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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第5章 海軍少将:高木惣吉編(昭和17(1942)年6月~)

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第38話「『世の中にもしも陸軍なかりせば』――古賀長官、無念の一首」

【前書き】(矢牧章より)


 俺は矢牧章。海軍大佐。海軍省軍務局第二課長。


 今日は昭和十九年二月十九日、土曜日。


 いま、麻布笄町の古賀峯一連合艦隊司令長官の私邸では、高木少将と長官が密室で向き合っておられる。


 俺はその場には呼ばれていない。


 ただ、高木さんがこの一週間、心血を注いで書いた長文の親展状の内容を、俺は知っている。


「長官、いまこそ、断乎たる決意を以て嶋田大臣・永野総長に膝詰め談判を願いたい――」


 それが、高木さんが古賀長官に求めた一点であった。


 二月十日、古賀長官は連合艦隊旗艦の戦艦「武蔵」を率いてトラック島を出航された。十五日午後一時三十分、横須賀に入港された。


 その二日後――二月十七日。


 米軍機動部隊がトラック島を急襲した。


 連合艦隊の母港のような場所が、米軍の艦載機の前に、ほぼ無抵抗で叩かれた。


 巡洋艦「阿賀野」「那珂」、駆逐艦四隻、タンカー六隻、貨物船二十隻沈没。飛行機損失二七〇機ないし三〇〇機。死傷者約一一〇〇名。


 古賀長官は間一髪、空襲を逃れる形で本土に上京されていた。


 上京の足を緩めず、その日のうちに嶋田海相と永野総長を訪ねられた。


 ただ、嶋田大臣も永野総長も、まともに答えなかったと聞く。


 いまこそ、海軍の長老格が立ち上がるべき時。


 高木さんはそう確信され、古賀長官に直話を願い出た。


 今日が、その日だ。


 午後一時半――いまこの瞬間、高木さんが長官と密室で向き合っておられる。


 俺は海軍省の自分の机で、ただ手帳を眺めて、その結果を待っている。


 古賀長官がもし、規律を越えて決意を示してくださるならば――海軍の長老格の最初の声が上がる。合法的弾劾の包囲網が、ようやく組み上がる。


 ただ、高木さんはおそらく、悲観しておられる。


「長官は、規律の中でしか生きられぬ方ではないか」


 昨日、高木さんは俺にぽつりと洩らされた。


 もし、その悲観が当たれば――。



【本文】


 二月十七日、木曜日。


 報せが届いた。


 米軍機動部隊がトラック島を急襲。


 空襲は十七日朝から夜、そして翌十八日朝まで断続的に続いた。


 わが連合艦隊の損害は、巡洋艦「阿賀野」「那珂」、駆逐艦四隻、タンカー六隻、貨物船二十隻沈没。飛行機損失二七〇機ないし三〇〇機。死傷者、約一一〇〇名。


 俺は茅ヶ崎の自宅でその報せを聞いた。


 書斎の机の縁を強く握った。


 (柴崎が玉砕したタラワ。山形が散ったクェゼリン。続いて今度はトラックが――)


 心の中で呟いた。


 (連合艦隊の母港のような場所が本土の目の前で、こうも無残に叩かれた)


 (東條と嶋田の責任は、もはや弁明の余地もない)


 俺は窓の外を見た。


 茅ヶ崎の冬の朝がひっそりと広がっていた。


 古賀峯一連合艦隊司令長官はトラック大空襲の十日前――二月十日に連合艦隊旗艦の戦艦「武蔵」を率いてトラック島を出航し、二月十五日午後一時三十分、横須賀へ入港されていた。


 間一髪、空襲を逃れる形での上京であった。


 トラック空襲の悲報を受けた古賀長官は上京の足を緩めず、その日のうちに嶋田海相と永野総長を訪ねた。


 二月十七日――。


 古賀長官の抗議は痛烈を極めた。


「現在ラバウル、ソロモン方面では十対一で戦っております。人間はいかなる勇士でも鉄ではできていない」


 嶋田海相は目を伏せた。永野総長は首を振った。


「今更問題を蒸し返すと、陛下にご心配をかける」


 古賀長官は声を強めた。


「そんなこと言っている時ですか。速やかに御前会議をやって、事実上の練り直しをやり、戦争のできるようにしていただきたい」


 嶋田・永野は最後まで答えなかった。


 俺がこの抗議の詳細を知るのは二日後の二月十九日――麻布笄町の長官邸で、長官ご自身の口から伺うことになる。


      *


 二月十八日、金曜日。曇。


 午後二時、麻布笄町七九番地、古賀峯一連合艦隊司令長官の私邸へ向かった。


 長官邸の応接室に通された俺は長官と向き合った。


「高木」


「長官。トラックの戦果、心よりご心痛、お察し申し上げます」


 古賀長官は黙って頷いた。長官のお顔は深く青ざめていた。


 二月十八日のこの日はまだ詳細を伺うことができなかった。長官は別の用事があり、面談は短時間で終わった。


「明日、再びお伺いします」


「うむ。十九日、午後一時半、待っておる」


 俺は新橋から夕刻の列車で帰宅した。


 車窓の外、相模湾の冬の海が静かに流れていく。


 俺は目を閉じた。


 (明日、長官にお会いする)


 心の中で呟いた。


 (あの「断乎たる決意」を求める手紙――長官はお読みくださったはずだ)


 (明日、長官は何と仰せになるか)


 (海軍の長老格の最初の声を、長官に上げていただきたい)


 (長官が規律を越えてくださるならば――合法的弾劾の包囲網がようやく組み上がる)


 俺は窓に頭をもたせかけた。


 二月の冷たい風が列車の窓を撫でていた。


      *


 二月十九日、土曜日。


 俺は再び、麻布笄町の古賀長官私邸を訪ねた。


 午後一時半、応接室に通された俺は卓を挟んで長官と向き合った。


「長官。十七日に嶋田海相、永野総長に抗議された内容を、お聞かせください」


 古賀長官はしばし卓越しに俺を見つめた。


「連合艦隊司令長官として、これ以上のことは部下に要求できぬ」


「ところが、もし飛行機の補充が付かぬとなれば、いつ前線の士気が変わらぬとも保証できぬ」


「人間はいかなる勇士でも鉄ではできていない」


 俺は深く頷いた。


「そう、申し上げた」


「嶋田大臣のご反応は」


 古賀長官の声がわずかに沈んだ。


「大臣は『今更問題を蒸し返すと、陛下にご心配をかけることを恐れる』と」


「『陛下のお心』を盾にとって、議論を避けられた」


 俺は卓の縁を握った。


 (やはり、九日の御発言が嶋田の盾になっている)


 心の中で呟いた。


 (合法的な倒閣の道が宮中から塞がれている)


「長官。御前会議をやり直すお考えは」


「『御前会議をやり直して、事実上の取り直しをやり、戦争のできるようにしていただきたい』――そう、嶋田大臣に申し上げた」


「ところが、大臣の熱はわしよりずっと低かった」


 古賀長官のお顔に深い疲労が宿っていた。


「永野総長のご反応は」


「永野の熱は、嶋田よりさらに低かった」


「わしは突き放した。『この兵力で戦ができるというなら、御前がやってくれ』と」


 俺は息を呑んだ。


 (古賀長官が、永野総長に、そこまで仰せになった)


 心の中で呟いた。


 (事実上、作戦の責任を中央に突き返された)


      *


 古賀長官は卓を見つめながら、続けた。


「高木。トラック基地などでは、中央首脳に対する不信の声が高まっている」


「兵から不満の声が出ているのだ。『資材が同等ならば、なぜ飛行機の数も同等に配分しないのか』と」


 俺は深く頷いた。


「これは、不信の声、下剋上の前光である」


 古賀長官の声がわずかに低くなった。


「わしは、嶋田大臣に、そう警告した」


「下剋上の前光――」


 俺は卓の上で両手を組んだ。


 (古賀長官ご自身が、下剋上の前兆を中央に警告された)


 心の中で呟いた。


 (前線の不信は、もう、抑えきれぬところまで来ている)


 古賀長官は続けた。


「ラバウルで戦果が挙がっているのは、前方のブーゲンビルなどに電探を配置し、十五分前に敵機を探知して迎撃できているからだ」


「後退して見張りがなくなれば、ニューギニアのような惨敗を、また繰り返すことになるぞ」


 俺は深く頷いた。


「中央は、その戦略的な現実が見えておらぬ」


「またビルマ方面などで陸軍機を出撃させる際、海軍が嚮導機や戦闘機の護衛を付けねばならぬ」


「被弾した機体の徹夜の修理など、海軍側に多大な負担と不満が生じている」


「陸軍の都合に、海軍は黙って付き合わされている、と」


 古賀長官は深く息を吐いた。


「『陸軍機であってもマリアナに展開させて、海軍の被害を少なくするよう求めた』。だが、嶋田は曖昧に頷くばかりだった」


 俺は深く頭を下げた。


      *


 俺は前傾した。


「長官」


 俺は声を低めた。


「長官として、これ以上のお考えはありますか」


「自分としては、最大限のところまで言ったつもりだ」


 俺は息を呑んだ。


「長官。ただ――」


 俺はもう一段、前傾した。


「これは国家興亡の分岐点です。長官ご自身の規律、海軍の伝統――いまは、それらを越えていただかねば」


 古賀長官はしばし卓を見つめた。


「高木」


「もし長官がそこまでしてしまえば、今度は部下が自分に対して同じことを言うようになる」


「海軍の規律は、そこで崩れる」


「長官」


「自分は、海軍の伝統の中でしか生きられぬ」


 俺は卓に両手をついた。


 (長官はご自身の規律と海軍の伝統を超えてくださらない)


 心の中で呟いた。


 (俺がこの一週間、心血を注いで書いた手紙の願いは、ここで途絶える)


 (古賀長官に「断乎たる決意」を期待した俺の希望は、いま、潰える)


 俺は深く頭を下げた。


「長官のお考え、承りました」


 古賀長官はしばし沈黙した後、後任の話に移った。


「もし長官当分動かせぬと仮定すれば、後任に誰を希望する」


「豊田副武大将か、井上成美中将か」


「井上は伏見宮はじめ各方面に難色がある。実現はどうかと思いますが」


「そうか」


 古賀長官は静かに頷いた。


「豊田は絶対に陸軍は使わぬだろう」


 俺は卓の縁を強く握った。


 (末次大将の起用について、長官のご意向を伺いたかった)


 心の中で呟いた。


 (ただ、長官はもう、沈黙された)


 (そこまで踏み込めずに終わる)


 俺は深く頭を下げた。


      *


 その時、応接室の隣の襖が、不意に開いた。


 俺は息を呑んだ。


 軍服の老人がひっそりと入ってきた。


 堀悌吉中将。


 海軍の予備役の長老。山本五十六大将と同期、海兵32期。海軍随一の頭脳と謳われた男。


 別室に隠れておられた。


「堀さん」


 俺は立ち上がった。


「失礼する。高木君」


 堀中将は静かに卓の前に坐った。


 古賀長官が短く仰った。


「堀君は、わしの旧友だ。今朝から、ここにおる」


 俺は深く一礼した。


「お久しぶりであります」


 堀中将はわずかに眼を伏せた。


「高木君。お主に聞きたいことがある」


「何でしょうか」


「今朝、古賀長官の級友である山本清伯爵が、時局の意見を申し上げに、こちらを訪ねてこられた」


「山本伯爵が口にされた数字が、お主が古賀長官に宛てた秘密の手紙の数字と、一致していた」


 俺は息を呑んだ。


「お主の手紙の内容が、外部に漏れている」


 堀中将の声は静かであった。ただ、その奥に鋭い詰問の刃が宿っていた。


「古賀長官の極秘の上京を漏らしたのは、お主の責任ではないか」


 俺はしばし沈黙した。


 (秘密漏洩――)


 心の中で呟いた。


 (俺の手紙の内容が、下村中将を通じて、山本伯爵にまで伝わっていたのか)


 (あるいは、別のルートか)


 俺は深く頭を下げた。


「堀さん、申し訳ありません。秘密保持に不徹底な点があったかもしれません」


「ただ、わたしは、これを責めるべきこととは考えていません」


 堀中将と古賀長官が、同時に眼を上げた。


「下村中将や山本伯爵が、ご自身の保身を超えて、時局を憂え、長官に意見を訴えようとされる至情――それを、わたしは買うべきだと感じております」


「秘密漏洩の不都合よりも、その至情のほうが、いまの海軍には、貴重であります」


 堀中将はしばし俺を見つめた。


 古賀長官も、わずかに目を伏せた。


 応接室にしばし深い沈黙が流れた。


 やがて、堀中将が低く呟いた。


「高木君、その通りだ」


「ありがとうございます」


「ただ、今後はより一層、秘密保持に注意してくれ」


「承知しました」


 堀中将は卓を見つめながら、深く息を吐いた。


      *


 古賀長官の次の来客予定が近づいていた。密談を打ち切らねばならない時間だった。


 古賀長官はしばし窓の外を見ていた。


 その横顔は何か深いものを見つめている人の横顔だった。


 長い長い沈黙が応接室を満たした。


 俺は息を止めて、その沈黙を待った。


 やがて、古賀長官はふと口を開いた。


 その声は低く、しかし不思議なほど澄んでいた。


 不意に古賀長官が、狂歌を口にした。


「世の中にもしも陸軍なかりせば、人の心はのどけからまし」


 俺は息を止めた。


 (在原業平の歌をもじっておられる)


 心の中で、その歌の元の姿がふと蘇った。


 ――世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし――


 もしこの世に桜というものが存在しなかったならば、春の心はどんなに穏やかであっただろう。


 桜を、陸軍に。


 春の心を、人の心に。


 古賀長官は、その美しい和歌を痛烈な嘆きに変えた。


 (もしこの世に陸軍というものが存在しなかったならば、われわれの心はどんなに穏やかであっただろう)


 (連合艦隊司令長官の口からそれが洩れている)


 (海軍最高の野戦指揮官がご自分の規律の中に閉じ込められたまま、その規律を破ることもできず、ただ和歌に託して嘆いておられる)


 俺は卓に両手をつき、深く頭を下げた。


 涙がこぼれそうになるのを必死で抑えた。


 古賀長官はただ静かに窓の外を見ていた。


 二月の薄日が長官のお顔に斜めに射していた。


 その横顔はもはや海軍大将ではなかった。


 ただ、一人の、深く深く疲れた、老いた男の横顔だった。


 堀中将も無言で卓を見つめていた。


      *


 俺は長官邸を辞した。


 帰途、麻布の坂道を一人下りながら、俺は深く息を吐いた。


 冷たい二月の風が頬を撫でた。


 (古賀長官すら規律を越えてくださらなかった)


 心の中で呟いた。


 (海軍の長老格の重い腰は、まだ上がらぬ)


 (合法の道は一日ごとに細くなっていく)


 俺はふと、ある思いを抱いた。


 (長官のお考えは、言葉通りとしても、微温的である)


 (開戦そのものが不合理であった以上、それを乗り切るには思い切った危険な処置の断行が必要だ)


 (無難で小手先の政治や作戦指導で乗り切れるものではない)


 (長官の常識的・安全志向な姿勢には限界がある)


 俺はその痛切な思いを、腹の底に押し込んだ。


 ただ、それでも、古賀長官への深い敬意は変わらなかった。


 あの最後の歌――。


 あれだけは、長官の腹の底からこぼれた、嘆きの真情であった。


 俺はふと立ち止まった。


 頬に冷たいものを感じた。


 雪だった。


 二月の灰色の空から、薄い雪がひっそりと降り始めていた。二、三寸も積もらぬ、淡い雪。


 (古賀長官の嘆きを、天がいまなぞっている)


 心の中で呟いた。


 空を見上げた。


 雪片が麻布の街並みの上に静かに舞い落ちてきていた。


 (世の中にもしも陸軍なかりせば、人の心はのどけからまし)


 心の中でもう一度、その歌を繰り返した。


 (長官、わたしは貴方の嘆きを決して忘れません)


 (この一首をわたしの腹の底に刻みつけました)


 (わたしは貴方が越えられなかった規律を、別の形で越えてみせます)


 (合法の道を最後まで歩む。そして、それが絶たれた時は――神大佐の道に踏み込む)


 (それが貴方の嘆きへの、わたしからのお返事です)


 俺は深く深く息を吸った。


 冷たい空気が肺に流れ込んだ。


 昭和十九年二月十九日、夕刻。


 麻布の坂道に薄雪が静かに降り続いていた。


 古賀長官の一首がわたしの腹の底で、新しい決意の芽を生み始めていた。



【後書き】(古賀峯一より)


 わしの名は古賀峯一。海軍大将。連合艦隊司令長官。


 昭和十九年二月十日、わしは戦艦「武蔵」を率いてトラック島を出航した。十五日午後一時三十分、横須賀に入港した。


 間一髪、トラック大空襲を逃れる形での上京であった。


 二月十七日、わしはトラック大空襲の悲報を聞いた。


 あの日、わしは嶋田海相と永野総長を訪ね、痛烈に抗議した。


「現在ラバウル、ソロモン方面では十対一で戦っております。人間はいかなる勇士でも鉄ではできていない」


「速やかに御前会議をやって、事実上の練り直しをやり、戦争のできるようにしていただきたい」


 ところが、嶋田は答えなかった。永野は首を振った。


 わしは突き放した。


「この兵力で戦ができるというなら、御前がやってくれ」


 二月十九日、麻布笄町の私邸で、わしは高木少将を迎えた。


 あの男はわしに「断乎たる決意」を求めて来た。手紙にも面会の場でも、同じことを言った。


 嶋田・永野両首脳に対し、辞表を盾にとった抗議を行え――それがあの男の願いであった。


 わしには、それができなかった。


 長官の身でそこまでしてしまえば、今度は部下のわしに対して同じことを言うようになる。海軍の規律はそこで崩れる。


 わしは海軍の伝統の中でしか生きられぬ人間であった。


 高木はわしの答えを聞いて、卓に両手をつき、深く頭を下げた。


 あの時、あの男の眼差しの奥に宿っていた絶望と無念を、わしは生涯忘れまい。


 密談の途中で、別室に隠れていた堀悌吉中将が姿を現した。堀は高木に、秘密漏洩の嫌疑をかけて詰問した。


 ただ、高木は動じなかった。


「下村中将や山本伯爵が、ご自身の保身を超えて、時局を憂え、長官に意見を訴えようとされる至情を、わたしは買うべきだと感じております」


 あの男の言葉には、軍人としての規律を超えた、別の知性が宿っていた。


 わしと堀は、しばし無言で、あの男を見つめた。


 別れ際、わしは在原業平の和歌をもじって、ぽつりと洩らした。


「世の中にもしも陸軍なかりせば、人の心はのどけからまし」


 もしこの世に陸軍というものが存在しなかったならば、われわれの心はどんなに穏やかであっただろう――。


 わしの精一杯の嘆きであった。


 わしは規律の中でしか生きられぬ。


 ただ、あの一首だけはわしの腹の底からこぼれた。


 あれは、わしの遺言であった。


 高木はおそらく、わしを「微温的」と感じたことだろう。


 ただ、それでも、あの男は、わしの嘆きを腹の底に刻みつけてくれた。


 高木の合法工作は、二日後の東條・嶋田の兼任発表によって完全に頓挫することになる。


 あの男は、これからどう動くのか。


 わしには想像もつかなかった。


 ただ、ひとつだけわしは確信していた。


 あの男は決して諦めぬ。


 たとえ合法の道が絶たれても、別の道を必ず探す。


 そして――あの男の側には、神重徳大佐という、もう一人の男が立ち始めている。


 神大佐は、後にわしの参謀となるはずだ。連合艦隊参謀として、わしに極めて積極的な作戦を進言してくる男だ。


 その神大佐がいま、高木の側で、合法を超えた何かを用意し始めている。


 わしはこの数週後、サイパン南方のパラオを離れ、フィリピンへ向かう途中、機上で消息を絶つことになる。


 高木とは、もう二度と会えなかった。


 ただ、わしのあの和歌があの男の腹の底でどんな形を取って動いていくか――それは、これからの歴史が語ることになる。


■ 人物紹介


矢牧章(やまき・あきら、1894年〜1982年) ※本話の前書きの語り手

 海軍大佐。海軍省軍務局第二課長。本話時、四五歳前後。海軍中堅きっての終戦工作の同志。本話前書きで二月十九日午後、高木と古賀長官の密室会談を、海軍省の自分の机から見守る独白。


高木惣吉(たかぎ・そうきち、1893年〜1979年)

 本話の本文の語り手(「俺」)。海軍少将。本話時、軍令部出仕兼海軍大学校研究部員。本話で二月一九日の古賀長官との運命の直話を経験し、「世の中にもしも陸軍なかりせば」の一首を腹の底に刻みつける。長官への深い敬意と、「微温的」と感じる痛切な思いとの両方を抱える。


古賀峯一(こが・みねいち、1885年〜1944年) ※本話の後書きの語り手

 海軍大将。連合艦隊司令長官。佐賀県出身、海兵34期。本話の二月一〇日に戦艦「武蔵」でトラックを出航、一五日に横須賀入港。一七日にトラック大空襲の悲報、同日嶋田・永野に抗議「人間はいかなる勇士でも鉄ではできていない」。一九日の高木との直話で、海軍の規律を越えられず、別れ際に在原業平の和歌をもじって「世の中にもしも陸軍なかりせば」と洩らす。本話の数週後、昭和一九年三月三一日、パラオからフィリピンへ向かう途中で機上消息を絶ち、戦死。


堀悌吉(ほり・ていきち、1883年〜1959年)

 海軍中将(予備役)。海兵32期、山本五十六大将と同期。海軍随一の頭脳と謳われた男。本話で古賀長官邸の別室に隠れており、密談の途中で姿を現す。高木に対し「秘密漏洩」の嫌疑をかけて詰問。ただし高木の「下村・山本両氏の至情を買うべき」という応答を聞き、深く頷く。


山本やまもと きよし

 伯爵。古賀峯一長官の海兵時代の級友。本話の二月一九日早朝、古賀長官邸を時局の意見を申し上げに訪問。高木が古賀に宛てた秘密の手紙の数字を、なぜか口にする。その経緯が、堀中将の高木への詰問の発端となる。


下村しもむら 正助まさすけ

 予備役海軍中将。海軍長老格をまとめる役回り。本話では、山本清伯爵に高木の手紙の内容を漏らした疑いがある人物として、堀中将の詰問の中で言及される。


嶋田 繁太郎/永野 修身

 現職の海軍大臣と軍令部総長。本話の二月一七日、古賀長官の痛烈な抗議を受けるが、まともに答えない。


豊田 副武/井上 成美/末次 信正

 本話で後任候補として議論される海軍将官。


東條 英機/杉山 元/木戸 幸一/伏見宮 博恭王

 本話で言及される、合法工作の対立者または宮中の重要人物。


かみ 重徳しげのり

 海軍大佐。本話で古賀長官の後書きで「合法を超えた何かを用意し始めている」と予告される。


柴崎 恵次/山形 政二

 高木の海兵43期同期生。本話冒頭でタラワ・クェゼリンでの戦死として言及。


静江

 高木惣吉の妻。茅ヶ崎の自宅でトラックの悲報を高木と共有。


■ 用語集


「人間はいかなる勇士でも鉄ではできていない」

 昭和一九年二月一七日、トラック空襲翌日に上京した古賀峯一連合艦隊司令長官が、嶋田海相・永野総長に対して抗議した際の言葉。


「この兵力で戦ができるというなら、御前がやってくれ」

 古賀長官が永野軍令部総長に対して放った突き放しの言葉。事実上、作戦の責任を中央に突き返した。


「下剋上の前光」

 古賀長官が嶋田海相に警告した言葉。前線で「資材が同等ならば、なぜ飛行機の数も同等に配分しないのか」という兵からの不満が高まり、中央首脳に対する不信が下剋上の兆しとして表れ始めていることを示す。


「世の中にもしも陸軍なかりせば、人の心はのどけからまし」

 昭和一九年二月一九日、古賀峯一連合艦隊司令長官が高木との密談の終わりに洩らした狂歌。在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」のもじり。高木の日記に記録されている(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』)。本話のタイトルに採用。物語のクライマックス。


「断乎たる決意」

 二月一三日朝、高木が古賀長官への手紙で求めた言葉。連合艦隊司令長官が、嶋田海相・永野総長に対して、辞表を盾にとった抗議を行うこと。古賀長官は本話の二月一九日、これを「海軍の規律が崩れる」として断る。


「ディシプリン」(規律)

 古賀長官が高木との直話の中で、自身の立場を説明する際に用いた概念。古賀長官がご自身の規律と海軍の伝統を越えることができなかった、その核心。


「微温的」

 高木が二月一九日の直話の後、古賀長官の中央首脳への態度を評した言葉。


「下村・山本両氏の至情」

 堀中将の「秘密漏洩」嫌疑への高木の応答。下村正助中将や山本清伯爵が、自身の保身を超えて時局を憂え、長官に意見を訴えようとした「至情」を、秘密漏洩の不都合よりも貴重と感じた高木の感想。


トラック大空襲

 昭和一九年二月一七日から一八日にかけての、米軍機動部隊によるトラック島への大空襲。連合艦隊司令長官・古賀峯一は、同月一〇日に戦艦「武蔵」を率いてトラックを出航、一五日に横須賀入港済みであり、間一髪で難を逃れていた。


戦艦「武蔵」

 大和型戦艦の二番艦。連合艦隊旗艦の一つ。


電探でんたん

 レーダーの当時の呼称。本話で古賀長官が「ラバウルで戦果が挙がっているのは、前方のブーゲンビルなどに電探を配置し、十五分前に敵機を探知して迎撃できているからだ」と語る。


「黒子の道」

 高木惣吉の倒閣工作の方法論。表に出ず、黒子として、海軍長老格・重臣・皇族の周辺から静かに包囲する方法。



■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】

・昭和十九年二月十七日から十八日にかけて、米軍機動部隊がトラック島を急襲し、日本側に艦船・航空機の甚大な損害を与えたこと。トラックが「日本の真珠湾」とも呼ばれた連合艦隊の一大拠点であったこと。

・連合艦隊司令長官・古賀峯一が旗艦「武蔵」で上京し、二月十五日に横須賀へ入港していたこと。トラック空襲の報を受けた古賀が、嶋田繁太郎海相と永野修身軍令部総長を訪ねて抗議したこと(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』、戸髙一成編『証言録 海軍反省会』)。

・表題に掲げた「世の中にもしも陸軍なかりせば、人の心はのどけからまし」の一首が、在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」をもじったものであり、古賀峯一が高木との会談の際に口にしたことが高木の日記に記録されていること(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』)。

・堀悌吉が条約派の逸材でありながら大角人事で予備役に追われた人物で、海軍部内の良識派から惜しまれていたこと。


【創作部分】

・古賀長官と嶋田・永野とのやり取りの細部、堀悌吉中将が登場する場面のやり取り、高木の内面描写は、史実の趣旨を踏まえて本作で構成した創作です。

・前書き・後書きの語りや内面、各場面の情景描写は創作です。


■ 参考文献


伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』みすず書房、2000年

戸髙一成編『[証言録]海軍反省会』PHP研究所、2009年


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