第47話「有馬正文少将遺言(後編)――純乎タル日本男児、南へ」
◆ 前書き 有馬 文子(ありま ふみこ、有馬正文の妻、戦後の回想)
わたしは有馬文子。
明治三十六年(一九〇三年)生まれ。旧姓・遠矢。
大正十年、十八歳の春、有馬正文と結婚いたしました。
結婚に至るまでの経緯は、いま思い出してもおかしいほどでございます。
ある日、正文が突然、わたしの家を訪ねて参りました。
結納もそこそこに、わたしを横須賀へ連れて行くと申しました。
父も母も、驚いて言葉がなかったそうです。後年、正文は笑いながら申しておりました。
「あれは略奪結婚に近かった」と。
新婚旅行の馬車のなかで、寒い春の風が吹いておりました。わたしが手を冷たくしていると、正文がそっと自分のマントの中に、わたしの手を入れて温めてくれました。
あの時のマントの中の温かさを、わたしは生涯、忘れません。
結婚して数年後、わたしの両親が相次いで亡くなりました。残された五人の弟妹を、わたしは鹿児島市の借家に呼び寄せて、母代わりに育てました。
正文は理解のある人でした。
「お前の弟妹は、わたしの弟妹でもある」
そう申してくれました。
昭和十一年十二月、長男の正宏が、十四歳で亡くなりました。
夫はあの時、男泣きに泣きました。「軍人を辞めようと思う」とまで申しました。
わたしも、毎晩、正宏の写真の前で泣きました。
昭和十九年三月末、夫は第二十六航空戦隊司令官として、フィリピンへの出征が決まりました。
出征の前夜、わたしと夫は寝床に並んで横たわっておりました。
夫はわたしの方を向いて、静かに、こう申しました。
「今度生れかわって来たら、またお前と結婚することにしよう」
わたしは涙を堪えるのに必死でした。
二十三年連れ添った夫が、わたしに残した、最後の言葉でした。
夫はあの翌朝、目黒の海軍省第一分室に、四十三期の親友・高木惣吉少将を訪ねて、別れを告げに行きました。
そして数日後、フィリピンへ赴任して行きました。
昭和十九年十月十五日。
夫は台湾沖航空戦において、自ら一番機に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死いたしました。
享年四十九。
夫の戦死から五日後の、十月二十日の朝。
わたしは郷里・伊集院の熊野神社の参道で、夫に再会いたしました。
あれは夢でした。
ただ、ただの夢では、ございませんでした。
第四十七話、「有馬正文少将遺言(後編)――純乎タル日本男児、南へ」。
昭和十九年三月二十八日、肌寒い雨の午後の後半。前編に続き、海兵四十三期の同期、有馬正文と高木惣吉の最後の対話の物語。後編は、南太平洋海戦の悔恨から、独自の境地、遺言、そして別れまで。
【本文】
一 三月二十八日 午後――南太平洋海戦、追撃進言
俺は無言で有馬を見ていた。
胸の奥で何かが震えていた。
あの男が今夜わたしの前で吐露している話の、もう一つ深い続きがある。
翔鶴艦長室での、亡き正宏との対話。山本長官への嘘。そして独自の境地――。
俺は静かに口を開いた。
「有馬。続きを聞かせてくれ」
「ああ」
有馬は深く息を吐いた。
「翔鶴が戦場を離脱した後の話だ」
「敵陣が崩れて追撃に移る場面で、わたしは何度も司令部に進言した」
「徹底追撃の必要を痛感していたからだ。戦果もこの分ではとても疑問だ、是非もっと追撃を続けるべきだ、と」
「ただ艦橋の空気には、もう『これで十分だ』という空気が出ていた」
有馬の眼が虚空を見た。
「わたしは引き下がらず、二度、三度と言葉を変えて進言を続けた。だが顧みられなかった」
「あの追撃の機会を逃したことが、その後の戦況にどれほど影響したか――いまも考えると、胸が痛む」
俺は深く頷いた。
南太平洋海戦は、戦術的には日本の勝利であった。ただ徹底した追撃をしていれば、太平洋戦争の流れそのものを変えられたかもしれぬ戦いであった。
その追撃の機会を逃した責任の一端を、有馬は自分のこととして、いまも語っている。
「貴様一人の責任ではないだろう」
俺は静かに言った。
「いや」
有馬は首を振った。
「艦長として、わたしはもっと強く主張すべきだった。机を叩いてでも、長官の前で直訴すべきだった。それができなかったわたしの責任だ」
俺は深く頷いた。
二 三月二十八日 午後――トラック帰投、宇垣参謀長への反問
「戦闘が終わって、わたしと大林末雄は連合艦隊司令部に出頭した」
有馬は静かに続けた。
「翔鶴と瑞鳳、両方の艦長が、揃って報告に行ったわけだ」
「司令部では宇垣纏参謀長が、わたしたちを慰めてこう仰せられた」
有馬は声を改めた。
「『それだけの戦傷にて沈まずに帰れたるは頂上なり』」
「わたしと大林は顔を見合わせた。多数の有能な部下を失い、艦も無残に焼けこげて、ようやく帰投した二人に向かって――」
有馬の声が震えた。
「『沈まずに帰れたるは頂上なり』とは、何たる慰めの言葉か」
「わたしと大林は同時に口を開いた」
有馬は静かに、しかし強く言った。
「『沈まなければよいですか?』」
俺は息を呑んだ。
あの二人が連合艦隊参謀長に向かって、その言葉を投げかけたのか。
「宇垣さんは、しばし無言だった」
有馬は深く息を吐いた。
「あの方も内心では、わたしたちの気持ちを理解されたと思う」
「ただ司令部の空気のなかで、それ以上の言葉は、お出しにならなかった」
俺は深く頷いた。
「貴様と大林は、海軍中堅の良心だな」
俺は静かに言った。
「いや。わたしたちはただ、部下の死を、無駄にしたくなかっただけだ」
有馬の声は低かった。
三 三月二十八日 午後――山本長官への嘘
「その後、わたしは山本長官への報告に向かった」
有馬の眼が遠くなった。
「皆が長官公室を出て、わたしが最後に出ようとすると――」
「『オイ、有馬艦長、ちょっと』と、山本長官に呼び止められた」
俺は息を吐いた。
「『も少し、追撃は、できなかったのか』と訊ねられた」
「わたしは癖として、自分の直属上官を庇いたいという衝動にかられた。この時も無意識に――」
有馬の声が震えた。
「『ハイ、あれが、勢一杯のところでした』と答えた」
俺は深く息を吐いた。
「すると黒島が傍らから、『あんたのところは北にばかり走りたがっていたから、追撃の考えは出なかったんでしょう』と彌次った」
「黒島亀人大佐か」
「ああ。連合艦隊作戦主任。あの男は何でもズバズバ言う男だが、あの時の言い方はいやらしかった」
「ムカッとしたわたしは何を吐かすかという気持になり、そんなものではなかったと説明した」
有馬は卓に拳を握り締めた。
「ただわたしは心の奥では、分かっていた。山本長官は追撃したかったのだ。あの方の眼を見て、わたしは分かっておった」
「ただわたしは直属上官を庇うために、長官の真意とは違うことを答えてしまった」
有馬の眼に涙が浮かんでいるのが、わたしには見えた。
「翌年四月、山本長官は戦死された」
「わたしはもう、山本長官に真実を伝えることができぬ」
「あの時、何故、日本海軍にも、一人や二人は、長官の気に入る意見をたてた者が居ることを、判然と知らせなかったのか――」
有馬の声が掠れた。
「これだけは返す返すも残念である」
俺はしばし無言で有馬を見ていた。
あの男は山本長官の戦死以来、ずっとこの一事を背負って生きてきたのだ。海軍士官として誰にも言えぬ深い後悔を、抱えて。
いまその重荷を、南方への赴任前に、わたしの前で解こうとしている。
「貴様の苦衷、しかと、伺った」
俺は静かに言った。
四 三月二十八日 午後――甲板の「壮烈」百五十枚
しばし沈黙が降りた。
窓の外で午後の空がさらに暗くなっていた。風が出てきたのか、雨粒がまた窓ガラスを叩き始めていた。
夜のうちにまた雨が降る空模様であった。
「翔鶴は、その後、横須賀で修理を受けた」
有馬は声を低くした。
「修理の間、わたしは艦の上に立った。焼け焦げた飛行甲板を見てふと、思いついたことがあった」
「破損した飛行甲板の板を、五寸ほどに切り分けた」
「一枚一枚に『壮烈』と二文字を墨書した」
「壮烈、と」
「ああ。戦死した部下の遺族に送るためだ」
俺は息を呑んだ。
「わたしはかねてから、字の下手なことを最も苦にしていた」
有馬は静かに続けた。
「ただ今は、上手下手は言っておれない。真心が通ずれば、それでよいのだ」
「真心をこめて丹念に書き、書いては戦死者の遺族に送った。その数は実に百五十枚に上った」
俺は深く頷いた。
百五十枚。
あの男は、翔鶴で戦死した百五十名の部下、一人ひとりの遺族に、自筆の墨書を送ったのだ。
字の下手を自覚しながら、ただ「真心」だけを込めて、一枚一枚、書き続けた。
「遺族からは家宝として残すという感謝の手紙が、次々と送られて来た」
「ただわたしは満足できなかった。百五十枚の墨書では、百五十名の若者の命を、決して取り戻せぬ」
有馬の声が、ぐっと低くなった。
「あの追撃さえ、あの時できておれば――」
俺は深く頷いた。
言葉が出なかった。
五 三月二十八日 午後――翔鶴艦長室の独白、亡き正宏の唄
しばし沈黙が降りた。
俺は茶碗を取り上げ、ぬるくなった茶を一口飲んだ。
「高木」
「南太平洋海戦の決戦を翌々日に控えた、十月二十三日の夜のことだ」
有馬の眼が遠くなった。
「わたしは翔鶴の艦長室で、独り、沈思していた」
「窓の外には、南太平洋の緑の海が、果てしもなく穏やかに広がっていた。暮色がようやく迫らんとして、来るべき狂瀾激闘の刻も知らぬような、静かな海であった」
「その時ふと、正宏の臨終の唄声が、わたしの耳の奥に蘇った」
俺は息を呑んだ。
有馬正宏。有馬の長男。昭和十一年十二月二十三日、十四歳で肋膜炎のため夭折した子。
あの時、有馬は男泣きに泣いた。「軍人を辞めようと思う」と漏らしたとも聞く。
わたしの次男・裕も、その前年の昭和十年一月に生後数か月で夭折している。我が子を先に失うという、同じ悲しみを、わたしと有馬は共に抱えてきた。
「面影と歌声が、過ぐるそのときそのままに、わたしの耳に、わたしの瞼に、聞こえかつ浮かんだ」
有馬の眼から涙が流れた。
「あの子は痩せ細ったベッドの上で、最期の力を振り絞り、わたしの顔を見上げて、広瀬中佐の軍歌を歌った」
有馬は静かに口ずさんだ。
「『とどろく砲音、飛び来る弾丸……』」
「軍人の子らしい、最期の唄であった」
俺は涙を堪えるのに必死だった。
「わたしはあの夜、艦長室で、亡き息子に語りかけた」
有馬は深く息を吸った。
「『正宏よ、父はここにあるぞ。明日は飛び来る弾丸の中に立つ、父は恐れぬ、お前の魂を背にして戦うのだ、そして或いは一緒に手を握って、お前のところに行くのだ』と」
俺は息を吐いた。
「貴様――」
「あの瞬間、わたしは生死を超脱した」
有馬は静かに続けた。
「窓辺で硯の墨をすって、わたしは従容録に書き付けた。『余ハ其ノ瞬時、弾丸雨注ノ中ニ在ルノ心構へ、既ニ完成セルヲ憶ヘタリ』と」
「以来、わたしは死を恐れぬようになった」
「わたしはいつかの日か、正宏のもとへ行く。それは確かなことだ」
「そしてそのいつかはもう、そう遠くない」
俺はしばし無言で、有馬を見ていた。
あの男の生死の超脱の瞬間が、いま、わたしの前で語られている。
亡き息子の魂と共に戦う――それが有馬正文の、軍人としての覚悟の原点だった。
六 三月二十八日 午後――水交社、百合子の婚礼
しばし沈黙が降りた。
俺は茶碗を取り上げ、ぬるくなった茶を一口飲んだ。
言葉が出なかった。
しばらくして有馬は静かに顔を上げた。
「ところで高木」
「もう、二年になるな」
「何がだ」
「水交社だ」
俺は微苦笑した。
昭和十七年四月二十六日。東京の水交社。
有馬の長女・百合子と石田捨雄大尉の婚礼。仲人は俺と静江であった。
「あの日のことを、よく覚えておる」
「俺もだ。媒酌人を貴様夫妻にお願いできて、わたしは本当に救われた」
有馬の眼にわずかな笑みが浮かんだ。
「百合子は十八歳だった。石田はわたしの海兵教官時代の教え子だ。あの二人を結婚させた時、わたしは正直、ほっとした」
「正宏が逝った後、百合子はわたしの心の支えになってくれた」
「ええ。立派なお嬢様に育たれた」
「正宏が生きておれば、百合子の婚礼の時、ちょうど二十歳だ。海軍兵学校を出ておったかもしれぬ」
有馬の声が掠れた。
「ただ正宏は逝った。百合子は嫁いだ。次男の正高は今年十五で、湘南中学校の二年生だ。三男の孝礼は数え三歳。あの子はわたしの顔を知らずに育つだろう」
俺は深く頷いた。
あの男の家族の話を聞きながら、わたしの胸の奥に、わが家の成のことが浮かんだ。十二歳の成も、いつかこういう日を迎えるのか――。
「百合子のこと、頼む」
「うむ。任せろ」
「百合子と石田に、もし何かあったら――静江さんと一緒に、面倒を見てやってくれ」
「分かった」
「文子と正高と孝礼のことも、頼む」
「うむ。約束する」
有馬は深く頭を下げた。
胸の奥で何かが込み上げていた。
四十三期の同期で、家族ぐるみで信頼できる男は、それぞれ一人ずつしか持たなかった。有馬にとっては俺であり、俺にとっては有馬であった。
七 三月二十八日 午後――ペリリュー島の便所、ダバオの陸軍兵士
「もう一つ話しておきたいことがある」
有馬は声を改めた。
「昨年わたしはペリリュー島に第二十六航空戦隊司令官として赴任した。今度の比島は、その続きだ」
「ペリリュー島か」
「ペリリュー島での生活は、生涯、忘れぬ」
「司令官は朝が早い。四時には起床する。といっても、カーキ色の三種軍装のまま、就眠するのだ」
「軍装のままか」
「ああ。寝床に入るのに着替える時間も惜しい。早朝、暗いうちから夜まで、戦闘指揮所に頑張り通す。最後の飛行機が帰って来るまで、決して動かぬ」
「司令官自ら、それを実践しておるのか」
「食事は兵隊と同じ物をたべる。司令官用というものを、わたしは許さなかった」
「便所も、司令官専用を廃した。士官、下士官と一緒に使う」
「便所まで……貴様らしいな」
俺は微苦笑した。
「滑走路の延長作業も、わたしが一番先に立って泥にまみれた。設営隊にだけ任せるわけにはいかぬ。搭乗員まで動員したが、不平を漏らす者もいた」
「ただ司令官が先に立って汗を流せば、自然に治まる」
「無言の教育だな。井上中将の訓示と同じだ」
俺は静かに言った。
「ある夜、忘れられぬことがあった」
有馬の声がふと低くなった。
「連絡に来た陸軍の兵隊が、出水のため橋が落ちて、原隊に帰れなくなった」
「その知らせを受けて、わたしはすぐ参謀を呼んで、復旧を命じた」
「ただ参謀は『夜ですから難しいでしょう』と渋った」
「夜中だものな」
「わたしは『では私が行きます』と、脱兎のように飛び出した」
俺は息を呑んだ。
「司令官が、自ら、陸軍の兵隊一人のために」
「ああ。その兵隊一人のために、大発を一隻、廻してやった」
「あの陸軍の兵隊は、感激していた。後で聞いたら、『有馬司令官と有馬部隊のためなら、何でもしよう』という声が、期せずして陸軍部隊の間に起こったそうだ」
俺は深く頷いた。
「貴様の『親心』は、海軍だけでなく、陸軍にも届いておるな」
俺は静かに言った。
「いや。わたしはただ、たった一人の兵隊のために、当たり前のことをしたまでだ」
有馬の声は低かった。
八 三月二十八日 午後――我将ニ仏儒ヲ脱セントス
有馬はしばし黙っていた。やがて静かに口を開いた。
「高木」
「わたしは若い頃から禅をやり、念仏を唱え、儒学を学び、生死を超脱しようと、ずっと求道してきた」
「ええ。貴様は若い頃から、ずっと求道の人だった」
「中学時代、橋口誠軒先生から漢学と陽明学を学んだ。海軍兵学校に入ってからは、毎晩、寝床で数息観の静座をした。南洋では、草鹿任一司令官のもとを訪ねて、坐禅の指導を仰いだ」
「近角常観師の『懺悔録』を熟読し、念仏を唱えた。『法華経』も読了した。『孟子』と『中庸』も探求した」
俺は深く頷いた。
あの男の求道は、三十年以上にわたる、深いものだった。
「貴様の探求の深さは、海軍士官の枠を、はるかに超えておる」
俺は静かに言った。
「ただ南太平洋海戦の三日前、十月二十三日、わたしはついに悟った」
有馬は声を改めた。
「翔鶴で南下する途中、わたしは従容録に書き付けた」
有馬の眼が燃えていた。
「『奉公ノ道、何ゾ仏教ニ依ラン。何ゾ儒教ニ依ラン。徹頭徹尾、大日本帝国軍人ノ道アリ。大日本臣民ノ道アリ。我、将ニ仏儒ヲ脱セントス』」
俺は息を呑んだ。
「儒教にも仏教にも、依らぬ、と」
「ああ。念仏も、仏も、儒教も、孔孟も、すべて内に含み、しかも、それを昇華し脱却して、自己の中に湧然として現れ来たった、他よりの借物でない、わたし自身の道を看取したのだ」
「わたしはもう、儒や仏に頼らぬ。ただ純粋に、国のために命を懸ける、日本男児の道を、行く」
「それが、わたしの行き着いた境地だ」
俺は深く頷いた。
あの男の三十年余の求道が、いま、ここに至った。仏教にも儒教にも依らず、ただ純粋に、軍人として国に殉じる――その単純で凄絶な境地に、有馬は到達したのだ。
「貴様の境地は、わたしには、まだ、遠い」
俺は静かに言った。
「いや、高木」
有馬は首を振った。
「お前にはお前の境地がある。わたしは南で散る役、お前は内地で工作する役。それぞれの道だ」
「ところで、わたしが何年も前に勧めた『善の研究』、覚えておるか」
俺は微苦笑した。
「ああ、よく覚えておる。あの本のお陰で、わたしは西田博士に傾倒するようになった」
「西田哲学は、お前の終戦工作の支柱になる」
「お前は仏教でも儒教でもなく、西田哲学を、自分の道とせよ」
「分かった」
俺は深く頷いた。
あの男と俺は、思想の根底でも結ばれている。それぞれが、それぞれの道を歩む。
九 三月二十八日 午後――遺言、年寄りから先に
「そして高木」
「わたしは決めた」
有馬は静かに続けた。
「俺は年寄りから先に死ぬのが順序だと思う」
俺は息を呑んだ。
「若い者を先に立てて、年寄りが後から指図して行くのは、勝戦の時はそれでいい」
「現在は、そんなことでは駄目だ」
有馬の眼が燃えていた。
「わたしは飛行予備学生の制度を、自ら唱道した一人だ。大学から有為の若者を引っ張り出し、わずか数か月の訓練で南方の空に送った」
「その子たちが、次々と還ってこぬ。夜、寝床に横たわると、若い学生たちの顔が浮かぶ」
「俺は決めた」
有馬は静かに、しかし揺るぎなく続けた。
「これからは年寄りに先ず、死んで貰いたいと、念願しておる」
「有馬――」
「俺は南方で第一線の機上に立つ。司令官として最後の一機まで率いて、敵艦に体当たりする」
俺は息を吐いた。
「それしか、若い者たちに顔向けする道はない」
俺はしばし無言で有馬を見ていた。
あの男はもう、生きて還る気がない。
わたしには、それがはっきりと分かった。
海軍士官として、有馬は最後の道を、自分で選んだ。それは特攻という、いまだ海軍が公式には認めていない形態の、自決に近い決意であった。
「有馬」
俺は静かに口を開いた。
「俺は内地で、終戦の工作を進めておる」
「合法の道、嶋田大臣退陣、米内大将現役復帰――それらの工作を、黒子として、糸を引いておる」
「お前が南で散る前に、戦争を終わらせる工作を、間に合わせたい」
有馬は深く頷いた。
「分かっておる」
「四十三期の同期で、いま、中央で糸を引いている男は、お前一人だ」
有馬は静かに言った。
「俺は南で死ぬ。お前は内地で、終戦を実現してくれ」
「それぞれの場所で、それぞれの戦いを、最後まで、やり遂げよう」
俺は深く頷いた。
二人の眼が合った。
二十年余の付き合い。海軍兵学校三十六分隊で、枕を並べて寝た仲。共に我が子を先に失った悲哀を抱える同期。
いま、それぞれの場所で、それぞれの死と工作に身を捧げる。
言葉は、それ以上、要らなかった。
十 三月二十八日 夕――別れ、東郷元帥
有馬は時計を見た。
「もう、行かねばならぬ」
俺は立ち上がった。
有馬も立ち上がり、外套を羽織った。
「高木」
「今日の話、お前の中だけにしまっておいてくれ」
「分かった」
「ただもし、俺が南で散った後――」
有馬は俺の眼を見た。
「お前が後に残ったら、わたしの言葉を、海軍と国民とに、伝えてくれ」
俺は深く頷いた。
心の中で固く約束した。
(よろしい。若し俺が後に残ったら、その言葉を必ず、海軍と国民とに伝える)
応接室の戸口で、俺は向かい合った。
有馬は深く一礼した。
「高木、世話になった」
「静江さんに、よろしく」
「分かった。文子さんと百合子さんと正高君と孝礼君にも、よろしく」
「ああ」
有馬は傘を取り、外套の襟を立てた。
俺は玄関まで送った。
玄関の戸を開けると、外はまた小雨が降り出していた。
有馬は傘を開き、玄関の階段を降りた。階段を降りた所で、有馬は振り返った。
雨の中、傘の下からわたしを見た。
目尻にわずかな笑みが浮かんでいた。
「高木」
「貴様は言ってくれたな。『俺の人生は、東郷元帥に始まり、東郷元帥に至るのだ』と」
「ああ」
「その通りだ。東郷元帥は、函館海戦の高塚艦長の処置を、非常に賞讃しておられた。それはまた元帥自身の精神だったと思う」
「俺は東郷元帥の精神を、受け継いだと自惚れておる」
「お互い、元帥がご覧になっておられるであろう。恥ずかしくない働きをしよう」
俺は深く頷いた。
有馬は背を向け、雨の中を歩み去った。
軍装の背中が傘の下で徐々に小さくなっていった。
目黒の坂道を有馬は降りていった。
俺は玄関の戸の前でしばし立ち尽くしていた。
雨の音が耳の奥で響いていた。
胸の奥で何かが震えていた。
(有馬――)
心の中で呟いた。
(お前はもう、生きては還らぬ)
(俺はお前の代わりに、内地で糸を引き続ける)
(戦争を一日も早く終わらせる)
(お前のような優れた指揮官がもう、無駄に死なぬように)
俺は戸を閉め、教育局長室に戻った。
卓上には有馬が口をつけた茶碗がそのまま残っていた。
俺は窓辺に立ち、雨の降る目黒の街をしばし眺めていた。
手帳を取り出した。
昭和十九年三月二十八日のページに、わたしは静かに書き付けた。
「有馬正文少将遺言 一九・三・二八 於目黒海軍省第一分室教育局長室」
ペンを置いた。
窓の外で雨が降り続けていた。
春の冷たい雨だ。
あの夜から半年後の、昭和十九年十月十五日。
有馬正文は台湾沖航空戦で自ら一番機(操縦・竹井改一大尉)に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死した。
享年四十九。
海軍中将に特進。海軍における事実上の特攻の、先駆けとなった。
俺は有馬の手帳のメモの横に、こう書き付けた。
「クラーク地区二六航戦司令官第二次攻撃隊 一番機ニテ出発 全軍突撃下令 攻撃後自爆」
ペンを置いた時、わたしの頬を、涙が伝った。
あの男は、約束を、果たした。
今度は、俺の番だ。
◆ 後書き 有馬 百合子(ありま ゆりこ、有馬正文の長女、戦後の回想)
わたしは有馬百合子。
昭和十七年四月二十六日、東京水交社で、海軍大尉・石田捨雄と結婚いたしました。媒酌人は父の海兵四十三期の同期、高木惣吉ご夫妻でした。
わたしは十八歳でした。
父・有馬正文はわたしが結婚した二年半後、昭和十九年十月十五日、台湾沖航空戦において、第二十六航空戦隊司令官として自ら一番機(操縦・竹井改一大尉)に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死いたしました。
享年四十九。
父の戦死は海軍における事実上の特攻の先駆けとなりました。
──
父が戦死した五日後、十月二十日の朝。
母・文子は不思議な夢を見たそうです。
戦後、母からわたしは幾度となくその夢の話を聞きました。母はお話しになるたびに遠い目をされました。
夢の中で母は郷里に帰っておりました。
鹿児島県日置郡伊集院、大字猪鹿倉――母が幼い頃に両親とともに暮らした懐かしい土地でございます。
熊野神社のなだらかな石段の参道に、母は立っておりました。
神社の境内は幼少のころとすこしも変わりませんでした。いちいの大木と杉の老樹にかこまれて、苔むしてもの寂びた風情のままだったそうです。
参道の上のほうから誰かが降りてまいります。
大島紬の着物姿の男の人――。
母は息を呑みました。
父・正文だったのです。
結婚した時分によく着ていたあの大島紬の着物姿で、参道をゆっくりと降りてくる。
「おや、あなたお帰りになったんですか」
母はそう声をかけてふと父の足もとに目を落としました。
足袋のコハゼが一つかかっておりません。
「あれ、あなたまたコハゼがかかっていませんのね」
母はそう申しながらごく自然に腰をかがめて、そのコハゼをかけてさしあげました。
結婚以来、幾度繰り返したか分からない夫婦のささやかな仕草でした。
父はにこにこと笑いながら母を見下ろしてぽつりと申されたそうです。
「奥さんはよか人を貰うもんだね」
とたんに母は目が覚めました。
ああ、いまのは夢だったか――。
そう思うと身内がぞくぞくとして、もう寝ておられない。
起き上がって時計を見ると午前四時でございました。
母はそのまま風呂場へ行って洗濯を始めたそうです。手を動かしていなければ胸の動悸が収まらなかったのでしょう。
──
夜が明けると母は近所の奥さんたちと三浦三崎へ魚の買い出しに出かけました。戦時下とはいえ三崎の港にはまだいくらか新鮮な魚が揚がっておりました。
行きつけの家でお茶をいただいておりますと、自宅から電話が入ったそうです。
取り次いだ奥さんがただならぬ声で母に告げました。
「奥さん! 御宅からですのよ。御主人がお怪我をなさったらしいのよ。すぐ御帰り下さいって」
母は急いで支度をして逗子行きのバスに乗りました。
車窓の外を晩秋の海と相模湾の波頭が過ぎていきます。けれど母の目にはその景色はまるで映っておりませんでした。
「どうも怪我ではないだろう」
母は静かに覚悟をしておりました。
「来るべきものが来たのだ」
今朝の夢がまたよみがえる。
大島紬。コハゼ。「奥さんはよか人を貰うもんだね」――。
──
その日、わたしは逗子の実家に身を寄せておりました。夫の石田が海軍の用務で出ておりましたので、母を独りにしてはおけなかったのです。
逗子の家の玄関の戸ががらりと開きました。
母が帰ってきたのです。
わたしは三和土まで走り出ました。
「お母さん!」
わたしの声はもう震えておりました。
「お父さん、戦死よ! 特攻よ!」
母は無言でわたしを見つめておりました。
わたしは母が泣き崩れるとばかり思っておりました。
けれど母は泣きませんでした。
むしろ何だかすくわれたような表情をなさったのです。
「あの人のことだから、きっと立派な戦死を遂げられたにちがいない」
母は静かに申しました。
「主人は出発の時の言葉にたがわず、再び家には帰って来なかった。まさに今朝の夢はただの夢ではなかった。あの人は郷里に神として帰られたにちがいない」
母は粛然たる足どりで奥の間に進みました。
父が出征の朝、最期に見上げて行かれた神棚の前に、母は坐りました。
そしてふるえる手で燈明をあげました。
神棚の蝋燭の灯が母の白い頬を淡く照らしておりました。
奇しくもこの十月二十日は、父の壮烈な最期が新聞とラジオで大々的に国民へ発表された日でもありました。
父は新聞の大きな見出しとなり、ラジオの厳かな声となって、全国の津々浦々まで響き渡っていきました。
けれどわたしと母にとっての父は、新聞でもラジオでもありませんでした。
あの朝、母の夢にあらわれてコハゼをかけてもらいながら、にこにこと「奥さんはよか人を貰うもんだね」と申された、あの優しい父であり夫でありました。
あの夢はただの夢ではございませんでした。
父の魂が本当に郷里・猪鹿倉の熊野神社にお帰りになったのです。
別れを告げにいらっしゃったのです。
昭和十九年三月二十八日、肌寒い雨の午後、父は目黒の海軍省第一分室教育局長室に、高木少将を訪ねました。
あの日のことを、戦後、わたしは高木少将から伝え聞きました。
父は高木少将に、自分の半生のすべてを語り尽くしたそうです。母・順子の白鞘の短刀。神川丸艦長時代の部下への愛。横須賀航空隊副長時代の深夜の立哨兵。横浜航空隊司令時代の司令車。南太平洋海戦の翔鶴艦上の凄絶な闘い。山本長官への嘘。亡き正宏の唄。ペリリュー島での生活。そして「我将ニ仏儒ヲ脱セントス」の独自の境地。
高木少将は父の言葉を「遺言」として、深く受け止めてくださいました。
「百合子さん」
戦後、高木少将はわたしと夫の石田を訪ねて、静かに仰せられました。
「お父上は、わたしに言われました――もしお前が後に残ったら、わたしの言葉を、必ず海軍と国民とに伝えてくれ、と」
「わたしはそれから三十年余、お父上の言葉を胸に抱いて生きてきました」
「米内光政海相、井上成美次官のもとで終戦の工作を進めていた時も、心が折れそうになる時、わたしはお父上の言葉を思い出しました――同期の有馬や同僚の多くが第一線で死闘を続けていることを思ったら、これは内地にいる自分が命をかけて成し遂げねばならぬ任務だ、と」
高木少将の声は震えていました。
「お父上のあの遺言が、わたしの終戦工作の、最大の原動力でありました」
わたしは涙を堪えるのに必死でした。
戦後、わたしと石田は、東京で暮らしました。石田は復員後、商社に勤めて家族を支えてくれました。
弟・正高は、戦後、東京帝国大学医学部に進み、小児科医となりました。父が戦時下に若い学生たちのために命を捧げたように、正高もまた戦後一貫して、無力な重症心身障害児・障害者のために生涯を捧げました。後年、国立精神・神経センター武蔵病院の院長となり、日本重症心身障害学会の創設に尽力し、勲三等瑞宝章を受章いたしました。
弟は時折、わたしにこう申しておりました。
「父は空に散った。わたしは地に残った子供たちを救う」
父の遺志は、思いがけない形で、弟に受け継がれたのです。
弟・孝礼は、父の顔をほとんど知らずに育ちました。父が、出征の時に「此の子は父の面影を知らずに成長するであろう」と不憫に思っていた、あの三男です。
母・文子は戦後、夫の墓を守り、五人の弟妹の世話を続けました。「あの人と一緒の世界に行く日まで、わたしはこの世で精一杯生きる」と申しておりました。母は昭和五十年に逝去いたしました。あの世で、父と再会されたことでしょう。
昭和五十一年七月、高木少将はご病気で床に伏されました。井上成美さんのご葬儀にご無理をされて参列され、お風邪をこじらせて肺炎になられたと聞きました。
わたしは石田と相談し、高木少将のお宅に伺って看病のお手伝いをいたしました。静江夫人がお一人で介護されておられたので、わたしと石田で交代でお世話に上がりました。
高木少将は床のなかで、わたしの顔を見て静かに微笑まれました。
「百合子さん」
高木少将は声を絞り出して仰せられました。
「お父上が、迎えに来てくださっているような気がする」
わたしは涙を堪えるのに必死でした。
「父はいつも、高木少将のお側におりました」
わたしはそう申し上げました。
「あの遺言以来、ずっとです」
高木少将は深く頷かれました。
数日後、高木少将は鬼籍に入られました。
父と高木少将は、戦時下に「南で散る役」と「内地で工作する役」を分け合われた、海兵四十三期の同期でした。三十二年の歳月を経て、二人はようやく、再会されたのです。
父よ――。
あなたは昭和十九年三月二十八日、雨の降る目黒の坂道を、傘を斜めに構え、高木少将のもとを辞して去って行かれました。
あの後ろ姿を、わたしは高木少将のお話で、目に浮かぶように思い描くことができます。
あなたは亡き兄・正宏のもとへと、お行きになったのですね。
そして高木少将もまた、いまは、あなたのもとに、行かれたのですね。
あなたの「遺言」は、高木少将を通じて、弟・正高を通じて、いま、わたしたち遺された者たちの胸の中に、確かに、生きております。
【次回予告】
第四十八話「パラオの空、黙して語らず――海軍乙事件、古賀長官遭難」。
昭和十九年三月三十一日、夜。
パラオから二式飛行艇でダバオへ向かった連合艦隊司令長官・古賀峯一大将と、その幕僚たちは、低気圧に遭遇し、行方不明となる。
ただその悲報はすぐには中央に届かない。
四月七日、横須賀の豊田副武大将が、いつものクロスの埃を払いながら漏らした、「東條と嶋田ではネ……」のひと言。
四月八日、軍需省の石川信吾少将が、教育局長室に駆け込み、緊張した顔で告げた、「オイ、古賀が死んだゾ」のひと言。
岡田啓介大将の老躯を奮い立たせた「凄味」と、堀悌吉中将の眼鏡の奥に光った涙――。
古賀長官の殉職は海軍に深い絶望を与えると同時に、東條内閣打倒工作への最大の起爆剤となる。
高木はその日、肌寒い雨のなか、東京駅から憂鬱な気持ちで帰途に就く。
「最早、決戦も何も、時機を失ってしまったように思われて来た――」
第四十八話、三月編クライマックス、ご期待ください。
【筆者補記】
前回の前編含めて、高木日記に加え、有馬俊郎『有馬正文』有馬正文伝記刊行会、1964年所収のエピソードをふんだんに盛り込んでいます。これを機会に、有馬正文提督のことを一人でも多くの方に知ってもらえたら幸いです。日本海軍艦艇をモデルにしたブラウザゲームでも取り上げてほしいです・・・。
【人物紹介】
■ 有馬 正文(ありま まさふみ、1895-1944)
海軍少将(戦死後、海軍中将に進級)。鹿児島県日置郡伊集院町生まれ。海軍兵学校43期、海軍大学校甲種学生第25期首席卒業。空母「翔鶴」艦長として南太平洋海戦(1942年10月)を戦った後、第26航空戦隊司令官として南方戦線へ。1944年10月15日、台湾沖航空戦において自ら一番機に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死、海軍中将に特進。事実上の特攻の先駆けとされる。高木惣吉の海兵四十三期同期の中で「最も親しかった」親友。本話の主役の一人。
■ 有馬 文子(ありま ふみこ、1903-1975)
有馬正文の妻。旧姓・遠矢。大正10年(1921年)、18歳で正文と結婚。芯の強い愛情深い女性。本話の前書きの語り手。昭和50年逝去。
■ 有馬 正宏(ありま まさひろ、1922-1936)
有馬正文・文子夫妻の長男。昭和11年12月23日、肋膜炎のため14歳で早世。「とどろく砲音、飛び来る弾丸……」と広瀬中佐の軍歌を歌った臨終の唄声が、父・正文の南太平洋海戦の決戦覚悟の原点となった。
■ 有馬 百合子
有馬正文・文子夫妻の長女。大正13年(1924年)生まれ。昭和17年4月26日、東京水交社で、父の海兵教官時代の教え子・石田捨雄海軍大尉と18歳で結婚。媒酌人は高木惣吉夫妻。本話の後書きの戦後回想の語り手。
■ 有馬 正高(ありま まさたか、1929-2022)
有馬正文・文子夫妻の次男。昭和4年3月2日、鹿児島県鹿児島市生まれ。本話時点で15歳、神奈川県立湘南中学校2年生。父・正文の戦死後、海軍兵学校予科を経て、戦後は東京大学医学部医学科卒。東京大学医学博士。国立精神・神経センター武蔵病院院長、東京都立東部療育センター院長を歴任。**小児神経学・障害児医学のパイオニアとして、日本重症心身障害学会の創設に長く貢献し、理事長・名誉理事長を務めた**。「有馬症候群」(厚生労働省指定難病)の発見者。平成14年(2002年)勲三等瑞宝章受章。父・正文が戦後の若者たちのために命を捧げたように、正高もまた、戦後一貫して、重症心身障害児・障害者の福祉と医療に生涯を捧げた。令和4年(2022年)12月12日、93歳で逝去。父の遺志は、息子の手によって、戦後日本の福祉・医療の礎として確かに継承された。
■ 有馬 孝礼
有馬正文・文子夫妻の三男。昭和17年(1942年)1月、真珠湾攻撃の直後に誕生。本話時点で数え三歳。父・正文は「此の子は父の面影を知らずに成長するであろう」と不憫に思っていた。
■ 石田 捨雄
海軍大尉。有馬正文の海軍兵学校教官時代の教え子。昭和17年4月26日、有馬の長女・百合子と結婚。
■ 大林 末雄
海軍中将。有馬正文と海兵四十三期同期、高木惣吉の同期でもある親友。南太平洋海戦時、空母「瑞鳳」艦長。トラック帰投後、宇垣纏参謀長への「沈まなければよいですか」の反問で知られる。前編の後書きで有馬への追悼歌『有馬正文君を憶ふ』を陣中で詠んだ。
■ 山本 五十六(やまもと いそろく、1884-1943)
海軍大将。連合艦隊司令長官。昭和18年4月18日、ソロモン上空で乗機を米軍機に撃墜され戦死。本話で有馬の南太平洋海戦回想の重要人物として登場。
■ 黒島 亀人(くろしま かめと、1893-1965)
海軍大佐(後に少将)。山本五十六連合艦隊司令長官の作戦主任参謀。本話で有馬への嫌味「あんたのところは北にばかり走りたがっていたから、追撃の考えは出なかったんでしょう」を放った人物として登場。
■ 宇垣 纏(うがき まとめ、1890-1945)
海軍中将(戦死後、海軍大将に進級)。岡山県出身。海軍兵学校40期。山本五十六連合艦隊司令長官の参謀長として補佐。終戦時、自ら特攻に出撃して戦死。本話で「沈まなければよいですか」の反問を受けた相手として登場。
■ 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870-1945)
京都帝大教授、哲学者。日本独自の哲学体系「西田哲学」を確立。著書『善の研究』『場所の論理』等。本話で有馬が高木に勧めた書として言及。
■ 草鹿 任一(くさか にんいち、1888-1972)
海軍中将。海軍兵学校37期。本話で有馬が南洋で坐禅の指導を仰いだ人物として言及。なお、南太平洋海戦時の翔鶴の参謀長・草鹿龍之介(41期)とは別人。
■ 橋口 兼之(はしぐち かねゆき、号・誠軒)
有馬正文の中学時代の漢学・陽明学・禅の師。本話で言及。
■ 近角 常観(ちかずみ じょうかん、1870-1941)
浄土真宗の僧侶。「懺悔録」の著者。有馬正文が熟読した。本話で言及。
【用語集】
■ 南太平洋海戦
昭和十七年十月二十六、二十七日、ソロモン諸島沖で行われた日米空母機動部隊同士の艦隊決戦。日本海軍は米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させる戦果を挙げたが、自軍も大きな損害を受けた。徹底した追撃を行わなかったため、戦略的には決定的勝利を逃した戦いとされる。
■ 連合艦隊司令部
日本海軍の最高戦闘指揮機関。本話の昭和17年時点では、長官・山本五十六大将、参謀長・宇垣纏少将、作戦主任参謀・黒島亀人大佐。本話で有馬正文が南太平洋海戦の報告を行った場面に登場。
■ 「壮烈」百五十枚
南太平洋海戦後、有馬正文が翔鶴の修理中に、破損した飛行甲板の板に「壮烈」と二文字を墨書し、戦死した部下150名の遺族に送ったエピソード。「真心が通ずればそれでよい」との信念のもと、字の下手を承知で一枚一枚丹念に書いた。
■ 従容録
有馬正文が自身の精神修養と思索を書き留めた個人ノート。「従容として義に就く」(湯浅竹次郎大尉の遺書から)を生涯の目標としたことに由来する。「我将ニ仏儒ヲ脱セントス」もここに書き付けられた。
■ 「我将ニ仏儒ヲ脱セントス」
有馬正文が昭和17年10月23日、南太平洋海戦に向かう翔鶴艦上で従容録に書き付けた言葉。「奉公の道、何ぞ仏教に依らん。何ぞ儒教に依らん。徹頭徹尾、大日本帝国軍人の道あり。大日本臣民の道あり。我、将に仏儒を脱せんとす」――30年以上にわたる禅・浄土真宗・儒学の修行を経て、ついに到達した独自の境地を示す。
■ 飛行予備学生
昭和十六年に制度化された、大学・専門学校卒業者から海軍に採用された飛行士官の養成制度。有馬正文はこの制度を自ら唱道した一人として、戦況悪化後に強い責任を感じていた。
■ 特攻
特別攻撃の略。爆装した航空機や潜水艇などで敵艦に体当たり攻撃を行う、戦死を前提とした戦法。有馬正文が昭和19年10月15日に自ら一番機に搭乗して敵空母に体当たりして戦死した行動は、組織的特攻に先駆ける「事実上の特攻の先駆け」とされる。
■ 第二十六航空戦隊
日本海軍の航空戦隊の一つ。フィリピンのクラーク基地方面に展開。有馬正文は昭和19年4月に司令官として赴任。
■ 二式飛行艇
日本海軍の長距離飛行艇。次回(第48話)で古賀峯一大将がパラオからダバオへ向かう際に乗機として登場。
■ ペリリュー島
パラオ諸島の一島。有馬正文が第26航空戦隊司令官として最初に赴任した先。後に米軍との激戦地となる。
■ クラーク基地
フィリピン・ルソン島中部にあった日本海軍の航空基地。有馬正文が第26航空戦隊司令官として最終的に展開し、ここから10月15日の特攻死出撃に向かった。
■ 熊野神社
鹿児島県日置郡伊集院町(有馬家の郷里)の神社。本話の後書きで、有馬正文の妻・文子が戦死朝に夫の姿を夢で見た参道のあった神社として描かれる。
■ 海軍中将への特進
戦死した軍人を、一階級上の階級に死後に進級させる慣例。有馬正文は海軍少将で戦死したが、その功績により海軍中将に特進された。




