヲ要スルナリ」
現代語訳:新局面の担当者はまず軍令・軍政の長官に置かれるべきである。この場合、両者の職権を一人で兼任することは、抜群の傑物でない限り一般には不可である。戦略と政略には自ずから異なる本領があるからだ。(中略)一人の能力には限度があり、重大な職権を少人数で兼任することは独断や偏狭の危険を伴う。ゆえに大臣と総長は別々の人間が分担し、密接に協同する必要がある。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月8日
出典:『高木海軍少将覚え書』および『高木惣吉 日記と情報 下』
発言:「大臣と総長の分離だけでは物足らぬ。今日は陸軍と海軍とが良く諒解し、提携して行かねば何も出来ぬ。(中略)時期としては既に遅きに過ぎる。敵がミンダナオ島に取付こうとする土壇場に来て建直しの已むなきは、まことに手遅れではあるが致方がない」
【解説】
東條英機と嶋田繁太郎による権力集中(職権兼併)に対する論理的批判である。刷新論が指摘した「一人の能力の限界」と「戦略・政略の分離」という主張は、高松宮における嶋田更迭論および兼任解除要求と完全に同期している。
3. 政府による情報遮断への批判と現状直視(6月13日の昭和天皇への進言)
【戦争指導刷新論】
原文:「『必勝ノ信念』ノミ呼号セラルルモ苛烈ナル客観情勢ノ透視ニ立タザルヲ以テ単ナル独善的自己陶酔ノ御題目ニ化シ」、「ソノ恣意的ナル憲兵政治、ソノ劃一的悪平等的ナル警察的統制主義、ソノ神経過敏的ナル言論統制、ソノ食糧問題ニ於ケル不安等相俟ツテ徒ニ人心ヲ萎縮セシメ心中ニ不満ヲノミ蓄積セシメ政治ヘノ不信ヲ醸生シ来レルコトヲ看過シ能ハザルナリ」
現代語訳:「必勝の信念」ばかりが叫ばれるが、苛烈な客観情勢を直視していないため、単なる独善的な自己陶酔のお題目に化している。恣意的な憲兵政治や言論統制が人心を萎縮させ、政治への不信を生んでいる現状を見過ごすことはできない。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月13日
出典:『細川日記』(事後報告としての記載)および『東條英機暗殺の夏 上』における対話
発言:「私の申しておりますのは、お上のお耳に達するのが政府関係からの情報ばかりで、それ以外の者の話をお聞きになる機会がまったくおありにならないことです。結果、お上の了解される国情は、真相をだいぶ離れているのではないかと懸念するのです」
「お上の考えはわかりました。しかし、雑音も大切だと思いますので、私は雑音のみを申上げます」
【解説】
東條内閣による情報統制と空虚な精神論によって、最高権力者である天皇にすら真実が届いていないという強い危機感の表れである。刷新論が指摘した「客観情勢の透視の欠如」という問題意識が、高松宮を突き動かし、天皇への直接的な直訴という激しい行動へと至らせている。
4. 平和的政局転換の閉塞と非合法手段への言及
【戦争指導刷新論】
原文:「然ルニ現下ノ我ガ政情ニ於テハ政局ノ順調ナル平和的転換ノ方途ハ殆ンド閉塞セラル」
現代語訳:現在の我が国の政情においては、政局の順調で平和的な転換の方途はほとんど閉塞されている。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月13日
出典:『細川日記』
発言:「合理的なる理由を以て戦争を終結せしめんとの努力は、常に陸軍の精神論の為に阻まれる。従って我々も非合理的なる方法によらねばならない」
【解説】
合法的な倒閣工作がもはや不可能に近いという絶望感の共有である。知識人や中堅幕僚たちが抱いていた正攻法による政権交代の限界という認識が、高松宮をして「非合理的なる方法(テロやクーデターを含む非常手段)」の必要性にまで言及させるに至っている。
5. 艦隊決戦を和平の契機とする戦略眼
【戦争指導刷新論】
原文:「敵機動部隊ノ出動ヲ捕捉シテ之ニ壊滅的打撃ヲ与フベキ乾坤一擲ノ大決戦ヲ敢行シ、敵ノ再起ヲ少ナクトモ一ヶ年乃至一ヶ年半ノ間不能ナラシメ、同時ニ最モ活溌ナル外交政略戦ヲ展開シ、敵ヲシテ遂ニ戦意ヲ挫折スルニ至ラシムルコト現戦争完遂ノ唯一ノ方途ナリ」
現代語訳:敵機動部隊を捕捉して壊滅的打撃を与える乾坤一擲の大決戦を敢行し、敵の再起を一年から一年半の間封じたうえで、同時に最も活発な外交・政略戦を展開して敵の戦意をくじくことこそが、現戦争を完遂する唯一の道である。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月30日(※嶋田海相との対話を7月10日に細川護貞へ回想)
出典:『細川日記』
発言:「実は島田に会ってその為の最後の決戦の話をしたのだが、依然『必勝の信念』とか最善を尽してゐるとか抽象的のことばかり云つてゐたが、決戦を考へてみると云ふ所まではやつと来てゐる様だし、又その為には、此の内閣ではいかんことも、朧気ながら判つてゐる様だ」
【解説】
戦闘そのものを目的とするのではなく、「最後の一撃」を加えた上でそれを外交交渉(和平工作)のきっかけとするという冷徹な政治的・軍事的な戦略思想である。刷新論のこの基本構想を、高松宮はそのまま海軍トップである嶋田海相に直接ぶつけ、状況の打開を図っている。
6. 大東亜共栄圏の放棄と「いかにしてよく敗けるか」への飛躍
【戦争指導刷新論】
原文:「今ニシテ政局ヲ転換シ人心ヲ一新スル所ナクンバ決戦殆ンド必勝ノ算ナシ」(※決戦に敗れた場合は希望がないという危機感)
現代語訳:今政局を転換し人心を一新しなければ、決戦に必勝の算はほとんどない。
【高松宮宣仁親王の発言】
発言日:昭和19年(1944年)6月30日
出典:『細川日記』
発言:「自分も軍令部内の会議で、『既に絶対国防線たるニューギニヤからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れたる以上、従来の様な東亜共栄圏建設の理想を捨て、戦争目的を、極端に云って、如何にしてよく敗けるか、と云ふ点に置くべきものだと思ふ』と云つたのだが、誰も判つた者は居なかった様だ」
【解説】
刷新論が突きつけた「決戦に敗れれば希望がない」という絶望的な現実認識から、高松宮はさらにもう一歩踏み込み、「大東亜共栄圏の放棄」と「いかにしてよく敗けるか」という敗戦の受容、そして終戦への覚悟へと到達している。知識人の練り上げた論理が、皇族の冷徹な決断へと昇華された瞬間である。
【創作部分】
前書き・後書きの矢部の晩年の回想。語りの形式は創作。
高松宮の発言・天皇との応答は、矢部が直接の現場にいないため「後に細川や高木から漏れ聞いた」という伝聞の枠で提示した。発言の要旨は史実、矢部が聞いて受けた衝撃の描写は創作。
5月20日のウィスキーの夜の三人の台詞の細部、矢部が怒りを高木への理解へ転じていく内面描写は文学的演出(出来事・気遣いの事実は日記に拠る)。
6月13日の直訴を増田で聞いた三人の反応(天川の涙、伏下の『厳粛な乾杯』等)は創作。
天皇直訴の場面――御文庫ホール・「ベンガルの嵐」上映後・皇太后の見舞いという骨格は史実(吉松安弘の構成に拠る)。天皇の立憲君主としての反論(「天皇というものがどうあるべきか」「帝国憲法と慣例にのっとって務めを果たす」「戦国の大名や昔の皇帝とは違う」)および「宮は何をするのか」という問い返しは、史料に残る天皇の趣旨を本作独自の現代文に再構成したもの。吉松版の創作台詞は引用せず、一次史料(細川日記)の言上「私は雑音のみ申し上げます」を核に据えた。
【人物紹介】
■ 矢部 貞治(やべ ていじ、1902-1967)
東京帝国大学法学部教授(政治学)。鳥取県出身。本話の語り手。「戦争指導刷新論」の起草者。本話では、自らが書いた紙が宮中へ渡り皇族を動かしていく過程を、伝聞と回想で見つめる。高木の弱音を受け止め、在野の同志として支え続ける。
■ 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893-1979)
海軍少将。熊本県人吉出身。海兵43期、海大甲種29期首席。本話時点で海軍省教育局長。「戦争指導刷新論」を高松宮に呈上した張本人。重臣・皇族を相手に巨大な倒閣工作を一人で背負い、本話では5月20日に増田で弱音を吐いて逃げ帰るほどの孤独と疲労を見せる。矢部を「矢部君」と親しく呼ぶ。次回(第53話)の主人公・語り手。
■ 高松宮 宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905-1987)
昭和天皇の弟宮。海軍大佐。本話の事実上の主役。早くから「よい負け方」を考えていた孤高の親王だが、4月までは東條倒閣に消極的であった。5月10日に「戦争指導刷新論」を受け取って以降、精神論への批判・海軍の盲従打破・倒閣容認へと急速に転換。6月には軍令部会議で「いかにしてよく敗けるか」と公言し、6月13日には兄・昭和天皇に直訴して「私は雑音のみ申し上げます」と言い切る「闘う皇族」へと変貌する。
■ 細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912-2005)
近衛文麿の女婿。高松宮宣仁親王の情報係。高木から託された「戦争指導刷新論」を高松宮に運んだ。本話では、紙を宮中へ運ぶ橋渡し役、および殿下の言動を矢部らに伝える情報源として描かれる。
■ 伏下 哲夫
海軍主計大佐(5月1日付昇進)。「戦争指導刷新論」に資料と忠告を提供し完成稿を複写した。冷徹な国際経済アナリスト。本話では、5月20日のウィスキーの夜に「防波堤が崩れぬよう後ろから支える」と結束をまとめる役を担う。
■ 天川 勇
海軍嘱託(のち海軍教授)。慶應義塾大学文学部講師から転身した熱血漢。本話では、5月20日に高木の弱気に最も激しく憤慨するが、矢部に諭されて「憤慨はウィスキーで流す」と結束に戻る。
■ 昭和天皇(しょうわてんのう、1901-1989)
第124代天皇。本話では、6月13日に弟宮・高松宮から倒閣と「よく敗ける」ことを直訴され、当初は「雑音」と退けようとする人物として登場(発言は史料に基づく要旨)。
■ 東條 英機(とうじょう ひでき、1884-1948)
陸軍大将。内閣総理大臣・陸相・参謀総長を兼任。本話では倒閣工作の標的として言及。新聞記者の懲罰召集など強権的統制が、高松宮の憤りを招いた。
■ 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883-1976)
海軍大将。海相・軍令部総長を兼任。「東條の従僕」と揶揄された。海軍の自主性を失わせた元凶として「戦争指導刷新論」と高松宮の双方から批判された。本話で言及。
【用語集】
■ 戦争指導刷新論
矢部貞治が起草し、伏下哲夫・天川勇・島田大尉が海軍機密データと忠告を提供して作成された極秘文書。「決戦必勝のためには東條内閣を打倒し戦争指導態勢を根本的に刷新する以外にない」と説く。5月10日、細川護貞を通じて高松宮に呈上され、迷っていた殿下を倒閣・終戦へ突き動かす起爆剤となった。
■ 陸主海従
明治以来の、陸軍が主・海軍が従という関係。「戦争指導刷新論」はこれを惰性的に守ることを断じて許さず、総力戦の時代には海軍が政局の主導者たる主体的意志を持つべきだと説いた。高松宮も6月8日の発言でこの「盲従」を厳しく批判した。
■ 絶対国防圏
昭和18年9月に設定された、これだけは絶対に守り抜くとされた防衛線。マリアナ(サイパン)、西部ニューギニア、パラオ等を結ぶ。これが破れれば本土が敵機の射程に入る。本話の6月、サイパンへの米軍来攻でこの線が破られようとし、高松宮の倒閣論を決定的にした。
■ いかにしてよく敗けるか
勝利が不可能となった以上、戦争目的を「勝つこと」から「いかに被害少なく、国体を保ったまま戦争を終わらせるか(上手に負けるか)」へ転換すべきだという考え。高松宮が6月末の軍令部会議で公言し、6月13日には天皇にも直言した。
■ 私は雑音のみ申し上げます
6月13日、高松宮が昭和天皇に倒閣と終戦を直訴した際、天皇が政府の正規報告以外の声を「雑音」と退けようとしたのに対し、殿下が言い放った言葉。雑音と切り捨てられても国のために言うべきことは言う、という覚悟を示す。
■ 出師之表
いくさに出陣するにあたり君主に決意や諌言を奉る上奏文。前話(中編)で、海相に担げなくなった豊田大将に「戦争指導刷新論」を託す形を、矢部がこう表現した。本話では言及のみ。
■ 増田
築地の料亭。矢部ら「高木機関」の東京での隠れ家。本話では、5月20日に高木が弱音を吐いた座敷であり、三人がウィスキーで憤慨し結束を固め直した場でもある。
■ 高木機関
高木惣吉少将を頭とする、矢部・伏下・天川ら民間人・主計将校のグループに対し、憲兵や特高が陰で用いた呼称。当人たちは名乗らなかった。本アークで描かれた一連の倒閣工作の主体。
【参考文献】
(表記は「著者『書名』出版社、刊行年」の順。本話の執筆にあたり特に以下の史料・文献に依拠した)
■ 一次史料(日記・覚え書・記録)
・矢部貞治著、日記刊行会編『矢部貞治日記(全四巻)』読売新聞社、1974年〜1975年
・伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(上・下)』みすず書房、2000年
・高木惣吉『高木海軍少将覚え書き』毎日新聞社、1979年
・高松宮宣仁親王『高松宮日記(第七巻)』中央公論社、1997年
・細川護貞『細川日記』中央公論社、1978年
■ 回想録・伝記
・川越重男『救国・聖断の史』人吉中央出版社、2003年
・吉松安弘『東條英機暗殺の夏(上)』新潮社、1984年
■ 研究書
・鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943―1945』東京大学出版会、2011年
・山本智之『「聖断」の終戦史』NHK出版新書、2015年
・山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮文庫、2013年
・吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年
■ 史料テキスト
・「戦争指導刷新論」原文(高木惣吉日記所収)。本話で引用・現代語訳した各項目(「必勝ノ信念ノミ呼号……独善的自己陶酔ノ御題目ニ化シ」、および「陸主海従」「盲従」「主体的意志」「小乗的責任論」等)はこのテキストに拠る。
※ 本話は上記史料に基づく歴史小説であり、史実を踏まえつつ会話・心理・情景描写に創作を加えています。とくに高松宮殿下や昭和天皇の発言は史料に基づく要旨であり、矢部がそれを伝聞・回想として受け止める枠組みは創作です。史実と創作の区別は前掲の補記に明記しました。




