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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第5章 海軍少将:高木惣吉編(昭和17(1942)年6月~)

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第46話 有馬正文少将遺言(前編)――薩摩の風、翔鶴艦上の闘将

◆ 前書き 有馬 正文(海軍少将/第二十六航空戦隊司令官、出征前夜の独白)



 わたしは有馬正文。


 明治二十八年鹿児島県日置郡伊集院町の生まれ、本年四十九歳。海軍兵学校四十三期。海軍大学校甲種学生第二十五期、首席卒業。空母「翔鶴」の前艦長。


 今夜は昭和十九年三月二十七日。


 明日、目黒の海軍省第一分室を訪ね、海兵四十三期の同期、最も親しい親友の高木惣吉に別れを告げる。


 わたしは数日後、第二十六航空戦隊司令官として、フィリピンのクラーク基地方面へ赴任する。


 明日が、おそらく、高木に会う最後だ。


 寝床のなかで天井を見上げている。


 文子は隣で寝息を立てている。


 大正十年に十八歳で結婚してから二十三年。結納もそこそこに連れ去るようにして連れ添わせた女房。新婚旅行の馬車のなかで、わたしのマントの中に文子の手を入れて温めてやった日のことを、いまも昨日のことのように覚えている。


 あの女は両親を相次いで亡くした後、五人の弟妹を母代わりに育て上げ、わたしの留守をいつも守ってくれた。


 明朝、出征の前に文子に伝えたい言葉が、胸の奥にある。


 ――今度生れかわって来たら、またお前と結婚することにしよう。


 ただ、それだけだ。


 長男の正宏のことを思う。


 大正十一年九月生まれ。「正しきを宏むる」と名付けたわたしの初子。


 昭和十一年十二月二十三日。十四歳。肋膜炎。


 病院のベッドで痩せ細った正宏は、最期の力を振り絞り、わたしの顔を見上げて、広瀬中佐の軍歌を歌った。


「とどろく砲音、飛び来る弾丸……」


 軍人の子らしい、最期の唄であった。


 わたしの幼い日、亡き母・順子の白鞘の短刀の前で、「有馬の世継がこんなことでどうなりますか」と叱責された日々を、いまも忘れぬ。


 明治五年生まれの母は、師範学校女子部を出た進歩的な女であった。父・強太郎を三十六歳で亡くした後、四十二歳で教員を辞し、産婆に身を転じて、わたしと弟妹を育て上げた。米櫃が空っぽの日も、母は弱音を吐かなかった。


 昭和四年八月二十日、子宮癌のため、母は数え五十八歳の生涯を閉じた。


 あの母の前で、わたしは「軍人としていかに生きるべきか」をずっと自問してきた。


 いまわたしは、四十九歳。


 母が亡くなった年に近い齢になった。


 俺は決めた。


 年寄りから先に死ぬのが順序だ。


 明日、高木にこの覚悟を伝える。彼ならばわたしの言葉を、海軍と国民に伝えてくれる。


 第四十六話、「有馬正文少将遺言(前編)――薩摩の風、翔鶴艦上の闘将」。


 昭和十九年三月二十八日、肌寒い雨の一日。海兵四十三期の同期、有馬正文と高木惣吉の最後の対話の物語。前編は、有馬正文の半生と、空母翔鶴艦上における凄絶な闘いまで。


【本文】


一 三月二十八日 朝――肌寒い雨


 昭和十九年三月二十八日、火曜日。


 夜明け前から東京は雨であった。午前三時頃には激しい雨脚に変わりガラス窓を叩いた。俺は茅ヶ崎の自宅で雨音に目を覚ました。


 寝床のなかで雨音を聞いていた。


 (春の雨だ)


 心の中で呟いた。


 (江田島から戻って六日。井上中将は動かれぬ。米内大将現役復帰の動きも殿下のお考え次第。陳情者は途切れぬ。教育の現場は崩壊しつつある)


 (昨日伺った殿下のお心は深く重いものであった。ただ「東條に最後まで泥をかぶせる」というお考えならば嶋田大臣の退陣はもっと先になる)


 (合法の道は刻一刻と細くなっていく)


 俺は布団から出て軍装に着替えた。


 茅ヶ崎駅のホームで列車を待ちながら、傘を斜めに構えた。出勤する勤め人と勤労動員の女学生たちが、傘の海をなしていた。


 目黒の海軍省第一分室に着いたのは午前九時前であった。


 俺は教育局長室で神大佐と打ち合わせを済ませた。


 午前は雨が小降りになり、午後にはほぼ止んでいた。ただ空はどんよりと曇り、肌寒い春の日であった。


二 三月二十八日 午後――出し抜けに


 午後三時を過ぎた頃、神大佐が局長室の扉を叩いた。


「局長、有馬正文少将がお見えになりました」


 俺は顔を上げた。


「有馬が」


「ええ。何のお約束も伺っておりませぬが、『高木に顔を見に来た』と」


 俺は息を呑んだ。


 有馬。海兵四十三期。海軍兵学校三十六分隊で枕を並べて寝た男。海大首席卒業の俊英。空母「翔鶴」の前艦長。


 いま、第二十六航空戦隊司令官としてフィリピンへ赴任する直前であった。


「お通ししろ」


 神大佐は深く一礼して隣室に戻った。


 しばらくして応接室に有馬が入ってきた。


 軍装の上に外套を羽織り、手には傘を提げていた。背は俺より高く、肩幅は広く、海軍士官らしい引き締まった体躯。


 ただその顔は、いつもより少し痩せて見えた。頬の肉が削げ、目の下に薄い隈があった。


「高木」


「有馬」


 俺たちは無言でしばし見つめ合った。


 二十年余の付き合いだ。言葉は要らない。


 俺は応接の椅子を勧めた。


 女中が茶を運んできた。扉が閉まると、室内には沈黙が降りた。


 有馬は窓の外の灰色の空をしばし眺めた。


 俺もまた無言で有馬を見ていた。


 胸の奥で何かが疼いていた。


 有馬がわたしの部屋に入った瞬間から、何かしら胸に感じるものがあった。あの男はいつも凛として穏やかな笑みを浮かべる男だ。今日のあの顔は違う。


 やがて有馬が静かに口を開いた。


「高木」


「戦は、どうすれば勝てるかネ」


 俺は息を呑んだ。


 二十年余の付き合いで、有馬が「どうすれば勝てるか」と俺に問うたことは一度もない。


 あの男はいつも自分の信念で答えを持っていた。


「貴様から、聴きたいところだ」


 俺は静かに答えた。


三 三月二十八日 午後――勇気、百論一勝に如かず


 有馬は卓上の茶碗に手を伸ばし、ゆっくりと一口茶を含んだ。茶碗を戻すと深く息を吐いた。


「戦は指揮官の強い方が勝つ。だから指揮官は強くなければならぬ」


「勇気が第一だ。勇あって智が動く。知、仁、勇――俺はそう信じておる」


 有馬の眼がふと燃えた。


「勇気というのはな、高木。自分の信ずる所、為さんとするところを部下に命令できること、また部下に聴かせることだ。部下が聞かなければ如何なることをしてでもこれを聞かせることだ」


 俺は深く頷いた。


「俺はな、よく揮毫する。百論一勝に如かず、と」


 俺は深く頷いた。


 あの男が好んで揮毫する言葉。いくら議論を重ねるよりも、自ら身を挺して一勝を挙げることのほうが勝る、という意味。


 有馬の信念だ。


「ただな、高木」


 有馬の声が少し陰った。


「自分の経験を顧みても、これまでなかなかそれが出来なかった」


 俺は息を呑んだ。


 有馬が「自分はできなかった」と認めるのは、極めて稀なことだ。


「俺は薩摩の生まれだ。母から、いつも『恥ずかしくない武人になれ』と仕込まれた」


四 三月二十八日 午後――薩摩の風、母・順子の白鞘の短刀


 俺は身を乗り出した。


 有馬は遠くを見るように、静かに語り始めた。


「父・強太郎は京都学館の館長などをしていた教育者であった。わたしが七歳の時に病で逝った」


「七歳か。お若いお父上だった」


 俺は静かに相槌を打った。


「父の死をどう受け止めたか、いまも覚えておらぬ。ただ母は強かった」


「明治五年生まれ、師範学校女子部を出た進歩的な女だ。胎教としてネルソン伝を読んでいたと、後に祖母から聞いた」


「ネルソン伝、か」


 俺は思わず微苦笑した。海軍士官のなかでも、母上の胎教がネルソン伝だったと公言する者は、有馬以外には知らぬ。


「母は礼儀作法に厳格だった。男女の関係、服装、言葉遣い――何一つ妥協しなかった」


「わたしが少し悪さをしたり、卑猥な話に耳を傾けたりすると、母は白鞘の短刀をわたしの前に置いて、こう言った」


 有馬は声を低くした。


「『有馬の世継がこんなことでどうなりますか』」


 俺は息を呑んだ。


「白鞘の短刀を本気で前に置かれたのか」


「本気だった。武家の子として、わたしに恥ずかしくない人間になれと、命懸けで仕込まれた」


「父が逝った後、母は小学校の教師として一家を支えた。だが大正二年、四十二歳のとき、母は突然、教員を辞めた」


「四十二で教員を辞めて、なぜ」


「弟・彬甫を学校に上げる学費と、有馬家の家名を守るために、産婆になると決めたのだ」


 俺は深く頷いた。


「親戚は皆、反対した。教員から産婆に身を落とすなど、有馬家の名折れだと」


「うむ。当時はそういう時代だった」


「ただ母は決めたら動かなかった。叔父・実吉安純を唯一の理解者として、すべての反対を押し切った。米櫃が空っぽの日も、弱音を吐かなかった。ただ黙々と、産婆として町を駆け回った」


 有馬の声に深い情がこもっていた。


「昭和四年八月二十日、母は子宮癌で逝った。数え五十八歳」


「貴様が三十四の時だな」


 俺は静かに言った。有馬と同じ歳のわたしはその頃のあの男の悲しみを、いまも覚えている。


「ああ。あの時、わたしは海軍大尉だった」


「いまわたしは四十九歳だ。母の没年に近い齢になった」


 有馬は遠くを見るような眼で続けた。


「母の前に出て、恥ずかしくない男になれているか――わたしはいつも、それを自問する」


「立派なお母上だったな」


 俺は静かに言った。


 有馬はしばし沈黙した。卓上の茶碗から湯気が立ち上っていた。


 しばらくして有馬はふと笑った。


「母のことで、もう一つ思い出す話がある」


「わたしが小学校高等二年、現在の小学六年の時のことだ。弟・彬甫はまだ学校に上がっていなかった」


「ある日、彬甫は近所の悪童たちと、森山家の山で木登りをしていた。ふと枝が折れて、彬甫は地面に落ちた。運の悪いことに、その下には数日前に刈ったばかりの金竹が、竹槍のように突き立っていた」


「竹槍に……」


 俺は思わず眉をひそめた。


「血まみれの彬甫を抱き起こしたわたしはノートを破って傷を押さえた。家にも告げず、彬甫の手を引いて、松山医院へ走った」


「お前一人でか」


「ああ。母も家人も呼ばなかった。とにかく早く医者に診せねば、と思った」


「うむ。十二の子供がよくそこまで判断できたものだ」


「途中、彬甫は痛みで泣きそうだった。わたしは小さな弟に言った」


 有馬は声を改めた。


「『泣くと、東郷大将には、なれんぞ』」


 俺は息を呑んだ。


「不思議に、その一語で彬甫は気力を取り戻した。それ以降は痛みを食いしばって病院まで歩いた」


「ほう。立派な弟さんだ」


「日露戦争後、間もない頃だ。東郷元帥は少年たちの憧れだった。わたし自身もまた、東郷元帥を心の支柱としていた」


 有馬の眼がふと輝いた。


「あの時の一言が、わたしの軍人としての出発点であったかもしれぬ」


 俺は深く頷いた。


 あの男の生涯の精神的支柱が、いま、わたしの前で語り尽くされている。薩摩の母の白鞘の短刀。少年時代の自分が弟に言った「東郷大将」の一言。


「貴様の人生は、東郷元帥に始まり、東郷元帥に至るのだな」


 俺は静かに言った。


 有馬はわずかに頷いた。


五 三月二十八日 午後――神川丸艦長、部下を救う愛刀


「軍人になってから、わたしはずっと『大砲屋』であった」


 有馬は静かに続けた。


「ところが昭和十二年十二月、神川丸の艦長を命じられた。航空関係はまったくの初めてだった」


「それは難儀したな」


「わたしは航空分隊長を呼んでこう言った――『おい分隊長、わしは航空関係は今度が始めてなのだが、ひとつよく教えて呉れ』と」


 俺は微苦笑した。


 海軍士官として、部下に「教えてくれ」と頭を下げるなど、当時の常識では考えられぬ。あの男はいつも、そういう謙虚さを持っていた。


「貴様らしいな」


 俺は静かに言った。


「分隊長は驚いたようだった。ただわたしは本気だった。素人が知ったかぶりをするより、教えを請う方が、よほど早く部下の信頼を得られる」


「うむ。それは正しい」


「神川丸の艦長時代に、忘れられぬことがある」


 有馬の声が低くなった。


「昭和十三年四月、南支の梅県を攻撃した時のことだ。加用一等飛行兵曹ら部下四名が、不時着して敵地に取り残された」


「救助に向かわせる時、わたしは自分の愛刀を救助機に乗せた」


 俺は息を呑んだ。


「愛刀をか」


「ああ。投下する救助の包みの中に、食糧と拳銃と、わたしの愛刀を入れた。『自分の身代わりに行って、何としてでも部下四名を救出してこい』と命じた」


「身代わり、か」


 俺は深く頷いた。


「ただ四名は支那の保安隊に追われて、行方不明になった。基隆に入港した時、わたしは支那人を二人雇い、自分の全所持金を渡して、現場への密行を依頼した」


「全所持金を……」


「八月頃、支那の新聞で四名が銃殺される写真を見た。それまでわたしは戦死の認定を下そうとしなかった」


「攻撃に出た飛行機が一機でも帰ってこないと、わたしは甲板に立ち、いつまでも待ち続けた。夕暮れが迫る艦上で、わたしは部下に言ったものだ。『人命は尊い。あらゆる手段を尽くして徹底的にやるべきだ。艦隊の行動予定とか、経費とか、そんなものは、人命に比べれば、ものの数でもない』と」


 俺は深く頷いた。


「貴様は、部下を子のように思っているのだな」


「ああ。わたしは艦長として、艦長室で兵食を取った。自分の荷物を飛行機で託送することも断った。兵隊が託送できないものを、艦長が託送するわけにはいかぬ」


「うむ。立派なものだ」


 俺は深く頷いた。


 あの男はずっと、そういう男だ。


六 三月二十八日 午後――横須賀航空隊副長、深夜の立哨兵


 有馬はしばし無言だった。


 窓の外で、午後の空がさらに暗くなっていた。


「もう一つ、忘れられぬ話がある」


 有馬は声を改めた。


「昭和十六年四月、わたしは横須賀航空隊の副長に就任した」


「時局が急を告げる頃だ。隊内の勤務は深夜に及ぶことが多くなった」


「ある風雪まじりの深夜、わたしは隊内を巡視に出た」


 有馬の眼が、遠くなった。


「第一監視哨に着くと、寒風のなか、立哨兵が凛然と立っていた」


「『指揮者は誰か』と問うと、『はっ、私であります』と若い兵が答えた。あまりにも立派な態度だ。わたしは胸の万年筆を抜いて、彼に渡した」


「『仲々立派だぞ、よくやっている。この調子で頑張ってくれ。ウン、これは褒美だ』と」


 俺は深く頷いた。


「次の監視哨に着くと、そこも厳正だった。わたしは手帳を取り出して、若い兵に渡した。『よくやってるな、副長は嬉しいぞ』と」


「第三の場所も、同じだった。ただわたしの胸にはもう、何もなかった」


 有馬は微苦笑した。


「ポケットを探ったら、朝、家から持って来た破れた風呂敷一枚しかなかった。仕方なく、それを渡した。『これしかないわ、仕方がない。これをやろう。俺の気持だからな、悪く思うなよ』と」


 俺は思わず微苦笑した。


「次の場所も、全く同様に立派な勤務態度だった。わたしは『よくやってるな、だがもう褒美はないぞ』と言いつつ、感動を抑えきれず、五、六歩行ってまた戻った」


「『俺が一人で嬉しがるって法はないからな、だが何も持ち合わせておらんのだ。貴様怒るんちゃないぞ。すまんが手を出してくれ』と言って、財布の口を開け、中身をそっくり兵の手に空けた」


「そして逃げるように走り去った」


 有馬は静かに笑った。


 俺もまた、微苦笑した。


 あの男は、そういう男だ。海軍少将でありながら、深夜の立哨兵一人ひとりの態度に感動して、自分の万年筆も手帳も破れた風呂敷も財布の中身も、すべて与えてしまう。


 あの「親心」が、有馬正文という男の本質だ。


七 三月二十八日 午後――横浜航空隊司令、子供は司令の車に乗らず


「もう一つ、子供の話だ」


 有馬は声を改めた。


「昭和十五年、わたしは横浜航空隊の司令だった。逗子の桜山に住んでいた」


「ある日曜日、ちょっとした用があって、わたしは横浜航空隊に出ることになった。百合子と正高を連れて行った」


「百合子は女学校に通っていた、十七歳。正高は小学校三年生、十二歳。父と滅多に出歩かぬ子供たちは、大はしゃぎだった」


 俺は微苦笑した。


「駅を出ると、正高が走り出した。駅前に、わたしの司令車が待っていた。正高は、その車にも一緒に乗ろうとした」


「わたしはこう言った――『おっと、いけません』」


 俺は深く頷いた。


「『これは司令の車でしょう。貴方たちは司令やない。いまそこに航空隊行きのバスが来ますからね。それに乗せて貰っていらっしゃい。お父さんは先に行って待っています』と」


「そして扉を閉めかけていた兵に、眼顔で『出せ』と命じた」


 俺は深く頷いた。


「兵の表情に、激しい変化が起こった。子供たちは、しばらく茫然として、わたしの車を見送って立っていた」


 有馬の眼に、わずかな笑みが浮かんだ。


「やがて正高が、姉に言ったそうだ――『あの自動車には、ボク達乗っちゃいけないんだね』」


「百合子は答えた。『そうよ。司令ぢゃないから』」


 俺は微苦笑した。


「ただその姿を見ていた、横浜航空隊の教官や、駅から出てくる若い士官たちが、無言で頷いていたと、後に聞いた」


「公私の別は、息子や娘にも、最初に教えるべきだ」


 有馬の声は静かだった。


 俺は深く頷いた。


 あの男のそういう生き方が、まさに「無言の教育」だ。井上成美中将の訓示にあった「無言の教育、無言の統御」を、有馬は地で行っていた。


八 三月二十八日 午後――成都空襲、奥田少将の戦死


「ただな、高木」


 有馬の声が、また少し陰った。


「指揮官として、わたしはどうしてもできなかったことがある」


「成都空襲の経験がそうだ。つい部下の苦労を思って、思い切って命令ができなかった」


「奥田少将のことも覚えておるか」


「奥田喜久司少将のことか」


「ああ」


 奥田喜久司。海兵三十九期、重慶爆撃を率いた航空隊司令官。昭和十六年に重慶上空で戦死した。


「奥田は既に転任の通知が来ておった。最後の重慶空襲で戦死したのもやはり、自分の思いどおりにやれず、周囲の空気に気兼ねして引き摺られ、あんなことになってしまった結果である」


「指揮官には兵術眼が必要だ。そのため先ず知るべきは『虚実』ということだ」


 有馬は声を低くした。


「空母の飛行機は空中に飛び出してしまえば『実』となって絶大の威力を持つ。ただ艦に乗って飛行機を抱いている間は非常な弱点で『虚』だと俺は思う。攻撃の力がないばかりか、爆弾を抱いているのだから、無力以上の虚だ」


 俺は深く頷いた。


九 三月二十八日 午後――ミッドウェー、四航戦と瑞鳳の横刺し


「ミッドウェー海戦の時のことだ」


 有馬の眼が遠くなった。


「北の龍驤と隼鷹の四航戦――司令官・角田覚治少将――を呼びつけたから、占めた、これで勝ったと思った」


「だが間もなく命令が取り消されたのは残念だった。あの時、南の攻略部隊に附いていた瑞鳳――艦長・大林末雄――を北にあげ、四航戦と南北から横刺しにすれば勝負が決したのに、まことに残念であった」


 俺は深く頷いた。


 大林末雄。海兵四十三期、有馬とわたしの同期。あの男もまた、有馬と並ぶ闘将だ。


 有馬の口調から、大林への信頼が滲み出ていた。同期同士で戦況を批評し合い、共に勝機を逃したことを今なお悔やみ続けている。


十 三月二十八日 午後――南太平洋海戦、翔鶴艦上の死闘


「南太平洋海戦の時のことだ」


 有馬は声をさらに低くした。


 昭和十七年十月二十六、二十七日。空母「翔鶴」を旗艦に近い形で運用した艦隊決戦。


「俺は翔鶴の艦長だった」


「敵急降下爆撃機の猛攻を受け、翔鶴は飛行甲板に四発の爆弾を被弾した。厚い鉄板が飴のように曲がり、火災が機関室にも侵入した」


「ただ機関と吃水線下に被害はなく、依然として三十ノット以上の高速航行が可能だった」


「南雲長官は、翔鶴の通信機能が失われたことを理由に、将旗を駆逐艦『嵐』に移し、翔鶴を戦場から退避させようとされた」


 有馬の眼が、燃え始めた。


「わたしは艦長として、長官と参謀に強硬に意見を具申した」


 俺は深く頷いた。


 あの戦いの後、海軍中堅の間に流れた話を、わたしは知っている。当時翔鶴の艦橋にいた塚本朋一郎氏が、後に証言した。


「『本艦は幸い高速で動けます。この儘進んで下さい。このような場合、後退して旗艦を変更したりして、うまく行ったためしはありません。翔鶴がこのまま進んで敵の爆弾を吸収できたら、それだけ味方が助かるではありませんか。どうかこのまま進ませて下さい』と」


 有馬の声に、二年前のあの日の熱が蘇った。


「わたしは長官に、声涙下る嘆願を続けた。長官が艦橋から舷門を下りて行く間、わたしはずっと、懇願し続けた」


「翔鶴がこのまま進めば、敵の爆弾を引き寄せて、味方の他の艦を救うことができる。たとえ翔鶴が沈んでも、機動部隊全体の損害は減らせる」


 有馬の声が震えた。


「ただ長官は、わたしの嘆願を聞き入れず、舷門を下りて行かれた」


「翔鶴は、戦場を離脱することになった」


 俺は深く頷いた。


 あの男は、自艦を敵弾の盾にしてでも、味方を救おうとした。それを長官が艦橋から舷門を下りる間ずっと、声涙下る嘆願として続けた。


 あれが、有馬正文だ。


「敵陣が崩れて追撃に移る場面でも、わたしは何度も司令部に進言した。徹底追撃の必要を痛感していたからだ」


 有馬の声が低くなった。


「ただ艦橋の空気には、もう『これで十分だ』という空気が出ていた。わたしの進言は、顧みられなかった」


「あの追撃の機会を逃したことが、その後の戦況にどれほど影響したか――いまも考えると、胸が痛む」


 有馬は深く息を吐いた。


 窓の外で雨粒が、また窓ガラスを叩き始めていた。


 夜のうちに、また雨が降る空模様であった。


 俺は無言で有馬を見ていた。


 胸の奥で、何かが、震えていた。


 あの男が今夜、わたしの前で吐露している話の、もう一つ深い続きがある。


 翔鶴艦長室での、亡き正宏との対話。山本長官への嘘。そして独自の境地「我将ニ仏儒ヲ脱セントス」。


 ただそれは、後編の話だ。


 ここで、いったん筆を置く。



◆ 後書き 大林 末雄(おおばやし すえお、海軍中将、戦後の回想と追悼歌)


 わたしは大林末雄。


 海軍兵学校四十三期。有馬正文とわたしは同期。高木惣吉とも同期。三十六分隊で枕を並べて寝た間柄である。


 ミッドウェー海戦の時、わたしは空母「瑞鳳」の艦長であった。南太平洋海戦の時も、同じく「瑞鳳」の艦長。有馬は「翔鶴」の艦長であった。


 二人で艦長として戦った海戦の数々を、いま、戦後の静かな書斎で、わたしは思い起こしている。


 昭和十九年十月十五日、有馬は台湾沖航空戦で、自ら一番機に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死した。海軍における事実上の特攻の、先駆けであった。


 有馬。


 お前は、隼人の薩摩の生まれだった。霧島山の神の心と、桜島の燃え立つ精神を、生涯、胸に宿した男だった。


 お前は、空母翔鶴の艦長として、敵弾の盾になろうとした。長官に声涙下る嘆願を続けた。お前の闘志は、海軍の中堅以上の、誰もが知っていた。


 お前は、第二十六航空戦隊の司令官として、自ら一番機に搭乗し、敵空母に体当たりした。司令官陣頭の特攻――それは海軍始まって以来の、前例なきことだった。


 お前の名と、お前の残した勲功は、海が絶えない限り、万世に語り継がれていく。


 わたしはその同期として、生涯、お前を誇りに思う。


 昭和十九年三月二十八日、雨の午後。


 お前は目黒の海軍省第一分室教育局長室に、高木を「出し抜けに」訪ねたという。


 高木に何を語ったかは、戦後、高木自身から聞いた。


 お前の人生と、お前の決意のすべてを、お前は高木に託したのだ。


 わたしが戦後、生き残って、高木と共にお前のことを語り継ぐのは、四十三期の同期として、当然の務めだ。


 有馬――。


 お前の魂は、いま、亡き正宏と共に、薩摩の桜島の空を翔けているか。


【次回予告】


 第四十七話「有馬正文少将遺言(後編)――純乎タル日本男児、南へ」。


 南太平洋海戦の翔鶴艦上での闘いを語り終えた有馬はなおも語り続ける。


 トラック帰投後、宇垣纏参謀長への「沈まなければよいですか」の痛烈な反問。


 山本五十六長官への報告で、直属の南雲長官を庇うために、ついた、たった一つの嘘――「ハイ、あれが精一杯のところでした」。


 翔鶴艦長室で独り、亡き長男・正宏の臨終の唄声を思い出し、息子に語りかけた言葉――「正宏よ、父はここにあるぞ。明日は飛び来る弾丸の中に立つ。父は恐れぬ、お前の魂を背にして戦うのだ」。


 昭和十八年十月、ついに到達した独自の境地――「我、三十余年来の儒仏の桎梏より脱するを得たり。今日以降、吾は純乎として純なる日本男子たるべし」。


 第二十六航空戦隊司令官としてのペリリュー島での生活、便所の共有、滑走路延長作業の率先垂範、ダバオの陸軍兵士のための舟艇手配「では私が行きます」。


 そして遺言――「俺は年寄りから先に死ぬのが順序だと思う。これからは年寄りに先ず、死んで貰いたいと念願しておる」。


 雨の坂道を傘を斜めに構えて去って行く有馬の背中を、高木は、生涯、忘れない。


 第四十七話、後編、ご期待ください。


【人物紹介】



■ 有馬 正文(ありま まさふみ、1895-1944)

海軍少将(戦死後、海軍中将に進級)。鹿児島県日置郡伊集院町生まれ。海軍兵学校43期、海軍大学校甲種学生第25期首席卒業。父・強太郎(教育者)を七歳で失い、母・順子(産婆)と祖母らに育てられる。中学時代から橋口兼之(誠軒)先生のもとで漢学・陽明学・禅を学ぶ。海軍では「大砲屋」としてキャリアを始めるも、神川丸艦長時代に航空分野へ転身。空母「翔鶴」艦長として南太平洋海戦(1942年10月)を戦った後、第26航空戦隊司令官として南方戦線へ。1944年10月15日、台湾沖航空戦において自ら一番機に搭乗し、敵空母に体当たりして戦死、海軍中将に特進。事実上の特攻の先駆けとされる。「指揮官の強い方が勝つ」「勇気が第一」「百論一勝に如かず」を信条とする精神的かつ意志の強い人物。東郷平八郎元帥の精神を継承していると自負していた。高木惣吉の海兵四十三期同期の中で「最も親しかった」親友。本話の主役の一人。


有馬ありま 強太郎きょうたろう

有馬正文の父。京都学館の館長などを務めた教育者。正文が7歳の時に36歳で病死。


■ 有馬 順子(ありま のぶこ、1872-1929)

有馬正文の母。旧姓・実吉。明治5年生まれ、師範学校女子部出身。当時としては珍しい進歩的な女性。胎教として『ネルソン伝』を愛読した。夫・強太郎の死後、小学校教師として一家を支えるも、42歳で教員を辞めて産婆に転身し、有馬家を守った。礼儀作法に厳格で、長男・正文を白鞘の短刀の前で叱責する厳格な教育を行った。昭和4年8月20日、子宮癌のため数え58歳で逝去。


有馬ありま 彬甫あきほ

有馬正文の弟。正文が小学校高等二年の時、近所の山で木登りをして金竹の切株に落ちて大怪我を負った。その時、兄・正文に「泣くと東郷大将にはなれんぞ」と励まされたエピソードで知られる。


大林おおばやし 末雄すえお

海軍中将。有馬正文と海兵四十三期同期、高木惣吉の同期でもある親友。ミッドウェー海戦時、空母「瑞鳳」艦長。南太平洋海戦時も「瑞鳳」艦長として被弾しながら生還し、有馬と共に連合艦隊司令部へ報告に赴いた際、宇垣纏参謀長への「沈まなければよいですか?」の反問で知られる。本話の後書きで、有馬への追悼歌『有馬正文君を憶ふ』を陣中で詠んだ史実を活用。



■ 加用 一等飛行兵曹かよう

神川丸艦長時代の有馬の部下。昭和13年4月、南支の梅県攻撃で不時着して敵地に取り残された4名のうちの一人。


■ 奥田 喜久司(おくだ きくし、1894-1941)

海軍少将。重慶爆撃を率いた航空隊司令官。昭和16年、重慶上空で戦死。本話で有馬が「自分の思いどおりにやれず、囲りの空気に引きずられて、あんなことになってしまった」と後悔の例として言及する人物。


角田つのだ 覚治かくじ

海軍少将。ミッドウェー海戦時、四航戦(龍驤、隼鷹)司令官。本話で有馬がミッドウェー海戦の「南北からの横刺し」案の話で言及。


■ 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887-1944)

海軍中将。山形県米沢市出身。海軍兵学校36期。南太平洋海戦時、第三艦隊司令長官として翔鶴に座乗。本話で有馬が「翔鶴を盾に進ませてくれ」と嘆願した相手として登場。


■ 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892-1971)

海軍中将。石川県出身。海軍兵学校41期。南太平洋海戦時、第三艦隊参謀長として南雲長官を補佐。本話では言及のみ。


塚本つかもと 朋一郎ともいちろう

南太平洋海戦時、翔鶴の艦橋にいた海軍士官。戦後、有馬艦長の南雲長官への嘆願の様子を証言した。本話の後書き的な高木の内心独白で言及。


■ 橋口 兼之(はしぐち かねゆき、号・誠軒)

有馬正文の中学時代の漢学・陽明学・禅の師。父・強太郎の親友。本話では言及のみ。


実吉さねよし 安純やすずみ

有馬正文の母・順子の叔父。母が産婆に転身する際の唯一の理解者として、親戚の反対に抗して順子を支えた。本話では言及のみ。


有馬ありま 文子ふみこ

有馬正文の妻。旧姓・遠矢。大正10年(1921年)、18歳で正文と結婚。


■ 有馬 正宏(ありま まさひろ、1922-1936)

有馬正文・文子夫妻の長男。大正11年9月16日生まれ。昭和11年12月23日、肋膜炎のため14歳で早世。後編で詳しく描かれる。


有馬ありま 百合子ゆりこ

有馬正文・文子夫妻の長女。大正13年(1924年)生まれ。本話第七章(横浜航空隊司令時代の司令車エピソード)で17歳の女学生として登場。後編で詳しく描かれる。


■ 有馬 正高(ありま まさたか、1929-2022)

有馬正文・文子夫妻の次男。昭和4年(1929年)3月2日、鹿児島県鹿児島市生まれ。本話第七章で11歳の小学校三年生として登場、「あの自動車には、ボク達乗っちゃいけないんだね」の名セリフで知られる。父・正文の戦死後、昭和20年4月に海軍兵学校予科(長崎県針尾島)へ転入学するも、敗戦により同年8月に海軍兵学校解散。戦後、鹿児島県立第二鹿児島中学校から第七高等学校(現・鹿児島大学)を経て、昭和28年(1953年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学博士。東邦大学医学部助教授、鳥取大学医学部教授を経て、国立精神・神経センター武蔵病院院長、東京都立東部療育センター院長を歴任。**小児神経学・障害児医学のパイオニアとして、日本重症心身障害学会の創設に長く貢献し、理事長・名誉理事長を務めた**。日本発達障害学会第4代会長。「有馬症候群」(厚生労働省指定難病)の発見者。平成14年(2002年)勲三等瑞宝章受章。父・正文が戦後の若者たちのために命を捧げたように、正高もまた、戦後一貫して重症心身障害児・障害者の福祉と医療に生涯を捧げた。令和4年(2022年)12月12日、93歳で逝去。父の遺志は、息子の手によって、戦後日本の福祉・医療の礎として確かに継承された。




【用語集】



第二十六航空戦隊だいにじゅうろくこうくうせんたい

日本海軍の航空戦隊の一つ。フィリピンのクラーク基地方面に展開し、米機動部隊に対する航空戦闘を担った。本話の昭和十九年三月時点で、有馬正文少将が司令官として赴任直前であった。


■ 空母「翔鶴」(しょうかく)

日本海軍の正規空母。昭和十六年八月就役。真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、南太平洋海戦に参加。有馬正文は昭和十七年に艦長を務めた。


■ 空母「瑞鳳」(ずいほう)

日本海軍の軽空母。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦に参加。大林末雄が艦長を務めた。


南太平洋海戦みなみたいへいようかいせん

昭和十七年十月二十六、二十七日、ソロモン諸島沖で行われた日米空母機動部隊同士の艦隊決戦。日本海軍は米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させる戦果を挙げたが、自軍も大きな損害を受けた。


■ ミッドウェー海戦

昭和十七年六月、ミッドウェー島沖で行われた日米空母機動部隊の決戦。日本海軍は空母四隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失い、太平洋戦争の転換点となった。


神川丸しんかわまる

水上機母艦。昭和12年12月、有馬正文が艦長として赴任。航空分野への転身の出発点となった。


横須賀海軍航空隊よこすかかいぐんこうくうたい

神奈川県横須賀にあった海軍の航空基地。有馬正文は昭和16年4月、副長兼教頭として就任。


横浜海軍航空隊よこはまかいぐんこうくうたい

神奈川県横浜にあった海軍の航空基地。有馬正文は昭和15年、司令として赴任。


■ 「百論一勝に如かず」(ひゃくろん いっしょうに しかず)

有馬正文が好んで揮毫した言葉。いくら議論を重ねるよりも、自ら身を挺して一勝を挙げることのほうが勝るという意味。有馬の信念を象徴する言葉。


飛行予備学生ひこうよびがくせい

昭和十六年に制度化された、大学・専門学校卒業者から海軍に採用された飛行士官の養成制度。有馬正文はこの制度を自ら唱道した一人。


■ 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、1848-1934)

元帥海軍大将。鹿児島県出身。日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官として勝利を収めた、海軍の象徴的人物。本話で有馬が少年時代から憧れた精神的支柱。


■ 広瀬 武夫(ひろせ たけお、1868-1904)

海軍中佐(戦死後)。大分県出身。日露戦争の旅順港閉塞作戦で部下を救おうとして戦死、軍神となる。有馬正宏が臨終時に歌った軍歌「広瀬中佐」の主人公(後編で言及)。



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