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俺たち終戦四人組ー太平洋戦争を終結に導いた官僚たちの戦いー  作者: 房吉
第5章 海軍少将:高木惣吉編(昭和17(1942)年6月~)

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第35話「黒子の道」

【前書き】(原田熊雄より)


 わたしの名は原田熊雄。西園寺公爵亡き後も、四重臣の事実上の連絡役を続けてきた。


 昭和十八年十月二十六日、わたしは湯河原の天野屋で病後の静養に努めていた。同じ日の午後、舞鶴から戻ったばかりの高木惣吉海軍少将がわたしを訪ねてきた。


 高木少将と二人で時局談を交わした夜、わたしは翌日に近衛公をお招きすることを伝えた。


 十月二十七日、午後三時。近衛文麿公が中田旅館からわたしの部屋を訪れ、三者会談が始まった。会談は午後六時半まで、三時間半に及んだ。


 その日の卓上で交わされた話は、後に高木少将自身が書き残した『終戦覚書』に克明に記されている。中心となったのは近衛公の述懐であった。三国同盟成立の裏事情、第二次近衛内閣の倒閣に至る対米交渉の経緯、開戦直前の御前会議における昭和天皇の様子――公が苦渋を滲ませて語る一語一語を、高木少将は静かに聞いておられた。


 わたしは岡田啓介大将の最近のお言葉を、お二人に伝えた。


「今の海軍の陣容ではどうにもならぬ。成算もなく倒閣をやるとすれば、その間に何が出るか解らぬ。そういう冒険はできぬ」


 あの時点での海軍長老の本音はそれであった。高木少将も、表向きはこれに同感の意を示しておられた。


 しかし――。


 高木少将の腹の底にあったものは、戦後になって、あの方の回想録によってようやく明らかにされる。決戦のプロセスを経ない終戦は陸軍内部の強硬派を暴発させる。だから決戦遂行内閣を経て、その勝利を握ったうえで和平に入る。海軍を主導の地位に押し上げる――。


 後にあの方が「決戦遂行内閣」「海主陸従」と呼ぶことになるその構想は、湯河原の卓上ではまだ言葉になっていなかった。あの夜、わたしたちはただ、近衛公の述懐と岡田大将の消極論を共有し、東條更迭の必要性で一致したに過ぎぬ。


 もう一つ、湯河原会談には大事な議題があった。


 高松宮宣仁親王が「各方面を駆け回って意見を聞いてくる者がほしい」とのご相談を近衛公にされていた。近衛公は「年は若いが細川はいかがでしょう」と推挙しておられた。湯河原の卓上で、わたしと高木少将は二人ともこれに賛成した。


 高木少将はその後すぐに高松宮邸に伺候し、殿下に細川を重ねて推挙してくれた。十一月八日、細川は正式に殿下の情報係を拝命することになる。


 第三十五話。


 昭和十八年十月から昭和十九年二月十日の朝まで――高木氏が湯河原で固めた「黒子の道」を、四ヶ月かけて静かに歩まれた記録。これからお伝えする。



【本文】


 昭和十八年十月二十七日、午後三時。湯河原、天野屋。


 俺は原田男爵の部屋で、近衛公をお迎えした。


 応接間の卓を挟んで、三人で向き合った。


 近衛公はまず、これまでの政治の経緯を、静かに語り始められた。


「三国同盟は、わたしの内閣が結んだものだ。しかし、あの時点で米英との対立がここまで深まるとは、わたしも見通していなかった」


 原田男爵が頷いた。


「第二次内閣の終わりに、撤兵問題で東條陸相と決定的に衝突した。あの時、内閣を投げ出すべきではなかったのかもしれぬ。しかし、あの陸相を抱えたまま日米交渉を進めることは、もはや不可能であった」


 俺は黙って聞いていた。


 近衛公は、開戦直前の昭和十六年九月六日の御前会議における、昭和天皇の御発言の様子も詳しく語られた。明治天皇の御製を朗詠あそばされた陛下の御心痛を伝える公の声に、わずかな震えが宿っていた。


 三十分、一時間。公の述懐が続いた。


 俺はそれを、ただ静かに、深く頷きながら聞いた。


 話がひと段落した時、原田男爵が口を開いた。


「お二人にお伝えしたいことがある。先日、岡田大将がこう言われた」


「『今の海軍の陣容ではどうにもならぬ。前線数百万の将兵のことを考え、成算もなく倒閣をやれば、その間に何が出るか解らぬ。そういう冒険はできぬ』」


 俺は卓を見つめた。


 (岡田大将の言われる通りだ)


 心の中で頷いた。


 (成算なき倒閣は、陸軍内部の強硬派を暴発させる。クーデターが起これば、皇室まで危うくなる)


「岡田さんの仰る通りです」


 俺は穏やかに答えた。


「いま、表で東條を倒すと叫べば、収拾がつかぬ事態になります」


 近衛公はしばし沈黙された。


「では、君は、どうするのだ」


 俺は卓の縁を見つめた。


 (語るべきか)


 心の中で問うた。


 (いや、まだ、語る時ではない)


 俺は穏やかに答えた。


「いまは、わたくしは閑職にあります。海軍部内の与論を静かに収集し、戦局の真実を各方面の方々に知っていただく――それが当面の務めかと存じます」


「表で動かぬ、ということだな」


「その通りです」


 近衛公はわずかに目を細められた。


「分かった。君の道を歩むがよろしい」


 もう一つの議題があった。


「高松宮殿下が、皇族のお耳に正確な情報を届ける適任者をお求めです」


 原田男爵が言った。


「義理の息子の細川護貞君は、どうだろうか」


 近衛公の提案。俺は深く頷いた。


「細川君ならば、宮中、重臣、海軍、外務省の各方面に静かに出入りできる。賛成です」


「わたしも賛成だ」


 原田男爵が頷いた。


 午後六時半。三時間半にわたる会談は終わった。


 近衛公が天野屋を辞された後、俺は原田男爵の部屋を出て、自室に戻った。


      *


 その夜、湯河原の旅館で、俺は布団の中で天井を見つめた。


 今日、近衛公と原田男爵の前で、わたくしは「いまは閑職、与論収集」と穏やかに答えた。しかし、わたくしの腹の底にあるものは、それだけではない。


 決戦遂行内閣を経た終戦への道筋。海軍が主導権を握る戦争指導体制。東條と嶋田の退陣。


 しかし、表でそれを叫べば、陸軍の強硬派青年将校が暴れる。海軍と宮中に刃を向ける。


 ゆえに、合法的に。静かに、確実に。海軍長老格と重臣と皇族から、静かに包囲していく。


 言うは易い。しかし、どうやるか。


 俺の頭の中に、半年前の舞鶴の風景が、ふと蘇った。


 由良川の流れ。冬の日本海の冷たい風。城下町の西舞鶴と、軍港の東舞鶴。


 あの二つの市の合併工作――俺はあの時、参謀長として、黒子の根回しの実例を、自分の手で組んだのだった。


 昭和十八年五月二十七日、舞鶴市と東舞鶴市は合併した。


 西舞鶴は田辺藩以来の城下町。気質は穏やかで、保守的。東舞鶴は明治三十四年に鎮守府が置かれて以来、急速に発展した軍港都市。気質は粗野で、新興。


 二つの市の気質はまるで別物だった。合併など、容易ではなかった。


 俺は海軍の名で「合併せよ」と命じることを、最初から避けた。


 代わりに、一月二十七日、朝日新聞と毎日新聞の支局長を集めた。


「合併推進の啓蒙運動を、お願いしたい」


 翌日、京都新聞の支局長も呼んだ。三紙で歩調を合わせるよう手配した。一月三十日、各紙が一斉に合併推進の記事を掲載した。


 二月十三日、東舞鶴の岩田助役を呼びつけた。


「表裏背反するな」


 短く釘を刺した。


 二月十九日、舞鶴市長と二人で京都府庁に乗り込んだ。知事と各部長に直接、両市合併の促進を働きかけた。


 二月二十七日、水交社で合同調査会の初顔合わせを行った。両市の有力者がいがみ合うのを、わたくしが議論を引き取って和気藹々と纏めた。


 四月二十八日、佐谷靖さんのお宅に招かれ、矢野軍医少将や新聞支局長らと夜遅くまで懇談した。


 すべて、表向きは「両市の自主的合意」――海軍が押し付けたという形にはならぬよう、細心の注意を払った。


 昭和十八年五月二十七日、二つの市は合併し、新たな舞鶴市が誕生した。


 俺は大晦日の日記に、こう書きつけた。


「舞鶴に元旦を迎へ、湘南に暮を迎ふ。大舞鶴市の成立を五月廿七日の記念日に成就し、敵潜の日本海侵入を一撃に退く。光彩世間に聞えずと雖も、由来、善戦者之勝也、無智名無勇功」


 世間には知られぬが、戦わずして勝つ。功名を誇らず、勇を見せず。それが「善戦者」の道。


 俺は布団の中で、その大晦日の文字を反芻していた。


 (黒子は、表に出ない)


 (黒子の力は、見えぬ場所で組み上がる)


 今日、湯河原で近衛公に答えた言葉は、舞鶴の合併工作の延長線上にあった。


 東條と嶋田に「退陣せよ」と直接迫らない。あの二人は、わたくしと考えに開きがありすぎる。直接論議しても無駄だ。


 代わりに、信頼できる先輩――米内大将、井上中将――に密かにわたくしの結論を伝える。


 海軍中堅の与論を密かに収集し、嶋田更迭の必要性を内部に蓄積させる。


 重臣・皇族の周辺に出入りし、戦局の絶望的な実態を熟知させる。


 いつの日か、彼らが自分の判断として「もはや嶋田を退かせるべきだ」と動き始めた時、わたくしの黒子の工作は完成する。


 時間はかかる。しかし、確実だ。


 そして、陸軍の強硬派を刺激しない。


 俺は深く息を吐いた。


 (俺の戦は、いま始まる)


      *


 十一月下旬、俺は軍令部出仕兼海軍大学校研究部員に発令された。閑職である。


 舞鶴から戻って一ヶ月余り、海軍中央は俺を表舞台に置こうとしない。


 それでよい。閑職こそ、黒子の好機だ。


 俺は卓の上で、三つの方針を整理した。


 第一、嶋田海相とは直接論議しない。考えに開きがありすぎる。あの方を説得することに時間を割かぬ。


 第二、信頼できる先輩――米内大将(元首相)、井上中将(海軍兵学校長)――にのみ、密かに口頭で報告する。文書は残さぬ。


 第三、海軍中堅層と重臣・皇族の周辺を、片端から回る。


 米内光政大将のお宅を訪ねたのは、ある日の夕刻のことだった。


「米内さん」


「戦況の数字を、率直にご報告いたします」


 俺は資料を出さず、ただ口頭で、絶望的な数字を語った。


「もはや勝利の見込みはありません。できるだけ速やかに、戦争を終結させるべきです」


 米内大将は黙って聞いておられた。最後まで何も言われなかった。しかし、わたくしは大将の眼差しの奥に、賛意の色を確かに見た。


 翌日、井上成美中将にも同じ報告をした。井上中将は短く頷かれた。


 二人の先輩の腹に、わたくしの結論が静かに据わった。


 それからの一ヶ月、俺は海軍部内の関係方面を回り続けた。


 十一月一日には石川信吾、大野竹二、富岡定俊、高田利種の各大佐と陸海軍課長懇談会。十一月九日には軍需省で大西瀧治郎中将、保科兵備局長、矢牧二課長。十二月十三日には及川古志郎大将、岡敬純軍務局長――。


 戦局認識については、ほぼ全員が同じ答えを返した。


「決戦の戦機が、いま到来している」


 異論はなかった。


 しかし、戦争指導体制の刷新が必要かという問いに対しては、答えがはっきりと分かれた。


 中堅クラスは口を揃えた。


「必要です。このままでは戦えません」


 ところが、上層部に上がるにつれて、積極論は少なくなった。


「東條も嶋田も問題はあるが、いま倒せば混乱を招くだけだ」


「成り行きを見守ろう」


 刷新の方法を尋ねると、多数の意見はこう収斂した。


「高松宮殿下を煩わして、宮中のお力にすがる」


 俺は卓上で覚え書にペンを走らせた。


「総合せるものを作ること。各方面の知識を、ばらばらに聞くのでは不可なり」


 十一月二日、霞山会館で細川護貞君と二年三ヶ月ぶりに向き合った。


「細川君、湯河原で君のお役目が決まった」


「殿下にお届けするのは、軍部の公式情報の裏の真相。そして政治、経済、外交、思想の各方面の客観的な分析。その両方が要る」


「承知いたしました。命を賭けます」


 細川君は深く頷いた。


「しかし、決して表で動かぬよう。陸軍の強硬派を刺激しない」


「分かりました」


 十一月九日、軍需省。大西瀧治郎中将と会った。


「高木」


「はい」


「現状の生産数では、米軍に追いつかぬ。質も量も絶望的に足りぬ」


「東條は、何と」


「『精神力で乗り切る』の一点張りだ」


 大西中将の声に、抑えきれない怒りが滲んだ。


「嶋田海相は、それを止めぬのですか」


「嶋田は東條に盲従するばかりだ」


 俺は深く頷いた。


 (嶋田を退かせる以外、海軍は救えぬ)


 (しかし嶋田には、直接、言わぬ)


 十一月二十一日、華族会館。


 俺、細川君、東京帝大の矢部貞治君、慶應の武村忠雄君の四者で向き合った。


「皆様、今日の総力戦の基本条件とは何でしょうか」


 武村君が卓の上で四本の指を立てた。


「思想、経済、政治、武力――この四つ」


「思想は根、経済は肥料、武力は華、政治は組織する力」


 矢部君が引き継いだ。


「結論――今の政府は駄目です」


 武村君も頷いた。


「生産方面の気分一新の上からも、必要です」


 二人は感情ではなく、論理で結論を出した。


 俺はその結論を、その夜のうちに細川君を介して高松宮殿下に届けるよう手配した。


 黒子は、自分の名で動かぬ。学者の論理を借り、宮中に届けるのだ。


 十一月二十五日、タラワ島の守備隊が玉砕した。


 タラワを守った柴崎恵次少将は、海兵四十三期。俺の同期の一人であった。


 その夜、俺は書斎に独り坐った。


 (柴崎が、玉砕した)


 (サイパンの矢野、それから――まだ生きている同期の連中も、いずれ同じ運命を辿るだろう)


 (あの連中の死を、東條と嶋田はどう償うつもりか)


 俺は卓の縁を握った。


 (おこがましいが、いま、わたくしの腹の底にこの一句が刻まれる)


 (首脳部の刷新は――是が非でも)


      *


 十二月十二日、日曜日。茅ヶ崎の自宅。


 午後二時八分着の上り列車で、池田成彬さんが訪ねてきた。日本経済界の長老格の一人。


「池田さん、率直にお伺いしたい」


 池田さんはしばし目を伏せた。


「先日、細川君にも申し上げたが、生産界の方々から聞いた話を綜合すれば――皆ひとつとして善き材料はない」


「船舶の損耗が続けば、いずれ一切の部門が停止する事態すら、ないとは申せぬ」


 俺は息を呑んだ。


 (経済が、根本から崩れつつある)


「東條は何と」


「『精神的努力で乗り切る』と。しかし精神的努力では船は浮かばぬ」


 大西中将と同じ言葉だった。


 十二月二十四日、軍令部。ベルリンから帰朝した横井忠雄少将と懇談した。


「横井さん、ドイツの戦局は」


 横井少将は深く息を吐いた。


「ドニエプル線の維持は、もはや困難です。来年早々には、東西から決定的な圧迫を受けます」


「米英連合軍の動きは」


「来年の半ば頃、第二戦線が形成される可能性が高い」


「ドイツが崩れれば」


「米英はその全戦力を対日戦に振り向けます」


 俺は卓の上で深く息を吐いた。


 (経済は崩壊寸前。ドイツは来年崩れる)


 (俺の黒子の工作に、時間はどれだけ残されているか)


 十二月二十五日、鎌倉の姥ヶ谷。


 西田幾多郎博士の別邸を訪ねた。七十三歳。日本最大の哲学者。


「博士。歴史の課題というものを、いかに解くべきでしょうか」


 西田博士はしばし目を伏せられた。


 応接室の窓の外、姥ヶ谷の小さな谷あいに、十二月の薄日がひっそりと射していた。


 博士は静かに、ご自身の哲学を語り始められた。智と術の限界。歴史を動かす力。人間の浅薄な計算では捉えられぬ次元。


 俺はそれを、深く聞いた。


 博士の言葉そのものは、わたくしの後の独白とは違う形であった。しかし、博士のお話を聞いている間に、わたくしの腹の底に何かが芽生え始めていた。


 日が暮れる頃、俺は姥ヶ谷を辞した。


 江ノ島電鉄の車窓の外、十二月の暮色が湘南の海原を深い藍色に染めていた。


 十二月二十九日から三十一日まで、俺は三日間、書斎に籠もった。


 国の運命を思い、それを打開する道があるか――微力な身を顧みつつ、悩み重ねた。


 十二月三十一日、大晦日。


 夜半、ペンを取った。


「危機に臨んだ国の運命を思い、これを打開する道はないかと、微力な身を顧みつつ、悩み重ねた。しかし、もとより快心の解決策が得られる道理もない。とはいえ、手をこまねいて傍観することは、日本人の良心として、許されるはずもない」


「ここにおいて、道は智略、術策、論理を越えた所に求めねばならぬと悟る」


「来年、昭和十九年。五月、六月の頃には、太平洋戦の真の様相が、いやでも露呈してくるはずだ」


「もし天佑があるならば、必ずやそのこと、時を得て行われよう」


「智を越え、術を越え、ただ全能を念じるのみ」


 ペンを置いた。


 窓の外、戦時下の東京の夜空にわずかに星が瞬いていた。


 俺はしばし、書きつけたばかりの文字を見つめた。


 (西田博士のお言葉が、わたくしの腹の底でこういう形を取った)


 (最善を尽くす。その先は天佑に委ねる)


 遠くで新年を告げる鐘の音が、わずかに聞こえ始めた。


 昭和十八年が終わった。


      *


 昭和十九年一月一日、元旦。麹町の自宅。


 俺は静江と二人、雑煮を前に新年を迎えた。


 食事の後、書斎に独り坐った。


 昨年十月の湯河原以来、俺の腹の底には一つの構想が育ってきた。


 まだ言葉にはなっていない。しかし、その輪郭は、はっきりと見える。


 マリアナ・サイパン決戦に向けて、海軍が主導の地位に立たねばならぬ。陸軍が海軍を従属物として扱い、海軍の航空機資材まで横取りする――この体制では、決戦に勝てぬ。


 海軍が主導権を握り、陸軍がそれに従う体制。


 その前提として、嶋田海相を退かせる。東條の独断専行を止める。


 俺はこの構想を、後に「海主陸従」と呼ぶことになる。しかし元日の朝、その言葉はまだ俺の口にも筆にも現れていない。あったのはただ、海軍を主導の地位に押し上げるという腹の底の覚悟だけであった。


 俺は新しい頁を開き、ペンを取った。


「年頭にあたり、一身を捧げる」


 それだけ書いた。


 書きつけた後、しばし文字を見つめた。


 (一身を捧げる)


 心の中で繰り返した。


 (海軍の現役少将として、ここまで踏み込んだ言葉を書きつけた以上、後戻りはできぬ)


 (嶋田を退かせる工作の最前線に、わたくし自身が立つ)


 ペンを置いた。


 窓の外、戦時下の東京の元旦の空が、いつもより白く霞んでいた。


      *


 一月七日、霞山会館。


 細川君と新年の挨拶を交わした。


「高木さん、海軍若手の中に、暗殺を口にする者が現れ始めています。佐々弘雄氏(朝日新聞論説委員、元九州帝国大学法学部教授)も、テロに賛成の立場です」


 俺は卓をしばし見つめた。


「細川君。わたくしは慎重論だ」


「暗殺は、陸軍の強硬派を刺激する。皇室から見れば『忠臣を殺された』事件となる。警察の大弾圧が反対派に襲いかかる」


「同感です」


「黒子の道を、最善まで歩む。それが、わたくしの方針だ」


 細川君は深く頷いた。


 午後、軍令部に伺候し、高松宮宣仁親王に拝謁した。


 俺は和辻哲郎博士(東京帝国大学文学部教授)の『尊皇思想と其の伝統』を献上した。


「殿下。いずれ、皇族のお手をお借りせねばならぬ日が参ります。その日のために、皇室の歴史的意義を論じたこの一冊を、お手元に」


 高松宮殿下はわずかに目を細められた。


「うむ。続けてくれ」


 御部屋を辞した俺は、軍令部の廊下で中沢佑少将と松田千秋少将に出会った。


「中沢さん。トラック島の戦局は」


「悪い。来月にも、トラックへの大空襲があるかもしれぬ」


 中沢部長はわずかに目を伏せられた。


「高木さん、貴官の動きは、われわれも見ている。中堅の暴発を、抑えてくれ」


「分かった。合法的に、黒子として、嶋田を退かせる」


 軍令部を辞した俺は、市ヶ谷の街並みを一人歩いた。


 一月二十三日。


 午前九時五十分、茅ヶ崎を発って大磯へ。原田男爵と池田成彬さんを訪ねた。


 池田さんの口調は、十二月よりもさらに切迫していた。経済の崩壊が、いよいよ近い。


 午後、千駄ヶ谷の松平康昌秘書官長邸を訪ねた。


「松平さん。本日は軍部最高人事の件で、ご相談に伺いました」


 話の途中、俺は急に感情が込み上げてくるのを抑えられなくなった。


 俺は卓の縁を握り、思い切って、陸軍の横暴を語った。


「陸軍は海軍の航空機資材を平気で横取りする。嶋田はそれに抗議できない。岡軍務局長は陸軍と結んで、海軍の独立性を内側から崩している」


「外交権限まで、陸軍は握ろうとしている」


「これでは、戦争は負ける。負けた後、皇室も危うくなる」


 松平閣下は俺の感情の高ぶりを、静かに受け止めてくださった。何も口を挟まれず、ただ深く頷いておられた。


 俺は卓の上で両手を組み、しばし目を伏せた。


 (湯河原以来、ずっと冷静を保ってきた)


 (しかしいま、腹の底から感情が噴き出している)


 (風邪気の発熱が、抑制を緩めているのかもしれぬ)


「松平さん」


「いま聞いた話では、来月、陸海四首脳の会談がある由」


「ええ。航空機資材配分の最終裁断。二月十日」


「あの席が、嶋田の最後の機会です」


「もし嶋田が陸軍の横暴に一矢でも報いてくれれば――海軍を主導の地位に取り戻せるなら――退陣工作は要らなくなる」


「しかし、奮起しなければ」


「岡田大将のもとに走ります」


 松平閣下は深く頷かれた。


「分かりました。木戸内大臣にも、横井少将の独逸戦況報告は、すでにお耳に入れました」


 松平邸を辞した時、すでに夕闇が落ち始めていた。


 千駄ヶ谷の坂道をゆっくり下りながら、俺はわずかに足元がふらつくのを覚えた。


 (熱が、上がってきた)


      *


 一月二十四日朝、俺は海軍大学校に登校したが、午前中の業務の途中で頭が重くなった。中食後、早めに帰宅した。


 茅ヶ崎の自宅で寝台に横たわった。酒井医師が往診に来てくださった。


「これは本格的な静養が必要です。少なくとも二週間」


 一月二十五日から二月六日まで、十三日間。


 日記の頁には、ただ「静養」とのみ書かれていく日々であった。


 訪問客は絶やした。工作の連絡もすべて止めた。


 寝台の上で、俺はこれまでの工作を一つ一つ振り返った。


 湯河原の三者会談。米内・井上への密報。海軍中堅の与論収集。武村君の四本の柱。池田の絶望的見通し。横井のドイツ情報。西田博士の哲学。タラワの柴崎少将の玉砕。松平閣下の前で語った陸軍の横暴。


 すべてが一本の線で繋がっていた。


 黒子の道。


 二月初頭のある朝、俺は寝台の上で薄く笑った。静江がお粥を運んできた。


「静江、ありがとう」


 長年連れ添った妻の前で、初めて心の底からの感謝を口にした気がした。


 二月七日、俺はようやく寝台から起き上がった。


 二月八日、海軍大学校に登校。海軍省の廊下で三戸寿人事局長と会った。


「三戸さん。四首脳会談は」


「明後日、二月十日です。海軍側の数字はすべて揃っております」


「東條はおそらく『精神力で乗り切れ』と裁断する」


「ええ。問題は嶋田大臣が、最後の一線で抗議されるかどうか」


 俺はしばし、廊下の窓から外を見た。


 二月の冷たい風が、市ヶ谷の建物の隙間を通り抜けていた。


 (あさって、嶋田の最後の機会が来る)


 (あの方が奮起してくれれば、海軍を主導の地位に取り戻せる)


 (奮起しなければ、岡田大将のもとに走る)


「三戸さん」


「明後日、東條が水増しで押し切り、嶋田が盲従した場合――省部中堅の動きは」


「もはや抑えきれないな」


 三戸人事局長は声を低めた。


「『最早東條戦争指導の下では戦えず』として、打倒の声が一気に盛り上がるだろう」


「中堅の暴発は、海軍そのものを滅ぼします。これを抑えつつ、合法的に嶋田を退かせる道筋を、わたくしが立てます」


「わかった。ただ慎重にな」


 二月九日、夜。


 麹町の自宅で、俺は静江と簡素な夕食を共にした。


「あなた」


「お顔の色が、まだ青いですよ」


「ああ、大丈夫だ。明日、明後日と、大事な仕事がある」


 静江は何も尋ねなかった。長年連れ添った妻は、俺が話さぬ仕事については決して尋ねぬ。


 俺は静江の手を、しばし握った。


 その同じ夜、市ヶ谷台の参謀本部第二十班でも、新たな起案が動き始めていた。


 班長・松谷誠陸軍大佐の指示を受けた橋本正勝少佐が、種村中佐のソ連出張の隙に、密かに筆を執っていた。


「ドイツが崩壊した時には、日本も終戦を図らねばならぬ。対ソ外交を促進し、ソ連を通ずる対米英外交の基礎を作らねばならぬ」


 ソ連仲介和平――。


 松谷班が三月十五日付で完成させる「第三案」の構想が、いま机の上で動き始めていた。


 高木と松谷。


 まだ顔も知らぬ二人の腹の底で、それぞれの戦争終結への道筋が、別々の場所で形を取り始めていた。


 明日、四首脳が宮中に集まる。


 東條陸相、嶋田海相、杉山参謀総長、永野軍令部総長。


 昭和十九年度航空機資材配分の最終裁断。


 俺の「黒子の道」が、その日、最初の正念場を迎える。


 昭和十九年二月十日、午前――。



【後書き】(松平康昌より)


僕の名は松平康昌。内大臣秘書官長。


 昭和十九年一月二十三日、午後二時三十分、千駄ヶ谷の自邸で僕は高木少将を迎えた。


 あの日のあの方の眼差しを、僕は生涯忘れない。


 風邪気の発熱と、抑えきれぬ感情と、海軍の独立性を守るための覚悟が、頬に赤く宿っていた。


 あの方はあの日、僕の前で初めて声を荒げた。


「陸軍の横暴は、もはや限界です」


 僕は何も口を挟まず、ただ深く頷いた。憲兵の耳の届かぬ場所で、海軍の少将が一年の蓄積を吐き出される――それを静かに受け止めるのも、宮中の事務責任者としての僕の役目であった。


 あの方が湯河原以来三ヶ月、貫いてこられた「黒子の道」――それは見事に形になりつつあった。


 嶋田海相とは直接論議しない。米内・井上にのみ密かに口頭で報告する。海軍中堅層の与論を密かに収集する。重臣・皇族の周辺に出入りし、戦局の真実を熟知させる。陸軍の強硬派を刺激しない。


 あの方が舞鶴の鎮守府参謀長として東西両市の合併工作を黒子として纏められた手腕が、そのまま倒閣工作の原型として動いていた。


 あの方は、まだ嶋田海相に一縷の望みを抱いておられた。もし嶋田が奮起してくれれば。陸軍の横暴に一矢でも報いてくれれば。海軍を主導の地位に取り戻せるなら――。


 僕は、あの方の眼差しの奥に、一縷の望みと最悪の場合の覚悟が、同居しているのを見た。


■ 人物紹介


原田熊雄(はらだ・くまお、1888年〜1946年)

 本話の前書きの語り手。男爵。元老・西園寺公望公爵の秘書を長く務めた。重臣連合の事実上の連絡役。本話の十月二十六日、湯河原の天野屋で高木の訪問を受け、翌二十七日に近衛公を交えた三者会談を開く。


高木惣吉(たかぎ・そうきち、1893年〜1979年)

 本話の本文の語り手(「俺」)。海軍少将。熊本県人吉市出身。昭和十七年六月十六日から十八年九月二十八日まで舞鶴鎮守府参謀長を務め、十八年五月の舞鶴市合併工作の中核を担った。本話時、軍令部出仕兼海軍大学校研究部員。


松平康昌(まつだいら・やすまさ、1893年〜1957年)

 本話の後書きの語り手。侯爵。内大臣秘書官長。木戸幸一内大臣を支える宮中の事務責任者。


近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年〜1945年)

 公爵。第34・38・39代内閣総理大臣。湯河原会談(昭和18年10月27日)で過去の政治経緯を高木と原田に述懐。


岡田啓介(おかだ・けいすけ、1868年〜1952年)

 予備役海軍大将。第31代内閣総理大臣。四重臣の一人。海軍の長老。「成算もなく倒閣をやれば何が出るか解らぬ」という消極論を抱く。


米内光政(よない・みつまさ、1880年〜1948年)

 予備役海軍大将。第37代内閣総理大臣(昭和十五年)。本話時、現役を離れていた海軍長老の一人。高木が「もはや勝利の見込みはない」と密かに口頭で報告した相手。


井上成美(いのうえ・しげよし、1889年〜1975年)

 海軍中将。本話時、海軍兵学校長。高木が信頼する先輩の一人。米内とともに密かな報告先。


細川護貞(ほそかわ・もりさだ、1912年〜2005年)

 近衛文麿公爵の娘婿。本話の十一月八日、高松宮殿下情報係を正式に拝命。


武村忠雄(たけむら・ただお、1905年〜1987年)

 慶應義塾大学経済学部教授。十一月二十一日、華族会館で「四本の柱」を提示。


矢部貞治(やべ・ていじ、1902年〜1967年)

 東京帝国大学法学部教授。四者会合で「今の政府は駄目です」と断言。


大西瀧治郎(おおにし・たきじろう、1891年〜1945年)

 海軍中将。軍需省航空兵器総局長。十一月九日に高木と会談。


池田成彬(いけだ・しげあき、1867年〜1950年)

 日本経済界の長老格。十二月十二日、茅ヶ崎で「皆ひとつとして善き材料はない」と告げる。


横井忠雄(よこい・ただお、1889年〜1965年)

 海軍少将。前ベルリン駐在海軍武官。十二月二十四日、ドイツ戦況について報告。


西田幾多郎(にしだ・きたろう、1870年〜1945年)

 京都帝国大学名誉教授。京都学派の祖。十二月二十五日、姥ヶ谷の別邸で高木と再会。


高松宮宣仁親王(たかまつのみや・のぶひと、1905年〜1987年)

 昭和天皇の弟宮。海軍大佐。


中沢佑(なかざわ・たすく、1894年〜1977年)

 海軍少将。軍令部第一部長。


松田千秋(まつだ・ちあき、1896年〜1995年)

 海軍少将。


三戸寿(みと・ひさし、1891年〜1967年)

 海軍少将。海軍省人事局長。


柴崎恵次(しばさき・けいじ、1894年〜1943年)

 海軍少将。海軍兵学校四十三期(高木の同期)。タラワ守備隊司令官として昭和18年11月25日、玉砕。本話で高木の「首脳部刷新は是が非でも」の覚悟形成の契機となる。


東條 英機/嶋田 繁太郎/杉山 元/永野 修身

 本話末で四首脳会談の出席者として登場。


松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年)

 陸軍大佐。参謀本部第二十班(戦争指導班)長。本話末で「第三案」起案の指示者として登場。


橋本はしもと 正勝まさかつ

 陸軍少佐。参謀本部第二十班員。松谷の指示で「第三案」を実務として起案。


静江

 高木惣吉の妻。


■ 用語集


湯河原会談

 昭和十八年十月二十六日、湯河原の天野屋に高木が原田を見舞いに訪れ、二人で時局談を交わした。翌十月二十七日午後三時から六時半まで、近衛文麿公爵が加わり三者会談となった。近衛の過去の述懐(三国同盟、撤兵問題、御前会議)、岡田大将の消極論の共有、細川護貞の高松宮殿下情報係への推挙合意などが行われた。


「黒子の道」

 高木惣吉の倒閣工作の方法論。表で叫ばず、陸軍の強硬派青年将校を刺激せず、海軍長老格・重臣・皇族の周辺から静かに包囲していくことで、東條・嶋田を退陣に追い込む。舞鶴市合併工作の経験が原型。大晦日の高木日記「光彩世間に聞えずと雖も、由来、善戦者之勝也、無智名無勇功」がそのテーマを表す。


舞鶴市合併

 昭和十八年五月二十七日、城下町・西舞鶴と軍港都市・東舞鶴が対等合併し、新たに舞鶴市が誕生した。気質の異なる二都市の合併は困難視されていたが、海軍鎮守府が「軍都の一括管理」名目で合併を望み、参謀長の高木惣吉が黒子として根回しを進めた。三紙の支局長動員、京都府庁交渉、市幹部への警告、合同調査会の調停まで、すべて高木が直接関与した。


「決戦遂行内閣」

 戦後の高木の回想録で言語化された概念。終戦に直接踏み切るのではなく、まずマリアナ・サイパン決戦に勝ち、その勝利を握ったうえで和平に入る、という段階論。湯河原会談時点では言葉になっていなかった。


「海主陸従」

 高木が後に確立する戦争指導体制構築の基本方針。海軍主導・陸軍従属の体制。当時史料での初出は昭和十九年二月十日の四巨頭会談直後の意見書。湯河原時点(昭和十八年十月)にも、元日(昭和十九年一月一日)にも、言葉としては未だ高木の口にも筆にも現れていなかった。


四本の柱――思想・経済・政治・武力

 昭和十八年十一月二十一日、華族会館での四者会合で武村忠雄慶大教授が提示した、総力戦の基本条件についての定義。「思想は根、経済は肥料、武力は華、政治は組織する力」。


「総合(綜合)せるものを作ること」

 昭和十八年十月二十九日、高木惣吉が覚え書に書きつけた言葉。


「皆ひとつとして善き材料はない」

 池田成彬が昭和十八年十二月初頭、細川護貞に告げた経済の現状認識。本話の十二月十二日の池田・高木会談でも、同様の見通しが共有された。


「光彩世間に聞えずと雖も、由来、善戦者之勝也、無智名無勇功」

 昭和十八年大晦日の高木日記に書きつけられた一句。舞鶴市合併工作を「世間に知られぬが、戦わずして勝つ立派な功績であった」と振り返った高木の自負。本作の「黒子の道」テーマの史実的根拠。


「智略、術策、論理を越えた所」

 昭和十八年十二月三十一日、高木が大晦日の日記に自分の言葉として書きつけた一句。十二月二十五日の西田博士訪問が背景にあるが、博士が直接これを語った史料的記録はない。


「智を越え術を越え以て全能を念ぜんのみ」

 大晦日、高木が日記の結びに書きつけた一句。


「年頭に当り、一身を捧げる決意を固む」

 昭和十九年一月一日の元日に、高木が腹の底に固めた決意。後にこれは戦後編纂の「高木惣吉略歴」昭和19年1月の項に「年頭に当り、マリアナ、サイパン決戦のために海主陸従の戦争指導体制を布くべく、その実現のために一身を捧げる決意を固む」と書き残されることになる。


四巨頭会談(四首脳会談)

 昭和十九年二月十日、十九年度航空機資材配分の最終裁断のために宮中で開催された陸海軍最高首脳の会議。東條陸相、嶋田海相、杉山参謀総長、永野軍令部総長の四人が出席。


「第三案」

 昭和十九年三月十五日、参謀本部第二十班(戦争指導班)が完成させた文書。班長・松谷誠の指示を受けた橋本正勝少佐が、種村佐孝中佐のソ連出張中(二月五日〜三月三十日)に起案。ソ連仲介和平を初めて軍の文書で明確に打ち出した。



■ 史実と創作について


【史実に基づく部分】

・湯河原での近衛文麿との対談を経て、高木惣吉が「黒子」として倒閣・終戦工作に動く道を選んだこと(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』、高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』)。

・高木が自らは表に立たず、米内光政や岡田啓介ら国民・部内からの信望が厚い重鎮を前面に立て、彼らが動きやすいよう人事の下地作りや情報収集、各界との連絡調整に徹したこと(伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』)。

・高木が決戦遂行内閣を経て終戦へ至る道筋、すなわち海軍が主導権を握る戦争指導体制への転換と、東條英機・嶋田繁太郎の退陣を構想していたこと。

・近衛文麿が第二次・第三次内閣期に、撤兵問題などで東條陸相と衝突し、日米交渉の行き詰まりのなかで退陣に至った経緯を抱えていたこと。開戦直前の昭和十六年九月六日の御前会議で、昭和天皇が明治天皇の御製を朗詠し平和への意向を示されたこと。


【創作部分】

・湯河原の旅館(天野屋)での近衛と高木の対話、近衛が御前会議の様子を語る場面、高木が「黒子の道」を選び取る内面の描写は、史実の趣旨を踏まえて本作で構成した創作です。

・高木が舞鶴で進めた両市合併や新聞工作をめぐる回想の場面、前書き・後書きの語りや内面、各場面の情景描写は創作です。


■ 参考文献


高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年

伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報 下』みすず書房、2000年


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