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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉


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第4話「師、酒井鎬次中将――戦争指導の三要訣」

【前書き】(酒井鎬次より)


 酒井鎬次である。予備役陸軍中将、五十八歳。


 昭和十八年春、わしは沢田茂中将らと共に「軍事研究会」の一員として、参謀本部に名を連ねておった。


陸大教官時代には毒舌で生徒に泣かれ、東條英機からは煙たがられ、ついに予備役に編入された老兵学者にすぎぬ。


 そこへ、若き陸軍大佐が、扉を叩いた。彼の眼の中に、わしは、何か通じるものを見た。最後まで辛辣(しんらつ)な言葉を使わなかった理由は、いまでも、自分でも不思議に思うておる。

 昭和十八年三月三十日、夕刻。


 俺は参謀本部三階の廊下を、一歩、また一歩、奥へと歩いていた。


 革靴の音が、薄暗い廊下に、いやに響く。各部屋の扉はすでに大半が閉ざされ、漏れ出る灯は、わずかである。三階の最奥――北側の角部屋。「軍事研究会連絡室」と小さな札が、扉の脇に掛かっていた。


 俺は、軍帽を脇に抱え、扉を二度、軽く叩いた。


「失礼いたします。小官、松谷誠と申します」


 返事はなかった。


 もう一度、叩こうとした手が、止まった。中から、しゃがれた声が聞こえてきたからだ。


「入りたまえ」


 俺は、扉を開けた。


 部屋の中は、薄暗かった。


 窓辺の机に、白髪の老人が坐っていた。電気スタンドの黄色い光だけが、机上の本と原稿用紙を照らし、老人の顔の半分は、影に沈んでいる。


 部屋には、墨と紙の匂い、それに、かすかに煙草の香りが漂っていた。本棚は壁の三方を埋め、フランス語の背表紙が並んでいた。本の山の上に、訳書らしき一冊が無造作に積まれている。表紙には、酒井鎬次・訳『大戦回顧録』(クレマンソー著)、と書かれていた。


 部屋の隅には、小さな会議机と椅子が四脚。沢田茂中将や、桑木崇明中将ら、軍事研究会の他の会員たちと、ここで時折、研究を持ち寄って議論するのだろう、と俺は察した。


「失礼いたします、閣下」


 俺は、扉を後ろ手に閉め、姿勢を正した。


 酒井鎬次――陸士十八期、陸大二十六期。歩兵畑からフランス駐在を経て、陸大教官、第一師団参謀長、第十一師団長を歴任。昭和十四年予備役。()せた頬、白く長い眉、しかし眼の奥は、五十八歳とは思えぬ鋭利さを(たた)えている。


 酒井は、ゆっくりと顔を上げ、俺をじろりと見た。


「何の用かね」


 いきなりの、低い問いだった。


 毒舌で鳴る老兵学者の前である。()びは一瞬で見抜かれる。媚びぬ、しかし礼を欠かぬ。俺はその一線を、最初の一言で示さねばならぬ、と覚悟していた。


 俺は、一礼し、単刀直入に切り出した。


「小官、本日より戦争指導課にて、世界戦争終末方策の研究を、正式に開始いたしました。自分にはそのような研究を()べる知識がなく、真に汗顔(かんがん)の至りであります。ぜひ、閣下のご指導を賜りたく、参上いたしました」


 酒井の眉が、わずかに動いた。


「ほう。終末方策とな」


 老人は、ペンを()き、椅子の背にもたれた。


「君は、英国勤務の経験があるそうだな」

「は。駐英武官補佐官として、昭和十年末から十三年まで、ロンドンに駐在いたしました」

「帰路、米国を経由したと聞いておる」

「は。ニューヨーク、ピッツバーグ、デトロイト、シカゴ――米国の工業地帯を、ひと月ほど見て回りました」


「ふむ」


 酒井は、ふっと、息を吐いた。


「ではわかっておろう。英国という国の、あの地力を」

「存じております」


「米国の、あの工場の数を」

「存じております」


 部屋に、しばし、沈黙が降りた。


 電気スタンドの黄色い光が、机上で、わずかに揺れた。窓の外、夜の市ヶ谷台に、冷たい風の音がする。


 やがて、酒井は、ぽつりと言った。


「ドイツは、敗ける」


 俺は、背筋に、すっと冷気が走った。


 予備役とはいえ、陸軍中将の口から――いま、陸軍中央の絶対多数がドイツ勝利を信じて疑わぬこの時に――この言葉を、聞くとは。


 酒井は、続けた。


「昭和十九年六月頃、独は脱落必至。それまでに、日本は一大打撃を敵に与え、これに乗じて対米英妥協和平を決行せねばならぬ。いや――それすら、すでに遅いかもしれぬ」


「……」


「松谷君」


 老将は、わずかに身を乗り出した。スタンドの光が、彼の顔の半分を照らした。眉の下の眼が、深く沈んだ井戸の底のように、底光りしていた。


「一つ、覚えておけ。戦争指導の要訣はな――ただ三つだ」


 俺は、姿勢を正した。膝の上で、拳を握った。

 酒井は、低く、しかし明瞭(めいりょう)に、唱えた。



「第一、戦争目的の確立」

「何のために戦うのか。そこを誤れば、戦争は際限なく膨れ上がる」


「第二、進軍限界の規制」

「どこで止まるのか。どこから先に進めば、それは過剰となるのか。これを規制せぬ国は、必ず破滅する」


「第三、終戦方策の把握」

「いかに終らせるのか。これを最初から準備しておかねば、戦争はただの消耗と、滅亡になる」



 酒井は、息を吐いた。

「日本は、この三つのうち、三つ目を、完全に忘れて始めた。故に、終らせようがない」


 俺は、しばらく、声が出なかった。


 目的の確立。進軍限界の規制。終戦方策の把握。


 この三語は、俺の胸の奥に、焼き(ごて)のように、押し当てられた。


 着任の朝、杉山閣下から授かった「白紙の書類」――誰にも見せず、誰にも語らず、しかし確かに書かれている、あの白紙。


 その白紙の上に、俺はいま、酒井閣下から授かった三語を、見えぬインクで書きつける思いがした。


「閣下」


 俺は、一歩、踏み込んだ。


「今後、ときどき、ご教示を賜りたく存じます」


 酒井は、ふっと、笑った。


 年甲斐もなく、少年のような悪戯(いたずら)な笑みだった。


「陸大教官時代には、わしは毒舌で鳴らしてな。生徒に泣かれた者も多い。だが、君には――使わんでおこう」


「はっ? 」


「松谷君、君は、わかっておる男だ。世辞(せじ)はいらん」


 老将は、机の抽斗(ひきだし)を開け、一冊の本を取り出した。表紙には『戦争指導の実際』と、太い墨字で書かれていた。著者は、酒井自身。


「持っていけ。熟読せよ。手前味噌だが、わしが人生をかけて、後進のために書いたものだ。特に、腐敗し切ったフランス陸軍を粛清(しゅくせい)し、独軍を退けたクレマンソーの血の記録は、参考になるだろう」


 俺は、両手で、それを受け取った。ずっしりと重く、紙の匂いがした。


    *


「松谷君」


 立ち去ろうとする俺を、酒井は呼び止めた。


「は」

「君の課――戦争指導課は、わしらの軍事研究会と、車の両輪だ。わしらは、史的研究、敵国情勢の分析、ドイツ没落への対応策、対ソ連問題――そういう深いところを掘る。だが、その成果を、国策案として上層部の机に運ぶのは、君の課の仕事だ」


「は」


「沢田茂中将、桑木崇明中将、橋本群中将――軍事研究会には、君が頼れる老兵が、まだ何人もおる。彼らの研究、遠慮なく聴きに来い」


「ありがたく」

「とくに、年末までに考究せねばならぬのは、三つ」


 酒井は、人差し指を立てた。

「一つ、ドイツ没落に際し、わが方の採るべき方策」

「二つ」

 中指を立てた。

「全面和平か、否か――この問題」

「三つ」

 薬指を立てた。

「対ソ連問題。スターリンとは、いかなる国家手法を取る男なのか。ソ連が日ソ中立条約を遵守する保証は、どこにあるのか。和平の仲介を、ソ連に託せるのか、託せぬのか」


 俺は、息を呑んだ。


 この三つ――いずれも、いまの俺の研究の、まさに核心である。

「閣下」

「うむ」

「拝承いたしました」


 酒井は、頷いた。


「行きたまえ。わしは、ここで、君の研究を待っておる」


 俺は、深く一礼し、退出した。


    *


 廊下を、戻る。


 革靴の音が、来た時よりも、わずかに、温かく響いた気がした。


 窓の外、市ヶ谷の坂道に、月が昇っていた。雲は、晴れていた。三月とは思えぬ、冷たく、しかし澄んだ満月だった。


 ――たった一人ではない。


 俺は、廊下の途中で、立ち止まった。手にした『戦争指導の実際』を、軍服の下にしまい込む。


 杉山閣下が、いる。陛下の御意向が、ある。酒井閣下が、いる。沢田中将、桑木中将、橋本中将――軍事研究会の老兵たちが、いる。


 そして――。


 ふと、俺の胸に、まだ会わぬ三人の影が、よぎった。


 いまは、まだ、誰とも繋がっていない。糸は、たった一本も、結ばれていない。


 しかし、これから、結んでいく。


 杉山、酒井、軍事研究会、そして陛下――この核に、外務省、宮中、海軍を、繋いでいく。陸・外・内・海――四つの世界を、たった一本ずつの細い糸で、結ぶ。


 その糸の結び目を、いつか、誰かが「四人組」と呼ぶ日が、来るのか。


 俺は、廊下の窓辺に立ち、月を見上げた。


 昭和十八年三月三十日。


 この夜から、俺の本当の闘いは、静かに始まった。


 自席に戻り、俺は、革表紙の私物の手帳を取り出し、三枚目に、こう書きつけた。


 ――「酒井中将より三要訣を授けられる。

一、目的の確立。

二、進軍限界の規制。

三、終戦方策の把握。

軍事研究会と本課は車の両輪。年末までに、ドイツ没落への方策、全面和平の問題、対ソ連問題、を考究せよ、との宿題あり」


 筆を置く。


 窓の外で、月が、市ヶ谷台を、静かに照らしていた。



【後書き】(松谷誠より)

 松谷である。


 酒井閣下から授かった三つの要訣――「目的の確立」「進軍限界の規制」「終戦方策の把握」。この三語を、俺は、玉音放送が流れるあの日まで、腹の底で唱え続けることになる。


 そして、この夜閣下から課された三つの宿題――「ドイツ没落への方策」「全面和平の問題」「対ソ連問題」――は、これから半年、一年と、俺の研究の骨格を成していく。


 次回、舞台は霞が関、外務省へと移る。昭和十八年四月二十日――東條内閣改造で、駐華大使・重光葵が外相に就任する。南京で膝を交わしたあの義足の人と、東京で再会するときが、ついに来た。


【次話予告】

第6話「重光葵、外相の椅子に――霞が関を訪ねて」。昭和十八年四月二十日、東條内閣改造。駐華大使・重光葵が、外相に就任する。南京の蒸し暑い夏、義足の人と膝を交わしたあの日の会話が、いま、東京で結ばれようとしている。「来ると思っていた」――重光のあの低い声が、再び俺を迎える。


【本話初出の人物プロフィール】

酒井鎬次(さかい・こうじ)

明治十八年(一八八五)~昭和四十八年(一九七三)。登場時五十八歳(松谷より十八歳年長)。予備役陸軍中将。陸士十八期、陸大二十六期。フランス派の兵学者にして戦略理論家。仏駐在武官、陸大教官、第一師団参謀長、第十一師団長などを経て、昭和十四年予備役編入。陸大教官時代には「毒舌」で生徒に(おそ)れられたが、俊才の前には温和な師となる稀有(けう)な人物。クレマンソー『大戦回顧録』の翻訳者であり、自著『戦争指導の実際』は政界・軍人に広く読まれた。反東條の姿勢を隠さず、「軍事研究会」の中心人物として、参謀本部における頭脳集団の支柱を成す。本話以降、松谷の終戦研究の精神的支柱となり、第一次世界大戦の教訓、ドイツ没落への対応策、対ソ連問題の研究を松谷に強く勧める。


沢田茂(さわだ・しげる)※本話で名前のみの言及

明治二十年(一八八七)~昭和五十五年(一九八〇)。陸軍中将。陸士十八期、陸大二十六期(酒井と同期)。昭和十四年九月から昭和十五年十月まで参謀次長を務め、その時期に予備役将官らを参謀本部嘱託として招き入れ、「軍事研究会」を創設した立役者。本作では酒井鎬次中将と並ぶ軍事研究会の中心人物。後年、『機密戦争日誌』(昭和十九年五月十五日)に「軍事研究会沢田中将ノ研究」が言及されており、アメリカ国内事情(ユダヤ人問題等)について精緻な分析を行っていたことが分かる。


桑木崇明(くわき・たかあき)※本話で名前のみの言及

陸軍中将(予備役)。軍事研究会の会員。


橋本群(はしもと・ぐん)※本話で名前のみの言及

明治十九年(一八八六)~昭和三十八年(一九六三)。陸軍中将。陸士十八期、陸大二十六期。第三師団長を経て予備役編入後、軍事研究会の会員。


ジョルジュ・クレマンソー(Georges Clemenceau)※本話では訳書および回想録の作者として言及

一八四一~一九二九。フランスの政治家。「(ル・ティーグル)」の異名。第一次世界大戦末期の一九一七年十一月、七十六歳で首相(兼陸軍大臣)に就任。敗色濃厚であったフランス軍の士気を立て直し、政治家・軍人を問わず弱腰・敗北主義者を粛清、フランスを勝利へ導いた。戦後の回想録『大戦回顧録』は、戦争指導論の古典となった。


【本話初出の用語】

予備役(よびえき)

現役を退いた軍人が、一定年限のあいだ所属する身分。非常時には召集されて現役に復帰し得るが、通常は部隊勤務の義務はない。酒井鎬次は予備役でありながら、参謀本部に「軍事研究会」の名のもとに一室を与えられ、歴史的見地からの戦争指導研究にあたっていた。


陸軍大学校教官(りくぐんだいがっこうきょうかん)

陸軍大学校(参謀養成の最高学府)において、戦略・戦術・戦史を講ずる職。教官の思想は、のちに陸軍中枢に進む俊英たちに決定的な影響を与える。酒井はここで多くの有力参謀を育て、陸軍におけるフランス派・対独懐疑派の人脈を形成した。


戦争指導の三要訣(さんようけつ)

酒井鎬次が松谷に授けた戦争指導の根本原則。すなわち、(一)戦争目的の確立、(二)進軍限界の規制、(三)終戦方策の把握。本作の主題そのものであり、松谷がのちに聖断実現まで二年四ヶ月、胸中で唱え続けることになる座右の銘。


車の両輪(くるまのりょうりん)

本話で酒井が松谷に語る、戦争指導課(実務組織)と軍事研究会(頭脳集団)の関係を表す比喩。現代でいうと、中央官庁とシンクタンク(コンサルタント)の関係。実務組織が国策を起案し、頭脳集団が史的・国際的な分析でこれを裏付ける。両者の協力なくして、陸軍中央における早期終戦工作は成立しなかった。

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