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第5話「重光葵外相との再会」

 読者の皆さん、はじめまして。加瀬俊一かせ・としかずと申します。


 私は外務省の一秘書官に過ぎませんでした。松岡、東郷、そして重光外相――三度も政務秘書官を務めてまいりました。


 しかし昭和十八年の春、私の上司となった重光大臣のもとへ、一人の陸軍大佐が軍服のまま訪ねてきた日から、私の外交官人生は、密かに、しかし決定的に、方向を変えることになるのです。

 昭和十八年四月二十日。


 春の陽射しは穏やかだったが、俺の胸中は波打っていた。


 ラジオが、東條内閣の改造人事を告げている。外務大臣・重光葵しげみつ・まもる。駐華大使であったあの男が、ついに外交の頂点に立ったのだ。


 ――重光大使が、外相に。


 湯呑の白湯から、湯気がふらりと立ち上る。俺はそれをぼんやりと見つめながら、南京で過ごした日々を思い返していた。


 昭和十七年の、夏の頃だった。


 南京の大使公邸。蒸し暑い空気の中、重光大使は義足を引きずりながら、俺を応接間に迎えてくれた。上海で爆弾テロに遭い、片脚を失ったあの人は、しかし不思議なほど静謐な顔で椅子に座っていた。


 話題は、欧州戦局に及んだ。


「松谷君」

 低く澄んだ声で、重光はそう切り出した。

「英国とソ連を甘く見てはいかん。あれらは――戦い抜く国だ」


 俺は身を乗り出した。

「ヒトラーは? 」

「信じられぬ男だ」


 重光は、窓の外の長江の方を見やりながら、はっきりと言った。


「あの男は、同盟国を裏切ることを何とも思わん。わが陸軍中央部は、ドイツを頼みに戦争を始めた。だが、ヒトラーは――勝ち逃げするか、日本を置き去りにするか、そのどちらかだ」


 俺は全身に電流が走るのを感じた。

 駐華大使の口から、これを聞く。


 昭和十八年三月、俺が参謀本部戦争指導課長として着任したとき、頭の中にはずっと、重光のあの言葉が鳴り続けていた。


 ――その重光さんが、外務大臣。

 俺は立ち上がった。

 今こそ、動くべきときだ。


    *


 四月下旬のある日、俺は陸軍省の通用門を出て、霞が関へ向かった。


 外務省――石造りの重厚な玄関ホールは、革と古紙の匂いが漂っていた。軍服姿の俺を、玄関の衛視は不思議そうに見送る。陸軍大佐が外務省に用があるなど、よほど珍しいのだろう。


 大臣官房の廊下を歩く。磨き上げられた床、高い天井。階級章のない世界の静謐さが、参謀本部のそれとは、まるで違う。


「お入りください」


 扉の向こうから、張りのある声。

 俺は姿勢を正し、入室した。


「重光大使――失礼、大臣。お久しぶりです」


 大臣室の奥、義足のまま立って俺を迎えた重光葵は、以前よりも痩せたように見えた。しかし、目の光は、以前にもまして鋭い。


「来たか、松谷君。今は参謀本部か」


 重光は、俺の手をぎゅっと握った。


「来ると思っていた」

「は」


「南京で、君に話したことがあろう。戦い抜く英ソと、信じられぬヒトラーの話を」

「覚えております」


「今は、あの時よりもっと厳しい。ガダルカナルが失陥し、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アッツ島は玉砕寸前だ。戦争を、どう終らせるか――これが、わしが入閣した意義だ」


 俺は、胸の内が熱くなるのを感じた。

 重光は続けた。


「東條総理は、わしの入閣の際、一つだけ言った。『天皇陛下が、平和の時期について心配せられた』と。陛下は、すでに、終戦を念じておられるのだ」


 俺の鼓動が、一拍、大きく跳ねた。


 天皇陛下のご意向――。


 これは、陸軍の一大佐が、直接聞いてよい話ではなかった。しかし重光は、俺にそれを告げた。俺を、「同志」と認めた証だった。


 重光は微笑み、ふと後ろを振り返った。


「加瀬君」


 奥の扉が、静かに開いた。


「紹介しよう。わが政務秘書官、加瀬俊一。外務省の俊英、英米通で、松岡・東郷と歴代外相に仕えてきた男だ。今後、君と彼が連絡を取り合うことになろう」


 ――これが、その男と俺との、最初の出会いだった。


【後書き】(重光葵より)

 重光葵である。


 松谷君を加瀬君に引き合わせたあの日、わしは一つの賭けをした。陸軍と外務省、水と油と言われた両省を、たった一本の糸で結ぶ――その糸を、この二人の若い男に託したのだ。


 次回、その糸が、結び目になる。霞町の小さな料亭で、ささやかな、しかし歴史的な盟約が交わされる。


【本話初出の人物プロフィール】


重光葵(しげみつ・まもる)

明治二十年(一八八七)~昭和三十二年(一九五七)。登場時五十五歳(四月就任時)。大分県出身。東京帝国大学法科大学卒業、外務省入省。昭和八年外務次官、十一年駐ソ大使、十三年駐英大使、十七年駐華大使。昭和七年四月二十九日の上海天長節祝賀会場での爆弾テロにより右脚を失い、以後義足。昭和十八年四月二十日、東條内閣外相に就任。


加瀬俊一(かせ・としかず)※本話ラストで登場、本格描写は次話

(プロフィール詳細は次話に掲載)


【本話初出の用語】

駐華大使(ちゅうかたいし)

中華民国(当時は汪兆銘政権下の南京政府)駐箚(ちゅうさつ)日本国大使。重光葵は昭和十七年初頭より昭和十八年四月まで南京に駐在し、この時期に松谷が支那派遣軍参謀として重光と面識を得た。


外務省・大臣官房(がいむしょう・だいじんかんぼう)

霞が関に所在する外交主管省庁、およびその中枢部局。本話で松谷が足を運ぶ舞台。


連合艦隊(れんごうかんたい)

帝国海軍の主力艦隊編成。司令長官は海軍大将または中将が任じられ、事実上の海軍

最高実戦指揮官。


玉砕(ぎょくさい)

部隊全員が降伏せずに戦死すること。アッツ島(昭和十八年五月)以降、日本軍の「敗北」を美化する用語として大本営発表で多用された。


アッツ(島)

アリューシャン列島西端の島。昭和十七年六月日本軍占領、昭和十八年五月二十九日守備隊玉砕。本話の時点で戦況は既に明確に守勢に転じていた。

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